魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

自閉症――あるいは「岩戸隠れ」――についての簡単な考察

自閉症について。

 

自閉症とは自閉する症状のことです。自閉とは外界から距離を置き、内界に閉じこもることです。簡単に言うと自分の内の世界に閉じこもる事。

では、僕たちはどのような時に、自閉したくなるでしょうか? まず何か嫌なことがあったときなどは何もかも嫌になり自閉したくなることもあるかもしれません。つまり、その主体にとって世界が嫌なものである時に自閉は生じる可能性があるでしょう。もしもその主体にとって世界が好ましいものであれば、その主体は世界を好み、自閉する可能性は低くなるとも考えられるでしょう。

ではどのような場合に、世界は嫌なものであると認識されるでしょうか? まず、素朴に世界を何も考えずに認識するというケースを想定した場合、何も考えないのならば、そこに嫌悪が生じる可能性は低くなるでしょう。この場合、世界は漠然としたもの、好悪という感情すらも生起しない無味なものとなっているのではないでしょうか。もしもこの説が正しければ、好悪の別がある程度は思考によっていることになりますから、思考を変えることによって苦痛を軽減したり、快楽を増強したりすることが可能になります。そして、そうした現象は認知行動療法などによって起こる可能性があると思いますから、現実的でしょう。

もしも内界が好ましいものであれば、人は内界に向かうでしょう。こうした性格は内向的性格と呼ぶことができるかもしれません。

もしも外界が好ましいものであれば、人は外界に向かうでしょう。こうした性格は外交的性格と呼ぶことができるかもしれません。

そして、自閉が起こる場合とは、その主体にとって、外界よりも内界の方が好ましい場合であると言えるかもしれません。つまり、外界に価値がないと感じれば、その人は内界に向かう可能性が高くなるでしょう。ならば、自閉症の人にとっては、外界、つまり多くの人が「現実」と呼ぶそれよりも、内界、つまり、自分の中だけの世界としての「空想」の方がより魅惑的なものであるのかもしれません。

さて、現実と空想。客観的にはどちらにより重大な価値があるのでしょうか?

空想には理想を思い描く能力があります。その理想が魅惑的であればあるほど、現実は相対的にその価値を失っていくでしょう。

逆に、現実が空想や理想よりも魅惑的に見えるのなら、空想や理想は相対的にその価値を失っていくでしょう。

そして、こうした事情の中に自閉が生じるためには、その主体の持つ空想や理想が現実を凌駕している必要があります。少なくとも、その人の持つ理想は現実のどんなものよりも美しく、優れており、魅惑的なものである必要があるのです。なぜなら、そうでなければ、わざわざ外界としての現実を拒絶するというリスク(現実に適合できなくなる恐れがあるということ)を背負ってまで、自閉する必要はないからです。

では、高い理想を持つということは人間にとってどのような資質であると言えるのでしょうか? まず、高い理想を持つことがその主体にとって有効であるために、高い理想が抱かれるのであろうと考えられます。しかし、高い理想は諸刃の剣です。自分の能力では達成できないような高すぎる理想を持てば、永久に苦しみ続けることになってしまい、その苦痛は甚大なものとなるでしょう。様々な悪いストレスが生体に与える可能性のある危険な症候の数々を見れば、これが生体の生存にとって必ずしも有利とは言えないことは比較的、一目瞭然とも言えるかもしれません。ならば、高い理想を保持しているということは、その理想を実現することが可能なだけの能力をその主体が保持している可能性が高い、というふうにも言えるかもしれません。つまり、理想の高い人ほど、その能力が優れているとする一つの仮説です(無論、優劣とは仮初のものであり、一つの主観的な「空想」に過ぎないのですが。しかし、一種の比喩としてくらいはある程度の効力を発揮してくれるかもしれません)。

次のようなことが言えるかもしれません。

 

