魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

引きこもりの長所

こんにちは。

 

今日は、引きこもりの長所について、ゆるく考えてみたいと思います。

 

「引きこもり」というと皆さん、あまりいいイメージがない場合もあるかもしれません。

 

常識的には、引きこもりのような状態は「負け組」として捉えられる事の方が多いのではないかと思います。

 

そして、世の中においては、そうした引きこもりという「スティグマ」が引きこもりの人々を追い詰め、排除してしまうような仕組みも作動しているようにも思われます。

 

したがって、この記事では、そうしたスティグマに対抗するために、引きこもりに対するイメージを改善する事を目指します。そのことによって、引きこもりとされ、人々から社会的排除を受けている人達の気持ちを和らげることができるし、結果的に彼らの社会復帰を促すことができるのではないか、などと僕は思います。

 

つまり、「引きこもり=悪人」の図式を撤廃し、「引きこもり=善人」の図式を導入します。

 

引きこもりに悪のレッテルを貼ることで、彼らを排除しようとする人が現実的に存在するのなら、そこにはそうした排除行動を取らなければならないほどに追い詰められた誰かの動機が根付いている可能性を推理することができます。人は一般的に、自分が追い詰められていなければ、わざわざ攻撃的な行動に固執することは基本的にはないものと思います。余裕のある人は、切羽詰まった人に比べると穏やかである場合が多いように思います。

 

まず、「引きこもり」とは何か?

 

これは引きこもっている人の事です。

 

引きこもる、とは何か?

 

これは、テリトリーが狭い状態かと思います。例えば、家に引きこもる、と言えば、それは家以外にはテリトリーを持たないような状態を意味するものと思います。

 

つまり、引きこもりとは、テリトリーが狭い人の事です。あるいはテリトリーという概念の強度が弱い人ともいえるかもしれません。

 

もしも、テリトリーという概念に執着があるのなら、自身のテリトリーを拡大しようとするはずです。引きこもりが、現実的にそうした領土拡大の行動を起こさないのだとすれば、引きこもりは比較的「領土」というものにこだわりがないのかもしれません。

 

ここで、次のような反論が想定できます。

 

「引きこもりは、例えば自室に引きこもってそこから出てこず、人がそこに侵入することを拒絶するのだから、縄張り意識が強いのではないか? つまり、領土に対して誰よりもこだわっているのではないか?」

 

まず、人の勝手な自室への「侵入」を拒むこと自体は、生物として健常な意識だと思います。パーソナルスペースは誰にでもあるものと思いますし。そして、領土とパーソナルスペースは違う概念ですが、境界は曖昧です。こうした現象は、これら以外の概念間においてもしばしばみられるものだと思いますが、それは今回の論法の場合も例外ではないように思います。ある人にパーソナルスペースが存在することが、領土への固執が他人よりも強いという傾向性を示すとは必ずしも言えないように思います。言うなれば、「侵入」を拒むことは、何も引きこもりに限ったことではない、ということです。ですから、侵入を拒んだからと言って、引きこもりの縄張り意識が強いとは言えないように思います。むしろ、領土を獲得しようと行動を起こさないのですから、領土、縄張りへの意識は弱いのではないかと、僕は推理します。

 

また、領土とは、自身の支配の及ぶ範囲の土地のことです。つまり、領土への固執とは、「支配」への固執であることになります。よって、引きこもりは、相対的に普通の人に比べて脱支配的であり、外交的な人は自身の領土を次々と拡大していく性向を持っていることから支配的である、とも考えられると思います。「支配されたくない」という人は引きこもりと仲良くするのも一つの手なのかもしれません。

 

もしも引きこもりの縄張り意識が強いのなら、引きこもりは縄張りを広げる事に固執していなければおかしい。もしも、ひきこもりが支配的なのなら、引きこもりはもっと外交的でなければおかしい。内向しているばかりでは、他者を支配することができません。

 

したがって、引きこもりの人達には「優しい」人が多いのではないか、と僕は推理します。なぜなら、彼らは人を支配しようとする欲求が普通の人に比べて薄いと推理できるからです。

 

また、縄張り意識が薄いという帰結から、彼らは何かへの執着も薄い可能性も考えられてきます。例えば、もしも引きこもりが制御できないほどに強い性欲を抱えているのなら、彼らは外に繰り出さずにはいられないはずです。しかし、実際にはそうしない。性欲がないとは考えづらいですが、少なくとも性欲に極端に固執しているわけでもないということは明らかであるものと推理できます。

