雪の山に囲まれた場所。さらさらと流れる、風。キラキラと光る、平原。平原はもちろん、雪で覆われている。真っ白!
ノアは雪の上を歩く。ズポズポと音がする。雪に足が嵌っていく。まるで作曲しているときの気分。ルンルンとメロディーに音が嵌っていく。そんな感じ。
ノアの家は神社だった。雪の中の神社は少し閑散と……してはいなかった。
「ノア様!」
とノアの声を呼ぶか細い声。
ノアは声の方を振り向く。
そこには佐奈がいた。佐奈はノアの弟子の女の子で、何と言えばいいのか、ある種の名門的な家系の出だった。巫女としての霊力も他から抜きん出ている。歴史上で、初めて「第二のノア」になるのではないかとみんなから期待されている一人の少女だった。
ノアは神様だ。その根拠は、彼女の身体の不死性にあった。ノアはある時、卵から産まれた。最初は本当に小さな小さな卵だった。鶏の卵より小さかったとされている。しかし、その卵から光の粒が生まれ、それが少女の形になった。それが「ノア」だった。ノアの肢体は極めて美しく、その誕生の瞬間に立ち会った人たちは彼女が神様であること、あるいは神様と一体であるような聖霊の使いであることを理解した。
ノアはこの国の言葉を始めは何も知らなかった。しかし、一年かけてこの国の言葉どころか、この世界の言葉のすべてに熟達してしまった。ノアはあらゆる言葉を用いて、あらゆる人心を制御することができた。しかし、それにもかかわらず、彼女はその力を使いたがらなかった。そのわけを彼女に尋ねると、彼女はただ、
「はじめに言葉ありき」
と言って、笑い、村の男の子を冷やかしに行くのだった。彼女は自分が美しいことを知っており、またその様に動揺する同性なり異性なりの反応を好んだ。それがノアの唯一の楽しみだった。もちろん、言葉にはなりえないような様々な葛藤をノアすらも抱えていたかもしれない。しかし、彼女の心の秘密は誰にも暴くことはできないのだった。
ノアはとりわけ芸術を好んだ。芸術なら、何でも好きだった。ノアの作品はどれも、それこそ、「神がかった」ものだった。その作品の前にはただただ深淵な静寂が広がるばかりだった。ノアの作品を前にすると、不思議と誰もが見惚れてしまって、何も言う気にならないのだ。そこには言葉以上の空間が広がっていたのかもしれない。そして、言葉になりえないことを、どうして一介の人間である私に知ることができよう?
佐奈はノアに言った。
「ノア様。あまりどこかしこに勝手に行かれないでください。民が混乱します」
ノアはにやにやと笑って佐奈の鼻先をチョンとつついた。
佐奈は頬を赤くした。
ノアと佐奈は一緒に神社に入ると、二人しかいない場所で裸になって水浴びをした。佐奈は寒かったが、ノアは平気みたいだった。
その後、一緒に将棋を打った。佐奈が勝った。
佐奈はふくれて言う。「ノア様は、どうしていつも手加減なさるのですか? 本気で打って下さった方が、こちらの上達も早いのではないかと思うのですが」
ノアは答える。「手加減はしていない。佐奈が私に勝ったんだ」
佐奈はますますふくれて言う。「私程度の技量ではノア様の本気を賜るには足らないということですか?」
ノアは言う。「違う。夢を見ていた」
「夢?」佐奈は何の話しだろうと首をかしげる。
「そう。夢。私は罪深い。だから神様になってしまった。それは絶えず流れることだ。そして、絶えず解体されることだ。さらに、絶えず生まれ変わることだ。そこには何もない。私も、ない。私はもう、どこにもいない。佐奈にはそうなってほしくない」
佐奈は仏教の教説かとノアに尋ねてみた。
ノアは違うと言う。「ブッタは昇天して待ったが、誰も自分のところに来なかったので、しょうがないので再び地上に戻ってきた。ところが、私には戻るところがない。そこは大きく違う」とノアは言った。
佐奈はノアの言っていることをよくよく考えてみることにした。
ある時、佐奈はノアに剣術の演習を頼んだ。佐奈は美しく剣舞を披露し、ノアもそれを楽しんだ。そして、ノアと佐奈は剣を交えた。随分と情熱的な一試合となった。そうした試合は他の誰の目にも触れることのない場所で行われた。巫女達は一般に、世の中から神聖に隔離されている。
「確率なんて無駄だ」とノアは言った。
佐奈は確率の計算が極めて得意だった。なので、佐奈はむっとした。
そこで、佐奈はノアが確率が苦手なコンプレックスから佐奈の特技である確率を貶めるのかもしれないと考え、ノアを試してやろうと思い、様々なゲームを試みた。しかし、どのようなゲームを試みても、ノアの確率的手筋は完璧だった。
佐奈は言う。「ノア様だって確率を使っているではないですか」
ノアは首を横に振って否と言う。「私の手技は確率じゃない。この世界には再現性なんてない」
佐奈は納得がいかなかったが、彼女はなんだかんだ言ってもノアのことが大好きだったので、黙って頷いてみせた。
ノアは言った。「世界はねじれているんだ。まっすぐじゃない」
佐奈は言った。「見えているものが世界ではないのですね」
「そのとおり」とノアは言う。
「まっすぐに見えるものはまっすぐじゃない」と佐奈は言う。
ノアは頷く。「曲がっているものの方がずっとまっすぐなのかもしれない。それは誰にも分らない」
それから、ノアと佐奈はテンソルの話をひとしきりすると、一緒に仲良く床に就いた。
佐奈はノアに愛の告白をした。
ノアはそれを受け入れ、佐奈にそっと口づけた。
ノアの運命は絶え間ない変転に苛まれていた。ノアは何度も生きている意味を失いかけた。しかし、彼女に挫折はなかった。挫折しようにも、彼女という体には折れることのできる部分がなかった。鋼鉄であればまだ破壊の余地がある。しかし、ノアは鋼鉄ではなかったし、硬いわけではなかったし、弱いわけでもなかった。ただ、時折、旅の途中でノアはかわいい仲間に会った。佐奈のような。
ノアはどんなに罪深い世の中にあっても美しく、それを愛する佐奈もまた格別に美しいのだった。
ノアは既に救われているのかもしれない。
ノアと佐奈は今日も世界のどこかで祈りを捧げている。
さて、その祈りは誰に向けられたものなのか……
それは私にも分からない。
始めよう 今は染まろう
貴方の神に 私が問う
(雄之助, 牛肉, 初音ミク, 「頂のノア」歌詞より引用)
P.S.
直観術は比喩です。