魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「当事者」について――Main Character

 みなさんこんばんは。



 今日は、「当事者」とは何かについて、検証してみたいと思います。  



 今日の結論は以下の通りです。



 1.当事者と非当事者の間の明確な線引きは難しい。

 2.何が当事者で何が非当事者であるかは、その区別の有効性にもとづいてケースバイケースに決定される。

 3.当事者と非当事者の間の境界はグラデーションになっており、連続体的である。





 以下、論証です。

 



 では、当事者とは?

 

 これはある事柄に直接関係している人です。ことがら自体は何でもよいかと思います



 「直接」、とは、間接の反対であり、間接とは遠まわしであること。直接とはそれよりも近いことを表します。つまり、直接関係と表現されるほど、近い関係を指示し、間接関係と表現されるほど、遠い関係を指示すと考えられます。遠近感の問題です。



 では、関係とは?



 これは、ある事柄に対して影響力があることです。例えば、僕の発言がある事柄に影響をおよぼす場合、これは関係がある、ということになります。逆に、ある事柄が僕に影響力を持つ場合、これも関係がある、と言います。そのどちらの関係も備えている場合には、これは、「相互的関係」と言えます。どちらか片方の関係だけが成立する場合には、「一方的関係」となります。



 実際には、人が二人いれば、どうしてもお互に影響を与え合ってしまいますので、厳密には、この世界には、ある人や物事にとって無関係な人や事柄は存在しません。したがって、端に論理的に考えるなら、「全ての人がすべての事柄に対する関係者である」という前提はあり得ます。



 しかし、これでは、関係者と部外者を区別できなくなってしまいますので、境界は不明瞭ですが、「仮に」関係者と部外者の区別をつけることがあります。



 したがって、当事者問題においてポイントとなるのは、その「仮の境界をどこに設定するか、という問題になるかもしれません



 これは、本質的に不明瞭な問題ですので、ケースバイケースではあります。



 したがって、本質の問題というよりも、「どのような区別をつければより有効と言えるか」によって当事者と部外者を区別する手法を取るのいいように思われます



 まずは、理想的な条件で単純に考えてみましょう。



 正しい判断は、素朴には、次の条件を備えているときに生じます。



 1.データ抽出に偏りがない。

 2.データが大量である。

 3.分析が論理的である。



 したがって、まず、理想的には、全ての人のデータを大量に論理的に分析することが、正しい判断のために有効であると考えられます。



 しかし、これは、ちょっと不可能ですね(笑)

 全てを処理しようとすると、あんまりデータが多すぎて、処理しきれなくなってしまいます。



 したがって、方針としては、「できる限り偏りなく、多様で、大量なデータを収集し、論理的に分析する必要がある」と言えます。



 さて、ここで、当事者という言葉について再考してみましょう。



 当事者は、この場合、「関係してもいい人」を選抜するための概念ですね。「あなたは当事者であるので意見を言ってもいい」「あなたは部外者なので口を慎んだ方がいい」という選抜概念です。一種のエリート概念の構造に似ているかもしれません。「当事者」とは、発言権が認められる者として「選ばれた」人たち。



 したがって、上記の原則にあくまで従うのなら、「できる限り、当事者の範囲を広く見積ったほうが良い」と言えます。



 つまり、できる限り、差別をせず、多様な意見を大量に取り入れたほうが良い。



 理想的には、当事者と部外者を差別しない方が、正しい判断のためには望ましいと考えられる、ということです。



 しかし、これが、「理想」であることは先述したとおりですが、現実的には人間における認知のリソースは限られており、当事者と部外者を仮にでも区別し、データの抽出範囲を絞らなければ、頭がパンクしてしまいます。



 では、当事者と部外者の範囲はどのように決定されるか。



 まず、一口に「関係」と言っても、多様な関係の持ち方が考えられます。



 そして、関係の強さも連続体です。



 まず、0100かの振り切れた極端な思考で、当時者と部外者を完璧に二分してしまうのは、表現の自由の観点からちょっと危ない(発言権の剥奪などは、治安維持法などに似ている面もあり、非常に慎重になる必要がある)。つまり、当事者度が60%の場合もあるだろうし、非当事者度が70%の場合も十分に考えられる。



 したがって、ここは極端な思考に走らず、出来るだけ穏当な基準を設けるのが有効であると、とりあえずは考えられます。



 つまり、対象となる事柄から強い影響を受ける人ほどに強い発言権が与えられます。逆に、影響が弱い人ほどに、弱い発言権が与えられます。ポイントとなるのは、どちらのタイプの人にも発言権自体は与えられる、ということです。



