魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「キモさ」の長所について

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、「キモさ」つまり、「気持ち悪さ」の長所について少し考えてみようと思います。

 

 現代において、一般的に人が「気持ち悪い」と思う事態とは主に、次の二点のように、個人的に思われます。

 

 1.性愛の過剰

 2.コミュニケーションの過剰

 

 例えば、「性的な視線が気持ち悪い」とか、「性的言動が気持ち悪い」とか、「ボディタッチが気持ち悪い」とか。これは、性愛方面の過剰のために気持ち悪いと感じているのだろうというふうに見受けられます。

 

 また、「プライベートに立ち入って来て気持ち悪い」とか、「こちらのことを深く尋ねてきて気持ち悪い」とか、「自分のことを深く話していて気持ち悪い(多分、「自己アピールが気持ち悪い」という概念とかはこれ)」とか。これは、コミュニケーションの過剰のために気持ち悪いと判断されているのだろうというふうに見受けられます。

 

 では、性愛とは何か?

 

 これは、「生まれつきの性質に根付いた欲求(あるいは欲望)」ということのようです。

 

 「性」というのが性質、本性、そして、「愛」というのが愛欲、欲望、欲求。

 

 「性」には男性もあるでしょうし、女性もあるでしょうし、トランスジェンダーとか色々あるのだろうと思います。色々な本質、本性があるようです。

 

 色んな性欲があるようです。色んなフェチもあるでしょうし。

 

 それで、そう言った「性」というのは語義的に言って、その人の本性、つまり、「深いところ」に根差した一種の本質のことなのだと思います。

 

 つまり、「性に関わる」という場合、これは、人として「深く関わる」ということを示すと捉えることができます。

 

 また、「コミュニケーションの過剰」と言った場合、これは、「表面」上の関係性から逸脱して、深いコミュニケーションを取ることであろうというふうに捉える見方もできます。つまり、この場合も、「キモさ」の原因となっているのは、人と「深く関わる」ことのようです。

 

 以上のことから、「キモさ」という印象の原因について、次のようなことが考えられます。

 

 深く関わるのがキモい(気持ち悪い)

 

 では、どうすれば、気持ち悪いと思われないか。

 

 単純に考えれば、この逆を行けばよいことになります。つまり、気持ち悪いと思われないためには、人と深く関わらなければよい。

 

 つまり、気持ち悪くないと思われることが多いと考えられる人とは、次のような人であると考えられます。

 

 表面上の付き合いだけをする人はキモい(気持ち悪い)と思われない

 

 とにかく、深い話をしなかったり、深い関係にならなかったり、深いことをしなかったりすれば、気持ち悪いとは思われないのであろう、というふうに考えられます。つまり、自分を出さず、また相手の深いところにも立ち入らず、表面上相手に合わせて笑っていればよい、ということ。

 

 この原則が正しいとすると、何かに深く関わっている人が気持ち悪いと判定される可能性があることになります。

 

 例えば、何かの関わりの過剰としての「マニア」や「オタク」、はたまた「専門家」と言った人々を気持ち悪いと判定する人がいる可能性が生じてきます。

 

 とにかく、何かに熱中していたり、深く過剰に関わっていると、それは「キモい」と判定される可能性が高くなるのではないか、というひとつの仮説です。言い方を変えれば、過剰性、つまり、逸脱しているもの、普通でないもの、変わっているもの、その文化から見て珍しい希少価値のあるものが、「キモい」、と認識されることが多いのではないかという仮説。

 

 とは言え、それらが深い関わりであったとしても、マニアやオタクたちの紡いでいる文化や知識は並大抵のものではなく、非常におもしろいものであると思いますし、専門家の技術が僕たちに恩恵を与えてくれていることについては言うまでもないことでしょう。

 

 つまり、「キモさ」(気持ち悪い)というのは、長所にもなり得るのではないでしょうか。

 

 今日はそのように考えてみました。

 

 また、この路線で言えば、深い関わり、例えば、恋愛やセックスなども、気持ち悪いと判定される可能性もあります。

 

 恋愛的アプローチなども気持ち悪いと判定されることもあるかもしれません。

 

 したがって、この空気感が蔓延すると、少子化が加速するのではないか、などということを人知れず想像してしまったりもします(笑)

 

 なので、個人的には、過剰に深い関りとしての「キモさ」は、僕はある程度奨励されてもいいのではないかと思ったりもします(笑)

 

 「キモくなれ!」って言うのもなんだか――というかかなり(笑)――おかしい話だとは思うのですが。

 

 キモくなれとは言わないまでも、多少はキモくてもいいのではないか、とは思うこともあります。逆に、キモさを完璧に排除してしまおうとすると、性愛やコミュニケーションに支障が出るかもしれません。「キモさ」にも役割りというか、「機能」があるわけですね。この世には、なんの機能もないものは存在しないのだと思います。

