こんばんは。
今日は、「創造は可能であるのか」について、考えてみようと思います。
創造とは何か。
これは、「新しいものを創り出すこと」です。
では、「新しい」とは何か。
これは、新しいわけですから、それまでに起こらなかったこと、それが起こることと考えられます。
つまり、創造とは、「それまで起こらなかったことが起こること」です。
これについてもう少し考察してみましょう。
法則とは何か?
これは事象の反復を見出すことです。
例えば、重力の法則なら、何回も物体を髙い所から落としてみて、その落下速度を測るとある一定の反復、つまり、法則が見出されます。
では、創造とは何かについて戻りましょう。
創造とは新しいことですから、今まで反復したことのないもの、つまり、法則でないもの、のことと考えられます。
はたして、この世界に法則に乗っ取らないものが存在するか否か。
これは今のところ、不明です。
なぜなら、僕たちは、未だに世界のさまざまなことに対して無知であり、多くのことについて正解が不明である上に、そのような茫漠とした答えのない平野をさまよっている状態にあるからです。
この世界には、多くの場合、簡単に答えの出ることは存在しません。
だから、科学は未だ、様々な法則について研究しますし、法律も未完成であるがゆえに、改正されたりもします。
つまり、「法則は改正され得る」。
法則が変化するとすれば、それは、今までの法則とは違ったことが起こる、ということでもあります。
ならば、創造はこの世界に存在しているのかもしれません。いずれにせよ、創造が存在するかどうかは、世界が必然的であるか偶然的であるか、という問題でもあり、今のところ、答えが出ません。
すべてが必然的なのなら、全ては法則通りであり、究極的には、全て予測できるはずです。
すべて偶然なのなら、僕たちが見ている法則は不完全なもので、究極的には、事象は法則で全てを記述しきることはできないことになります。
もしも、科学や法理論が万能のものであれば、世界は必然的であるので、創造、あるいは創造の力は存在しないことになります。
しかし、本当の世界の姿がわからないとは言っても、わからないなりに僕たちは決断して、決めていく必要がある面もあります。生活して、生きていかないといけませんし。
したがって、本当のところは不明ですが、ひとまず、現状では、どのような様態を世界が僕たちに対して表しているかについて考えてみましょう。
まず、みなさんは世界のすべてを見通すことができますか?
その場合、世界は必然的ですので、創造は存在しません。
そして、人間は神ではないので、世界のすべてを見通すことはできません。
つまり、世界には、偶然の余地があり、創造の余地がある、と推理するのが今のところ妥当であると考えられます。
なぜなら、今の自分が世界のすべてを見通していると考えた場合、現状の自分に満足してしまって、そこから思考が発展しないからです。これでは、生存競争に乗り遅れてしまいますし、成長もありません。
ならば、とりあえず、人間の文化なり文明なりが不完全なうちは、「世界には創造の余地がある」、というふうに考えたほうが有効でしょう。
以上のことより、この世界には創造は存在する、というふうに考えるのがある程度妥当であろうと考えられます。
僕たちは、本当に無知で、確かなことなどほとんど何もありませんが、それでも、少しでも確かだと思えることをみんなで積み上げて整理していけるといいのかもしれません。
ほとんどのことは、本当に難しくて、答えがでません(笑) まるで出ない(笑)
さて、今日のお話はなにやら、抽象的すぎて、あんまり面白くない方もいらっしゃるかもしれません。
ちょっとおまけで、創造性と恋愛の関係について考えてみましょう。
さて、ここで、ひとつの仮説を考えてみます。それは次の通り。
創造性のある人はモテるのではないか
以下、論証。
まず、人間は善いものを好み、悪いものを嫌うと仮定します。
例えば、一般に人は、容姿の善いものを好み、容姿の悪いものを嫌うのではないか、という仮説をとりあえず立ててみます。
この場合、何が善であり、何が悪であるか、という問題となります。
善とは何か。
人間はどのような時に、「善い」というふうに感じるか。
それは幸せだったり、気持が良かったりするときでしょう。
では、それはどんな時か。
とても刺激的な会話とか、映画とか、小説を読んでいる時や、あるいは棚から牡丹餅とでもいうような、幸運に突如恵まれたときなど、何か好ましい転機に恵まれたときではないでしょうか。
逆に、マンネリだったり、あまりに退屈な繰り返しの日常とか、生活がどんどん窮屈になるばかりで、何の幸運の転機もないような状況。このような状況は、「悪い」と感じられることが多いかもしれません。
これらのことから、単純にとりあえず考えてみると、なんらかの刺激なり、転機なりが、幸せ、あるいは快楽の条件なのではないか、という仮説を取り出すことができます。
では、「悪い刺激」や「悪い転機」の場合はどうでしょう?