 このように考えた場合には、部外者にも当事者にも基本的発言権表現の自由)自体る程度保証されると考えられます。そして、理想的には多様な意見を摂取できた方がいいのは、もちろんのことですので、発言権を「弱める」ことに関しては、極めて慎重な態度が要請されます。基本としては、できる限り、発言権を弱めてはならない(これは人権の問題でもありますね。発言を抑圧せざるを得ない場合には、必ず、反対側に位置する発言の権利」(表現の自由)をも考慮しておかなければなりません。極端にならないように。必ずしも極端のすべてを排除するべきなどという事でもないのですが。ある程度は極端性もあっていいと思います。深刻な他害がなければ)。



 また、どの程度、部外者「的」な人たち(完璧な「部外者」は存在しないので)の発言権を弱めるかについては、ケースバイケースではないかと、個人的に思います。



 さて、ここではこれまでの思考の応用例として少しだけ、福島原発事故の場合について考察してみましょう。



 この場合の発言権の剥奪範囲は、原発事故の影響範囲がどの程度の規模のものであるかによって決まります。



 原発事故の影響が少ない場合には、少量の人々に強い発言権が付与されます。原発事故の影響が大きい場合には、大量の人々に強い発言権が付与されます。



 では、原発事故の影響はどの程度のものか。



 まず、この事故はどの程度すごいものなのでしょうか。



 これは、かなりすごいことであると言えるでしょう。



 ウィキペディアをちょっとのぞいてみましたところ、「国際原子力事象評価尺度」なるもので、最大レベルの「レベル7」(暫定)なのだそうです。



 つまり、これは、国際的な最大級の問題であると想定されます。



 この場合には、国際的に様々な人々に強い発言権が付与されることになります。



 言うなれば、これは、日本だけの問題というよりも、世界の問題であり、世界のすべての人々が考えるべき問題であると言え、その上さらに、その事故を起こした当人である、「日本人」に該当する人々には、ことさらに強い発言権が付与されるであろうと考えられます。



 したがって、福島原発事故の場合には、世界の人々、とりわけ日本の人々は、積極的にこの問題について考え、発言する権利があると考えられます。原発の認知についての情報などは、基本としては多様であることが望ましいですので、強いて言えば、「福島原発事故については、日本人はすべて当事者である」という線引きがある程度の有効性を持つと考えることはできます



 違った線引きの場合も一応考察すると、「日本人は当事者ではない、福島県民は当事者である」というふうに線引きを考えた場合、当事者ではない日本人にとっての福島原発事故の重要性が低下してしまいますので、原発問題についての思考が「風化」し、「忘却」に至ると想定されます。問題を忘却してしまうと、問題は改善されないので、また、同じ失敗が生じる可能性があります。そして、これは再び繰り返してはならない深刻な問題ですので、日本人は真剣に原発事故について積極的に発言していく必要があります。ならば、ひとまず、日本人がこの問題を自国の深刻な問題として心に刻むという意味では、「日本人は、福島原発事故の当事者である」というふうな線引きで考えたほうが、合理的であるかもしれません。また、福島原発事故は、何も福島の人たちが悪くて生じたものではありません。これは、すべての日本人、もっと言えば世界全体の問題なのであり、その責任は福島の人たちだけに帰属されるものではありません。ならば、その責任は僕たち一人一人、世界の人たちにもあるものと考えられますので、その意味でも、この問題は日本人みんなで考えるべき問題であるのではないか、というふうに個人的には思わないでもないです。念のため、もう一度繰り返しておきますが、福島の人たちが悪いのではありません。原発事故の当事者は、日本人全体(あるいは世界全体)です。したがって、原発事故を理由に、福島の人たちに対し差別した扱いを取ることは合理的ではないのではないか、と個人的には思っています。



 広い範囲から情報を収集するほど、多様な情報が生じますので、情報処理が大変になります(風評問題とかすごく大変なんだと思います)が、おそらく、福島原発事故の場合には、――世界的な事故ですので――その大変な情報処理をみんなで一緒に行う価値はあると考えます。人の知能は様々ですが、知能の高低によっては、人の優劣は決まらないので、一見すると不完全に見える意見も、人間の認知様式を表したデータとしても、また、なんらかのヒントとしても、よいものを持っている可能性はあります(「多様な目」によって物事を観察すれば、自然と多面的な考察が可能となります)。一つの尺度から見ると劣って見える知能が、別の観点からはある種の独創的機能を持っている事例(「2E」など参照。)もあるかと思います。そういった多様な観点は、今後の人類にとって、データとして非常に重要です。情報量が増えると、ノイズも増え、処理が本当に大変になってしまうのですが、それらのノイズを乗り越え、何が正着打なのかを、日本人、あるいは世界の人たちみんなで発言し合いながら、一緒に考えていけるとのいい、のかもしれません。