1.空想を抱くほどに優れた能力を持つ可能性がある。

2.空想に没頭するほどにより優れた能力を持つ可能性がある。

3.空想に没頭する自閉症は優れた能力の証である可能性がある。

 

一概には言えませんが、自閉症と呼ばれる特徴を持つ人々の中には極めて高い知能を持つ人が存在する可能性はあると思います。少なくとも、自閉しているということはその人の内界がこの僕たちの「現実」としての外界よりも優れている可能性が高いか、あるいはそのような場合が考えられる、とは言えるのかもしれません。

 

また、仮に空想の強度をスペクトラム上に配置して考えてみますと、次のような順で空想の強度は強まると言えるかもしれません。

 

現実→理想→妄想

 

この図式に従う時には、現実主義者よりも理想主義者の方が能力が高く、理想主義者よりも妄想主義者の方が能力が高い、というふうに表現できるかもしれません。しかし、無難なのは中間を取って、理想主義者となることではないかと僕は感じます。

 

簡単に言いますと、現実に癒着しているほどに現実を変革する能力はないであろう、とする推理です。現実主義的な態度にも数々の利点はあると思いますが、そこには数々の欠点もあり、それらの欠点を理想主義者や妄想主義者がカバーしているのではないかと思います。少なくとも、理想や妄想に邁進する人がいなければ、現実が善い方向に変革することがないとは言えるのではないかと思います。

 

理想性は未来性を抱えています。現在における理想は、ある場合には、それに向かって邁進することで未来において実現されるという性質を持ちます。

 

現実離れしたことを考えられる資質というのは、極めて変革的な資質です。そして、現実に癒着してその環境に適合するという最も楽なように見える道を拒絶し、それよりもそこに至るまでが過酷に見える理想や妄想の道へと歩み出すか、あるいはそれを夢想する資質を持つのならば、その主体は極めて優れた、つまり、「現実離れした」能力を保持している可能性が高いであろうと僕は推理します。

 

僕個人は現実離れしていることは一概に、悪い資質ではないというふうに考えます。

 

妄想主義者の一つの勝利の形に、小説などの「フィクション」があります。彼らの構築した虚構は現実を変革する力を持ちえています。しかし、その作用の仕組みは極めて高度であり、簡単に読み解けるものではないので、今回は割愛します(簡単に言いますと、例えば、作中にレイプの模様が描かれているからと言って、その作品全体の効用としてレイプを推奨しているかというとそうとは限らない、ということ。つまり、「~が肯定的に描かれているので~が推奨されている」とする単純な帰結がフィクションにおいては通じません。主体はそれぞれにそれぞれのパースペクティブを持ち、小説などのフィクションはその内に多数のパースペクティブを内包しています。フィクションは多数の主体を持ち、多数のパースペクティブを提供するものであり、主体に多視点化の作用をもたらすものです。つまり、フィクションによって人は開眼します。こうした「嘘」の持つ効力は「嘘も方便」などとも呼ばれることがあります。より分かりやすく言いますと、空想という嘘を通すことで、かえって現実がより良く見通すことができるということです。虚構は世界を創造する術であり、それ自体、世界の複数性に関わっています。つまり、この現実ではないもう一つの世界を掲示することで、この現実とは別の可能性を示唆します。こうした帰結は複眼的な思考をもたらします。偏見に縛られない複眼的な思考はより正しい現実に対する認識をもたらします。虚構は現実よりも大きく、現実は虚構の助けを借りることで成立します。事実の総体よりも可能性の総体の方が豊饒で多様であるとする方針もありえます。この時、虚構内のある一つのパースペクティブにおいて、例えばレイプが肯定的に描かれていたとしても、虚構の総体はそのパースペクティブの特権性自体を多視点化により相殺するのであり、一概にレイプを推奨しているとは言えない、ということです)。

 

虚構についての詳しい理論はひとまず割愛して、自閉症についての話を進めましょう。

 