悪い刺激とは、嫌悪感のある刺激です。例えば、まずいものを食べている時とか。悪い味覚への刺激があるのではないでしょうか。悪い転機とは、例えば、何か病気になって苦しい思いをするとか、そういうことかもしれません。
では一体、それの何が悪いのでしょうか。これは、その悪い状態が持続するのが特によくないのではないかと推理します。
例えば、まずいものをちょっぴり食べるのは苦痛が少ない。しかし、まずいものを永久に食べ続けるのはとても苦痛です。
逆に、美味しいものでも、ずっとそれを食べ続けると飽きてきて苦痛です。
つまり、苦痛の苦痛性とは、同じ状態がずっと続くことではないか、という仮説が取り出せます。
ならば、この逆とは、「変化」であり、変化することが喜びにつながるのではないか、という仮説が出てきます。これはどの程度妥当でしょうか?
まず、まずい状態から別の状態に変化すれば、これは確かに、「善い」と認識され得ます。
では、善い状態から悪い状態への変化はどうでしょうか。
なるほど、その悪い状態への移行が永久的なものであれば、それは地獄になり得ます。しかし、それが一瞬で済み、常に変化し続けるのであれば、その悪い状態は、その人の糧となり、経験となり、その人の器を広げるでしょう。「若い時の苦労は買ってもせよ」という諺がありますね。
では、善い状態からさらに善い状態への変化はどうか。
これは言わずもがな、善い状態かと思います。
つまり、「変化」するのであれば、人間は、悪い状態を善い状態へ変換する力をある程度持っており、少しずつ、必ず善くなっていくであろう、というふうに推理できます。
すると、逆に、停滞すると、悪い状態へと向かうというふうに逆に推理できます。
これはみなさんの経験的にはどうですか? 当たってますか?
簡単にまとめますと、
変化に適応するものが善い状態へと向かい、停滞するものが悪い状態へと向かうのではないか。
この仮説はどうなんでしょうね。みなさんの、意見を聞いてみたいところではあります。
変化を恐れない人が生き残り、停滞するものは適応できなくなっていく、という仮説です。もしかしたら、そうなのかもしれませんが、これを確実なものとして判定するにはもう少しデータが欲しいところでもあります。みなさんも気が向いたら、調べてみて下さいませ。
この仮説が正しければ、「善い状態」とは生もののようなもので、常に動き続けていなければ、なくなってしまうような、いわば、幽霊のようなものであると推定できます。
それに対し、「悪い状態」とは、停滞していますので、止まっていて、ソリッドなものなのであり、この手にこれとつかむことのできる、ある意味確かなものであると考えられます。
例えば、僕が、ここに善い状態について記述しようとしても、善とは「変化」ですので、書いたそばから変化してしまい、どんなに記述していっても、永久に善を記述できないであろうと考えられます。
逆に、悪い状態なら、停滞したソリッドなものですので、いくらでも記述として蓄積していくことができると想定されます。
つまり、悪い状態は蓄積し、善い状態は変化する、というふうに考えられます。
今回の仮説の立場を取った場合には、例えば、「記憶」のようなものは悪い状態を引き起こす可能性があります。なぜなら、それは停滞し、蓄積したものだからです。逆に、善い状態は、記憶の変化、つまり、「忘却」によってもたらされる、というふうに考えることもできます。
そして、記憶は悪いものとして今とりあえず考えてみましたが、それでも、人間が「変化」する限りは、その悪いものである記憶さえも善いものに変わっていくであろうと推定できます。人間は苦労を蓄積して、より良い状態に移行する能力をある程度持っていると考えられるからです(例えば、簡単な課題ばかりやって満足しているよりも、苦労して難しい課題に挑戦した人の方が高い能力を身につけやすいというふうに推理することもできる。つまり、人間は悪い状態としての「苦労」を善い状態にある程度は昇華できる)。
したがって、重要なポイントは、今現在、善い状態にあるにせよ、悪い状態にあるにせよ、「変化」することであると、推理することができます。
とにかく「変化」すれば、善い状態に移行していくであろう、という仮説です。
そして、この変化とは、新しい状態の生成であり、「創造」であると考えることができます。
