魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

中井久夫氏の『分裂病と人類』を読んでの雑感

みなさん、こんばんは。今日は、中井久夫氏の著作の一つである『分裂病と人類』(東京大学出版, 1985)を読んでの雑感をつらつらと書いてみようと思います。

 

まず、統合失調症分裂病)とは何か? という大きな問題があります。これは正直なところでは、自身が統合失調症と診断されているところの僕でさえもよく分かりません。そもそも統合失調症と呼ばれているものが本当に病気と言えるのかどうか……という点からして個人的には怪しいように感じてしまいます。このブログの他の記事にも色々と統合失調症について書いてきましたが、少なくとも個人的な印象としては、「統合失調症」が障害となるどころか、自分の能力の発展を「助けている」とさえ言いうるように思われます。全ての統合失調症の患者さんの事例において、僕個人のケースが一般化しえるとまでは言いかねますが、少なくとも僕の「妄想」や「幻覚」はとても「楽しい」ですし、また、少なくとも今の所、取り立てて大きな問題というのも起こってはいないように思われます。また、様々な物事を認識する際にも、他の人とは異なる独特の感性は創造性の観点から非常に有用であるとさえ言えるようにも思われます。その意味でも、「統合失調症はとても有用である」とする個人的な所感があります。また、そうした「統合失調症」というラベルを一方的に貼られてはいても、僕にとって統合失調症が極めて有用であるという事実自体は揺らがないように思われます。むしろ、こうした認知特性がなければ、僕の今持っている諸所の能力(語学でも、数学でも、文学でも何でも)の成長のようなものは発現しなかったのではないか……そんなことも思います。だから、個人的な印象としては、少なくとも僕個人のケースとしては統合失調症は役に立つ、と言っても差し支えないように思われます。あるいは、統合失調症にも「種類」があるということもあるのかもしれません。今現在「統合失調症」と名指されているものが実は色々で多彩な症状が混じっていて、そのために特徴を特定できず、概念の混乱が起こっている……というようなことも考えられるように思われます。また、統合失調症に特異的な症状というものはない、とする見解は精神科医から見てもかなり強いものでもあるようです。

 

分裂病に特異な症状が存在しないことについては次第に精神科医の合意を見つつある。(pp.3-4) 

 

統合失調症分裂病)とされているところのものは、特異的なものではないとする説は結構な妥当性を持っているようにも思われます。実際、僕自身のケースを見てみても、他の非分裂病者の方々と比べても特に大差ないですし、強いて言えば、感覚が通常よりも鋭敏であることに由来していると推測される諸所の能力の発達が見られる程度です。しかし、それも普通の人々の感受性の繊細さに比べて、その感覚の鮮烈さ、つまり「強度」が異なるだけの話で、構造的に何かが大きく異なる……というようなこともないのではないかと思います。その意味では、統合失調症の人というのは、「全く普通の人」であり、特別に優れているということも劣っているということもないと思います(全く普通の人が劣悪な環境の影響で統合失調症を呈してもおかしくはないだろうとも思います)。ただ、構造的には同質ですが、その感受性や思考力の「強度」自体は通常よりもかなり強力であるのかもしれません。少なくとも個人的にはそのように感じます。これは繊細に物事を感じ取って、変化を予測的に把握するのに非常に向いていますが、こうした思考の方式を取った場合、「ノイズ」に非常に弱くなる、ということが考えられます。統合失調症の未来の徴候を予測的に把握するこうした力能を「微分回路」と呼ぶような文脈も世の中にはあるようです。

 

微分回路は見越し(ルビ:リード)方式 ともいわれ、変化の傾向を予測的に把握し、将来発生する動作に対して予防的対策を講じるのに用いられる。まさに先取り的回路ということができる。(p.9)

 

微分回路があるなら、「積分回路」もあるのか? という話になりますが、あるようです。積分回路は、変化の傾向を予測するのには向かないが、その代わり認知のノイズを処理する方向に発達した回路であるようです。

 

逆に「積分回路」は、過去全体の集積であり、つねに入力に出力が追いつけず、傾向の把握にむかないが、ノイズの吸収力は抜群である。(p.11)

 

おそらく、微分回路には微分回路の長所があり、積分回路には積分回路の長所があるのだろうとは思うのですが、ひとまず以上の事情を踏まえつつ、統合失調症の認知的特性であると考えられる「微分回路」についてつらつらと雑感を述べます。

 