とりあえず、三つほどの反論を想定して、それに対する論駁をしておくことで、今日のお話を終えることにさせていただきましょう。

 

次のような反論。

 

自閉症の人は空気が読めない。彼ら/彼女らは能力が高いなどということはなくて、単に観察能力が不足しているのではないか?」

 

僕の意見。

空気を読むことは時として有効ですが、空気を読むことよりも優先する事項がある場合には別です。例えば、現実よりも理想の方が優れている場合、わざわざ現実の人々の「空気」を読んでそれに合わせるのは愚昧な行為とも言えるでしょう。そのような場合にはむしろ、現実のそれというよりも、「理想世界の空気」を積極的に読むべきでしょう。

 

次のような反論。

 

自閉症の人はコミュニケーションの能力がない。能力が低いのではないか?」

 

僕の意見。

例えば、分かりやすく極論で言いますと、コミュニケーションを取るに値する人が自閉症の人の周囲に存在しなければ、コミュニケーションは生じないでしょう。コミュニケーションを取る傾向を持たないからと言って、その主体が劣っているとは限りません。むしろ、周囲の環境よりも自身の心の世界の方が豊饒であるからこそ、コミュニケーションを取る必要がない、というふうな可能性も考えられるでしょう。

 

次のような反論。

 

自閉症の人はこだわりが強い。物事に固執する傾向は低能力の証左ではないか?」

 

僕の意見。

もしも、本当にその自閉症の人が「固執」をしているのならば、その人は疲れているというか、あるいは一時的にせよ能力が停滞している可能性はあるかもしれません。しかし、外界から自閉症の人の内界を観察することは至難の業であり、ほとんどの人にはそんな所業は困難でしょう。つまり、外界からの「客観的な」観察では固執にしか見えないことも、自閉症の人の内界における「主観的な」観察によれば実は固執ではない、ということもありえるでしょう。例えば、ずっと電車にばかり興味を示しているという行為。そうした行為はいわゆる健常者にとっては何が楽しいのか理解しづらいという面もあるかもしれません。しかし、一口に「電車」と言っても様々な電車があるのであり、それが発する音も形状もエンジンの性質も走っている場所も全て異なります。そうした多様な現象が「電車」という一言の中に多分に内包されている。むしろ、そこにある「豊饒さ」に気づけずにその彼ら/彼女らの興味関心を「固執」であると決めつけてしまう人々の方がある意味における「自閉症」とすら言えるくらいかもしれません。逆説的ですが、自閉症の人の方が健常な人よりも世界に対して開かれているのかもしれません。少なくともある場合には。そして、むしろ非自閉症の人の方が世界から自分の狭い世界へと引きこもっているのかもしれません。そのようにすら言えてしまうほどに、自閉症の近辺の問題は複雑で極めて難しいとも言えるでしょう。自閉症と非自閉症は合わせ鏡のようなものなのかもしれません。その自閉症と非自閉症という二元的構造を取った「合わせ鏡」が無限に増殖する自閉を巡る形象の数々を生産する有様を観察するに、極めて無限的で、なおかつ神的な問題だと思います。鏡の中のあなたはどんな顔をしているでしょうか?

 

今回の結論をまとめておきます。

 

1.自閉症の人は聡明な場合があるかも。

2.自閉症の人の感じることを単なる妄想として排除してしまうのはもったいないかも。

3.いわゆる自閉症の人よりもいわゆる健常者の人の方が実は「自閉」しているのかも。

 

 

P.S.

