学歴って、現代の人間にとっては、非常にセンシティブな話題なんでしょうね。
確かに、学歴を気にする人って、割にいるのかもしれません。
今日は、ちょっと学歴について考えてみます。
学歴とは何か。
これは、学業の経歴です。
では、学業とは?
これは勉強をすること。
経歴とは?
これは今まで経験してきた事柄です。
つまり、学歴とは、
「今までにしてきた勉強」のことです。
このように考えると、非常に素朴には、
学歴とはそれまであなたが勉強したことすべてを指示しています。国者数理英はその中のほんの一部を計測するものですね。
実際には外国語は英語だけではありませんし、数学は三角関数だけではありません。無数の言語や無数の関数がこの世界には存在しています。いわゆる高校までの勉強で計測することができるのは、そのうちのほんの一部分だけです。
これは、データとしては非常に偏っていますね。もっとちゃんと学歴を計測しようとするなら、もっと大幅な範囲のテストを偏りなく行わなければなりません。しかし、日本にはお金がありませんので、あまり大々的なテストは行うことは難しいかもしれませんね(笑)
すると、受験なり試験なりというのは、ある程度間違ってはいるけども「必要悪」として受け入れざるを得ないのかもしれません。
いずれにせよ、現在のテスト形態が、未来永劫万全な体制だなどと言うことはまずありえないはずですから、これからも少しずつ、みんなで改善していく余地があるものと思います。
実際、いわゆる「学歴」や「偏差値」のせいで、傷ついている人はいっぱいいるようにも感じられます。
どのような理由があっても、人を傷つけるのは余り生産的な事ではありませんから、学歴や偏差値を崇拝するのは、あまり有効的な手立てとは言えないかもしれません。
あくまで、不完全な指標であることを念頭に置いて、その指標に自分のすべてを委ねるようなことは無いようにするのがいいのではないか、というふうに個人的には思います。
現行の「学歴」が好きな人は、一生懸命受験勉強するのはいいと思うし、好きなことを一生懸命やっているなら、その人は素敵なのだと思います。
しかし、嫌々だったりするのであれば、必ずしも、現行の「学歴」にこだわる必要はないのかもしれません。
そもそもで言えば、その人の今まで経験して学習したことのすべてがその人の「学歴」なのですから。それは出身校だけで決まるものではありませんね。
データなりパラメータを見るときは、部分に囚われず、全体を見通す必要があるかと思います。
ならば、狭い意味での出身校などで決まるいわゆる「学歴」を重視し過ぎるのは、偏りが多く、いささか選抜方式として危険でしょう。部分に囚われず、人間を、全人的にみる必要があるのかと思います。
とは言え、先述した通り、あまり選抜にお金をかけるわけにもいかないのが現状なのだろうと思いますが。
ビジネスなどには、コストの問題が非常に密接にかかわってくると思いますし、人事選抜だけに多大なコストをかけるわけにもいかないのだろうと思います。
そうなると、お手軽なのは、取りあえず、現行の出身校にもとづく「学歴」を使って選抜することなのかもしれません。
悪は悪でも、「必要悪」なのだとすれば、なかなかどうして、学歴社会を否定するのも難しくなってきます。
結論を述べれば、いわゆる出身校にもとづく「学歴」は不完全な尺度だが、人間を選抜するコストが安くて済む方法が他に見つからないので、しょうがないので、「学歴」で人を選抜するしかない、ということになるのかもしれません。
ただ、さきほども書いた通り、学歴が抽出できるデータはその人のほんの一部分なのだと思いますので、一概に学歴だけで、その人間を測ることはできない、というのは恐らく言えることなのではないかと思います。
さて、では、全人的に他人を評価するのと、部分的に他人を評価するのはどちらが得をするかを考えてみましょう。
まず、全人的に他人を評価する場合、これは、対人関係に慎重な態度で臨むことになるかと思います。インスタントにお手軽な手法で人を選抜せず、人を見るのに非常に時間をかけますので、悪い人に騙されたりとかはしづらいかもしれません。また、よく人を見ている分、いい人とつながることができるやもしれません。しかし、仲良くなる人は少数になるかもしれませんね。仲良くなるのも時間がかかるかもしれません。
次に、人を部分的に評価する場合。これは、例えば、学歴なら学歴だけで人を評価したりとか。楽ですよね。社会が作ってくれた学歴という概念にフリーライドしておけば、後は自分で考えなくても、人を選抜することができます。したがって、非常に効率的に他人を選抜していくことが可能となります。ただ、このいわゆる「学歴」は全人的な評価では必ずしもないと思いますので、どうしても判断に偏りが出てくるものと思います。偏った判断では、エラーは避けられません。したがって、全人的に他人を評価する場合に比べると、本当にいい人とつながるのは難しいかもしれません(無論、「善い」などと言う善悪の判断はそれこそインスタントに決めることは不可能だと思いますが)。
そう考えると、判断のエラーを少なくし、こちらの損失を少なくするためには、人を学歴だけでは見ず、全人的にみることが必要になるのではないかと思います。
また、道徳的にも、人間をいわゆる学歴だけで測ってしまった場合、この時その人にとっては、「人間とは学歴であり、学歴とは人間である」ということになってしまいます。これは、人間を、学歴という「物」として扱う行為ですので、あまりよろしくないかもしれません。人間は物ではありませんね。人間は人間ですので。また、道徳も無意味に存在しているというよりも、それを守ることはある程度有効性があるから、今まで残っている面も無きにしも非ずだと思いますので、なかなかバカにできませんよ。道徳はある程度は守っておくのが吉かもしれません。そうじゃないと社会自体回らないし。
すると、人間を人間として扱う、全人的な評価をする方がお得なのかもしれません。
すると、学歴の定義を次のように変更すれば、上手い手法となり得るかもしれません。
「学歴とは出身校である」
という従来の学歴概念を、
「学歴とは今までにその人の経験し、勉強したことの全てである」
というふうに変更しておくと、人を物扱いしない分、対人関係などで良好な結果がでる可能性も出てきますし、また、偏りの少ない判断となりますので、いろいろな判断におけるエラーが生じづらくなるものと思います。
とは言え、人間の労力は限られており、人間選抜だけで人生を終えるわけにいきませんので、実際には、どの人間の判断も、ある程度偏ったものではあると思います。
そのうえで、少しでも判断の偏りを減らすにはどうすればいいかを考えていくのがこれからの課題になるかもしれませんね。みんなで考えていきたいところです。
さて、では、これらの「学歴」概念を踏まえ、つぎは、「高学歴」とは何かについて考えてみましょう。
高学歴とは、高度な学歴のことです。
高度とは何か?
