魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

気楽に

ふと思ったのですが……

何事も愚直に継続して行っている人というのは偉いなーと。

基本的には、継続の時間が長ければ長いほどすごいな、と思います。

変な狡い行動とかを想定しない限りは、ブログでも何でも継続している人達はすごいな、と僕は思うのです。継続はとても難しいし、明確な報酬がない行為を無償でそうするのはさらに大変なものだと思います。しかし、そうした行為が大変だからこそ、そこには必ず価値があるようにも感じられます。

継続とは何なのでしょうね。どうしてこんなに尊いのでしょうか。不思議です。

僕も極力は、ブログでも勉強でも何でも続けていきたいな、と思いました。

 

多分、あまり気負わなくてもいいのだろうな、とも思うのですよね。下手に考えこんじゃうと、頭の中がぐちゃぐちゃになって制御しづらくなるというか、あまり上手い結果を拠出できなくなってしまうというか、そのような感覚があります。

どうしても人目が気になって気負ってしまう場合などもあるかもしれませんが、難癖をつける人というのはどこにでもいるものだと思いますので、あまり気にしてもしょうがないとも思います。少なくとも僕は、色々な人達が紡ぐ無数の素敵な言葉を見たいと常日頃から願っていますのでそう思うのかもしれません。

 

文章に一貫性やテーマを設けるというのは一つの手法だと思うのですが、これには非常に労力がかかるようにも思われます。一方で、わざと注意を分散させようとするのも異常に大変です。そのように考えると、特に何も手を加えず、自然体で流れるように執筆するのが一番いいのかもしれません。少なくとも、その方が身体に余計な負担がかからないようには思われます。おそらくはあまり気負わないのが大切で、何もしようとせず、ある意味では無欲に、ある意味では欲望の流れに合わせて、自我を柔軟に変形させつつ、移動していくイメージです。こうしたリラックスの境地と言うか、無欲の境地と言うか、欲望の扱いの境地に至る事ができると、するすると文章が書けるように思われます。ハイパーグラフィアという言葉がありますが、もしかしてこれって僕もそうなんじゃないかと思う事があります。とにかく文字が好きで、文章を書くのが好きなのです。何と言うか、僕のものの場合は、世界の森羅万象の全てを力の限り正確に記述してしまいたい欲とでも言うのでしょうか……。世の中にはそういう欲望もあるようです。書こうと思えばいくらでも書けて、文章の質は兎も角としても、その量産はとても得意かもしれません。かと言って、量ばかり書けても、質があまりに伴っていなければどうしようもない場合も多いかもしれませんね(笑) 僕も注意していきたいところです。

 

気負わずに文章を書くというのは本当に良いものですよ。これは文章じゃなくてもいいのだと思います。多分。絵でも良いし、音楽でもいいと思います。「文章のヴィルトゥオーソ」とかあっても良いと思うんですよね。これは読むのでも、書くのでも、話すのでも、聞くのでもいいですけど。文章のヴィルトゥオーソと言うと、何となく村上春樹氏の事とか個人的には思い浮かびますが、皆さんはどのような方を思い浮かべるのでしょうね? 自分?(笑) 

 

文章を流れるように書くためには、抑圧せずに、精神を開放的にして、自由にする事がとても大切だと思います。抑えつけると、どんどん発想が束縛されて、書ける事が先細り、やがて消失してしまいます。その意味では、抑圧的に思考するのよりも何も考えずに、心の中を一時的にせよ空っぽにして、誠心誠意文章に向き合うのが回り回って有効であるように思われます。簡単に言うと、気負わずに好きに書くのが一番いいだろう、みたいな感じです。どんな文章を書いたとしても、必ず文句をつける人の一人や二人くらい、この世界のどこかにはいらっしゃるはずですから、あまりネガティブなフィードバックに心を囚われてしまう必要はないように思います。自由に、ですね。

 

人の心というのはとても難しいもので、とても理解し切れるものではありませんが、それでも理解できないから見捨ててもいいのか、と問われるとなかなかどうして難しい問題です。このように何かを「行い切る」という完成性と言うか、完結性と言うか、一種の「終わり」みたいなものって、永久に訪れないんじゃないかとも思うんですよね。それは常に無限の彼方にある(逆に言うと、終わりは無限の彼方には存在していることになる)。何かが終るというと、個人的には寂しい気持ちになるのですが、これはあまり普遍的な感覚ではないかもしれません。例えば、学校で授業が終わる時の解放感とかを思い起こすと、必ずしも終わるのが悲しいとまでは断言できないのかもしれません。しかし、何となく、終わりというのは悲しみを纏った概念であるようにも思います。繋がっていた関係性がどこかで断ち切れてしまって、それは不可逆的な反応で、もう二度と戻ってくる事はない……そういう情感。不思議と悲しくなります。

