魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

共通性について

 こんばんは~。

 

 さて、今日は「共通性」について書いてみようかな、と思います。

 

 では、共通とは何か?

 

 これは、「どれにもあること」のことです。

 

 例えば、AとBという二つのものがあったら、そのどちらにもあるもののこと。

 

 にんじんとりんごでいったら、どちらも暖色だな、とか。

 

 そんな感じ。これが共通。

 

 しかし、暖色とは言っても、これらには差異があるとはいつも言うことができますね。

 

 例えば、にんじんはオレンジで、リンゴは赤だな、とか。

 

 もっと言えば、にんじんとにんじんだって、差異ありますよね。現実的には。

 

 このにんじんとあのにんじんは形や大きさが違うとか。

 

 すると、次のような主張がありえます。

 

「このにんじんとあのにんじんは、全く別物で、共通性がない。つまり、このにんじんはにんじんではなく、あのにんじんこそがにんじんである」

 

 とか。

 

 もっと言うと、ラジオAとラジオBは違うものであり、ラジオBはラジオではない、とか。

 

 潰そうと思えば、どこまでも共通性という概念を潰していくことができます。

 

 つまり、しようと思えば、いくらでも差別化できるわけですね。

 

 この意味で言えば、「全てのものに差異があり、同じものはこの世に何一つとして存在しない」、というふうな論法になります。

 

 これはこれで正しい指摘かと思います。

 

 僕とあなたは確かに違う人間ですね。これは確かです。

 

 しかし、これだと、言葉が全く役に立たなくなります。

 

 にんじん一つ一つに固有名詞をつけなければならなくなってしまうでしょう。

 どんな世界になるか見てみたい気はしますが、利便性の観点から、あまり合理的ではありません。

 

 したがって、僕たちが、日常生活を普通に送る上では、とりあえず、ある程度は、共通性という概念を認めておくのが妥当でしょう。

 

 つまり、「共通性は幻想かもしれないが、僕たちの生活の機能を担保するために、ある程度認めておいた方がいい」という結論になります。

 

 さて、ここでは、共通性は幻想であるとしましょう。

 

 しかし、この共通性は真理ではありませんが、機能的には有効なものとなるのは前述したとおりです。僕たちはこの幻想がなければ、まともにコミュニケーションを取ることもむずかしいでしょう。

 

 一方でこの幻想があまりに強すぎると、僕たちは区別したほうが利便性の高いものを、同一のものであるとして扱うことになるかもしれません。

 

 どういった利便を図るのが有効であるかはケースバイケースのものですし、本質的には、全てのものには差異があるのはそのとおりですので、これは、程度問題となります。

 

 つまり、共通性という幻想をどの程度に見積るか、ということ。

 

 ケースバイケースです。

 

 ここで、主観Aと主観Bを想定してみましょう。

 

 主観Aは共通性を比較的強く見積もっており、共通性に70%ほど力点を置いているとします。それに対し、主観Bは共通性よりも差異に力点を置いており、それに対し70パーセントほどの力点を置いています。

 

 主観A 共通性70% 差異30%

 主観B 共通性30% 差異70%

 

 と言った価値観になります。

 

 この場合、両者の共通性と差異の主観、価値観に70-30=40%の食い違いが生じます。

 

 この場合、十回に四回は話が食い違います。

 

 そこで、主観Aは主観Bに歩み寄って、

 

 主観A 共通性30% 差異70%

 

 に調整します。

 

 この場合、非常に単純に考えるなら、とりあえず、話の食い違いが無くなります。

 

 つまり、主観Aは主観Bの価値観に歩み寄ることで、幻想を共有した、ということです。

 

 人間の社会には、こうした共同幻想が多くあります。ケースや相手の主観に応じて、この共同幻想は調整され、それによりコミュニケーションをある程度とれるようになります。

 

 逆に言えば、こうした、幻想の共有なしには、僕たちの社会は立ち行かない、とも言えるかもしれません。

 

 したがって、相手と意思疎通を図ることを目的とする場合には、共通性を棄てるのではなく、ある程度共通性に歩みよることが有効となります。

 

 つまり、共通性は人間の主観であり、幻想であるとも捉え得るものですが、その有効性は明白です。

 

 ならば、言葉によってコミュニケーション行為を行う場合には、共通性をある程度担保する必要があります。

 

 逆に、相手と会話したくない、誰にも何も伝えたくないのであれば、共通性を放棄すればよい。

 

 この時、相手との共通性を担保するのは、相手とコミュニケーションを取るうえでの基本姿勢となります。これは自分とは違う相手を包摂する態度であると言えるかもしれません。

