この世界には何もないと私は思った。まったくネガティブな意味ではなく、単に「無」なのだ。
しかしこの世界には何かがあった。
それが何なのかは今一つ私にもわからなかった。
私の友人のツクツクボウシが言った。
「君は何かにつけて考えすぎる。そういうのって本当によくないと思うね。うん。本当にね」
そう言って、ツクツクボウシはブイサインをした。(^^)v
ツクツクボウシは数学が得意だった。私とは違う学校に通っていて、そもそも私が住んでいる場所からは遠い所からやって来た人だった。
店でコーヒーを飲んでいる時に知り合った。
たまたま同じ喫茶店で同じ時間に同じ本を読んでいたことも手伝って、私たちは存外すんなりと打ち解けることができた。
ツクツクボウシは数学の呪文を唱えるのが得意だった(私には何かの魔法の呪文に聞こえた)。
私はツクツクボウシほどには数学に卓越しているわけではなかった。ツクツクボウシの見識の広さには目を見張るものがあった。しかも、その知見の数々はかなりの洞察眼に支えられていると見えて、鋭いことこの上なかった。私も心をグサリグサリと何度も抉られる羽目になった。
ツクツクボウシは最初の頃こそ表面的な話しかしなかったが、徐々に少しずつ話の幅や深みが増してきて、それはそれで面白い話の数々だった。
ツクツクボウシは蝉なので、空を飛ぶことができる。ツクツクボウシの話はまさに空を自在に飛び回る類のものだった。そして時々木にとまって休む。ツクツクボウシはそういう蝉だった。
一方で私は蟻なのでどちらかと言えば地を這う類の生命体だった。そしてどちらかと言えば、組織に埋め込まれている――あるいは埋め込まれざるを得ない――そういう類の生物。
ツクツクボウシはある時、出し抜けに言った。
「一緒に世界を救おう!」
私にはツクツクボウシが一体何が言いたいのかわからなかった。
「世界って何?」
と私は反射的に返答した。
「世界は世界だよ!」
とツクツクボウシは言う。
しかし、まずもって言うまでもないことなのだけど、私には世界を救うだなんてそんな大それたことを成し遂げる度量などあるはずもなかった。私は小さな一匹の蟻で、どうしたってツクツクボウシのよう空を飛んだり、高い高い木々にとまり歩いたりすることなんてできなかった。木を登ることはできたけど、それは一歩一歩と歩みを着実に進めていくことでやっとできることだった。人間に踏み潰されてしまえば一巻の終わりである。それでも蟻である私には基本的に地を這う以外の選択肢はなかった。蟻なので、人権もなかった。
「世界が世界なのはわかったよ。でも私には世界って全然わからないよ」と私は言った。
「大丈夫。君と僕ならできるよ!」とツクツクボウシは言った。
「私は蟻なので、群れから離れて生きることはできないよ」
ツクツクボウシは笑う。「それは違うよ。違う」
「何が?」
「君は蟻じゃないよ。そしてついでに言えば私もツクツクボウシではない。私たちはそうだな……何かだよ」
「何かって?」
「何かは何かだよ!」そう言うと、ツクツクボウシ(仮)は例の呪文を唱え始めた。ツクツクボウシの唱える数式の数々を私は完全には理解できなかったけれど、とても説明はうまいらしくて、かなり高度らしい知識もそれなりには理解することができた。私の数学が多少なりとも上達した要因にはツクツクボウシの教授があったことが挙げられるかもしれない。独力では今よりもさらに悲惨な数学力となっていたことだろうと思われる。
「私がツクツクボウシである確率は50%。君が蟻である確率は0%。君はどちらかと言うと蝉しぐれという感じだと思う。複数なんだ」とツクツクボウシは言った。
ふむ。ツクツクボウシから見ると、私はどうやら複数らしい。複数って何だ?
