魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

愛と欲望について

 みなさん。こんばんは。

 

 今日もつらつらと思ったことを書いていきますね。

 

 立法について。

 

 立法っていうと、何だと思いますか? これは、法を立てることです。

 つまり、法則を設定することですね。

 世の中には色々な法則が設定されていて、みんなその中で生活しています。

 法則は、それぞれみんな違う人同士がいっしょに暮していくためには、今のところ、ある程度有効ですね。

 そんなわけで、僕たちの生活は、様々な法則によって、プログラムされています。良きにせよ悪きにせよ。

 では、法則というものはどのようにプログラムされているのか。

 まず、すべてのものに因果律が成立すると仮定してみましょう。

 この場合、ある法則Aの原因は法則Bです。法則Bの原因は法則C……というふうに延々と続いていきます。

 だから、あるプログラムには、あるプログラムが生まれた原因となるプログラムがあって、そのプログラムにもまた原因があって、またまたそのプログラムにもまた原因が……

 というふうにきりがないわけです。

 それで、この切りのない原因探求の最終的な目的地を「極限」と呼びましょう。

 そして、原因探求の先端部分を、そのまま「先端」と呼びましょう。

 

 これはちょっとわかりづらいかもしれませんね。

 

 原因が

 

 123456……

 と並んでいますよね。

 これは、無限の列なので、最終的には、極限に至るのですが、先端は6です。

 

 この無限の原因の列を、

 12345678.……

 

 と8まで数えたら、先端は8です。そして、さっきと同じように、最終的には、極限に至ります。

 このように最終的な極限と、列の先端を区別してみましょう。

 

 このように考えると、有限である先端と、無限である極限のあいだには、越えがたい断絶があるのがお分かりになるでしょうか。

 

 つまり、どんなに一生懸命先端を伸ばして数えて行っても、永久に極限に到達しないわけです。これは、有限と無限のあいだにある壁ともいえるかもしれません。

 

 そして、その壁をポンと越えると極限(無限)の世界に、あるいは、反対側からポンと越えて戻ってくると先端(有限)の世界にやってくるわけです。

 

 この壁を乗り越える作業を、「超越」と呼びましょう。

 

 すると、この世界には、有限の世界と、無限の世界があるわけですが、その間に横たわる壁をよいしょと乗り越えることができるわけです。

 

 もちろん、人間には個人差がありますので、有限の世界に留まる人と無限の世界へと超越する人と大きく二種類の人がいるでしょう。

 

 どちらの人間も何らかの欲を抱えて、立法されたプログラムの中で、折り合いをつけているというのは同じなのですが、超越した人と超越しない人とでは、この欲の性質も違ってきます。

 

 有限の欲を、「欲求」と呼びましょう。

 無限の欲を、「欲望」と呼びましょう。

 

 有限の欲求は、有限の世界のものなので、有限の原因を持っています。

 無限の欲望は、無限の世界のものなので、無限の原因を持っています。

 

 それで、わたしたちは、どう頑張っても、超越した無限の原因を書ききることはできませんね。無限の原因を見えるように表現することができないです。

 

 ただ、有限の原因なら、ある程度、見えるように表現することができます。

 

 でも、有限の原因は、先端をいくらでも数えていくらでも伸ばしていくことができますね。だから、いくらでも「可視化」していくことができます。だけど、どんなに欲求の先端を数えあげて行っても、無限の原因である欲望には到達しません。

 

 だから、どんなに欲求を満たしても、欲望に到達することはなく、そこには壁があるように思われます。

 

 欲求は表現できますが、欲望は完璧には(少なくとも論理的には)表現できないわけですね。

 

 その見えないもの(超越)を見よう(数えよう)とすることを、ここでは、可視化と表現しました。

 

 すると、ここには一つの錯覚が生じ得ますね。

 

 つまり、「ずっと原因を数えていけば、超越が見えるようになる」という錯覚。

 

 例えば、「ずっとデータを収集すれば、やがて最終的な目的地が見えるようになる」(統計)、という錯覚です。

 

 でも、これは、先述の通り、論理的にはあり得ないだろうと個人的には思います。

 

 どんなに欲求を叶えても、欲望は叶わない。

 

 例えば、性欲なら、性器をいくら刺激しても(これは見える欲なので、欲求ですね)、欲望(超越世界の欲です。無限の欲ですね)は満たされないであろう、ということになります。

 

 このように考えると、欲望を否定したくなりませんか? そんな無限だの極限だのなんてものは存在しない、って感じに。実際そうした人も出てくるかもしれません。

 

 すると、ここでもまた、大きく二種類の人に分かれますね。

 

 欲求側の人間と、欲望側の人間。

 

 欲求の人間は、データベース(見えるもの、有限)を作って、統計(可視化)的に欲を充足していきます。欲望の人間は、超越(見えないもの、無限)によって欲望を充足させていきます。

 

 実際には、無限(見えないもの)の概念も数学などで使われており、有効性はあるのですが、それでも、見えないものは否定したくなる人も、もしかしたらいるかもしれません。

 

 見えないのにあるんだ、と言われてみなさん信用できます?(笑)(こうした、見えないのにあるものを「幽霊」と呼ぶこともありますね。端的に「霊」とか。だから、霊はいると思うんですよね。どうなのか。悩ましいところです)

 

 それで、その行動原理や、立法のプログラムが「見える」のは、人間が欲求で動く場合です。欲望で動く場合には、プログラムでは考察できません。

 

 その意味で言えば、人間性、人間味? があるのは欲望で動く人間かもしれません。欲求で動く人間は、立法によってプログラムされることになります。

 

 ですので、欲求を満たす方法、というのはあり得ますが、欲望を満たす「方法」というものはないかもしれません。欲望は方法(プログラム)的でない。むしろ、脱方法(超越)的。クリエイティブというか、創造的な領野ですね。

 

 ですので、人間を創造的に進化、発展させるものとは、欲求というよりも欲望であると言えるかもしれません。

 

 それで、他者の欲望を欲望することを、「愛」と呼びます。つまり、他者に自分を欲望して欲しい、という気持。

 

 これが、他者の欲求を欲求すること、というふうになると、これは「性欲だけの関係」と呼ばれる状態ですね。つまり、愛のないセックス。無限に相手を欲しているのではなく、あくまで有限に条件付きで相手を欲している状態(体目当てとか、お金目当てとか色々ですね)。

 

 それで、人間を創造的に発展させるものは、どちらかと言えば、性欲求よりも「愛」の方ですね。論理的には。

 

 そのように考えると、ひとまず、みなさんにおすすめなのは、性欲を満たすことではなく、「愛」を持つことである、というふうに言えるかもしれません。

 

 そうした利害の関係ない利他性が人間の利益を最適化するものと思われます。

 

僕の好きな君 その君が好きな僕

そうやっていつしか僕は僕を大切に思えたよ(nightcore,『me me she』より引用)(RADWIMPSの曲) 

 

 

 お世話になった、参考にした文献

 東浩紀,『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』

 東浩紀,『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』