魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

僕の統合失調症についての雑感

どんなことでも一つずつ積み重ねるのって、大切だよなーなんてことを思いました。そして、長く続ける。すると、故障を避けられれば、とりあえず上達していくし、楽しいな、と思います。勉強でもスポーツでもなんでもそうなのかもしれませんね。文武両道! 的な。

 

僕などの思想の場合、美を能力の表れとして捉える側面が強いですので、スポーツなら、フォームなどを結構重視するかもしれません。勿論、実力こそが大切ということで、細かな型には囚われないようにするような姿勢もありえると思いますし、それはそれでいいと思います。自由と型の両方が有効で、どちらか一方に偏ると、何らか危うくなるのではないかというような気はします。過ぎたるは猶及ばざるが如し。

 

スポーツと言うと、何らか大変そうなイメージが抱かれる場合も多いかもしれません。疲れる、とか。ただ、日常の様々な行為にスポーツへの萌芽が眠っているようにも感じます。例えば、テーブルを布巾で拭く動作とか。個人的に、こういう筋肉の動きって、テニスや卓球のラケットのスイングに近い性質があるような気がします。なんかこう、身体の中心から動きが派生して、肩甲骨の辺りに伝わり、肘を媒介にスムーズに連合して、最終的に手首に作用し、指によって保持された布巾が滑らかに動いていくような感じ。したがって、僕などだと、日常的な所作の美しさや礼法の表れのバランスの有無によって、その人の実力を査定したりすることがあります。査定結果を人に漏らすことはまずないのですが。大概、そういう情報は心の秘め事にします。対象の方に迷惑がかかるといけませんし。

 

こういう普通は関連しないと考えられることを関連させていく思考などは、統合失調症的な連合弛緩の症状なのかもしれませんが、非常に重宝しますね。生活がとても豊かになります。統合失調症的な素因は遺伝的なものにせよ、環境的なものにせよ、能力の練達を生むように個人的には感じています。その意味で、僕個人のことについては、統合失調症でいられて本当によかったな、と思います。こうした認識的能力や素質を与えてくれた神様に感謝です。

 

最近、殊に思うのですが、簡単なことってとても難しいですよね。なにせ、簡単なことって、何気なく扱ってしまいがちですから、まずその存在自体を正確に認識することからして大変ですね(笑) こうした普通は認識できない些細なことが認識できるような細やかで繊細な感覚というのは、とても大切なものなのだろうな、と思います。統合失調症の人の中には、幻覚や妄想のような普通の人には感じられない現象を感じることができる人もいらっしゃるとは思いますが、そうした繊細さというのは本当に得難い物だな、と僕は思います。言語新作とか本当に素晴らしい才能です。なにせ、自分の力で新しい言語を創作できるのですから。これほどにエキサイティングなことってほとんどないな、と思います。勿論、本質的には全てのことは十分にエキサイティングなのですが、そうした些細な楽しさをも取りこぼさずに、自分の能力へと還元していくためにも、繊細な感受性というのは有効なのだろうな、と思いました。

 

HSPという概念が取り沙汰されることが多くなってきたように思いますが、感受性の繊細な人のことをそのように呼ぶようです。個人的には、感受性の繊細な方達の幸せをお祈り申し上げるとして、具体的に何が自分にできるのか、などについて考えさせられます。普通よりも感受性が繊細な特異な人と言うのは希少な存在でしょうから、その意味では、マイノリティとして抑圧されやすいのではないかな、とも思います。実際、統合失調症の概念もしばしばスティグマとして用いられ、この症状を持った人たちを排斥する方向に作用することがあるのは事実だと思いますので、そうした事情を見ていくと、HSPというふうに対象を概念化して、下手に抽象化することに、何らかの危険性がないとも言い切れないようには個人的には思います。ただ、HSPの悪い所をあぶりだす目的ではなく、HSPの良い資質を見出すために、この概念が使われるのなら、それは有効な策の一つであるようにも思えます。どんな概念も用いようで、その効果が変わるので、それ自体が悪いというよりも、悪人にそれらの概念を使用させないことが重要なのかもしれません。悪人が包丁を持てば人を殺すことがありえますが、普通の人はそれらを調理に使用するくらいです。包丁のように日常的な道具ですら、悪人の手にかかれば凶器になります。潜在的な凶器は日常生活の中にいくらでも潜んでいるので、その点は常に警戒しておくことは無意味ではないと思います。こうした、被害に対する想定ができるのも、統合失調症の資質の一つかもしれません。これには被害妄想と呼ばれる症状があるので、被害可能性の察知に有用な側面があり、普通の人が気づかないような細かなリスクを予め察知して排することがある程度できます。火は燃え広がってしまえば、水を用いても消すのは困難ですが、小さな火種の内に対処できるだけの予知能力があれば、予め、火事による死傷者を出さずに済むように手を打つことができます。被害妄想も「用いよう」ということです。

 

個人的には、遺伝と環境を明確に分けることにはあまり意味がないように感じています。それらは混淆しているのかもしれません。エピジェネティクスとか。ある程度は。何にせよ、遺伝だけで構成されている現象も、環境だけで構成されている現象もないわけですので、その意味では、統合失調症というのは遺伝と環境の相互作用の「間」に生じる何かなのでしょう。「中間」にある真理の一つ。ある種の「中庸」の能力としての結晶がそれなのかもしれません。

 

この「間」を統べる事ができると、何か良いことがあるのかもしれません。つまり、統合失調症を「能力化」する……ということです。こうした一種の生成変化にも、こうした「間」の概念は深く関わるのではないかという予感もあります。統合失調症的な才能の積極的活用。

 

勿論、こうした統合失調症の活用という案が乱用され、統合失調症を持った人達の幸福や安寧が阻害されるのなら、問題です。そうした案それ自体というよりも、それを扱う人が悪人でないことの方が重要な場合も多いと思います。

 

僕は統合失調症と診断されていますので、その意味で、僕の思考や技術は基本的に、統合失調症を持った人々に親和的だと思いますが、この症状を持った人々にとって、ほんの少しの希望の光であってもいいから、何か助けになれていると良いな、と心から思います。

 

つらつらと文章を書き連ねてしましました(笑)。僕は集中力ないので、散漫な文章になりやすいように思います。散漫術です。

 

さて、今日はこんな感じでどうでしょうか。

 

何か思いついたことがあったら、その内また書こうと思います。

 

みなさんの幸福を微力ながらお祈り申し上げます。

 

ではでは~!