まず、ネット上には真偽不明の統合失調症に関する情報が結構な割合で含まれており、中には統合失調症に対する誹謗中傷も多くあります。そうした罵詈雑言を仮に「ノイズ」であると考える時、これは如何なる事を意味しているのか? そうした類の問題意識が中井氏の著作を読んで、個人的には芽生えてきたように思います。

これは、究極的には何がノイズであるか? あるいは「ノイズとは何か?」という問題に収斂していくように思います。同じデータを見ても、ある人にとっては全くのランダムに見えるようなものも、別のある人にとっては意味あるものに見える場合もありえます。ロールシャッハテストなどは、こうした機構を利用したものであるように僕には思われます。何でもないインクの染みを見て、そこから何らかの象徴を読み取る作用。これは創造的な人間の機能だと思います。人間の想像力の豊かさを示す事例でもあるかもしれません。

つまり、ある時、「ノイズはノイズではない」ということがナチュラルにありえるだろう、ということでもあります。

何となく、ゴミの山から幾多の創造的な事物を作り上げる魔法使いの状景が浮かんできます。「ゴミはゴミではない」ということ。あるいは、その能力が豊かに備わった人から見れば、ゴミはゴミであるどころか、むしろそれ自体「豊饒」の象徴とすらなりえるのだ、ということ。

さて、こうした事情を「統合失調症分裂病)」について適用してみましょう。現時点では、統合失調症への差別は著しく、ひどい罵詈雑言を患者たちにぶつけ、蔑み、排除する単に冷徹で残酷な人達というのもいるにはいるように思われます。彼らは、何とか統合失調症の悪い点を見つけ、暴き、貶めてやりたくてうずうずしているようです。しかし、どんなに罵詈雑言を患者たちにぶつけ、その美質を嫉妬から排除しようとしても、如何せん価値あるものには価値があるという事実自体は揺らぎません。それはどんなブラフやプロパガンダが起こってきたとしてもそうでしょう。

僕の構想の一つに、統合失調症の方々の擁護をしていきたいというのがあって、将来的にその為に法的な手段も実行できるようになりたいと思い、少しずつ法学も勉強しています(例えば、統合失調症への名誉毀損などがある場合には、患者の方が泣き寝入りせずに、積極的にそうした不正な人達の不正を発き、法的に公正な措置を導出していただけるように働きかけたいと思っています)。

僕は、統合失調症の患者たちに向けられている熾烈な虐待を看過するつもりはないので、残酷な差別に対しては、積極的に声を上げていきたいとも思っています。

おそらくは、統合失調症とは、豊かな才能の証である場合さえありえるのではないかと、僕は考えています。医学も科学も所詮は移り変わるものですので、僕のこの意見もまた、そうした移り行くものの一つになってしまう可能性は否定しませんが、少なくとも、統合失調症を悪しざまに排除し続けるそうした人々の不正については、まず間違いなく、糾弾の余地があるとも考えています。そうでなくても、豊かな才能を毀損する事は、これは大きな社会的損失となるものです。

例えば、社会Aと社会Bの二つの社会を想定し、前者が嫉妬により才能を駆逐し、後者は尊敬により才能を推進したというようなケースを想定してみます。この場合、社会Aにおいて、人々は互いに足を引っ張り合い、下へ下へと能力は低劣になっていきます。逆に、社会Bは上へ上へと人々は互いに協力し合い、能力は高潔になっていきます。結果的に、その能力が低劣な国は高潔な国に戦争で負けます。

このように才能を嫉妬によって潰さないことは、戦略的にも重要であるように思われます。そうした才能の中には、統合失調症分裂病)を持った人たちの「才能」も当然含まれています。それを他人が勝手に毀損することは、人権の侵害でさえありえるのではないかと僕などは思います。

 

いずれにせよ、個人的には統合失調症への偏見を殲滅していく方針を取ればいいのかもしれないと考えています。

 

今日は以上です。

 

 

P.S.

リード方式の認知がノイズに弱いということは、つまりその「ノイズへの耐性」さえ獲得できれば、それはその長所をより活かせるようになる可能性があると思います。例えば、ノイズを処理し切れるくらいの莫大な演算能、例えばワーキングメモリ(脳的には、前頭葉とかの発達?)などを適正に用意できれば、そうした認知特性の長所を十全に活かせるようになるのかもしれない、と個人的に感じました。ご参考ください。その意味では音楽をする(楽器の演奏とか)のとか結構良いのだろうか? などとも思いました。疑問は多々ありますが、今後も粘り強く個人的な思考を続けていきたいと思います。