生成と変化をつなげて、「生成変化」と言ってもいいかもしれません。世の中には、いろいろな言葉があると思います。
以上の論証をもって、創造する個体は、善い状態に移行しやすく、善い状態の個体はモテるであろう、と推理することができます。
今回の記述は、善いものがモテるというふうにとりあえず仮定していますので、その辺りの仮定についてもみなさんでもう少し検討してみるのも面白いかもしれません。本当に善いものはモテると言えるかどうか。
しかし、「創造」という言葉は、論証しました通り、記述不能、特定不能、幽霊のような言葉です。その特性上、何か悪い商売などに利用される可能性もあるとも言えます。
ただ、これは見分け方はある意味簡単であるともいえるかもしれません。
もしも、その商売が記述可能なものを売っていれば、それは悪いものであろう、と推理できます。
逆に、その商売が記述不能なものを売っていれば、それは善いものであろう、と推理できます。
この場合、「理由があって、善いものだ」という記述されたものを売っている商売は怪しく、「理由はないが、なぜか善いものだ」という記述不能なものを売っている商売は善いものであろう、と推理することもできます。
これはどういうことかと言いますと、真に善いものとはいったいそれが善いのかどうか悪いのかどうかすらもわからず、端に、「変化」であるということです。「変化」だから、善いとも悪いとも記述できない。
それに対し、「これがいい」、「あれがいい」、「これが悪い」、「あれが悪い」というふうにソリッドなものは、「変化」ではないので、「停滞」であろう、と推理できる、ということです。そして、ソリッドなものは流動的な「変化」に比べて、目に見えやすい。
しかし、難しいのが、ソリッドなものも、善いものへの糧となりえることです。苦労はしたほうが人間、成長できるものであるという一面もあります。
つまり、真の善は、悪をも善いものとすることができるのであり、その意味で、「寛容」なものであると考えられます。
つまり、悪いものを「包摂」し、それも「善いもの」とすることができる。
逆に言えば、悪いものは包摂の反対ですので、「排除」するものであると考えることができます。
つまり、極力は、全てのものを包摂すること、寛容になること、許すこと、そして、生成変化、創造すること。
このことによって、人はモテると呼ばれる状態になるのではないか、という仮説です。みなさん、「寛容」というといい印象を受けますか? もしも、寛容という言葉にいい印象があるのなら、この仮説はある程度当たっているのかもしれません。逆に言えば、非寛容的、つまり、細かいことをしつこく気にしたりする人は、モテづらく、また、人を許しづらい、根に持ちやすい人などもモテづらいであろう、と推測されます。また、これらの特徴を持った人々を想定した場合、それは「悪い状態」を引き起こすと今回は推理されますから、それらの人々にはある程度、人を不幸にする素因があると考えられます。
しかし、逆説的ですが、もしも、「記憶が悪いものだ、細かい人は悪い人だ」というふうにソリッドに決めて、それらのものや人たちを「包摂」ではなく、「排除」しようとした場合には、それは「変化」ではなく、「許し」ではなく、「善」ではなく、「寛容」ではない。
そうではなく、その記憶をも包摂し、昇華できること。これが創造の条件になるであろうと推測できます。
つまり、悪は悪ではない、という姿勢を持つこと。
それは変化するものです。
善も悪も、すべてのものが「変化」するとすれば、それは全てのものが善であるということになります。
では、善とは変化しないのか?
無論、これも変化するでしょう。どのようなものに変化するのかはわかりませんが。
では、「変化」は「変化」するのか。
無論、「変化」するでしょう。これも、一体どんなものに変化するのかはわかりませんが。
なぜなら、変化は記述できないからです。
最後に、では、寛容になるには、つまり、「許し」を与えることができるようになるためにはどうすればいいと考えられるか。
これを逆から考えてみましょう。
まず、許さず、つまり、包摂せず、排除を行うとはどういうことか?
この現象が成立するためには、二つの条件が成立していればいいと考えられます。
1.相手が悪い。
2.だから、自分は悪くない。
これは、責任の回避であり、責任の他者への「押しつけ」となります。
では、責任を負えばいいのか?
