魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

恋愛や結婚のあれこれ

自己変容について。

 

自身がある変化についての傾向性を帯びている時にそれを変化させたい時には、自分自身を変化させるのが一番手段として簡便だと思います。

 

では、自分自身をどうすれば変化させられるか?

 

これはいつもと違った行動を取ることで、ある程度自分の帯びている傾向性を変化させられると考えられると思います。

 

「挑戦」をするということですね。挑戦すれば、何にしても、何かは変わると思います。

 

自分に変化を起こしたい人は、何でもいいから挑戦してみるのも一つの手だと思います。ただ、挑戦にはリスクもあるものですので、その点は、十分に利益衡量をした上で事に及ぶことが大切なのかもしれません。一般的には。

 

未練について。

 

自分の人生に未練が生じるということは、過去の過ちを客観視できているということでもあります。その結果として、「あの時、ああしておけばより良かった」というような感慨が生じるものと思います。つまり、未練は成長の証としても捉えられ、そのように考える場合、未練が多いほどに、その人の成長速度は莫大なものであると捉える余地もありえると思います。未練と言えど、悪いばかりのものではないわけですね。ただ、未練に囚われると、前に進めなくなってしまうということもあります。その場合には、未練を消化して、活かすことが有効です。

 

では、どうすれば未練を活かすことができるのか?

 

これは、徹底的に思考して、反省することです。すると、自然と思考が洗練されてきて、次の対策が打てるようになります。その際に、徹底的に事実と論理を元に「正確な」考察を為すことが有効であると思います。また、不正確な認識は本来的なというか、正しい認識を麻痺させるように機能させうるのですが、これはそれ自体謎の機構によるものですので、所謂「説明」によって解呪することはできないと思います。ただ、言えることは、正確な認識ができた時に、現実問題への対策もしやすくなる、ということではないかと思います。未練を断ち切り、前に進むためには、正確な知識を認識することが有用ではないかと、僕は考えます。

 

諦めについて。

 

諦めはある意味では、大切な側面もあります。例えば、人と人は一般に分かり合えません。それは生活環境の差、文化の差、遺伝の差、知能の差、性別の差、生物学的な差、経済的な差、教養の差、趣味の差、才能の差、などなど、様々な「差」が人間には生来的に存在しているからです。ですから、ある人に有効なことも別のある人には禁忌であったりします。例えば、薬物の辞典を総覧してみてください。様々な禁忌について書かれていますが、その禁忌の導出の機構は非常に錯綜しており、まさにケースバイケースです。人によって、驚くほどに適切な処方は異なっています。一律にお手軽な方向に流れれば、必ず大量の犠牲者が出ることでしょう。それくらい差異を適切に認識するということは大切なことでもあります。大切なのは、自分の手札を極限まで洗練することです。人それぞれに与えられているものは異なりますので、自分が他者と同じになりたい、などというような願望はその成就が難しいことになります。しかし、自分が自分を最大に活かす、という方針であれば、人と比べることなく、自身を成長させることができるものと思います。自分のものではないもの、他者のものを奪おうとすることは、骨肉の争いを生みますが、自分のものを精一杯活かす分には、盗みも不要ですし、暴力も要りません。なぜなら、それは人から奪わなくてもすでに自分の手元にあるものだからです。ものは用いようです。諦めという手段も例外ではないでしょう。つまり、無理なことを諦めることで、より自身の利益を最大化できる場合があるということです。この場合、諦めるフェーズが早ければ早いほど、損失が少なく済み、有利になります。一方で、諦めるべきでないこともあります。例えば、自分の持って生まれたものを活かす、ということは諦めるべきではないと思います。基本的に。それは自分の存在を否定することにつながるからです。もしも、そのような悲劇的な結末を迎えるとするなら、それは、自殺、つまり、自身への暴力行為という最悪の形で幕を引くことになりかねないでしょう。何を諦めるべきであり、何を望むべきなのかは、それぞれの人によって異なるのではないかとも思います。一般に、幸せの形は人それぞれとされているからです。つまり、諦めそのものが問題であるというよりも、その人がその人自身であることを諦めたり、その人でない他者になることを望んでしまったりというような、ある種の「錯誤」が問題を引き起こすのかもしれません。色々なケースがあると思いますが、自分には何ができるのかということと、自分は何をしたいのかということの二つを現実的に正確に認識し、それらを擦り合わせて、より正確な認識を生成することで、諦めに関する問題は解決しやすくなるのではないか、と僕は思います。

 

怠慢について。

 