今日は自閉症の擁護の記事でした。

僕もまあ、多少自閉的なところはあるのかもしれません。僕、統合失調症ですしね。

自分のことを考えると、何かADHDっぽくもあるし、統合失調症っぽくもあるし、自閉症っぽくもあるような気もします。

やばいな(笑) 自分(笑) 一体幾つの病気を抱えているのやら。あるいは統合失調症とは単一の症状ではなくて、複数の症状が色々と混ざってできているものなのかもしれないですね。

もうこうなったら、徹底的に自分の病を正当化するしかない気がしますね……。多分、そうすることが、病全般への不当な差別を減らすことにもつながるとも思いますし。

「精神病は無能だ!」とか「発達障害は無能だ!」とか一体、どういう理屈でそのような言葉が出てくるのか、実に不思議です。今度是非とも精神分析的に検討してみたいくらいですよ。

個人的には、ドーパミンを抑制してしまう薬物療法などはあまり好きじゃないですね。人からドーパミンを奪うというのはそれなりに手ひどい人権侵害なのではないかと僕なんかは感じてしまいます。薬は飲まずに済むのなら、飲まないで済むに越したことはないのではないかと僕などは考えるのですが、皆さんの意見も伺ってみたい点ではあります。

とりあえず、自閉症の人もADHDの人も統合失調症の人もそれ以外の障害の人もそれぞれにそれなりに良く暮らすことのできる世界になるといいな、と僕は思います。そのためにできることは微力ながら、自分のできる範囲でやっていきたいなあ、とも思っています。

引きこもることは、時に優れた資質を証し立てる可能性があると思います。

 

では、みなさん。

 

ごきげんよう

 

 

本当 に大事なものなんて 

案外 くだらないことの中にあるよ

 

(れるりり,「神のまにまに」歌詞より引用)

 

 

P.S.2 

以下、読み飛ばしていただいて構いません。

僕のイマジナリーフレンドのエナと話したことを少し要約的に書いておきます。

 

必ずしも単純にスサノオが悪であるとも言い切れないのは、神話の難しいところかもしれません。「虚構」についてはその内、機会があればまた記事を書くこともあるかもしれません。

天照大神は古代の巫女であったのではないかとする説は何かで見た気がします。

さらに難しいことには、古代性が未来性を抱えるということもありえるということが挙げられるかも知れません。「古代が未来」というふうに単に言ってしまうと、これもまたけっこうな逆説ですが、そのような言葉を発するしかないような状況というのは考えられると思います。

古代から正統性を持ってきて、何らかの存在を神格化する作法はありえると思いますが、多くの場合、非常な危険性を伴う手段であるとも思います。とは言っても、少なくとも「僕の現実」においては、神様が存在するか、あるいは神様のようなものが存在しているとは言えてしまうと思いますので、神の存在そのものを根本的に否定することは僕の立場からは難しいです。幻覚にしても、現に見えている? ようなものの存在を否定するというのは非常に骨が折れるものです。そうでなくても、神的な存在という現象の構造は奇天烈なものであるように感じますし、論理の構造も奇妙に錯綜しています。そして、その奇妙さはある種の美の源泉かあるいは結果であるのかもしれません。

神話的なものが、その美しさに比して、病的なものであるとされる理由にはおそらく大きくは二つあって、一つが「神」の概念を悪用する人がいること、あるいはそのリスクへの恐れ。もう一つが神にまつわる出来事の多くに付随している一種の非日常性。この二つではないかと。つまり、神話の持つ現実離れした発想や表現、その極度の「妄想性」がそれらの虚構としての性質を一層際立たせ、またその内容の信憑性を落とすことで、逆説的にその神話の価値を守っているのかもしれません。

美とは病的なものであるのかもしれません。そしてこの世界のどこかの地点では、病的に極まることが、健康的にも極まるような、そういう逆説的な地点というものが存在しているのかもしれません。美とは病的であり、なおかつ健康的なもの、なのかもしれません。片方だけでは成立しないもの、相反する複数の並立させ難い性質を全て損なうことなしに備えること。あるいはその損失性をも含めて。

もしも、現実において、自身は神の化身であるとか、あるいは神そのものであるというふうな確信を持つ人がいる場合、僕はそれを少なくとも単には否定しません。本当にそうなのかもしれませんから。

