みなさん、こんばんは~
今日のお話は、「分ける」ことについてです。
分けるとは何でしょう?
これは簡単に言うと、「差別」をすることです。
物事の「差」を見て、それで、その対象を「別」にするわけですね。
これは、「区分」とか「分割」とか色々に呼ばれます。
では、こうした「分ける」という行為には、どのようなメリットやデメリットがあるのかを考えてみましょう。
まず分かりやすいように極端な例を考えてみましょう。
何でもかんでも差別した場合、これはどのような世界になると思いますか?
あれも違う、これも違う、どれも違う、何もかも差異がある。このにんじんとあのにんじんは違う。あのにんじんはにんじんだが、このにんじんはあのにんじんとは差異があるので、このにんじんではない……云々。
これでは、まったくらちがあきません。言葉が使えなくなってしまいます。
では、何もかも差別しない場合はどうでしょうか?
にんじん=キャベツ=大根=トランプ=オバマ=プルースト=村上春樹=京極夏彦……云々。
これでもらちがあきません。言葉が使えなくなってしまいます。
したがって、差別は、ちょうどよく、有効性のある形で用いられる必要があります。
また、やっていい差別と絶対にやってはいけない差別もあります。
例えば、「優生思想」などは、「ナチス」を彷彿とさせる概念で、「劣った人間は人間ではない」という感じの思想です。
実際には、優劣というのは時の運の要素も非常に強く、容易に転覆されます。これを、「盛者必衰」と呼んだりもします。
したがって、いわゆる「劣った」人と、いわゆる「優れた」人とは、変に争わず、協力し合うのが最適打であるということになります。
どちらかがどちらかに、「劣っている」というレッテルを貼った場合、そもそも概念自体が時の運ですから、言葉が「時の運」に支配され、普遍的に使用できなくなってしまいます。これでも言葉が通じず、互いに争うことになる可能性が高くなるのではないかと、推理できます。
つまり、言葉の機能を有効に担保し、そのようにして、争いを避けるためには、極力、「優劣」という概念を避ける必要があります(比喩的に、「この人は優秀だ」というふうに「仮に」言葉を用いる場合はあると思いますが、その概念を「徹底」してしまうと非常に危険であるということは留意しておくのもひとつの手かもしれません)。
時の運で、ガス室に送られて殺されてはたまったものではありません。「ユダヤ人」は別に劣っていませんね。仮にいうなら、優秀なくらいかもしれません。
優秀な人を殺していったのでは、人類の未来は先細りです。
そして、優劣というのは時の運です。
人間の判断能力も万全ではありません。当然、優劣もしっかりと判断することはできません。
ならば、リスクヘッジして、出来る限り、多様な種類の人たちに対し投資をしておき、人間の適切な発展可能性に備えるべきでしょう。人間は未来を予測することに向いた種族ではないのだと思います。そうでなければ、幾度も幾度も殺戮の戦争という失敗を繰り返す理由が説明できません。
このような不確定な状況においては、リスクヘッジとしての、多様性の尊重が必須であるとも推理することはできるのではないでしょうか。
少なくとも、「仮に」進化論の論法を今回採用するとすれば、これまで生き残って繁殖に成功してきたすべての個体は、人類の生存の成功のために必要であったから、今日まで生き残ってきたのだと思われます。
それはゲイの遺伝子でも同じですし、統合失調症の遺伝子でも同じです。
今日まで生きているすべての種族は、人間という種全体が生き残るために必要であったために、あるいはそのために「有効」であったために、続いてきた遺伝子なのであり、その意味では、今生きている人たちはみな、生物としてはエリート中のエリートであるということになります。仮に進化論を用いて考えるなら(なぜなら、繁殖に積極的でない個体でも、優秀な人はいくらでもいるだろうから。ゲイやレズビアンでも教養や能力のある人はいくらでもいるでしょう)。
このように、例えば、「優劣」という差別は、極力しないのが得策であると推理することもできます。それらは、用いられるとしても、「必要悪」として「仮に」用いられるものに過ぎず、その観念を前面に出すべきではないとも推理できます。
このようにしない方がいい差別もあることにはあります。
しかし、いい差別もあります。
例えば、ある程度のレベルの次元までは、「適材適所」という観念は非常に効果的です。
あまりにこれを徹底しすぎるのも、過剰すぎて、バランスを欠くこともあるかもしれませんが、ある種の人たちにとっては、自分の適さない箇所で無理をしないための方便となり、ケースバイケースに有用です。
農業に卓越した人もいれば、政治に卓越した人もおり、それぞれの適した分野にコミットできれば、よい効果が期待できるであろう、という推理です。
他にはそうですね。
例えば、喫煙に向いた人と向かない人がいますね。
タバコが好きな人と嫌いな人がいます。この場合、多様性尊重の観点から、どちらの遺伝子も尊重しておくのが望ましい。そのことが、世界全体のリスクヘッジとなり、長期的にみれば、人間という生物が長く生存しやすい戦略であろう、と推理できます。
したがって、適材適所、の概念をここで援用して、タバコが好きな人にはタバコを推進し、タバコが嫌いな人にはタバコの煙を抑制できるような環境を整えるのは、リスクヘッジの観点から理に適っているということになります。