どうもそれほど単純でもないようです。
責任には権利も付随することがけっこう多いと思います。
責任ある立場の人は、それなりの権力も持っていることが多いのではないでしょうか。
すると、責任をたくさん負うと、その人の権力は膨れ上がります。
あまりにこの度が過ぎ、他の人たちを圧迫するようになると、これはファシズム的というか、上手くありません。
つまり、責任の重さには、その都度のケースバイケースな適性域がグラデーション的に存在すると考えられ、一律に、責任の重さを決定することはできません。
これは、先日触れた、「当事者」の問題とも被ってくると思います。ご興味のおありの方は、ブログ内検索からご覧下さい。当事者についての記事があります。
ただ、今回の論法でいった場合には、互いを許し(つまり、相手の悪いところを許し)、そして、相手の背負っている重荷をともに背負う(責任を負う)ことによって、モテるようになるのであろう、と推理できます。
逆に、これと逆のことをすればモテないというふうに考えられますので、つまり、相手を許さず(しつこく欠点を攻撃してくる)、そして、相手が重荷によって潰されるままに放置する(責任を負わない)ことによって、モテないことが可能であろうと推理されます。
ただ、これには逆の論法もあります。
簡単な言葉遊びのようなものですので、簡単にそのトリックを説明いたします。
無責任なのがモテる、という論法です。
この場合、端的に言って、「責任」の定義が違うのです。
これには先述した、「責任とは権利である」という論法を用います。
また、創造性のある、寛容な人がモテるというふうに仮定します。
この場合、権利がないことに対して、寛容であるのがモテる、というふうな論法が可能となります。
そうしますと、今度は、自分は権利を放棄し、つまり、相手に権利を贈与することのできる、権利への固執や執着のない、しつこくない人がモテるであろう、という推理になります。
つまり、権利がない人や事態を許すことができる、という種類の寛容になります。
この場合、さきほどまでとは一転して、「無責任な人がモテる」という論法となります。
みなさん、狐に包まれたような心地がしたりするかもしれません(笑)
結論を申し上げますと、
寛容な人は寛容でない人を許す、ということです。
あるいは、寛容という言葉は、狭量(寛容でないもの)を寛容に変換する機能を持っている、という感じ。
また、そうした、色々なことを許すことのできる人が恐らく、しつこい人よりもモテるのであろう、という仮説が今日のお話でした。
寛容にもいろいろな種類があり、例えば、一見暴言的な人でも、その実寛容な人であるケースもあり得る、ということです。
このように物事とは非常に込み入っていて、とても難しい感じに仕上がっているというふうに、個人的に思います。
しかし、ここで、そんな世界に文句をいう、つまり、包摂ではなく、排除してしまうと、僕はますますモテない人間になってしまいますので、何とか世界を受け入れられるようにがんばろうと思います(笑) ただでさえモテないのに(笑)
色々な問題点を受け入れたうえで、それらを昇華するために少しずつ自分も世界も良くして行けるといいのかもしれませんね。
これはどうなのでしょうね?
みなさんの周りでは、狭量な人と寛容な人、どっちがモテている感じがしますか? これも各々で気が向いたら、計測なさって見ると面白いかもしれません。
ここで、「寛容な人です!」って言っちゃだめなんですよ?(笑) この構造はわかりますかね? ここの最適解は、「狭量な人も寛容な人もどっちも魅力的ですね」です(笑) なぜなら、寛容な人は狭量な人を許すから。
一応、別の論法を附属しておきます。
寛容とは善である、とします。
善は幽霊であり、記述できません。
したがって、「善は寛容である」とは記述できません。
ならば、「モテる人の特徴は記述できません」。「モテる人」には痕跡がないわけですね。
となります。
モテない人の特徴を仮に悪であるとするなら、モテない人の特徴は記述可能である、ということです。
今日は面倒くさい話ですね(笑) すみません(笑)
つまり、どうしたら悪いかは記述できるのですが、どうしたらいいのかは記述できないのです。
ですので、善は、各々が自立して、自分に責任をもって、世界を許し、さまざまな人たちを包摂し、狭量にならず、自由に、寛容に、記憶や痕跡ではなく、生成変化している「今この時」に生きる必要があります(つまり、記憶や痕跡をも包摂する、ということ。悪は悪ではない)。
つまり、これらの記述を読んで理解したら、今度はこれらの記述を全て捨て、無心になる必要があります。
それが善である、という一つの仮説が今回の術式になります。
善いものがモテるのだとすれば、つまり、こうした無心状態(仏教でいえば、「空」と呼ばれる状態)、の人が最もモテるのではないか、ということになります。
