魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「帝王学」の存立についての簡潔な導入

帝王学って難しいですよね。これはいったいどういう問題なんでしょう? などということをふと考えました。これはとても難しい。

 

帝王というのは人の上に立つ人のことなわけなので、そういう人に誰が教えるんだ? という問題。

もしも帝王の位が天賦のものなのなら、これはどう考えるべきでしょう? 天から授かるものであるとするなら、そこに人の手が介在する余地はあるのかどうか。

あるいは、帝王の位が完全に人の手によるもので、そこに神的な正統性が欠けているのなら、それは成立するのか?

根本的に、人の上に立つ人のさらなる上の存在がいなければ、帝王学の意義の存立が難しい気がしています。

まず、帝王が残忍であったり、傲慢であったりするのは不味いのだろうな、と思うので、ある意味での穏和な資質などは、帝王に求められるのやもしれない。人の上に立つ人が残酷な人になったりしたら、大変なことになるような気はする。優しい人が良いね。王様はね。僕にはそのように思われます。

 

また、もしも人の上に君臨するだけの器を備えている人なら、そうした人の全容が一般の人に理解し切れるものなのか? という問題もあります。もしも、一般の人達に理解し切ることが可能であるのなら、それは少なくとも並外れた君主であるとは言いづらい。並外れた資質を持っているのなら、並みの人の理解の範疇は凌駕していなければならない。だとすれば、誰が自分に理解できない君主にわざわざ仕えようとするであろうか? という問題も。むしろ、自分に理解できないことに嘘のレッテルを貼り、そのことによって、「異分子」となった君主の卵を排斥しようとするのが概ねの場合における関の山なのではないかとも感じます。

 

徳の高い並外れた君主はどうも現実的に、人々には受け入れられないような気がします。しかし、並外れて徳の高いそうした君主が統治する国でなければ、徳の低い劣った君主が統治する国でしかありえない。低劣な君主が低劣な統治を行うのだとすれば、そうした統治がまかり通ってしまう国が良い状態に至れるとも思えない。

 

諸所のことを考えると、少なくとも人の手によっては、正当な君主制は成立しないように思われます。であれば、優れた君主は人の手によるものではなくて、天の作用によって訪れるものであると考えられます。

 

しかし、「天」とは人の手の及ばない遥かに高邁な領域のことをそう名指すのであり、その限りで、それを普通の人が認識できるとは考えづらい。ならば、天の作用を受けた君主は、人々に奇跡的にそれとして認識されることで統治に踏み切るか、そうでなければ、人々の認識外から、つまり天から授かった術によって、不可思議に人々を統治するものと考えるのが妥当なのかもしれません。

 

天から授かった才能を、仮に「天才」と呼ぶとすれば、一種の統治の天才によってのみ、人の生活の善き状態は導かれることになるのかもしれません。

 

人の力は儚いもので、例えば、天災などが起これば、瞬く間に多くの被害が出るようなこともありますが、仮に将来的にこうした天災が人間にある程度コントロール可能になるとして、その時、さらなる天災が顔を出してこないとも限らないように思われます。つまり、人の技術は現在生じている事象を支配する術を時間をかけて編み出せるかもしれないが、少なくともそれは全く過去の事象と全く未来の事象をまで支配するものではないのかもしれない。

 

では、予測技術はどうか? 予測できれば、未来は支配できないのか? 仮に予測できても、それだけでは未来を支配する事はできない。むしろ、絶望的な未来を無力なままに予測してしまって、残りの人生を悲嘆に暮れながら過ごさなければならなくなる場合すら考えられる。つまり、未来を変える力と未来を予測する力は別物であると考えるのが概ねの線なのかもしれない。

 

もしも、現在は漸次的に支配可能であり、未来はそうではないのなら、未来は現在の行進につれて常に生じ続け、それ自体更新され続けるのであるから、「来るべき出現」については人間は何らの術も持ちえないことになる。

 

来るべき出現を正確に予測できたとしても、そのことが直ちにそうした出現を阻止したり、促進したりする技術の存在を保証する訳ではないのだろう。

逆に、未来を予測できないが、未来を変える力があるという場合。この場合、未来が変わったかどうかを認識する事ができない。つまり、この場合、僕たちの認識外におけるせめぎあいにおいて、未来におけるすべてが決定されている。しかし、それは人の認識外の出来事なので、人には認識できない。この時、すべては天にゆだねられる。

 

では仮に、未来への予測と未来を変える力の両方を所持した主体を想定してみましょう。この場合、未来を予測し、それを変えることができるはずである。しかし、もしもその予測が変更されるものであるのなら、それは正確な予測ではありえず、未来が変更できない状態なのなら、もはや未来を変える力自体を持ちえない。したがって、こうした主体は少なくとも一つの矛盾を抱えている。論理上は、そのどちらもを取ることはできないようにも思われます。しかし、こうした不可能な両立なしにしては、人間が天の作用に成り代わることはできず、この矛盾を克服できなければ、人間は永遠に神の支配下にあることになる。もしも、矛盾が人間の認識の限界であるとすれば、矛盾の先に神への道があるが、それは人間にとってはどうしようもない矛盾、ある種の「無意味」として現れているのなら、そもそもそうした無為なものを分析しようと思うことすら普通はできない。とどのつまり、天は原理的にいつまでも人の上に君臨し、人にとっての偶然が、神にとっての必然でありえるような状態が続行し続けることになる。

 

もしも、論理と呼ばれるものが、人間の生物学的限界を示すというふうに考えるとしても、それは人間のリミットなわけであるから、人間はその先には行けない。その先に何が隠されていようとも、人はそこに至ることができない。

 

リミットがリミットではないのなら、それ自体が既に矛盾であり、そこでも論理が破綻する。

 

つまり、僕に考えられる限りの範囲では、帝王学は天賦のものであるということになるのかもしれません。真のそれは人の手から発露したものとは考えられないし、人の手で発現するとも考えられない。これはいわゆる奇跡と呼ばれるものですが、人がこうした神の奇跡を超える日はやってくるのでしょうか?

 

もしも、僕たちが何らかの正統な君主を迎えることができるのなら、あるいはそれを認識できるのなら、それは人知を超えた、ある種の直観的な認知によるのかもしれません。論理の向こう側の世界。それが現行の論理の拡張として現れるのか、それとも全く別種にパラレルなものとして現れるのかは不明ですが、いずれにせよ並大抵の所業でもないようにも思われます。

 

存在と無が両立するような奇妙な領域には一体何が存在しているのでしょうか? そもそも、存在と無によって物事を記述する一種の二進法は何を示しているのでしょう? 謎は尽きませんね(笑) あなたの「0」と「1」はどこにどのように根付いているでしょうか? この問題にはずいぶんと潤沢に帝王の位やその正統性についての知識が詰まっているようにも、個人的には思われます。二進法が非二進法を指示すること自体がありえるのかもしれません。