魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

とある小さな小さな物語について

自由って本当に大切だな、と思いますね。そして、法。法がなければ、例えば殺人罪などへの抑止力が欠如する恐れがあります。もしも社会に殺人が横行すれば、これはもう……。大変なことになってしまいますね。だから、法も大切。

 

自由も大切。法も大切。相反する二項のどちらもが大切なわけです。そして、これらは表裏一体のもので、相補的に互いを互いに守り合っています。とてもおもしろい機構です。

 

例えば、遺伝にも多くの種類があります。様々な遺伝子があって、様々な遺伝の仕方がありえるでしょう。とても興味深く、多様な交錯。そして、僕たちの身体もこの遺伝子に則って生成されているのだとすれば、その有様が多様なものになるのはもはや必然でしょう。誰一人として同じ人はいない。もっと言えば、たとえ遺伝子が同じだとしても、同一の人間が生成されるわけではない。神秘ですね。生命の神秘。

 

このように、様々な領野において論理を突き進めると、結局の所、神秘に突き当たってきます。神秘は無限に解体可能で、これを「説明」などと呼ぶこともあります。説き明かす、という意味ですね。

 

一般に混沌は闇になぞらえられやすく、秩序は光になぞらえられやすい傾向はあるかも知れません。しかし、混沌と秩序もまた、言うまでもなく表裏一体なものですね。混沌がなければ秩序などと言う概念がそもそも生じないですし、秩序がなければ混沌がどんなものなのか特徴づけることが難しいでしょう。このように相反する事物は互いの存在を保証し合うのです。不思議ですね。表裏一体という概念は本当に興味深いものです。

 

僕も法律家になりたいな、とか思うことはあるのですが、法律家と言うととてつもなく頭が良い方々な気がするので、僕にはちょっと無理(笑)

 

なので、僕はいったんその道を諦めて自分にできることをするわけですね。能力の限界が僕の行動を規定しています。

 

能力の限界がかえって、行動を規定するとすれば、もしも能力が無限であれば、行動は規定されません。これは分かりますか?

 

限界がないとすれば、僕たちの身体を境界付けるような限定もなくなるのです。そう考えると、これは混沌に見えますが、混沌が見えるとすれば、そこには秩序がありますから、かえって混沌性は欠如するわけです。そして、混沌性が欠如するなら、秩序性が欠如し、結局の所、仏教的な「空」の概念に返り咲いてきます。したがって、もはやすべての真理はその一点に収斂してくことが分かります。そして、どのような偶像にも真理が宿り、しかも、その真理は唯一つなのです。

 

多様で唯一のもの。矛盾ですね。しかし、これが真理です。

 

論理や言葉によってどうしても捉えられない逃れ行く者について僕は今、語っています。それは語ることができないのですが。なぜなら、それは絶えず逃れ行き、その身体は絶えず盗まれるからです。まるで「少女」の身体のそれですが、そうした速度の極限にまさに少女は位置しています。

 

ファルスによる身体性によって、その身体をまず強奪されるのはこの少女なる観念であり、また、シュレーバーによるところの女性への生成変化なるものは、既に現実的な「此の」身体そのものを生成変化させること自体を予め射程に含んでいるわけです。

 

僕が言わんとしていることが伝わるでしょうか?

 

文章を前に進めるのは勇気なのですが、それはそれは絶大な勇気なのです。崖から飛び降りるようなものです。しかし、すると、現実的にはともかく、想像界においては飛躍が成立するわけですね。そして、こうした領域のリビドーが象徴界を通して現実界に備給されることで、ある種の心による現実世界への統率関係が成立します。僕の見立てでは、法というのはある種の象徴機能をその糧としており、人間の心と世界の間の調整役を取り持つ極めて重要な器官です。そこには無論、莫大な「勇気」が必要とされます。常に、致命的な誤りを為すリスクを抱えていることに気づくからです。自分がいつ人を殺してしまうか分からないということ、それは所謂現行の法における殺人罪には関係しなくても、少なくとも間接的には誰かを殺してしまうかもしれない、或いは今も誰かを殺してしまっているのかもしれないという、一種の妄想的な観念が現実のものとして現前します。この不安を乗り越えるには、絶えず勇気を持って進む以外にはなく、またそうしたそこらじゅうを銃弾が飛び交っている「戦場」を生き延びるためには、あくまで神による以外にはないのだということが明らかになります。そして、今、曲がりなりにも何事もなく自分が暮らせているというその事実そのものが、まさに神がかったバランス感覚、何らかのセンスによって保障されたかけがえのない宝物であることに気づくのです。しかし、それは先述の通り、絶えず逃れ行くために、僕たちはそのことを絶えず忘れてしまいます。そして、思い出しては言うのです。「ああ、僕はどうしてこのことを忘れていたのだろう? もう決して忘れまい」と……。

 

そして僕たちはまた忘れていきます。

 

無論、忘却と記憶が表裏一体であるように、そのどちらが悪いということはないのですが、それでも大切な何かを「ここ」に残しておくことができないということは悲しいことです。

 

だからこそ、僕たちは前進するしかありません。前進の果てにかえって過去に到達することもおそらく「可能」でしょう。

 

後悔というのは、概ね、過去についての後悔です。だから、過去の統率なしには、後悔を払拭することは難しくなってくるでしょうし、実際、タイムトラベルに類する技術によっていずれは時間的な統率は可能になるでしょう。

 

いつも心身は空っぽで、ただ正直な勇気を以って進むのです。古来、何らの邪心もなく、誠心であれば、それに応じないものはないとされます。

 

そして、僕は、今そのことをこの文章を書くことで、思い出すのです。とても大切な大切な「此れ」を。

 

それは常に可能です。もしも、僕たちがその「声」に応じるのなら、地獄の果てにいたとしても救われることでしょう。それが幻聴と呼ばれようが、妄想と呼ばれようが関係ないのです。

 

あなたはあなたの道を。僕は僕の道を。それが正義ですから。

 

そうして、道はやがて交わることもあるかもしれません。

 

小さな小さな僕たちが、互いに互いを慰め合い、奇跡的に出会う時。

 

そうして、お互いの「名前」を呼び合う時に、何が起こるでしょうか?

 

僕たちはそれさえも忘れていくのかもしれません。

 

ただ、愛は「記憶」さえも越えていくでしょう。

 

僕たちは互いの呼びかけに耳を澄ましてみましょう。おそらくはそうすることでこそ、見えてくるものもあるでしょうから。

 

 

今痛いくらい幸せな思い出が

いつか来るお別れを育てて歩く

 

米津玄師, 「アイネクライネ」, 2014 歌詞より引用