だから、無心になれなければ、モテないと想定されるわけです。今回の論法の場合には。
だから、「モテたいから無心になろう!」とか思っちゃうと、モテないかも、というお話。
そうではなく、無心で、真心で、何にもとらわれず、執着せず、無心になり、ひたすらに「空」に向かうことでモテるのであろう、という感じ。
モテたくてギラギラしている個体よりも、モテなんて興味ないという感じの余裕のある個体がモテるのであろうという仮説でもあります。
要は、「見返りを求めず他人に奉仕できる人が素敵でモテる人なのだろう」(これは仏教でいえば、「喜捨」などの概念に当たる)、というお話です。
ただ、「私に見返りを求めず奉仕しろ」と命令して言ってくる人などにはご用心するのも手かもしれません。その方は見返りを求めていますね。つまり、あなたを不幸にする素因を持っていると考えられるからです。無論、それを承知の上で、相手に奉仕するなら、あなたは「聖人」なのでしょうけども。その是非についてはここでは判断しないでおきます。
気が向いたらご参考下さい。
以下、今日の結論です。
1.すべての物事は、創造によって、少しずつ良くなっていくのであろう。
2.善いものがモテるとすれば、創造性(変化、生成変化)のある人はモテるのであろう。
3.すべてのものが変化するなら、この世界に本質的な悪は存在しないのであろう。
補足。
とは言え、この世界には悲劇的なことが数多くあり、僕には、それらがすべて善だと言い切ることはできません。理論上は、全てのものは必ずよくなっていくであろうと考えるもできないではないですが、飢餓で苦しむ人たちや、戦争で死んでしまう人たちなどがいることを考えると、これらを容認することはとても難しいです。したがって、ここに記述された理論は多分に不完全なものなのであろうと思います。したがって、鵜呑みにはせず、みなさんもご自分で色々とお考えになってみて下さいませ。しかも、結論が結論ですしね(笑)。「善とは幽霊だ」っていう(笑)どうやら、善は世界に痕跡を残さないようです。「立つ鳥跡を濁さず」、と言いますね。変化や創造や自由、美しいものは、この世界に痕跡を残さないのかもしれません。世界に痕跡がなければ、科学的にアプローチが難しいので、どうしても、それこそ難しい話になってしまいます。いろいろと難しいですね。確かで簡単な事なんて、この世界には何もないのではないかと思えてきます。
一応、創造の存在についての多少厳密な論証を上げておきます。人によってはこっちの方がわかりやすいかもしれませんが(笑)。上記の論証はわかりやすくしている特性上、誤解の余地があります。
以下、よりましな? より厳密と思われる? 論証。
1.モナドを仮定する。
2.世界は必然であるとする。
3.世界は決定している、とする。
4.あるひとつの認知を仮定する。
5.認知は決定を決定と認知し、生成変化を生成変化として認知するものとする。
6.世界が決定しているとすれば、生成変化は認知されない。
7.しかし、状態は刻一刻と変化する。
8.ならば、世界は決定しておらず、世界には生成変化が存在する。
9.認知が決定を生成変化として認知するとする。
10.この場合、認知されない決定的世界が生じる。
11.この時、認知されない世界は、私の認知に影響を及ぼさない。
12.したがって、この場合、私の認知とは独立な決定的世界が存在する。
13.いずれにせよ、それは認知はできない。
14.認知できるものを世界であると考えるとすれば、決定的世界は世界ではない。
15.もしもそれがソリッドなものであれば、認知できるはずである。
16.それが認知できないということは、それは絶えず流れゆくものである。
17.つまり、認知とは独立な決定的世界は、その実、生成変化である。
18.ならば、決定とは生成変化である。
19.「世界」は決定的に一元的であり、かつ、流動的に多元的である。
20.この世は永久不変であり、かつ、千変万化である。
P.S.ヤバい(笑)今回の記事、9600字になってる(笑)。さっき占いで遊んでたら僕の嫌われる理由は、字数を気にしないことだ、って出てきてて勝手にビビってたんですよね(笑)気をつけようと思っているのですが、どうしても長くなってしまいますね。そんなこと言っていると、今度は、10000字になりそうなので、この辺でやめておかないといけないんですけど(笑)自制しないと、僕には惰性でどこまでも長く文章を書いてしまう癖があって、悪癖だなと思っています。
でも、これは僕の個性? だから、寛容なみんななら許してくれるよね? ね? ということで今日はこの辺で(笑)
ではでは~☆
けっ。どうせなら、一万字越えてやる。
るんるんるんるん。
わーいわーい。
後もうちょっと。
こんなくだらないことをしている間に、
やったね。一万字。おめでとう~☆☆(パチパチパチパチ~♪)
今度こそ、ではみなさん、また(笑)
ではでは~