 

 おそらく、実際には、「何が深いのか」という感受性が多様で、連続体的に、グラデーションになっているのであろうと思いますので、同じ事象を見ても、キモいと思う人と思わない人がいるはずです(感受性の多様性)。また、発言者によっても受け手の感じ方は変わってくるのかもしれません。例えば、「この人はすごい人だから、少しくらいのことは許せる」とか、「この人はすごくない人だから、許せない」とか。人によって、尊敬している人とか価値観、物事の許容範囲などは多様に異なってきますので(当ブログの「地位術」など参照)、そこら辺の「関係の機微」にも注目していけるとより良いコミュニケーションなり、アプローチなりがあり得てくるのかもしれません。つまり、自分に合ったコミュニケーションスタイル、相手に合ったコミュニケーションスタイルというものがある程度あるのかもしれません。

 

 だから、相手にキモいと思われず、かつ、仲良くやるためには、その人の感受性に合わせてケースバイケースに行動していくことが必要なのかもしれません。つまり、相手が持っているパーソナルスペースをよく見て、キモくないように少しずつアプローチするのが合理的、なのかもしれません。急いては事を仕損じる、急がば回れというか(僕はモテないのでこの辺りの機微についてあまり詳しくはないのですが(笑) 正確な所は性愛の専門家に尋ねてみて下さい)。

 

 世の中には、色々な感受性の人がいますので、恐らく、キモいと思われる確率をゼロにすることはできないのではないかとは思いますが(笑)

 

 多分、急に近づかれて、びっくりして、「キモい」という言葉が出るのかな? と個人的に想像したりもします。「僕の/私の、心(パーソナルスペース)に土足で入ってこないで!」みたいな。アレルギー反応というか、心のアナフィラキシーショックのようなものなのかもしれません。

 

 あんまり気にしすぎると何もできなくなってしまうかもしれませんが、ある程度気にしないと、キモいと思われてしまうのかもしれません(笑)

 

 では、キモい(気持ち悪い)の反対の、「気持ちいい」とはこれは何なのでしょう?

 

 これについても少し考えてみようかと思います。

 

 これは好きなことに熱中している時とか、好きな人と話している時とか、好きな人とセックスしたりしている時とか、色々あるのだろうと思います。

 

 色々あると思うんですけど、これらっていうのは、基本的には、「深い関り」ですよね。「熱中」は深い関りですし、好きな人と話していて楽しいのは、表面上じゃない、普段はできない深い話ができるからだし、最後の項目については言わずもがな、なのかなあと思います。

 

 つまり、どうも「気持ちいいこと」が「キモい(気持ち悪い)」と判定されるようにも見受けられます。

 

 ここに、「キモさ」問題についての、矛盾した構造を抽出することができます。

 

 「気持ち悪い」=「気持ちいい」

 

 あるいは、

 

 「気持ちいい」=「気持ち悪い」

 

 なんというパラドックス(笑)

 

 これはとても面白い構造ですね。

 

 このテーゼを敷延すると、より面白い現象を確認することができます。

 

 気持ちいい人とは、気持ち悪い人のことである。

 

 つまり、気持ちいい人になるためには、気持ち悪い人にならなければならないと推定されます。

 

 ならば、気持ちいい、と気持ち悪い、は、ある意味、表裏一体の構造を持っているのかもしれません。語弊を恐れずに言えば、「嫌よ嫌よも好きのうち」という構造ではあります(これが真実であるかどうかは、僕にも分かりません。ぜひご興味のある方は、検証してみて下さいませ。犯罪はダメですよ?)。

 

 ここで、気持ちいい人のことを、仮に「モテる人」であると考えるとすれば、さらに奇妙なことになります。

 

 モテる人はキモい

 

 実に奇妙な主張です。一体このブログはどうしてしまったのでしょうか。もしかしたら、僕の頭がおかしくなってしまったのかもしれません(もとからおかしいのですが(笑))。

 

 つまり、世間でキモいと思われることをすると、モテるという可能性(犯罪はダメだぞ☆)。

 

 僕のようにモテない人間にとっては実に興味深い結論です。

 

 はたして、モテる人はキモいと認識されると考え得るのか。

 

 まず、モテる人が嫉妬されると仮定すると、これはキモいと認識される可能性があるでしょう。では、現実的にモテる人は嫉妬されるということはあり得るのか? これは、常識的に考えて、あり得ると言えるかもしれません。

 

 ならば、やはり、「モテる人はキモい」、というこの奇妙なテーゼがある程度の有効性を持っているのかもしれません。僕のような人間には判定しようもないことですが。奇妙過ぎてもはや、神々の領域です。謎です。

 