怠慢は、不正確な認識から生じる場合が多いと思います。しかし、それは客観的な話であって、主観的な話ではありません。つまり、主観的怠慢と、客観的怠慢は異なり、どちらかと言えば、主観的怠慢の方が重要です。たとえ、他人から見て、怠惰に見えても、その人が勤勉だと自己認識しているなら、客観的な観察よりも、そちらの方がより重要です。なぜなら、幸福の形は人それぞれであることから、適応形式も人それぞれとなるために、ある人にとっての怠惰が、ある人にとっての勤勉となる可能性、事例が常にありえるからです。つまり、口ばかりで何もしてくれない他人の言うことは無視して構わず、自分がどう思うか、ということの方がより重要です。そして、そこから自力で一歩一歩正確な認識を積み重ねることで、怠惰は克服されやすくなるのではないかと、僕は思います。人のことなどどうでもいいのですから、あなたはあなたの道を進んでください。勿論、僕の言うことも無視してくれても全く構わないのですから。あなたがあなたであることに、何一つ遠慮することはないのです。

 

継続について。

 

これは怠慢の克服によって、生じさせやすくなると思います。つまり、怠慢を克服できれば勤勉になります。後は、挑戦をするうちに、自然と、自分には何ができて、何ができないかがわかってくると思います。その上で、自分が最も勝ちやすい分野を選び取り、そこに労力を継続的に投資し、勝利を得るように努力をする、というコンセプトが概ねでは妥当な所ではないかと思います。自分が他人より楽にできることは何か? そして、自分が最もしたいことは何か? あとはそれらの二つを足して二で割った地点に陣取るのが基本路線ではないかと思います。常に中庸の徳を忘れずに。過度であることで、物事は滅びます。逆に言えば、節制することで、それは長く続くのです。

 

邂逅について。

 

邂逅が生じるためには、まず偶然性を尊重する必要があります。なぜなら、全てが必然的な環境下においては、統一された唯一つのものしか存在できないために、邂逅は生じ得ないから。簡潔に言えば、自分とは異なるものとしての他者を尊重することが、他者と出会うための第一歩となるものと、原理的には想定できます。逆に、他者の人格を殺した場合には、これは悪ですので、自分をも滅ぼします。逆に言うと、他者を尊重することで、自分を長らえさせることができるものと考えられます。利他的な人間になることができれば、出会い自体は生じるものと思います(その想定される環境に不正がない場合には)。他者を尊重し、不正を修正し続けることで、出会いの確率を向上させることはできると思います。

ただ、天才の邂逅については、周囲の人々の嫉妬によって排斥されるリスクがありえます。その場合には他者を信頼することは不可能なので、天才に特有のあの「自助」の精神で以って、他者に依存せずに、全てを自分の手でつかみ取る必要があると思います。時には、戦略も必要でしょう。毒を以て毒を制す。天才の道は茨の道だと思いますが、僕も微力ながら、そうした人たちが幸福になれるように応援しています。

 

恋人について。

 

恋人ができないという時には、三つのパターンがあり得ると思います。一つが、出会いが不足している、二つ目が、選り好みをし過ぎている、最後が、高嶺の花になってしまっている、という感じです。一つ目の場合、出会いを増加させることで、二つ目の場合、自分の手札を正確に認識することで、恋人を作ることはできやすくなるのではないかと思います。ただ、三つ目の場合は、結構難しいと思います。そうした人たちについては、やはり例の「自助」の精神で乗り切る以外にはないのではないかと思います。おそらく誰も助けてはくれないのではないかと僕は思いますし、大変だと思いますが、頑張ってください。あるいは、三つ目のパターンについてはここに対策を記述してしまわない方がより良い結果につながりやすいものと思います。ただ一つ言えるのは、諦めずに頑張ってください、ということかもしれません。

 

結婚について。

 

恋愛から結婚への移行を目指す場合には、継続性を担保することが有効だと思います。これがないと、どこかの時点で、恋愛自体が続かなくなり、結果、結婚に至る前に、関係性が瓦解します。継続性を得るには、自他についての「正確な認識」を得る事が有効だと思います。後は、何事も度を越さないこと、「中庸」を大切に。勿論、「中庸の中庸」も。たまに少しくらい羽目を外す……というのもまた重要なことだと思います。中庸に囚われるのもまた、中庸ではないのです。真の中庸は、何事にも囚われない静寂の境地にあることに価値があります。

 

結婚の持続について。

 

自他に関する正確な認識が重要だと思います。中庸を大切に。

 

トラウマについて。

 

トラウマの概念は、ある程度、未練の概念に重なる余地があると思います。これも正確な認識によってある程度は、対処しえる余地があるとも思います。そのトラウマの種類によって、必要な処方は全く異なるので、一概には言えないと思いますが、ただ言えるのは、正確な認識を持つことが強力な対処法になるのではないか、ということだと思います。論理情動療法や認知行動療法などの本を参照してみても、おもしろいかもしれません。とにかく何でもいいので、適度に挑戦することが大切だと思います。失敗してもいいので、あるいは、失敗すらも必ず糧になるはずなので、勇気をもって踏み出してみる、というのも面白い一手ではないかと思います。

 

 

今日のまとめ

 

適度に挑戦し続け、正確な認識を得ることが大切。