魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

気軽に

気軽な気持ちって大切だな、と思いました。

気軽さ。とても大切。そして、気軽になること。とてもおすすめです。

久しぶりに文章を書いていると、結構早くタイプしているつもりでも、文章が埋まっていく速度が遅いな、と感じます。これは面白い感覚。

日によって、人の速度感覚は違っているのかもしれません。

例えば、気分が散漫な時と集中している時とでは、時間への速度感は違うのかもしれません。

先ず、感覚というのは、とても気軽に変わります。いつもいつも、コロコロと。

僕は、ある時は数学をする人であったり、また別のある時は文学をする人であったり、料理をする人であったり、走る人であったり、聖書を読む人であったり、ボウっと考え事をしている人であったり、つまり、色々な自分がいます。

多種多様な自分。様々な自分。そういうものが、少しずつ寄り集まって、時宜に応じて、適宜に適度なものを選択しつつ、形成されていくもの。なんか文学的。なぜって、小説を書く時の気分とかは、僕の場合にはそんな感じだからです。

そういう時、とにかく僕は自由な状態なのだな、とも感じます。何かに縛られていても、それはそれで独特の想像力が掻き立てられるのですが、とにかく、自由な感覚によって、一種の優しい気分のようなものが出てくるのかもしれません。少なくとも、僕の場合には。

極力は、人を束縛するべきではないのかもしれませんね。観念的にせよ、物理的にせよ。

人はそれぞれに様々に、色々な事を抱えて生きていて、そうした物事の動きをじっくりと観察しているのも、また趣深いことであるように思われます。

例えば、僕は今、とても散漫な文章を書き、散漫に思考しているわけですが、そうしているうちに、それまで「集中力」によって阻害されていた、多種多様な出来事がこの世界に存在するのだ、という事を気付かせてくれます。つまり、集中力の欠如が、集中している時には気付くことのできない多くのヒントへの気づきを促してくれるのかもしれません。少なくとも、僕はそのようにかんじます。

書くことは何でもいいのです。何せ、無駄なものはこの世界に、何一つとして存在しないのですから。何を書いたとしても、そこには勝手に価値は付いてきます。僕はそんなことを思うのですが、この文章を読んでくれているあなたはどう感じるのでしょうね? それは僕にとっては、とても謎です。最大級の謎です。とてもとても非常に非常に、Greatな謎です。

そうした謎は、多くの場合、暴くべきものでもないのでしょう。そっとしておくべきもの。そういう類のことが、この世界にはたくさんあるように思われます。

ただ、それとは別に、現実に生じたいくつかの致命的な問題については、何らかの対処行動を取ることが許されるようにも思われます。その際には、「試行錯誤」がとても役立つのではないかと思います。

試行錯誤。試行して、錯誤して、試行して、錯誤して、さらに試行して、また錯誤して、それでも試行して……、というような感じ。つまり、諦めないことですね。簡単に言うと。しつこい感じ。諦めない感じ。もちろん、こうした絶え間ない試行錯誤の過程で、諦めることが適切であるような事例にもぶつかるかもしれません。しかし、その場合、諦めること自体が「適切」なのであり、それは「戦略的撤退」であり、それ自体は直ちに無益なものとしての「敗北」を意味するものではありません。このように考える時、この世界に、単なる敗北は存在しないというふうに考えることもできるでしょう。何が失敗であり、何が成功なのか。そうした問題は自明ではないように思われます。

勉強の方法にも、こうした事情は応用できるのかもしれません。例えば、福祉の勉強をしていると、介護などに関する知識が蓄えられていきます。病気としては、認知症などの知識が、この分野においては比較的重要なものであるようです。

僕は、認知症について考えている事があって、四つの事項が認知症を予防する際のポイントになる可能性があるのではないかという仮説を持っています。ただの仮説ですが。個人的な信念のようなもので、それによって実際に、人の体がどのように変容するのかはわかりませんが、少なくとも、僕に得られる情報の範囲で、様々な認知症にまつわる事情を観察すると、そのような結論になるというような程度のものです(あくまで僕の主観的な判断であると現時点では考えていただければいいのかもしれません)。それは次の四つです。

 

1.学習

2.運動

3.選好

4.思考

 

つまり、個人的な意見というか、信念として、これら四つの行動を促進する事で、ある程度なら、認知症を抑制できるようになる可能性があるのではないか、と少なくとも私的には思っています。認知症の予防がどのように可能であるのか、というのはおそらく多くの学者の方々も日夜研究に励んでいらっしゃることと思いますので、ここで、僕が独断によってそうした「予防法」を提唱することは避けますが、現時点での、個人的な感覚としては、認知症とこの四つの観念には何らかの関りがありえるのではないかと感じています。

学習。これは勉強すること。色々な本を読んだり、楽器を演奏したり、絵を描くのでもいいですし、その対象自体は何でもいいと思います。とにかく、勉強し、学び続けること。これがまず重要であろう、と僕は考えています。

運動。これは体操とか走るとか、ストレッチとか、何らかの体の動きを伴う遊び、種々のスポーツ、水泳とか、サッカーとか、卓球とか、何でもいいです。とにかく、身体を動かす事。

選好。ぱっと見では、これが一番伝わりづらい概念かもしれません。これは、「好きなもの」を「選ぶ」ことです。簡単に言えば、できる限り自分の好きなことをする、ということ。こうしたことは、「趣味を持つ」などというふうにも一般的には言われます。これも重要だろうと、僕は思っています。

思考。これは考えること。とにかく、どんな事についてでもいいので、考えて考えて考えまくる。ニンジンの形についてとかでもいいですし、ある人の言動についてとかでもいいですし、カントの『純粋理性批判』についてでも構いません。とにかく、何についてでも考え続けること。

以上の四つが何となく、認知症と関連があるのではないかと、僕は感じているのです。個人的な所感なので、読者の方はこうした情報は、「妄言」として黙殺していただいても構いませんが、少なくとも、僕自身はかなりこの仮説を信じている面があります。無論、万能な方法ではないと思いますし、認知症を研究していれば、認知症を避けられるということも必ずしもないのでしょうから、僕自身も将来的にどうなるかは謎ですが、とりあえず、未完成ながらも現時点で認知症に関わる指針を掲げるとするなら、僕なら、この四つ、くらいの意味です。

また、認知の根本的な能力を鍛える上では、個人的には次のことを重視しています。

 

1.語学

2.数学

3.クイズ・パズル

 

どうも、多様な情報を分析していると、これら三つの分野の考察対象に、人間が抱える多くの「盲点」が収斂しているように僕には感じられています。興味のある方は、これらについて研究してみるのも面白いかもしれません。

IQテストのようなもので色々と遊んでみるのも、頭の体操になるかもしれません。IQテストのようなものに対する対策については、「常識」に熟達する事が有用かもしれません。突飛なものというよりも、常識をどれだけ上手く行使できるかがポイントであるのかもしれません。無論、個人的な所感に過ぎないのですが。

学校の勉強のようなものについては、定められた範囲の知識、例えば学習指導要領に記された範囲の知識の扱いに熟達する事が有用かもしれません。基本的に、定められた範囲の外の知識については問われず、むしろ、狭い範囲の知識を如何に巧く用いることができるかが問われているのかもしれません。一つの感覚としてご参考ください。

試験への対策などを考えずに済むのなら、自由に勉強するのが良いのではないかと僕なんかは思うのですが、賛否両論ある点かと思います。色々な意見が聞いてみたい点ではありますね。

さて、今日はこの辺で。散漫術でした~。

滅茶苦茶に散漫に適当に、そして「気軽に」書いてみました☆