 福島原発事故の当事者は日本人を含めた世界であり、その意味では、極めて国際的な範囲における発言権が認めらえるのではないか。



 これが、もっと狭い範囲の出来事であれば、部外者的な人の数は膨れ上がるのでしょうが。



 例えば、恋愛の小さいいざこざとかは、福島原発に比べて、影響範囲が非常に狭いので、部外者的な人の数も増えると考えられます。



 もっと言うと、この「当事者」についての概念も多様であるほど良いデータが取れるとも考えられます。したがって、多様な当事者意識なり、「多様な当事者」などを認めるのもある程度妥当でしょう。その意味では、当事者範囲についての言論があるのは非常に好ましいことであるともいえるかもしれません。いずれにせよ、できる限り自由な言論が優れた考察を産み出すものと考えられますので(自由にすると、無作為的になるので、全体としてデータの偏りが減っていくから正しい判断が可能になると考えられる)。



 例えば、僕などは、統合失調症(この際、統合失調症とは何かについてはおいておきます)の当事者、ということになると思うのですが、それでも、非統合失調症?(そのような人が具体的にどのようなものなのかは僕にもわからないですが)の人の意見も、参考にさせていただいています。

 精神科医には、統合失調症ではない人はたくさんいらっしゃると思いますが、統合失調症についての医師の意見をうかがうこともたびたびあり、また、とても有益な意見交換となっております(僕の場合。医師には迷惑かもしれないけど(笑) いちいちくどい患者です(笑))。そういう事例などを考えてると、本当に当事者」と非当事者の線引きはとても難しいし、そもそも多様な当事者を認めるのが正確な判断のためには合理的ときていますからね。少なくとも、「被害にあった人だけが当事者」ということはないのではないか、とは個人的には思います。



 人間は、みんな、自分の人生という、ひとつの物語の主人公であるとも言い得ると思うのですが、これは、いわば、「自分が自分の人生の当事者たり得るか」、という問題意識でもあるのかと思います。そこには優劣はないのでしょう。当事者的であろうとする人、非当事者的であろうとする人、多様な人々がいるようです。僕は、こうした主人公性、――言い方を変えれば、主体性――は解消してしまった? 解消しつつある? 解消している最中? な類の人間なのかもしれませんが、それでも、この主体性を持つことが必ずしも悪いことではないし、場合によっては、良いことですらあるのかもしれません(未来がどうなるかは、正直僕には全然わからないのです。それらはあらかじめは決まっていないんじゃないかと思えるくらいに)。ありのままの自分でありたいと願う人も、それはそれで一つの選択としてよいのではないかと、個人的には思っています。ありのままの自分は、まさに「そこ」にありますね。そうして、色んな人たち(僕を含め)や物事はどこかに流れていくものなのかもしれません。その流れの行く先はわかりませんが、おそらく流れていくしかないのではないかと思います。「ゆく川の流れは絶えずして」みたいな感じ。何もかも流れて行って、もう何が確定的なことかわからないし、確かと呼べるようなこともないのかもしれませんが、強いて言えば、その「欲望」の行く先へと人は流れていくのかもしれません。様々な流れ、様々な欲望、様々な行く先があり、そして、様々な当事者がいるかと思います。少なくとも、それを(何にしても「それ」です。その欲望)をあきらめない人というのはいらっしゃるようで、またそういう人たちを、あきらめた人たち? が指さして笑うのはちょっと違うんじゃないか、と思うこともあります。世界には色んな人がいていいのではないでしょうか。僕は個人的にはそのように思いました。少なくとも、特別に悪いことではないかと。論理どうこうというよりも、単純に、こういう人たちのことが、個人的に好きだということもあるのですが(笑)世の中には色々な好みがあるようです(笑)普通に生きたい人もいいと思うし、自分が「メインキャラクター」になってやろうという人もいていいと、個人的には思います。僕としては、こういう真剣な想いを否定はしたくないなあ、と思ったりもします。人生に部外者はいないのではないでしょうか。ある意味、すべての人が人生の、あるいは世界の当事者であると、個人的には考えております。優劣はないのでしょうね。おそらくは。つまり、僕の見解も別段優れているわけではないので、肯定派の方も、否定派の方も、別にこの意見に囚われなくてもいいと思います。鵜呑みにせず、気が向いたら、御自分で色々とご想像なさって見てくださいませ。



 一つの意見として、気が向いたらご参考下さい。僕の言うことなんて、基本的に全部無視してくれてもよいのです☆

 

 ではでは~



 

 君が立つ場所はきっと 

 僕が諦めた未来で

 選んだものが違うから 

 分かり合えないこともあるけど(*Luna,『メインキャラクター』,歌詞より引用)