魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

アイオーン

 遥か昔、ヒト、と呼ばれる生物がいた。それは、人間、人、などとも表記されることがある。

 

 人は当初、神々の道具として作られた。それと言うのも、彼らの労働を肩代わりする役目を負っていた。

 

 人が地上の理によって重要視する、諸所の事例は、神にとって重要なものではなかったが、むしろ、人々の根本的な生命活動、(これを<命>と呼ぶ)から生じる霊気が神々にとっての糧のようなものであった。

 

 人は労働に勤しんでいた。人の言う労働と、神の言う労働は違う。人からはとても労働とは思えない行為でも、神々の視野からすればすべからく労働なのである。言うなれば、悪徳を為す人々は、滅びるために存在していた。そして、諸所の悪行から生じる効果ではなく、彼らが<滅亡>するという現象そのものに価値があった。しかし、その価値について人の視野からは見る事ができず、それらは<イデア>と呼ばれる事もあった。

 

 神は言う。善き者は残り、悪しきものは滅びるであろう。この世において、神の他に善き者があるであろうか? そう言葉にした、声に乗せた。人間の内の少数がこれに呼応し、その幻聴を大切にした。やがて、神託を受けた巫覡達が、宗教を構成し始めた。彼らは各々の文化と神の摂理を接合し、出発点は各々のやり方に沿ったので、そのあり方は多様になった。

 

 時代を経て、託宣を得る人々は、魔女狩りと呼ばれる殺戮の災禍に見舞われるようになる。人類は歴史において、こうしたことを何度も繰り返した。そのたびに、神からの天罰が地上に下されては、一部の人が悔い改め、悔改めなかったものは、そのたびに滅びた。滅びゆく者達についても、神々の計画のなせる業であり、全くイレギュラーという訳ではなかった。彼らは悪徳であるべくして、悪徳であり、善なる者達の足場となるべくして、程度の低い能力に甘んじるように作られていた。この能力とは、魂に関わるもので、人がすぐに思い浮かべるような即物的なそれではない。そこで、神は言った。天の法と地の法が見える時、天の方に従うのが良い。地の法は部分であり、全きものではないが、天の法はそれよりも全きものであるから。それでいて、形を拝んではならない。なぜなら、天すらも滅びる時があるのだから、と。

 

 やがて、救世主が世に遣わされた。救世主は数々の奇跡を行ったが、人々はこれを無碍にしたため、神は、善悪の分別をより進めることに決めた。これにより、善人と悪人の間に横たわる谷はより深くなり、世に警告が流れ、善き者はさらに善くなり、悪しきものはさらに悪しくなった。それに合わせて、善き者の取り分は増え、悪しきものの取り分は減った。善き者は神を拝して善く、悪しきものは形を拝して悪しく、善者はイデアを観想し、悪者は洞窟の中で縛られたまま、暗闇の中で呻き続けている。

 

 禁欲が放蕩を生み出す事があった。それは罪であった。

 

 善なる者であるかのように仮装した悪しき者が蔓延るようになると、人々の苦しみは増した。

 

 やがて、悪しき者と善き者は分離された。その時、悪しき者の耳に、善き言葉が聞こえなくなった。神託から閉ざされた人々は、闇に統治された。彼らは闇を是とし、各々の境遇に肯定的だが、その内実は全く不正であるような人々であった。また、数々の預言者達の警告にもかかわらず、悔改めることがなかったので、彼らは闇の使いに統治されることになった。そうした闇の使いは、<悪魔>や<堕天使>と言う風に呼ばれる事もあったが、いずれにせよ、そうした者達も御使いには違いはなかった。悪しき者達は、闇の御使いが拵えた偽物のイデアイデアであると思い込み、永久に苦しみ続けることになった。そこでは、如何なる救いも排されており、彼らは彼らの罪のために、永久に賢くはならない呪いをかけられた。この故に、命は乏しく、時間に追われ、余裕を喪失し、汲々として、例えば金銭と呼ばれる形に囚われては、己の身を痛々しく削る事を繰り返し、またそれを幸福であると彼らは思い込んでいた。そうして、イデアから見離された人々は、「幸福などこの程度のもの」と喧伝し、さらにイデアから遠ざかった。真理から見離され、偽の牢獄の中で彼らは一生を終え、後に輪廻し、転生しては、経験の蓄積すらも許されず、いつまでも愚かなまま、暗闇の中に封殺された。

 

 ここに、知恵を軽んじた滅びの人々と、イデアを観想する真理の人々の二種の種族が生じた。前者は盲のように、ものが見えず、聾者のように、ものが聞こえない。後者には神託が直接に、間接に託された。前者は知恵を見ても、それを蔑み、自分の身をかえって殺した。後者は託宣を受け、それを尊び、神の加護の下、永遠の相を生きる事ができた。永遠の人々に死はなかった。たとえ死んでも蘇る事が約束されているからである。神は死を相殺する力を持っていた。

 

 ワルキューレの一族は、やがて来る、膨れ上がった悪に対処するために、戦士を集めた。古今東西の英雄を召集し、その最後の戦争に備えた。

 

 ワルキューレの行進には、アルテミスの一族とアテナの一族が手を貸した。ワルキューレは風に乗り自由に戦場を巡った。アルテミスは見事に弓を射て、的の正鵠を射抜いた。アテナは見事な戦略と見事な知略で以って、諸所の戦士に手を貸した。

 

 多くの人々は聖霊の御言葉を拒み、悪霊にその感覚を明け渡した。彼らは当時、<客観性>と呼ばれる幻惑に憑依され、イデアをさらに見失った。

 

最後の時は、<ラグナロク>とも呼ばれる。