みなさん、こんばんは。
今日は、「散漫術」です。
何個か、書き溜めてる記事があるのですが、ちょっと過激なので、どうにかマイルドにできないかと、推敲中です。
最近はちょっくら忙しかったので、ブログの更新が滞ってました。
やれやれです。
その間も時間を見つけて、色んな方のブログなども見ていました。毎度のことながら、勉強になります。
ネットにはさまざまに欠点がありますが、何といっても優れているのは、誰でも簡単にネットに情報を発信できるということではないかと思います。
検索エンジン的なものも、いっぱいあって、それぞれの情報検索にそれぞれの味があり、一概にネットと言っても、手に入る情報が大分異なってくるように思います。
例えば、はてなブログをやっていなければ、手に入らない情報というものもあるようで、そうした情報はグーグルからはアクセスできませんし、図書館でもアクセスできません。
それぞれの検索エンジン的なものに、それぞれのキュレーション能力があり、本当に面白いです。
ホントにそれぞれです。
最近気づいたのですが、図書館って書庫が開架であったとしても、ずいぶんと小さいように感じます。昔は、とても膨大な情報がそこに眠っているように感じたのですが、――確かに膨大と言えば膨大だとは思うのですが――それでも、昨今では、ひところに比べると、そこに眠っている情報も随分と限られたものであるように感じます。
まず、日本に入れば、そこに入っている洋書は外国よりは、少ないわけですので、そうしたことを考えると、すべての著作物を開架にするというのは非常に理想的であるとともに、とても難しい事でもあるように思います。
僕は空いている時間はかなり勉強に当てているのですが、勉強はやはり楽しいですね。最近気づいたことですが、数学と語学ってそんなに違わないような気がしますね。数学も言語でできていますし。やはり、言語というのはとても不思議で、とても優れたツールであるように思います。
言葉に命を賭けている人などにとっては、言語は「ツール」ではないのかもしれませんが。
ふと、「出会い」の技術について考えたりもします。出会いとは何か。
これは、考えてみたのですが、どうもシンプルに何かの集まりに所属することが、出会いを産むようにも思います。
学校とか職場とか。
後は、フィットネスクラブみたいな感じとか、勉強会とかみたいな感じですよね。
それ以外だと、本格的にナンパっぽくなってくるように思います。
そのように考えると、ナンパというのはおもしろいなと思います。
どんな場合でも、さっと相手との関係性を生成する術ですから。
ナンパが他の出会いに比べ、特殊にも見えますが、実際に分析してみると、それらが連続体というか、地続きになっていることが分かります。
ふつうの出会いとナンパの出会いを区別することは厳密には無理なのだろうと思います。
スペクトラムになっているようで。
それでもっと見てみると、人というのは、かなり多くの場合、何というべきか、引きこもりとかニートとかでなくても、大なり小なり精神的に孤立している傾向があるようにも感じます。
一人でいても誰かと一緒にいても、精神的に孤立してしまえば、特に差異はないというか、悲しい部分ではあるように思います。
機能不全家族の数も多いようで、この辺りの問題は、非常に難しいように思います。
このようなことを考えていると、時々、他人と一緒にいることの価値というものを疑ってしまうこともあるのですが、時折、この人と一緒にいられてよかったと思える人との出会いもないことはないので、プラスマイナスゼロなのかもしれません。
関係性にはとても面倒な面が多く、それ自体関係を切ってしまう方が利率が高い場合も随分と多いようにも感じます。
「集団極化」とか、「集団浅慮」とかいう言葉とかあるんですけど、こういうのは一応、気にしていた方がいいのかもしれません。リスキーシフト。
集団になると、意見がけっこう変な感じになってしまったりとかするように思います。
一人一人は特におかしい人ではなくても、集団になるとおかしくなってしまうという特徴は人間にはあるように思いますので、その辺りは、みなさんもご注意なさると、いろいろと面白い発見があるかもしれません。
じゃあ、分断すればいいのかというとこれも難しくて、孤独が苦手な人も多いように思います。
関係性は、ある時には、面倒とかストレスになり得ますが、ある種の仕事を為すには必要となることも事実的なことかと思います。
どの程度団結し、どの程度分断するか、という問題。
バランスが大切。
ストレスとかもまったくないと味気ないですけど、過度なストレスはこれはこれで困りもの。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