 モテる人はキモい、という主張が成立するのなら、モテない人はキモくない、ということになります。この場合、モテる人は、「気持ちいい」and「気持ち悪い」となると推理されますが、そうすると、モテない人は気持ちよくも気持ち悪くもないと考えられます。これがそうならば、「モテないということはよくも悪くも思われていないということ」という一つの可能性が浮き上がってきます。検証が待たれるところかもしれません。このように考えた場合には、「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」である、というひとつの結論となります。すると、嫌いという感情は好きという感情に反転し得るものなのかもしれませんが、相手の嫌がることをするとストーカーなどになってしまう恐れがありますので、おすすめできません。これらの記述はひとつの「思考実験」としてお考えください。

 

 できれば、恋愛系の事柄はあまりしゃべりたくはないのですが(「キモい」と判定される確率が高いと推定されるので)、たまには、多少「深い」話をしてもいいのかもしれませんので、今日の記事を書いてみました。それでも、この記事が、みなさんにとって、少しでも「キモい=気持ちいい=深い」記事であればいいな、とも思います。

 

 

P.S.それにしても、次のような疑問があります。

 

 「浅い」のは気持ちよくないのか?

 

 みなさんは、「浅い話」は楽しいでしょうか? 場合にもよると思いますが、一般的に、「話が浅い」という場合、これはあまりいい印象はないようにも思われます。

 

 すると、一般的には、浅いのは気持ちよくないというか、あるいは、深い快感よりは浅い快感にとどまるのかもしれません。

 

 そもそも、何が浅く、何が深いのかも判断が難しいです。「浅い川も深く渡れ」という言葉もあるみたいですし。

 

 コミュニケーションにおいては、地雷がどこに埋まっているかもわからないと思いますので、その人の感受性に適切なアプローチを取るというのは、論理的に考えると本当に難しいことのようです。

 

 そう考えると、むしろ、言語よりも、非言語的なコミュニケーションの方が、アプローチには重要なのかもしれません。言葉にならないものを読みとる力とか。この力も個人差や多様性があるのでしょうね(自閉症スペクトラム、エンパスなどの概念を参照)。そうすると、話や何らかのやり取りなどが心底深くかみ合うというのは奇跡的なことなのではないかという気もしてきます。感受性の奇跡的な一致。

 

 みなさんも「深い」話ができる友人などいらっしゃいましたら、大切にしてみて下さいませ。多分、そういう深い関りを持てる友人、つまり「親友」というのはとても貴重なものなのだろうと個人的には思います(出会えたこと自体が奇跡的なこと)。親友と、たくさん「キモい=気持ちいい」話をしてみるといいのかもしれません。

 

 また、「キモさ」については次のようにも考えられます。

 

 「キモさ」とは「執着」のことである。

 

 つまり、粘着気質なのがキモいのだろう、という仮説です。

 

 これも分析してみるとそれなりに面白そうです。

 

 執着は、ある意味、「その人でなければならない」という思いであり、ある意味、「愛着」の一種ではあるかもしれません。これは、「深い関り」に相当しますね。だから、あまり過剰に執着すると、キモいと思われるのかもしれません。

 

 だからと言って、執着がまったくないと、「誰でもいいのか? 愛着がないのか?」という疑問が頭をもたげることになるのかもしれません。

 

 その意味では、「気持ちよくも悪くもない」と「気持ち悪い=気持ちいい」の「中間」を取っていけるといいのかもしれません。バランスのいいところ。そして、このバランスの最適値は、人それぞれであり、人間である限りミスはなくならないと思いますので、行き過ぎたり足りなすぎたりすることもあるかもしれません。相手の感受性、パーソナルスペースをうまく見極めながら試行錯誤、ケースバイケース、臨機応変に対応するしかないのかもしれません。あるいは、アプローチのメソッドを決めてしまって、確率的にアプローチするか(失敗するリスクは承知の上、みたいな感じ。臨機応変にアプローチしても、確率的にしても、どちらにしても失敗するときはするのかもしれませんが)。

 

 このように、「キモい」vs「モテ」の二項対立で考えると難しいことも、グラデーション、連続体、「スペクトラム」と考えて、人それぞれで多様な感受性のホメオスターシス、バランス、最適値、あるいは「中間」を取ろうというふうに考えると、おもしろいというか、ある程度整理できるかもしれません。この人は根が社交的だから75パーセントくらいのアプローチ率(深い関りの度数、つまり「キモさ」の率)がいい、とか、この人は人見知りだしこちらとはあまり親しくないから5パーセントくらいのアプローチ率(キモさの率)がいいとか。0%(アプローチをしない)か100%(アプローチしかしない)かというふうな二極思考ではなく(もちろん、アプローチしたくなかったらしなくていいし、アプローチされても無理に応じることはないと思います。その辺はある程度は個人の自由ではないでしょうか)。そんな感じ。こういうのを、「押し引き」とか「駆け引き」とか言うのかもしれません。気が向いたらご参考下さい。

 

 今日はそんな感じです。少しでも参考になるところなどあれば幸いです。

 

 ではでは~