これは程度の高いことです。
程度とは?
これは物事の価値を量的に捉えたものです。
つまり、高学歴とは、「その人の持つ経験の量が極めて多いこと」、であると考えられます。
では、経験とは何でしょう?
経験とは、実際に見たり聞いたり行ったりしたこと、です。
つまり、高学歴とは、
「実際に見たり聞いたり行ったりしたことの量が極めて多い人」
このように考えるなら、高学歴とは、いろいろなことに挑戦した量の多い人のことを指すものと考えることができます。
つまり、たくさんの色々なことに挑戦している人が高学歴であると考えることができます。
この場合、挑戦せず、レールに乗っている状態は高学歴とは考えづらくなります。
むしろ、レールから積極的に外れ、色々なことに果敢に挑戦している状態が「高学歴」の状態であると考えられます。
また、これは、部分的な出身校による学歴選抜に比べ、全人的な評価となりますので、判断の妥当性はより高いはずです。
従って、学歴の程度はつぎの指標により測定されます。
学歴の高さ∝挑戦量の多さ(学歴の高さは挑戦量の多さに比例する)
以上のことから、「学歴を高めよう」、という際には、いわゆる受験勉強だけに縛られず、様々な事柄に積極的に挑戦して、経験を積むことが正着打となると言えるかもしれません。
部活動でもいいですし、読書でもいいですし、恋愛でもいいと思いますし、量子力学とか相対性理論とかマルクスとか、高校とか中学のうちに読んでいってもいいと思います。この理屈で言えば、もちろん、受験勉強に挑戦するのも悪いことではありませんね。とにかく何にでも「挑戦」することが正着打となります。
とにかく挑戦し、経験した量が「学歴の高さ」を指示すのではないか、というふうに考えてみました。
気が向いたら、ひとつの意見としてご参考下さい。
P.S.さて、では、この記事に書かれた「学歴」概念を踏まえ、どうやって、この「いわゆる学歴社会」を渡っていくべきかについて考えてみようと思います。
まず、今の社会では、「いわゆる出身校による学歴フィルター」なども存在し、かなり「いわゆる出身校による学歴」によって、判定されているのが現状なのかと思います。おそらく、その代償として、ある程度、「いわゆる出身校による偏差値」と「能力」との間にある程度解離が起きつつあるはずです。つまり、能力がきちんと測定されていない可能性が割に高いかもしれません。
ですので、仮にあなたに能力があったとして、このいわゆる学歴社会においてそれが評価される可能性は、少なくとも100%ではありません(どのような指標も多分に不完全なものですね。科学ですら「八割は間違っている」と主張する人もいます。まして学歴をや)。
なので、ここでは、ひとまず、社会からの正当な評価は諦め、ひたすらに自分の能力や実力を、高めていくのが正着打ではないかと思います。「名を捨てて実を取る」、的な。
すべてのものはある意味、資本であるとも言え、トレードオフの関係も大なり小なりあるかと思いますので、あんまり、外面ばかりに気をつけすぎると、中身が薄っぺらになってしまいかねません。
ですので、外面はほどほどに、(例えば、志望を地元の国立大学くらいにしておくとか。東京大学に行くにしても、受験勉強以外のことをこれでもかとたくさんやるとか)とにかく、実力(挑戦量の多さ)を主眼に養成することがある程度有効かもしれません。
特に、魔術師を志す人には、外面ではなく物事の内実を見ることをお勧めいたします。
例えば、私のこうした意見を見たなら、それを鵜呑みにするのではなく、「この人はどうして、こういう意見を言うのだろう?」とか、「この点の妥当性をもう少し測ってみよう」とか色々と検証してみることをお勧めします。とにかく、情報の外面に囚われず、内実を見る癖を身につけるのが有効かと。それこそ、人や物事を「全人的全体的に評価すること」が有効です。部分に囚われず、ということですね。
学歴の問題は、それなりにデリケートなところでもあるかと思います。書こうかどうか迷ったのですが、結構お悩みの方がいらっしゃるようにも見受けられますので、一応、僕の個人的意見を書くだけ書いておきます。
それこそ、色々な意見や価値観があっていい点かと思いますから、みなさんもできるだけ楽しく、わいわい、いろいろと考えたり話し合ったりしてみてくださいませ。
「挑戦」については、このブログの「失敗術」などの記事も参考になるかもしれませんので、気が向いたら、ブログ内検索などからご参考下さい。