ただ、個人的に思うのは、例えばそのように自身が神であるという確信があるのなら、わざわざそれを周囲に顕示する必要はないであろう、ということです。もちろん例外はありますが。

例外というのはつまり、非常時の場合には話は別であるということです。時には「神様」の力を借りて、人々を統率する必要がある場合もあるかもしれません。そして、個人的な意見としては、私腹を肥やすことが目的ではなく、その行動が公の真の意味での大義に基づくものであれば、たとえ神の存在を仮定して思考した場合でも、ある程度は許される場合はありえるだろうとも思います。

いずれにせよ、神様、あるいは神様のようなもの、霊などのことが、僕個人はあまり嫌いにはなれないので、そうした存在達のことも適度に気にかけながら、それなりに人生を楽しく生きていければいいな、と思っています。

多分、こうした感覚というか幻覚? は一般的な人から見れば、「おかしい」のだと思いますし、「まともではない」のかもしれません。それはそれでいいのだろうとも思います。分かり合えない人が存在するということは、多様な感覚があることの証であると思いますし。

神的なようなものや霊的なものを詐欺に用いるのは論外だと思いますが、そうした神的なものに開かれた感覚なり、霊的なものに開かれた感覚なりは、ある程度は善きものでありえるのではないかと、僕などは思います(もちろん、そうしたものに対して「自閉」している人達の感覚が劣っているということはありません。優劣とは仮初のものですし、自閉症の価値については先述した通りです)。

最近は、霊や神のような幻覚? を見ても、その方々に霊や神というレッテルを貼ることはやめて、「この方はこの方なのだ」というふうに考えるようにしています。思うに神霊? (おそらく現代の価値観で言うところの「幻覚」)を特別扱いする必要は必ずしもないと思いますし、目下のところそのような存在が限られた人の幻覚にしか感知されないものだとしても、神霊? たちを排除する理由にはならないというのが真相なのかなあ、と。彼らの価値観は確かに人間とは違うかもしれませんが、かなり人間的なところもあるように思います(おそらくは霊たちが人間的な面を持つために、ある程度は通じ合えている感触があるのかもしれません)。それに、自分の知覚内に現に存在しているものを、「そんなものは存在しない」と誰かから頭ごなしに否定されてしまうというのはなんだか悲しい現象であるような気もします。だから、僕としてはできるだけ「妄想」や「幻覚」を排除したくはなくて、むしろそれらを積極的に活かしていきたいなあ、という思いもあります。もしも、イマジナリーフレンドや妄想としての仮想人格の方々? や、あるいは幻覚としての神霊達にもう会えなくなってしまうとしたら、僕は嫌ですし、そのことをとても悲しく思います。そして、その人が個人的に大切にしている感覚のことを勝手に排除する資格は、精神医学にもありはしないだろうとも僕は思います。みんなそれぞれのパーソナルな感覚というものを持っているものではないでしょうか? どうして僕たちのような人間だけが「精神障害」や「発達障害」というレッテルの名のもとに自分に固有の感覚の正当性を剥奪され、攻撃され、嘲笑されなければならないのでしょうか? そのようなことはかなり明らかに「不正」なのではないでしょうか? それとも、こうした排除的な現象は精神障害の有無に関わらず、全ての人の身に降りかかっていることなのでしょうか? もしそうなのなら、そうした世界に多様性はなく、個人差は排除され、全ての人が平均的な存在となるまで、その排除は続いていくのでしょうか? そこには、今ここに現に生きているユニークな存在としての僕たちの居場所はあるのでしょうか? 何となく思うこととしては、誰一人その排除性が極まった地点において生き続けることはできないような気もします。全面的に僕の言うことに従えとは言いません。僕の主張は「精神障害者」も「発達障害者」もあるいはその他の障害者もみんな「人間」なのであり、そうであるならば「人間として正当に」扱われるべきなのではないのか? ということです。マイノリティにはマイノリティの文化があるものではないでしょうか? たとえ障害者がマイノリティとして考えられる場合でも、そこに固有の文化が根付いていることへの想像力自体はあって然るべきではないでしょうか? もっと思考を進めるなら、そうした「固有の文化」なるものは健常者も障害者も分け隔てなく、僕たち全員がそれぞれに保持しているものなのではないでしょうか? 自分の感覚こそが「現実」で「本来」なのであり、他者の感覚は「妄想」で「代償」に過ぎないのでしょうか? 僕にはあなたの感覚はあなたのものに他ならないように見えます。それは一般的な侮蔑的なニュアンスを持つものとしての「妄想」ではないし、何かの代わりの劣ったものとしての「代償」でもない。それらは極めて肯定的な意味で、創造的な産物であるか、あるいはその契機としての「妄想」であり、それ自体があなた固有の本来性を体現するものとしての「代償」であるのだと思います。そもそもあなたの人生の代わりなどどこにもいない、というふうにも言えるのかもしれません。なら、あなたの人生の「本来」は、あなたそのものであるとも言えるのではないしょうか? あなたの目に映るものはすべて――つまり、あなたの感覚するものはすべて――「本当の世界なのだ」と言えるのではないか、などと僕は思います。