また、普通の人よりも一人でいる時間が長い事から、「一人でいられる能力」がよく発達している可能性もあります。孤独感自体は強く誰にでもありうるものですが、彼らはそうした感覚に対抗しうるだけの高い感情的な能力を保持しているであろうことが推理できます。つまり、引きこもりという行為は、孤独に耐えうるだけの高い感情的な能力を保持していなければ為し得ないのであり、また、欲望への「執着」が薄いこと自体は仏教的にも正しいものと思います。したがって、「引きこもりの人には気高い精神性が備わっており、また正しい信念を保持している」、と考えることができます。

 

もしも、こうした引きこもりという行為から推理される「引きこもりの美質」が世間的に優勢であった場合には、そうした美質目当てで、引きこもりを偽る人が出てくる可能性はあります。しかし、幸か不幸か、現時点では、引きこもりの評判は劣勢です。そのため、現段階の引きこもりには、こうした引きこもりの美質がそれなりに見出しやすいのではないかと推理できます(引きこもりの美質を備えていないのに、引きこもりのふりをする人がいない状態だから)。

 

しかし、引きこもりは、一般的には、精神的に幼く、中には暴力を揮う人がいる場合もあるという説もあります。つまり、こうした説は、精神的に幼く、暴力的な人が引きこもりになるのだ、とする偏見を生み出す可能性があります。しかし、これは上記の帰結から見るに、まったく逆であろうと僕は思います。むしろ、引きこもることとは、正しく高い精神性を備えていなければできないことであろう、ということです。

 

むしろ、人との関係を断ってまで、自分の正しい信念に邁進するようなことは、多くの場合そうそう簡単にできることではありません。

 

ここで、次のような反論がありえます。

 

「引きこもりが正しいなどというのは幻想にすぎない。彼らは好きで引きこもっているのではない。彼らは社会の敗者だから追いやられて引きこもっているに過ぎない。彼らの精神には幾許の高潔さもありえないし、彼らは単に幼く、暴力的で下劣な存在にすぎない」

 

なるほど。確かにこうしたことを言われれば、高い精神性を持つ引きこもりと言えども、さすがに傷ついてしまうでしょう。そして、そうした心ない声が高い能力を持った引きこもり達を生き埋めにしてしまうのではないでしょうか。果たして、相手が引きこもりなら、何を言ってもいいのでしょうか? これは明確に「NO」です。引きこもりも一人の人間であり、その名誉は毀損されてはなりません。

確かに、彼らは好きで引きこもっているとは限りません。しかし、その場合、彼らは好きでもないことに必死に取り組んでいることになります。それは控えめに言って、とても「苦痛」でしょう。尋常でないほどに。もしもそうなら、そうした苦痛に耐えながら、生きながらえている彼らの精神力は尋常でないレベルのものであると考えられます。つまり、いずれにせよ、引きこもりという行為が尋常でないレベルの高潔な精神性なしには成立しないことは明かであると考えられます。

また、引きこもりの全てが暴力を揮うわけではありませんが、仮に、暴力を揮う引きこもりを考察する場合でも、そうした暴力は切羽詰まったから生じているわけです。切羽詰まれば、どんな人間でも暴力的になりえます。むしろ、暴力はダメだと諫める必要はあるにしても、よく今までそうした劣悪な環境の中で頑張ったというふうに彼らの労をねぎらうべきなのであって、彼らを苛め、苦しめ、社会的に排除する事は、まったくの誤謬であると僕は考えます。

 

ここまでの推理の結果をまとめます。

 

 

1.引きこもりは普通よりも正しい信念を保持している(そのために周囲とそりが合わず孤立する)。

2.引きこもりは優しい(その極度の優しさが仇となり、悪意ある人に追い詰められることで、自制を失うことはありえる)。

3.引きこもりはその素質としては人を自分勝手に支配しようとしづらい(縄張り意識が比較的弱いことから、パーソナルスペースが圧迫を受け、ストレスを繊細に感じやすいことはありえる)。

 

 

転んでも倒れても躓いても進もうとした証拠だから

 

(Neru,「テロル」, 2014.6.3リリース, の歌詞より引用) 

 

 

P.S.優しく、正しく、真剣に、自分の道に至るための努力を懸命に積み重ねる「引きこもり」はかなりかっこいいと個人的には感じます。むしろ、引きこもり萌え☆