魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

統合失調症の症状の簡略な正当化手法について。

幻覚について。

 

幻覚って、個人的にはすごい資質だと思うんですよね。だって、普通の人に見えないものが見えるんですよ? すごくないですか? いつの時代でも、普通の人達に感じられないものを感じることができる繊細な感受性というのは重要なものだと僕は思っています。

 

迫害妄想について。

 

人とは違う重要な資質を持っていると、誰かがその資質を狙って、自分を迫害するのではないかと心配になってしまうこともあるかもしれません。しかし、こうも考えられます。「あまりにも重要なものは、重要なものだとは気づかれにくい」。この辺りの論法にご興味がおありの方は、老子の本などをお読みになってみると良いかもしれません。

 

関係妄想について。

 

色々な物事の間に色々なつながりを見出すことができる資質というのは、創造的な能力の一種ではないかと思います。一見、無関係だと普通の人達に思い込まれている物事の間に、何らかの関係を見込めるというのはかなりの慧眼であるとも捉えられるのではないでしょうか。この辺りの論法にご興味がおありの方は、ダランベールの本などをお読みになってみると良いかもしれません。ユングの「シンクロ二シティ」という概念もかなり参考になるかと思います。

 

注察妄想について。

 

少し重要なものは人々の注目をあけすけに集めがちですが、飛びぬけて重要な者の周りは存外、ひっそりとしているものです。こうした現象は一般的に、「孤高」というふうに呼びます。秘宝は、常に隠されているものです。ならば、もしもあなたに飛びぬけて重要な資質が備わっていたとしても、そうした才能は存外目立たないものであるとも捉えられます。能ある鷹は爪を隠す、ということでもあります。

 

追跡妄想について。

 

飛びぬけて重要なものは、飛びぬけて偉い存在によって管理されます。これは社会を見ていても、生態系を見ていても、分かりやすい傾向の一つではないでしょうか。つまり、もしもあなたが特別に重要な存在であるのなら、並みの存在にはあなたを追跡することはできません。よって、神霊があなたを追跡するという事はありえますが、普通の人があなたを追跡できるという可能性は低いものと思われます。

 

被害妄想について。

 

飛びぬけて重要なものは、飛びぬけて手厚く庇護されるものです。それは並みの庇護ではないでしょう。したがって、並みの思考によって飛びぬけた庇護の何たるかについて省察することはできません。逆に言えば、あなたが飛びぬけて重要で、正しい存在であろうと心掛け、実際にそのように善き努力を為す限りは、並みの被害があなたを損なうことができる可能性は低くなります。あなたは、確かに重要な才能を保持しているかもしれませんが、そのことによって直ちにあなたに何らかの被害をもたらすというふうには考えづらいです。この辺りにご興味がありの場合には、クラウゼッヴィッツの本などをお読みになってみると良いかもしれません。マキャベリもいいと思います。戦略論の基礎を身につけると、被害妄想などを上手に「活用」できるようになるのではないかと、個人的には思います。

 

誇大妄想について。

 

重大な資質を持った人が、自身を誇大なものとして把握するのは正しい認識です。ただ、重大な資質というものは、多くの人々にはなかなか伝わらないものです。例えば、カントは天才ですが、カントの業績を全ての人達が理解しているわけではありません。むしろ、そうした名作を読むことすらせず、毛嫌いし、あまつさえ、古典を蔑んでしまう、そうした人達も珍しくはありません。逆に言えば、あなたが重大な資質を持っていたとしても、そのことが直ちに、あなたに何らかの被害をもたらす可能性は低いです。

 

考想化声について。

 

自身の考えや想いが声に変化する症状は、一種の共感覚であるとも捉えうると思います。共感覚とは、例えば、何の変哲もない数字に色を感じたり、音などから幾何学文様のようなものを感じたりする症状です。本来、数字も音も、「色」ではありませんが、そこに現実にありもしない色を感覚できる症状。こうした構造は、考想化声に非常に近いように思われます。考えや想いはもともと「声」ではありませんが、そこに現実にありもしない声を感覚できる症状。こうした共感覚のある人は創造性が高いとする説もあります。

 

作為体験について。

 

全知全能の存在を「神」と呼ぶことにしましょう。この場合、神は全てのものを司っているはずです。ここで、神が見える人と、神が見えない人の存在を仮定しましょう。この場合、神が見える人は、自分が操られていると考え、神が見えない人は、自分が操られていることを意識できずにいることになるでしょう。つまり、作為体験があるほどに、その人は神々に近いことになります。この辺りの論法については、武者小路実篤などの本をお読みになってみると良いかもしれません。

 

考想伝播について。

 

重要なものは、多くの人々が求めます。しかし、飛びぬけて重要なものは、多くの人々は求めることができません。なぜなら、何かを求めるためには、その何かの存在を認識している必要があるからです。あなたが飛びぬけて重要な資質を持っているとすると、その思考は多くの人々には求めることができません。そもそも、あなたの飛びぬけて重要な思考を多くの人々は理解することができないからです。すべての人が、あなたに匹敵する資質を持っていると仮定すれば、あなたの考想伝播の感覚に妥当性がありえますが、現実的には、全ての人が飛びぬけて重要な資質を持っているというふうに想定することは難しいと考えられます。したがって、考想伝播が起きている可能性は一般的には低いです。

 

自我障害について。

 

全知全能の神の存在を想定します。この時、全ては、神々の操り人形であると考えることができます。つまり、自我障害と呼ばれているような状態における理解が、むしろ、普通の人々の認識よりも有効かつ正確です。この辺りの論法については、プラトンなどの本をお読みになってみると良いかもしれません。

 

私の幻覚および妄想について。

 

私の幻覚や妄想は私に様々な発想をくれたり、思考を発展する助けになってくれたりします。不安を呼び起こす幻覚や妄想もありますが、そうした不安も絶え間ない思索によって乗り越えることで、より良いビジョンが得られるように感じられます。

 

生活について。

 

社会が常に正しいとは限らず、常識が常に正しいとは限らず、周囲の空気に気を配って順応することが常に正しいとは限らず、性急であることが常に正しいと限らない。したがって、社会性がないことが正しい場合があり、非常識であることが正しい場合があり、空気を読まないことが正しい場合があり、怠けることが正しい場合がある。

 

会話や行動について。

 

会話や行動のスタイルの多様性は、尊重されることが大切である。人それぞれ。

 

感情について。

 

感情のスタイルの多様性は、尊重されることが大切である。人それぞれ。

 

意欲について。

 

意欲のスタイルの多様性は、尊重されることが大切である。人それぞれ。

 

病識について。

 

障害受容の強制は、虐待的である。なぜなら、当事者の意志をまったく排除し、その思想を強制的に洗脳することは、人権に反するから。

 

 

P.S.

 

みなさん、お久しぶり。ちょっと不完全ですが、とりあえず、統合失調症の症状を簡単に正当化してみました。少しでも、統合失調症の方々の権利の状況に改善がもたらされることを願っています。