最近、ネットで見たんですけど、社会資本というものがとても大切なようですね。人間関係の良好さ、みたいなもののようです。
社会資本。
味わい深い概念です。
多分、恋愛関係とかも、ある程度社会資本と関係あるのかな、と感じます。
そもそも人間関係に恵まれていなければ、恋愛しようもないので。その場合、相手がいないので。
ネットで「非モテ」について調べてみたんです。
すると、非モテについてはとてもたくさんのことが書かれていました。長所を発掘している記事から、短所を突いている記事まで色々。
どんなものにも長所と短所の両方がありますので、当たり前のことかもしれませんが。
当たり前のことって大切だと思いますね。かなり多くの場合、当たり前のことが見過されていることで、致命的な間違いなどが生じるようにも思います。
そういう時には、集団浅慮なり、リスキーシフトなりが起こっているのやもしれません。内集団バイアスとか外集団均質化効果とか色々。
「コロンブスの卵」、という言葉がありますので、当たり前のことには注意して注目していけたらいいなと思います。
何事も人それぞれですよね。
少なくとも、自分に分からないものだからという理由で、その対象を排除しないように注意したいな、と常々思います。
人それぞれに、様々な機制を持っているはずですし、僕たちはそれらのすべてを知り尽くすことができるわけではなく、そこには常に、手の及ばないものとしての他者があるようにも思います。
精神分析だとそれらのさまざまな機制は性欲に収斂してしまうのかもしれませんし、進化論だと生存競争とか繁殖競争がこの世界のすべてだ、みたいな話になってきてしまうのかもしれません。
思うのですけど、この世界は、性欲だけでできてはいませんし、生存競争だけでできているわけでもないのではないかと。
そのように考えると、特に非モテとか気にしなくてもいいような気が、個人的にはします。
少なくとも、僕個人は、相手が非モテだから嫌だとかモテだから好きだとか、そういうことはないので、この辺はよくわからないのですが。好きな人が好きな人ですね。トートロジーですが(笑)
この点も、おそらく人それぞれのさまざまな機制が働いているのだろうと思います。生きがいは人それぞれだし、人生も人それぞれですね。すべてを見通すことができるような人もいるわけではありませんし。
色々な人がいて、基本的に人は自分が所属しているものに関する分野が上位で、自分が所属していない分野を下位に見積る傾向があるようにも見えます。
それも人それぞれの、「好み」なのかもしれません。
僕個人は、いろいろなことに手を付けてみた結果、結局、あらゆることはとても面白いのだろうなという推理を得るに至りました。何でもやってみると奥深くて面白いのだと思います。
どんな人もそれぞれに長所があって面白いですし。
長所が見えてくると、短所も味なものだな、と感じますね。
こういう「味」はステレオタイプ的に物を見ると、失われてしまうものなのかもしれません。できれば、ステレオタイプ的に物を見ないようにしたいものです。それぞれにそれぞれの特徴があります。
何かの人や集団を見る時、でき得る限りは、決めつけは排除して、「その人自身」を見ていけるといいな、と思います。
非モテというのもステレオタイプなのかもしれませんね。一種の。実際には、非モテという一言では表し切れないほどに人間の特質は多様です。その人はポテトチップスが好きかもしれませんし、スポーツが大好きかもしれませんし、お好み焼きを作るのが得意かもしれませんし、スペイン語を話すかもしれませんし、数学の天才かもしれませんし、美人かもしれません。このように多様な特質を考慮していけば、非モテという特徴は、その人の中のほんの一部分に過ぎない、ということになります。その人の特徴の0.00001%とか、そのくらいのもの。考えようによっては、それほど極端には重要なことではないかもしれません(重要度の事象別の割り振りはそれぞれが好きにすればいいと思います。非モテを気にしたいのなら、気にするのも一つの手だと思います。本当に好きにしていいと思う。本当に)。
人間をひとくくりにしてしまうことには、ステレオタイプでものを見てしまう危険が常につきまとっています。
なので、僕の好みとしては、ステレオタイプ的でない人が好きかもしれません。どちらかと言えば。
極力は、ゼロベースで考えていけるといいな、と思います。
ステレオタイプで判断すると楽なんですよね。考えなくていいから。
思考は決して万能ではありませんが、適度であれば、有効性もあるものと思いますので、ステレオタイプも上手く利用しながら、思考も適度に利用していけるといいな、と思います。
まとめます。
1.ステレオタイプ思考よりもゼロベース思考が好き
2.非モテという一言だけで人の特徴を表現しきることはできない
3.好きな人が好きな人