魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

文化術

みなさん、こんばんは。

 

今日は、「文化」とは何か、について考えてみます。

 

文化とは何か?

 

文化とは「心のはたらきとその結果できてきたもの」のことです。

 

つまり、文化の原因は何か。

 

それは「心」です。

 

心のはたらきと、そのはたらきの結果できてきたもの、が「文化」と呼ばれるようですから、そのどちらも、生成の原因は「心」となります。

 

つまり、「文化は心でできています」

 

では、心とは何か。

 

これは目に見えないものですね。

 

非常に難しい問題です。

 

では、次のような主張はどうか?

 

「心とは脳である」

 

しかし、脳のどこを探しても、心は見つかりません。

 

では、

 

「脳の中の電気信号が心である」

 

だとすれば、パソコンや電気器具はみんな心を持っているでしょう。ICチップという「脳」に電気信号が流れていれば。もしかしたらそうかもしれませんが、しかし、一般的な表現ではありません。

 

では、

 

「人間の脳は特別な器官で、唯一心を有する。文化を持たない機械や動物とは違う」

 

という主張はどうでしょう?

 

可能性としてはそうかもしれません。しかし、脳と機械のどこがどのように違うのか、今一つ釈然としません。むしろ、単純に物質が全てであると捉えるなら、機械によって脳は再現できる可能性もあります。機械も脳も物質に過ぎないとすれば。この場合、「人間とは機械である」、ということになります。そうなのかもしれません。しかし、どうも一般的ではありません。

 

では、そもそも一般的に言って、心とは何なのでしょう?

 

上記の記述から推理していきますと、

 

心とは、「脳でも機械でも物質でもないもの」のことであると考えられます。それが、脳であったり、機械であったり、物質であったりするなら、それは、少なくとも「心」とは呼ばれないようです。

 

しかし、そんなもの存在するのでしょうか? 物質でないものなんて。

 

現状の僕には、少なくとも一つ思いつくことができます。それは、「変化」です。

 

なぜなら、変化とは、変化について記述した瞬間に変化するものであり、永久に捉えることができないものだからです。つまり、「変化」は「物質」として「捉える」ことができない。

 

なるほどそうかもしれません。しかし、次のような反論もあり得るでしょう。

 

「変化」は「物質」として、「認識」することはできない。しかし、認識されないだけで、「本当は」「物質」に過ぎない。

 

なるほど、「本当は」物質であるという可能性はあるでしょう。なぜなら、それらは「認識」できないからです。

 

では、認識できない物質とは何か?

 

通常、物質であるなら、それを認識することは理論上は可能であるはずです(顕微鏡などの「機械の目」を用いることもできます)。

 

認識できないということは、それらは「透明」であることになります。なおかつ、五感に触知されない。つまり、聞こえない、見えない、触れない、匂いもない、味もしない物質。

 

そんな「透明」なものが存在している可能性。それはあります。

 

私はひとつだけそれを知っています。それは先述した「変化」です。なぜなら、変化は認識できないから。

 

この場合、世界には、「認識できない物質」が存在していることになります。そして、その物質は、「変化」として認識されます。

 

では、認識できない物質を認識することは可能か。これは、論理的には難しいです。

 

物質とはそもそも何なのか。

 

これはそもそも、「感覚されるもの」のことです。

 

つまり、「認識できない物質は、物質ではない」と考えられます。

 

ならば、「心」とは、「変化」とは、物質以外の何かです。

 

つまり、「物質化」したものは、定義上、「心」とは呼ばないとも考えられます。

 

ならば、心とは、「幽霊」のようなものです。それらは、「魂」と呼ぶこともできるかもしれません。

 

つまり、文化とは、幽霊の所産、魂の所産であると考えられます。

 

それは、「変化」の所産であり、創造の所産です。

 

ポイントは、「文化は変化ではない」、ということです。文化は変化の「所産」であって、文化ではない。

 

つまり、文化とは、変化、創造、魂、心の名残、「痕跡」です。

 

その意味では、物事は非文化によって成し遂げられることになります。「変化」、「創造」によって。

 

