ふと治外法権って何なのだろうな? と思いました。何らかの例外性の雰囲気を感じます。ある一定の規則性を持った系列が存在している時に、その規則性の「外側」に位置するもの。あるいはそういう権限というもの。
この問題を自然科学の問題とかに転用してみますと、面白い現象が見えてくるようにも感じられます。
例えば、自然科学というある規則性を持った系列を想定しておき、そこに「治外法権」のような領域は存在するのか? と問うてみるということです。そういう例外性の探求。そして、仮にその例外性が正統なものであると言えるのなら、それはなぜなのか? というのもそれはある規則列からの例外なのですから、その規則列によっては記述しづらい現象なのではないかと感じるのです。ある系列の「内部」に視点を取った時には、その「外部」はどのように見えるのでしょうか? そういう問題。
あるいは、食品と成分の関係性について考えてみると、具体的でわかりやすいかもしれません。ある食品があって、その食品の概念や物質的な系列の中には、ある要素としての成分が存在している。では、そうした食品と成分の関係の外部には何があるのでしょうか? もしもそうした外部が全く存在しないのなら、そうした内部と外部との関係性を基礎づけるもの自体が外部には存在しないことになってきはしないか? むしろ、そうした基礎そのものは、食品と成分の外部にあるのではないか? そのような直感的な把握です。そういう形式もあるだろうと。
世の中には様々なことがあるわけで、色々な例示を取ることができるわけですが、では「何でもあり」なのでしょうか? 仮にそうだとすれば、どうして今ここの現実はこのように固定化しているのか? という問題が浮上してきます。あるいは、ある種のランダムのようなものがかえって規則を固定化することを助けているような事例。そういうような直感へのまなざしはどのようにあるべきなのでしょうか?
例えば、今日の文章は、あまり空白を開けずに、かなりぎちぎちに詰めて書いているのですが、これはこれで発見があります。では、そうした発見を基礎づける体系は、その対象そのものの内部にあったのでしょうか? それとも外部にあったのでしょうか? 僕が今問うているのはそういう問題です。
内部主義の立場を取れば、内部に、外部主義の立場を取れば、外部に、それぞれプライオリティが配分されていくのかもしれません。あるいは、別種の論利則による場合には、そうした事情とは全く逆の様相を取る場合すらありえるでしょう。この時、「事情」と「様相」は区別されていますが、なら、様相という外部の内部に事情が存在していると想定するべきでしょうか? むしろ、その逆はないでしょうか? つまり、様相が内部であり、事情が外部であるというような「可能性」です。
様相と事情の関係に、互いへの転換可能性が存在していれば、その関係の基礎付けが外部にあっても、あるいは内部にあったとしても、本質と外面の概念組成を変容させることができるはずです。この時、全ては、表面に存在しているとも言えるし、全ては本質であるとも言えます。そして、表面が本質に先立っているのなら、――つまり事情に対して様相が先立っているのならば――むしろ表面こそが本質であるということさえありえてくるでしょう。こういう一見奇跡的な逆転は、僕たちの価値観の中に厳然として存在しているように思えるのです。逆転性。
この時、もはや僕たちは何が本質であるとか、何が蛇足であるという囚われから解放されて、あらゆる「本質」を把捉できるのではないか? そのようにも感じます。そうした逆転を積み重ねていく、天秤があっちに揺らめいたり、こっちに揺らめいたりするような世界の中で、本当に確かなことというのは何なのか? そういう問いも当然ありえるでしょう。確実性。
全てが確実であり、目に見える表面の全てが、それ自体として本質性を称え、さらに、それらすべてがあるがままに真実であるのなら、これは欺きの欠片もないという意味で、とてもとても好ましい「様相」であるのではないかとも思えます。
確かに、世の中には様々な事情があり、それに付随した様々な様相があるかもしれません。しかし、それだからこそ、それらの表面的な物質を、端に表面であると断言して切り捨てるのではなく、かえってそれらの本質を活かすべきなのだ、とも言いえる余地があるでしょう。
僕たちが、無駄であると信じているそれは、本当に無駄なものなのでしょうか? ダメだと思っているそれは本当にダメなものなのでしょうか? そこに何の真理も宿っていないと、一体誰に断言できるというのでしょうか? おそらくそんなことは誰にも「できない」のではないか? おそらくこれが「不可能性」への探求というものなのではないか?
あるいは、論理的に不可能であることと事実的に不可能であることが分離する場合。そうしたケースでは、論理と事実の間にとてつもない亀裂が走っているのかもしれない。しかし、そうした亀裂に「橋」を架けるような奇特な人も中にはいらっしゃるかもしれない。そういう「優しい」人が世の中を切り開いていくのかもしれない。そういう楽観的な予期が確かに僕にはあります。
悲観的なものも大切な場合は多いと思います。ペシミズムにも見るべきものがあります。なぜかと言えば、やはり、それらの「表面」の内部でも絶えず意味の産出が担われているし、また、それがどんなに絶望的に見える生であったとしても、そこには本物が必ず宿っているからです。事情と様相を転換可能であるとすれば、自ずとそういう考えになってきます。
本当の自由自在は、不自由との間にあり、自由かつ不自由の様相を呈しています。しかし、それが様相であるからと言って、事情と完全に分離される場合ばかりでもない。事情と様相が関連している場合だって、きっとあるでしょう。そうした、現象間の結びつき、「絆」のようなもの。これはとても大切なものなのかもしれません。
そうした意味では、僕は絆を大切にしていきたいな、と思ってもいます。人間関係は難しいこともあるし、苦しいこともあると思います。さらに言えば、どんなに群れても、それだけでは孤独を癒すこともできないのかもしれません。ただ、それでも、そこにありもしない錯覚的な絆を構成できる才能というのはどのようなものであるのかが僕はとても気になっているのです。錯覚の真理性。
ある心理的な条件下において、真理として規定されるものばかりが真理であるとは言えないでしょう。その「外部」が想定できるからです。このように、無際限に「例外」が産出される状況、過去に向かってさかのぼるように治外法権的なアジールが生じてくる奇跡の様相。そこに「自由」の根城があるのではないか。そのように言うこともできるかもしれません。
もちろん、凡俗であるところの僕の憶測にすぎないあれやこれやには大した値打ちはないかもしれません。しかし、それでも、こうした僕の「些細な」事情が、あるいは、「表面的な」様相が、その強度の薄っぺらさにも関わらず、何らかの奇跡を体現できるポテンシャルを備えられるようにと、そのように僕は絶えず祈ってもいます。言うまでもなく、それが誰かを救う力になりえるからです。
嘲笑も、欺きも、神への反逆も、憎しみも、何もかもくるんで、「それでも」と抗うこと。あるいは逆に、愛も、優しさも、信仰も、真理も、何もかもくるんで、「それでも」と祈ること。そうした背反的な事象の間にある同一性を問題にしたいのです。あくまで、「僕の場合は」という条件つきではあるのですが。
気が向くようなら、「あなたの」規則列を僕に教えてください。その「外部」には何がほとばしっているのでしょうか? そうした切実な、あなたに固有な領域、「治外法権」とはどんなものでしょうか?