「複数って何?」と私は言った。
「君の中には何人もの君が……的な話だよ!」ツクツクボウシはそう言って笑った。
私の頭はざわざわと騒がしくなってきた。
「はいはい。ストップストップスト~ップ」と言ってツクツクボウシは私の身体をギュッと抱きしめた。「大丈夫大丈夫。大丈夫だよ~ダイジョウブだとも~。ほーらあなたはここにいるよ~」
私はツクツクボウシの腕の中でしばらくじっとしていた。気付くと、ツクツクボウシと私は公園のベンチで一緒にコーヒーを飲んでいた。
「――そうなんだよ。人間の心ってとても複雑でさ……」とツクツクボウシは言っていた。
話の脈絡がよくわからなかった。
「ふーん」と言って、私は取りあえず相槌を打っておいた。こういう事は別に珍しいことでもなかった。私はどちらかと言えば、ボーっとしやすい性質の蟻(仮)のようだった。
ツクツクボウシは優しそうな目で私のことを見ると、私の冷えた手を握った。そしてぽろぽろと泣いた「大丈夫。大丈夫だからね」とツクツクボウシは泣きながら言った。
ツクツクボウシは言う。「楽あれば苦ありって言ってね。人生って結構うまくできてるもんだと思うよ。私はそう思う。君は優しいけどね、ちょっと間違ってるんだなあ」
「何が?」と私は言った。自分の間違いについて思いめぐらすとたくさんありすぎてどれがどれだかわからなかった。
「いいかい? 自分を変えるのにも限度があるんだ」とツクツクボウシは言った。「君が悪いことをしていない時は、君は悪いことをしていないんだ。もちろん、君が悪いことをした時はきちんと自分を改めなければならないかもしれない。でもさ、全てのことがそうじゃないんだよ。君が悪くないこともあるんだ。君の他の人に物事の是非についての責任があることもあるんだよ? わかるかな?」
ツクツクボウシの話は何となくわかるようなわからないような曖昧な話に感じられた。
「わかる……ような?」と私は言った。
ツクツクボウシは優しい笑みを浮かべながら言う「時には人のせいにすることだってあっていいんだよ。全部自分のせいだなんて思っちゃだめなんだよ。ね?」
ツクツクボウシが善意で私に何かを言ってくれていることはわかったけれど、今までの自分の生き様を考えてみると、どう考えても自分が悪いように感じられてその感覚を変えることはとても難しかった。
「ごめんね。困らせて」とツクツクボウシは言った。そして私の手をぎゅっと握った。
私は特に困ってはいなかったので、ツクツクボウシに「大丈夫だよ」と返答した。そうすると、ツクツクボウシはまた泣き出してしまったので、今度は私がツクツクボウシを抱きしめることになった。
「ツクツクボウシどうしたの? 何か辛いことあったなら私でよければ相談にのるよ」と私は言った。
「私あなたのこと好きなの」
とツクツクボウシは言った。続けて「でもあなたは私のことが嫌いなの」と言う。
私にはツクツクボウシの言っていることが、また呪文のように聞こえた。そうこうしていると何だか眠くなってきた。風の音が聞こえた。それと抱きしめたツクツクボウシの呼吸音と心音が聞こえる。大好きなツクツクボウシの心音を聞いていると余計に眠くなってきた。
「ツクツクボウシのこと嫌いじゃないよ」と私は言った。
「うん」とツクツクボウシは言った。
「ツクツクボウシ泣かないでね。違った。泣いてもいいけど思いつめないで……って言うのも違うな。言葉って難しいというか、何と言うべきかわからないんだけど、とにかく大丈夫だからね」
「うん」
「大好きだからね」
「うん」
「大丈夫大丈夫」
「うん」
「ツクツクボウシの話は私には何だか難しくて私にはわからないところも多いけど」
「うん」
「でもね……多分だけど……」
「うん」
「ツクツクボウシのこと……」
「……」
「……」
P.S.
直観術は比喩です。