ならば、その場所の文化の量を計測すれば、ある程度は、その創造量を計測できる、とも捉えることもできます。

 

そして、創造は、電球の発明や自動車の発明など、色々な利益を僕たちにもたらします。

 

つまり、創造の痕跡としての「文化」は僕たちにある種の利益をもたらしているようです。

 

心が創造を行い、そのはたらきの痕跡が、僕たちの生活を潤しているように見えます。

 

人間とは、本来、「創造的な種」であるのかもしれません。

 

さて、以上の基礎的な文化についての考察を踏まえ、では、もっと具体的に文化とは何かについて見てみようと思います。

 

まず、文化とは創造された「作品」のことであり、変化の痕跡です。

 

文化と呼ばれる代表的なものは、「芸術」や「学問」などでしょう。

 

あるいは、マナーとか、礼儀作法とかも、文化かもしれません。

 

それらは、物質化しているため、「固定化」しているように見えるのですが、もともとは「変化」の産物であると考えられます。

 

つまり、色々と変化してみた結果、そこに落ち着いた、という感じ。そして、これからも変化していくのかもしれません。

 

言語も礼儀作法も制度も、どんな文化も、徐々に変化していくようです。

 

おそらく、人間や生物というものが、根源的に創造的な種だからなのかな、と個人的には思います。

 

変化して変化して、その結果、どこにたどり着くのかは、僕にも今一つわかりません。

 

もしかしたら、全てのものは、心から作られたのかもしれません。

 

さて、心は物質ではないので、計量できません。しかし、文化は物質としての痕跡ですので、ある程度計量できるはずです。

 

ここに、「作品」を「批評」できる可能性が生じます。つまり、物質的に物事の良しあしをある程度判別できる可能性もあります。

 

文化の「痕跡量」から「創造量」を計測するわけですね。これも非常に難しいですな(笑)

 

何を「痕跡」と定義するか。とても難しいです。

これもみんなで一緒に考えていけるといいのかもしれません。

 

とりあえず、この文化量を、「文化資本」と呼びましょう。

 

つまり、文化資本を大量に保有しているということは、その人は、それだけ創造的であったのだろう、と推理することがある程度できます。

 

要は、痕跡であれば、それはすべて文化ですので、ある意味、人間の生活で生じる排泄物なども長期的に見れば、文化と呼べるのかもしれません。化石になって発見され、文化資本になるかも(笑)

 

このように考えた場合、文化資本とは、まさしくすべてのもののことであり、全ての資本であるということになります。

 

例えば、「お金」という概念やシステムも、一種の文化ではあります。お金を「資本」と仮に呼ぶとすれば、「文化資本とは資本である」となります。

 

このように、物事の区別は非常にあいまいで、グレーゾーンに溶け合っています。どこからが、文化資本で、どこからがお金なのかが今一つわからないのです。

 

「お笑い」などの文化もお金になることもありますが、こうした例は、文化資本がお金であることを示すいい例であると思います。科学などの学問もさまざまな技術を生み出し、「貨幣化」していますね。その意味では、文化資本とは一種の「お金」であると言えると思います。

 

つまり、本質的には、文化資本を大量に所有している人は、大量のお金を所有しているのと同じことであるとある程度は推理することもできます。

 

そして、文化資本とは一種の「情報という資本」でもあり、この情報資本は、「本」などの物質に見られる通り、消費しても保存されるという特徴を持っています(本は読んでもなくなりません)。

 

したがって、どんどん本が図書館や電子書籍などで流通し、これらの文化資本が人々に行き渡れば、それらの情報資本は「貨幣化」し、国の経済を潤すであろうとも推理することもできます。

 

では、文化資本をどのように分配するか、という問題があります。

 

図書館などの充実や主には、「教育」かもしれません。

 

「教育」

 

これはこれでなかなかにたいへんな話題かと思います。そのうち、機会があれば、何か書くこともあるかもしれません。

 

今日はこんな感じにしておこうかな。

 

 

~今日のポイント~

 

1.文化資本はお金になり得る

2.文化資本を国に行き渡らせることができると国全体のお金が増えるかも

3.文化資本という「富」を積極的に再分配すると人々の生産性が向上するかも