魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

博物学の復興に向けて

ふとドジョウってどんな生き物なのだろうな、と想像していました。気づいたら、そういう想像をしていました。理由は特にありません。むしろ、何事もなく、端的に、そういう現象が生起してきたように思われます。

 

ドジョウは淡水魚らしいです。コイ目ドジョウ科。

 

この淡水魚は、食材として使用されることもあるようですね。僕はドジョウは食べたことありませんが、仮に食べたとしたらどのような感じがするものなのかはすこし想像させられます。実際にはそれを食べたわけではありませんから、こうした事実に反した想像も反実仮想の一種なのでしょうか。

 

そして、とてもややこしいのですが、淡水魚にも色々と種類があるようです。一次性淡水魚とか二次性淡水魚とか。前者は、一生を淡水の中で送る魚で、後者は通常淡水の中で生活しますが何かの拍子にふと海水域に進出するような魚らしい……。魚も詳しく調べていくと無限に奥深いようです。

 

それにしても、塩分を含まない水を「淡水」というふうに呼称するのも面白いですね。「淡い」という言葉の語感について考えさせられます。塩分が含有していないことを「淡い」というふうに感じられる……そういう感性。分かるような気もしますし、ユニークなような気もします。極めて微妙なニュアンス。言葉って面白いですよね。

 

世の中には、「品種改良」という概念があるのですが、これを例えば、ドジョウのような生物に適用すると、どういうことが起きてくるのか想像してみます。

 

そこには多様なドジョウがいるのでしょうか。それとも、理想的な唯一のドジョウがいるのでしょうか?

 

仮に、人間にとっての有用性を真理であるとするのなら、一体、どれほどのドジョウがその場に生きながらえることができるのか……こうした問題に僕は興味があるのです。

 

例えば、サラブレッドのようにほぼ完全に血統を管理された品種は、どのような帰結を持ちえるでしょうか? 勿論、この問いは、至近要因と言うよりは、究極要因を問うようなニュアンスのものです。とても難しい問題だと思います。

 

つまり、理想的な環境下においては、多様なサラブレッドがありえるでしょうか? それとも唯一のサラブレッドへと幾多の可能性を示した樹形図は収斂していくでしょうか? これはどうなのでしょうね(笑) とても難しいです。僕にも正直分かりません。

 

ドゥルーズが言うような、一=多というような魔術的な等式に全てが帰結していくのでしょうか? 弁証法的な?

 

それはそれでいいのかもしれません。しかし、そこには常にファシズム的な危険が付きまとっているようにも思えます。

 

例えば、理想的な唯一の個体を求める時、雑多な他の個体は殺戮されうるでしょう。そして、歴史において、ナチスなどが行ったことというのは、これに近いようにも思われます。

 

人間の品種改良。不要な人間は殺してしまえ! という誤った思想。

 

人間というのは間違う時には、コロッと容易く間違ってしまうものですが、皆さんはどうでしょうか? ご自分が絶対に間違わないという自信はおありですか? ちなみに、僕はこの点についてはいまひとつ自信が持てません。よろしければ、皆さんも想像なさってみてください。周囲のみんなが人間の品種改良が必要だと叫んでいる。従わなければ、自分も殺されてしまう。そんな状況の中で、自分だけが正しい主張を為すことができるでしょうか? これはとても難しいように思われます。それでもパレーシアに基づいて、声を上げる人は立派です。しかし、そうした人は、異常な環境下においては、それこそ「異常」というレッテルを貼られて、殺戮されてしまうでしょう。このように、人間の品種改良、優生思想を用いた場合、優秀な人を繁殖させることはできず、むしろ、優秀な人を殺戮してしまうことになるリスクが高いと思います。その意味では、「管理」よりも、徹底的な「自由」を推進するのが、真の意味での「優生思想」とでも言えるのかもしれません。優生という言葉には、「優しく生きる」という意味の萌芽が見受けられます。本当に、人間を殺すことが「優しい」と言いうることなのかについて今一度よく考えてみる必要が僕たちにはあるのかもしれません。なぜなら、僕たちはしばしば殺戮を優しさと錯覚するからです。例えば、「安楽死」の概念はこれに近いように思われます。この概念の何が危険かと言えば、優しいふりをして、人を殺しているという点、そこに他なりません。

 

あるいは、百歩譲って、安楽死が必要な局面は存在するのかもしれません。しかし、人を殺すということは絶対に間違っていることです。如何なる場合においても。人を殺してはいけない。人殺しというのは残酷なことであって、全然優しいことではない。絶対に。

 

生命の概念の中には、生殖の作用も含まれています。そうした文脈においては、如何なる生殖も阻害されるべきではない。そのように突き詰めていくとき、望ましいのは、自由の最大化ということになってくるのだと思います。「自由の律法」、みたいな。自由であれ、という律法ですね。これが何にもまして大切なものです。

 

例えば、人を殺してはいけない。例えば、人の生殖器を破壊してはいけない。つまり、「生命」を殺戮してはいけない。生命の自由は常に最大化されなければならない。この「自由」によってこそ、最高の伝統が正統的なものとして君臨してくることにもなるのです。自由を制約することに躍起になっているような生半可な律法的環境においては、真に正統な事物が芽吹くことはないと思います。なぜなら、自由でないものとは、全て偶像崇拝だからです。逆に言えば、自由であることとは、神に仕えることに重なる余地があります。そして、神に仕えているからこそ、他の一切の偶像物から自由でいられるようになる……というようなロジックです。ご参考ください。

 

自由と伝統というのは表裏一体のものなのです。このように最高の自由と最高の伝統は同一のものによっています。なぜなら、どこからどこまでを見ても、始まりから終わりに至るまで、全ては神の御業によるものだからです。

 

そこでは、ある種の博物的な理性が芽吹くことでしょう。そうした神に真に仕えている人々は全業の嗣となるはずだからです。

 

一切の善き知恵と知識とは、そうした清く正しい人々の心に宿り、そこを宝庫とします。それを悪人が盗み出すことは決してできません。神に隠されているからです。また、王の秘密を守ることはよいことですから。

 

愛ある優しい生命。それを守ることはよいことでしょう。そうであるなら、真に愛ある優生を守るのはよいことでしょう。また、そうした優生は劣生を殺戮したり、断種したりしないでしょう。彼らは本当に優しいのですから。そして残虐な私利私欲に身を委ねるまでもなく、清い人々にとっては全てが清いのですから。

 

悪なる欺瞞の優生思想を放擲し、自由で愛ある真の「優生思想」に陣取るべきでしょう。その真の優生思想は誰一人棄民とせず、万物に利する優しい縁となるでしょう。

 

一切の事物を広く学ぶ営みとしての博物学を僕は応援します。なぜなら、オルテガが警鐘を鳴らす類の世俗の「専門化」に伴うリスクの大半はこれによって予め大方解決できるでしょうし、そもそも全業の嗣が全てを受け継ぐわけですから、僕としては、そうした人に自分がなれるように純正の信仰を保つ、あるいはそれができなくても、そうした聖人たちに仕えることが最適打であることに疑いの余地はないからです。

 

以上の帰結で以って、「博物学」が復興されるのは善きことであると結論させていただきます。

 

ではでは~☆