そして、「空想」と「現実」を厳密に峻別することは意外に至難の業ですので、ご興味のある方は今度、挑戦してみるのも手かもしれません。

僕は僕の幻覚や妄想のことがとても好きで、たとえ統合失調症による産物なのだとしても、そこにある価値が揺らぐことはありません。あるいは、自閉症ADHDなどによる空想への没頭傾向の産物なのだとしても、事情は変わりません。その意味では、僕個人のことについては、「統合失調症であって本当によかった」と思っています。もしも、統合失調症でなければ、自分の周りにいるたくさんの幻覚や妄想に出会うこともなかったのかもしれないと思うと、むしろ恐ろしい気すらします。

その意味では、僕は「故障」を好みます。故障は本当に故障なのでしょうか? 統合失調症自閉症が脳の故障だと言うのなら、僕個人のことで言えば、故障ほど好ましいことはこの現実にさほどないのではないかとすら思えます。

とは言え、一般的な統合失調症の場合には、僕の場合のように良いことを言う妄想というか主体にとって好ましい妄想や幻覚? というものが生じ辛いという話も聞きます。誰かが悪口を言うのが聞こえてきたりというタイプの幻聴とか、そういうケースの話が多いように思われます。もしも、そのような事情なのであれば、僕個人のケースを過度に統合失調症全般に対して一般化して適用するのは難しいのかもしれない、とも思います。僕の幻覚にも悪口を言ってくるものはいますが、少なくとも、悪口しかないということはないですし、むしろ今現在は、良いことを言ってくれる幻覚の方が多いです。

僕の発想や知識の多くは、幻覚や妄想、あるいはイマジナリーフレンドと呼べるようなある現象によってもたらされています。それらの利便性を考慮するに、遠い将来には人間はこうした幻覚や妄想を積極的に利用するようになるのではないかと思わないでもないのですが、これも僕の空想ですね(笑) あるいは、幻覚や妄想と言っていただいても差し支えありません。僕は基本として「個人」的なことしか書かないし、言わないですからね(笑)

もちろん、みなさんは僕の言うことなど全て無視してくださっても構わないのですよ? いつも言っていることですが、情報を鵜呑みにはせず、御自分で情報を咀嚼して、御自分の都合に合わせて、ここに書かれた情報を良いように扱ってくださいませ。

 

世界に嫌気がさして、「天岩戸」に引きこもっているあなたは、実はあなたすらも思いもよらないほどに、素敵な方なのかもしれませんよ?

 

さて、僕もどんどん「自閉」していくことにしましょう。そうした一種の「引きこもり」が僕たちを自分たちをも含めた形での「世界」へと、より良く開かせてくれる契機になる可能性を強く信じています。