創造性の種はどこにあるか分かりません。それはタバコの生み出す「覚醒状態」の中に眠っている可能性もあるのです。
そうでなければ、なぜ今日まで、長い生存競争の中を生き残ってきた「人間」の少なくない人たちが、わざわざ発癌性があるとされる、いわゆる「有害」とされる文化をはぐくんできたのか。その説明がつきません。
おそらく、タバコには、生物学的に何らかのメリットがあるのでしょう。
また、創造できなければ、社会はジリ貧です。人はどんどん生まれてくるのに、雇用や利益が創出されないのなら、にっちもさっちもいかないでしょう。
創造性とは、自由性のことでもあります。自由とは、一種の無作為性を可能とする能力です。
ならば、創造性とは、無作為的に分布するものであって、どこに眠っているかわからないものであるということになります。
子供の才能を発掘するには、色々と挑戦する環境を与えて、実際にやってみるしかないように、無作為なものをコントロールしきることは論理的にはできません。
この点からも、リスクヘッジとしての多様性の尊重は理に適っています。なぜなら、創造性、自由性、つまり、社会を発展させる「天才性」は、誰に、どこに眠っているか判定できないため、そのような不確定な因子に対するリスクヘッジには確率的にアプローチせざるを得ないためです。
何が何の役に立つか分かりません。とにかく、極力はリスクヘッジをしておくのが得策でしょう。
したがって、喫煙の例で言えば、「分煙」を行うのが最適打となると推理できます。
リスクヘッジを適切に行うためには、多様な文化を失うべきではないでしょう。
このケースのようによい差別もあります。
優生思想の場合の「差別」は多様性の排除を生み出し、長期的に破綻する確率が高くなると予想されますが、「分煙」という区分、差別は、逆に多様性を保護する役割を持った差別となります。
このように差別とひと口に言っても、その有効性や効能は一律のものではなく、多様性を破壊したり、守ったりする、様々で、多様な「差別」が存在します。
したがって、その様々で多様な差別概念について、これからみんなで、少しずつ検証し、その最適なケースごとの選択をあきらかにしておくことができると、よりよい――遺伝という資産をも含めた――投資行為が可能になるかもしれません。
今日の結論をまとめます。
1.「分ける」ことには善い区別と悪い区別がある
2.善い区別は、多様性を保護し、生存競争におけるリスクヘッジに有利に働く
3.悪い区別は、多様性を排除し、生存競争におけるリスクヘッジに不利に働く
つまり、多様な価値観に寛容な差別は善い差別であり、多様な価値観を排除する差別は悪い差別である、というふうに今回の論法の場合には考えることもできます。
色々な考えがおありかと思いますので、鵜呑みにせず、みなさんで考えてみてくださいませ。
したがって、差別の善悪について考えたいときには、多様性を保護しているか排除しているかに着目するのもひとつの手かもしれません。
例えば、優生思想のような感じになっていたり、ナチズムのような感じになっていると、それは多様性を排除する思想状況となってしまうかもしれません。その場合、一時的には、遺伝淘汰の過剰によりその現在の環境への適応性は向上するかも知れませんが、長期的には、「過剰適応」となり、滅びる可能性が高いと考えられます。未来の人たちや、自分の子供たちのためには、やはり、多様性を尊重し、リスクヘッジをすることで、様々な可能性を持った遺伝形質を保存していくのが正着打となるかと思います。
人間の判断能力は本来、はなはだ不完全なものなのですが、不完全なものを完全なものであるというふうに思考を停止してしまうと、その誤謬から悲劇が生まれる可能性があると思います。
もしもよろしければ、みなさんも長期的な環境を生物が生き残っていくためのリスクヘッジとしての多様性の尊重にご協力ください(笑)
とは言え、タバコには有効性もある可能性がありますが、害もあると考えられますので、この辺りも、「バランス」が大切かもしれませんね。
タバコ反対派の人とタバコ推進派の人たちの間の意見の均衡をうまく調整できるバランス感覚が必要なのかもしれません。
どこに最適打があるのか。非常に難しいですが、妥当なのは、やはり「分煙」と言ったところなのかもしれません。
麻薬犯罪などは、規制しても一向になくなる気配がありませんが、タバコも規制が強すぎると「タバコ犯罪」が生じるようになるかもしれません。犯罪が増えるとみなさん不安でしょうから、「規制」を不用意に強くしないように注意することは必要かもしれません。何か規制が強くなることがあったら、みなさんよーく耳を澄まして、その話を聞き、分析してみてくださいませ。もしかしたら、それは「結果として犯罪を増やす規制」かもしれません。不満が溜まれば、犯罪が増えるとも推理できます(例えば、タバコを不用意に規制しすぎると、タバコを吸えない人たちやその周辺の人たちに不満が溜まります。すると、その不満がはけ口を求めて、犯罪化する、というふうに推理することもできます。うまく色々な人たちの不満を調整していけるといいのかもしれませんが、これはこれで難しい問題になります)。
さまざまなご意見があるかと思いますので、みなさんもどんどんお考えになって、発信なさるといいかもしれません。データ数は多く、データの出所がさまざまで多様(無作為抽出)であるほど良いとも考えられますから。
今日は以上です。
ではでは~