 

後は、トップダウンボトムアップの区別とか有用かもしれません。トップダウンで人体を処理しようとすると、最初は効率が良いように見えるのですが、後にバグが発生するような所感があります。気が向いたら、参考になさってみてください。勿論、トップダウンボトムアップもどちらも大切な概念なのですが、それらは自転車の両輪のようなもので、どちらも上手くかみ合わないと、よく機能しないように思われます。ボトムアップ式の対処法を取る場合には、自分の身の回りにあるものを観察し、徹底的に分析及び分類を施し、それらをリストアップし、優先順位をつけ、重要度の高い問題から順次処理し、処理の工程は無限にあるので完璧主義に陥らないように注意しつつ、粛々と一つずつ課題をこなすというのが良いのかもしれません。

 

例えば、文章を書くという際にも、それはトップダウン的な処理であったり、ボトムアップ的な処理であったりする上に、それらは複雑に入り乱れています。少なくとも僕の場合は。効率を重視して頭ごなしに突き進むべき局面もありえると思いますし、逆に、諸所の事実に丁寧に気を配って、地道に一つずつ処理していくような書き方が必要な場合もあると思います。要はバランスなのではないかと、僕は思うのですが、これもよくよく考えてみると楽しそうな問題です。

 

試行錯誤して、気合で探索していると、いつの間にか自分の目標のようなものが形作られてくるような場合もあると思います。ただ、僕が思うのが、目標があってから、それに従って行動するのはどちらかと言えば、トップダウンの方式に沿った行為であって、ボトムアップのそれとは異なるのではないかということです。つまり、目標やしたい事がない場合には、無理にそれを作ろうとする必要はなくて、むしろトップダウンができない時は、ボトムアップ式の方式に頼った方が良い成果が得られるのではないか……というようなことを思うのです。

 

文章を書くのでも楽器を練習するのでも、何をするにしてもしっかりやろうと思えば、基本的に膨大な時間を要するものと思います。時間が飛びます(笑) 時間のエラン・ヴィタールみたいな(笑) エラン・ヴィタールもとても難しい概念であるようにも思われますが。ただ、「よし、やろう」と気負い過ぎると、精神が疲弊しやすいようにも思われます。もっと開放的に構えた方が作業を継続しやすいかもしれません。少なくとも、何かの行為をするという事、そこには「実現」という思考と現実を隔てる空間を架橋する概念が関わっているようにも僕には思われるのです。そこには一種の「飛躍」があるのだろうと思います。現象的な飛躍なのか、概念的なそれなのかは僕には分かりませんが、そのような所感はあります。

 

作家の方たちがすごいな、と思うことには、「あの膨大な文章をせっせと書いている」という点が挙げられます。素直にすごいと思いますね。文章書くのめっちゃ時間かかりますし。長い文章ならなおさら。文章を書くというのは、精神面に着目すると、飛躍に次ぐ飛躍の連続と言うか、精神がビュンビュン運動しまくっている状態だと思いますので、すごい体力と言うか思考力? のようなものを使う作業であるように思われます。長いまとまった文章を書けるというのは、ある程度は特別な能力なのかもしれません。気軽に、自由に、開放的に、精神を柔軟に運動させ、何か高次の統合性のようなものを分裂性の中に見出す行動と言いますか。その意味では、例えば統合失調症を肯定していくような作業である、と言いますか。そういう側面が「作業」という概念の中には常に付きまとっているように思います。

 

僕がこのブログに文章を書く動機は何と言っても、読んでくれた人達に楽しんでもらいたいな、というのがある気がします。別に、さほど大量の人達に読んでもらう必要はないのですが。少数の方であっても、少しでもこうした文章を楽しんでくれたのなら、僕はそれで満足ですね。僕はもしかするとあまり野心がない人間なのかもしれませんが、何かを欲しいと思うことがあまりない気もします。その意味では、先述の無欲に流れるような作法が性に合っているのかもしれません。欲しいものが特にないので、常に満たされていますね(笑) 僕の場合は。そういう人も世の中にはいるようです。

 

何かを気負わないこと、自由にすること、気楽にすること、これらの手法は芸術的な実践などにはある程度の有効性を発揮するのではないかと、僕は感じています。また、極端に責任感の要請されるようなケースを除けば、大概の場合、必要以上に張り詰めない、ということも処世術の一つとなるのかもしれません。張り詰めすぎると疲れてしまいますからね。力を抜くのは時に大切な作法だと思いますし、そこには大切な哲理のようなものさえ宿っているように感じられます。

 

皆さんも気が向いたら、気負わずに気楽になさってみてくださいませ。