こんばんは。
今日は「正しさ」とは何か、について考えてみたいと思います。
みなさんはどんなものが正しいと思いますか?
僕には二つの説がまず思い浮かびます。
1.正しさとは善である
2.正しさとは理に適っていることである
では、善と、理に適っていることは、何が違うのでしょう?
理に適っていれば、それは善であるような気もします。
このように考えた場合には、例えば、「愛は善である」、という言説。
これは、「愛は理に適っていれば善で、理に適っていなければ善ではない」、ということになります。
では、そもそも、愛が理に適っていないということはあり得るのか。
まず、人間のもとめるものは何であるか。
まず、ひとつの有力な説は、「お金」ですね。お金はある程度大切です。
では、人はお金のために行動しているのでしょうか?
どうもそうではないようです。
なぜなら、人は、お金を使用しますね。
つまり、お金は、「手段」であって、それ自体、「目的」ではないのではないかと考えられます。
次の説、「性欲」
つまり、人間は、セックス、あるいは繁殖するために、生きているのでしょうか。
では、セックスや繁殖していない人たちは、生きていないのでしょうか?
そうとも言えません。彼らも生きていますし、子供を持たずとも、有益な成果をもたらしていると言える人は多くいるでしょう。
すると、人は性欲のために生きているというわけでも、ないのかもしれません。
では、愛はどうか?
愛には色々な種類があり、友愛とか、博愛とか、色々とあります。
では、人間は愛のために生きているでしょうか?
愛があって、お金がない場合、これはどうか。
この時、二人(厳密には、三人でも四人でも何人でもよい。最近は「ポリアモリー」というものもあるようです)は幸せを感じるか否か。
お金がある人というのは、「富裕層」と呼び得る人達かと思います。富裕な人が価値を持っているとすれば、おそらく富裕な人が希少価値を持っているからでしょう。つまり、富裕な人は普通の人と比べると、希少なのかもしれません。
では、その希少な富裕な人たち以外には、愛を得ることはできないのでしょうか。
しかし、これはどうも実態どおりではない。
必ずしも富裕でなくても、愛を得ている人はいるように思われます。
つまり、愛の幸福自体は、富裕でなくても、入手し得るものであるのかもしれません。一時の愛にせよ、長期的な愛にせよ。
では、性欲主体ではない愛はどうか?
これもある程度成立するようです。「プラトニックラブ」という概念がありますし、また、そうした純な愛を描いた漫画作品などもわりに見受けられます。
すると、必ずしも、性欲がなくても、愛は成立し得るようです。
友愛などはこれなのかもしれません。親友との語らいなどは、基本的に、至福のものかと思います。
そのように考えると、人間は、お金や性欲を満たすことでは、幸せになれるとは限りませんが、愛を満たすことができるとある程度幸せな気分になれるのではないか、という仮説を抽出できます。
そのための手段として、お金や性欲が用いられることが多いのでしょう。目的自体は、おそらくあくまで、「愛」であろうと思われます。
では、愛を求めない人はいないのか。原理的にはそういう人も想定できるはずです。その人たちは幸せになれないのでしょうか?
これは非常に難しい問題です。
しかし、個人的な見解としては、基本的にそういう人はいないのではないかと思います。ぜひ、みなさんのデータも教えて下さるとありがたいです。一応、このように観察結果だけは報告しておきます。
では、愛とはどうも目的であり、その限りで、それを目指すこと自体が理に適っているもののようです。
ならば、愛とは善であり、かつ、理に適っている、と言えそうです。
では、愛とはそもそも何なのか?
これは善なのだとすれば、愛について記述することは難しいです(これについては、当ブログの「創造術」という記事をブログ内検索からご覧ください)。
ただ、愛への「固着」については記述できるかもしれません。それは「変化」ではないからです。
愛とは「幽玄」なものなのかもしれません。
愛とは「よくわからない」もの
では、この世界に、よくわからないものは存在すると言えるか。
世の中、そんなことばかりですので、これは存在すると言えるかもしれません。
そもそも、「世界」とは何なのかが不明です。ならば、世界の中に存在するように見える、愛についてもやはりよくわからないです。
愛とは「空」(仏教用語です)なのかもしれません。
定義上、愛は「奇跡」の類のもので、論理的考察には限度があるようです。もしかしたら、語り得ぬことなのかもしれません。
しかし、語り得ぬことと、それがこの世界に存在しないことは別の話になります。
例えば、僕たちは、「世界」そのものについて語り得ませんが、世界は紛れもなく存在しているとも考えられるかと思います。一般的には。
つまり、愛とは、よくわからないけども確かに存在するもの、であるということになります。
また、僕たちが、愛によって幸福を感じるということは、曲がりなりにも、愛を知覚できるということです。
すると、愛とは、「よくわからないけども確かに存在し、また論理的にはその実体についてはわからないが、それが存在する時はそれと分かるもののこと」、ということになります。
つまり、いかなる論理によっても、愛は計測不能である可能性があります。
それは非論理です。
したがって、次のように結論できます。
正しさとは、「善であり、愛であり、論理的にはよくわからないが、それが存在するときにはそれと分かるもののこと」を指していると言えるかもしれません。
前回の「モテ術とか説得術とか」という当ブログの記事で、「正しい人がモテるのかもしれない」という仮説を立てました。
それと今回の考察結果を合わせてみますと、
モテる人とは、「善であり、愛であり、論理的にはよくわからないが、それが存在するときにはそれと分かる人のこと」であると考えられます。
このように定義するとすれば、モテる人とは、やはり、「記述不能」となります。善とは変化であり、記述しようとしたそのそばから、「変化」してしまうと考えられるからです。
つまり、「モテる」とは、論理的には定義不能の言葉となります。
今回の話の筋の場合には、論理的には、どんな人のことを「モテる」というふうに表現するのかがよくわからないのです。
モテる人とは、一個の謎であり、世界の隠された「秘密」であると言えるかもしれません。
同じように、正しさとは、「一個の謎であり、秘密である」というふうに言えることになります。
正しさは、唯一のものなのか、それともケースバイケースのものなのか、それすらも正確なところは不明です。
ただ僕に、非論理的な知覚ながらも分かるのは、「親友なり恋人なりが寄りそってくれている時、自分はたまらなく幸福を感じているようだ」ということです。
そこにある「何か」が、愛であり、正しさの正体なのかもしれません。
性欲を満たしたり、お金を稼ぐことも、重要なことであり、それはそれで極めればすごいことです。
しかし、性欲を満たす方法やお金を稼ぐ方法は、ある程度は記述できます。
それに対し、愛を得る方法というのは記述がとても難しいように思われます。
方法論的に得られた愛を、愛と呼ぶのかどうか、という問題もあります。なぜなら、その「愛と呼ばれているもの」は、方法論として「記述」されているため、その時点で、「変化」ではなく、善ではなく、愛ではない、と想定されるからです。
強いて「説法」として言えば、このどうしようもない不確定な世界を知覚し、その中で生きること、つまり「空に回向すること」が、モテるための手法なのかもしれません。これがそもそも手法と呼べるのかどうかも定かではありませんが。それらは非論理的に直観することしかできず、論理的には理解できないものですので。
正しさ、正義とは、どうも論理的に考えるならとても難しいもののようです。あんまり分かりやすい言葉でもないように思われます。これは、論理というよりも、文学的、芸術的、あるいは立法的な、「超越」した概念なのかもしれません(これについては、当ブログの「愛と欲望について」という記事をご覧ください)。
今日は以上です。
ではまた~