 

 逆に、共通性を放棄するのは、相手をシャットアウトすることを意味します。つまり、排除です。

 

 社会において、敵を作らないか、あるいは排除を行わないことを目指すのであれば、手段としての共通性をある程度放棄しないことが合理的となります。

 

 つまり、多様性の包摂とは、共通性の確保でもあり、共通性と多様性は矛盾しないとも言い得ます。

 

 逆に多様性が失われるとすれば、それはみんながコミュニケーションのシャットアウト、つまり排除に駆り立てられたからであり、共通性が失われたためかもしれません。

 

 共通性とは差異ある個物があることによって見えるものであるとも言え、逆に多様性とは共通性によって保全されるものであるともいえるかもしれません。

 

 つまり、多様性のためには、共通性の確保と多様性の確保という一見矛盾する両方の確保のために奔走する必要があると言えるかもしれません。

 

 多様性を保全しつつ、共通性も保全しようとすること。

 

 むずかしいですが、必要なことなのかもしれません。

 

 多様性を保全するばかりで、共通性をないがしろにし過ぎると、そもそも差異ある人とコミュニケーションが取れず、逆に、多様性をないがしろにして、共通性ばかりが際立つと、自分とは違うものを認めない姿勢になってしまいます。

 

 つまり、多様性を保全しようとする姿勢と、共通性を保全しようとする姿勢、相反するかに見える二つの姿勢の両立が必要となります。

 

 強くつながることもあり、なおかつ弱くもつながる場合もあるということ。あるいはそれらの二重構造の何らかの両立。

 

 といったバランス感覚、その時々に応じた中間を取ることが必要なのかも知れません。

 

 この絶妙なバランス、その都度の行動や思考のプランの選択、それらによってホメオスターシスが保たれることで世界は回っているのかもしれません。

 

 共通性は幻想であるという観点を今回取っていますので、その論旨で進めます。

 

 共通性は幻想であり、主観の問題なので、自分の思い次第でいくらでも見つけることができます。ポイントとなるのは、それが有効であるかどうか。

 

 有効なら、その幻想を持つことは合理的でありますし、無効なら、合理的ではないかもしれません。

 

 自分にとって共通性を見いだすことが有効であるのなら、積極的にそれを利用するべきでしょう。

 

 例えば、憧れの人がいたとして、その人みたいになりたいなどと思うのなら、そのための手段として、相手と自分を重ねあわせ、共通性を積極的に見出し、自分を相手にある程度近づけていくというのはひとつの合理的手段となります(共通性自体は幻想であるのでいくらでも見出せますし、差異は何にでもあるので、何でもシャットアウトすることもできます。それは個人の自由です)。

 

 分かりやすく言いますと、何にでも差異は見えますし、何にでも共通性も見えます、ということ。

 

 また、幻想の特性上、あまり合理的に生じているものではないと思いますので(少なくとも表面上は)、共通性や共感は「端的」に生じるものなのかもしれません。

 

 つまり、極論としては、「理由はないが共通性を見出す」、ということ。

 

 芸術家などはこの手の操作が上手いものなのかもしれません。一種の幻想を組合わせて、あたかも鑑賞者の心と共鳴するかのような音楽なり、文章なりを創り出す。

 

 これは合理的に、つまり、方法的に手に入るものではないとも、今回の論旨では言い得ますので、そう言った資質を、「天才」と呼ぶこともあるのかもしれません。つまり、天からの贈り物。ギフテッド。

 

 まとめます。

 

 

1.共通性は幻想だとも言い得る。

2.主観の問題なので気の持ちようでいくらでも共通性を見出せる。

3.それらは幻想なので、必ずしも合理性の問題ではない。

4.たとえ相手と共通性を見出すことがいわゆる絶対のものとしての「真理」としては無効でも、それが機能的に有効であれば共通性を見出すことは妥当である。

5.憧れの人のいい点を取り入れるという戦略を取る場合には、その人と自分の共通点を整理していき、そこから出発して、少しずつ相手に自分を近づけていくというのはひとつの生き方としてアリ。

6.「形から入る」というのもひとつの選択肢としてはアリ。多様性を考えるならなおさらアリ。

7.何にでも共通性を見出せるように、何にでも差異を見出せる。

8.だから、現実的にコミュニケーションをある程度成立させるためには、共通性という幻想と差異という現実のどちらも程よく把握する必要がある。

9.つまり、人を排除せず、うまく包摂するためには、幻想と現実の中間を取ることが大切。

10.(補足)なお、この幻想を「現実」として捉える論法もあり得る。個人的には僕はそっち派。