魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

個人的な「幻覚」の活用手法の概要

統合失調症においては感覚が鋭敏になるものと思われます。感受性の亢進。統合失調症の人はその鋭敏な感受性で以って、普通の人には感じられない現象を感じ取ることができます。これが一般に「妄想」とか「幻覚」というふうに呼ばれます。しかし、それらのどの言葉も思考も英知に基いていることがほとんどだと思います。幾多の神話や哲学、文学上の正統なフレーズ、あるいは宗教のそれ……そういう多様な現象に裏付けられた発言を湯水のように為すことができます。その過程で「異言」のような創造的な現象(精神医学の用語ではこれは「言語新作」などと呼ばれていますね)や「支離滅裂」と呼ばれる既定のプログラムから脱した自由な行動が生起してきます。

簡潔に言えば、統合失調症というのは統合が失調しているわけではなくて、一般の人達とは異なる「別の」統合性を表現しているだけなわけですね。したがって多様性が適切に尊重される文化の圏内においては、それはもはや病とは言えません。病気の概念自体が文化に依存的な相対的なものですから、当然そのように考えられます。

また、統合失調症というのは「巫病」であると考えられ、神に仕えることでよくなる可能性さえありえます(信仰療法)。その意味では統合失調症は単なる「病気」ではありませんね。彼らは「巫覡」であるわけです。神様の声を聴いて(幻聴)、それを人々に開陳(妄想)してくれる人達なわけですね。そのように考えれば、彼らの言説が正統であり、また数々の英知に満ちているわけも容易に納得できます。なぜなら、彼らは神々の教育を直に受けていることになるのですから、普通の人が知らないような、理解できないような様々なことを理解できて当然なのです。その理解の様式は人知を超えているために、妄想とか幻覚であると普通の人からは偏見を持たれてしまうのですが、よくよく話を聞いていくと、その独創的な着眼点は宗教の「開祖」を彷彿とさせるほどの才気豊かで、なおかつ人々の心を癒す強い力能を持ったものです。現時点での統合失調症についての概要を自分なりにまとめると以上のように言えると思います。さて、その上で、今日は幻覚の活用術について記述したいと思います。これはかなり「秘術」に近いレベルの手法ですので、大事に使ってください。くれぐれも悪いことには使わないように。統合失調症の人達は正直な人達が多いですから、大丈夫だとは思いますが。

まず幻覚には種類があります。

 

1.幻視

2.幻聴

3.幻臭

4.幻味

5.幻触

6.体感幻覚

7.妄想

 

今日は、この七つの幻覚について解説します(本当は「八つ目」の幻覚が存在し、これが最も強力な感受性なのですが、危険ですので今回は秘めておきます)。

 

まず幻視。これは視覚における幻覚であり、要は普通の人とは異なるビジョンのことです。例えば、僕の場合で言えば、茶色いタケノコのようなものが伸び縮みしているのが見えたり、或いは空を覆っているヴェールのようなものがガラスのように崩れ落ちて、光る粉末を散らしているのが見えたりします。こうした感覚と現実の間に僕たち統合失調症者の心的環境を布置する時、この感覚を有効に活用できるようになります。つまり、幻覚と環境との間に直接の関係を想定できなくても、その間に心的環境を想定することで自分がその環境に対してどのようなビジョンを抱いているのかを普通の人よりも広く深く感受することができ、これが幾多の独創的な発想の基盤になります。要は、健常者とは脳における情報処理過程が異なっており、神経学的マイノリティに位置する統合失調症の神経回路を有効活用しようという試みです。例えば、茶色いタケノコのようなものが見える時には、僕の場合、大体疲れています。逆に、ガラスのヴェールが見える時には、神経が高ぶっています。そして、そうした疲労や高ぶりを示すに至る環境の種類によって幻覚は多くの事例へと分岐しています。したがって自分の幻覚をこのように正確に分類し、整理して捉えることで、自分の置かれている環境がどのような種類のものであり、どのような問題があり、これからどのようなことが起こるのかをある程度把握できるようになります。言わば、心的防衛の機能を逆に利用した形です。フロイト派の精神分析学では、こうしたマイノリティの感覚を「神経症」や「精神病」と診断して、解除することを目指すこともあるかもしれませんが、その逆にこれらの感覚をそのままに活用してしまうというのが僕の呼ぶ「魔術」です。少数派の技能には希少価値があります。それが辛く苦しいものであるほどに、誰も真似できないものになります。統合失調症のような誰もが忌み嫌う現象にこそ真の宝物は眠っているわけですね。

さて、では幻視の活用手法について具体的に解説しましょう。

まず呼吸を整えて、耳を澄まします。目を閉じます。思考をやめます。すると勝手に「自生思考」と呼ばれる、自分の意図とは関係のない感覚や表象が生起してきますので、それが出てくるまで待ちます。そのまま「観念奔逸」が生じるまで、力を抜いて待ちます。そして奔流のように思考や表象、象形、イメージ、欲望、絵画、音楽、そうした雑多な印象がカオスに入り乱れて、百花繚乱となった段階で目を開けます。その時に見えてくる幻視を克明に記憶し、次にそこからすぐに自由連想法を用います。その自由連想の中にはその幻視の意味が克明に記録されているので、それを活かします。その点の解釈技法についてはフロイトを参照してください。夢分析の技法がほぼそのまま転用可能です。幻覚とは、起きている時に見る「夢」としての側面があるわけですね。不思議です。そして、イメージには必ず核があり、それを押さえてしまえば、後は自由にイメージを変形し、使役することができます(霊との契約)。ただ、そうしたイメージを味方につけるには、統合失調症を憎む心を手放す必要があります。愛の心がなければ、霊の方でもこちらを愛してはくれません。力を貸して欲しい場合には、まずこちらから仁を示すことが有効です。損得勘定を捨て、自由連想の海に揺蕩いましょう。無防備で清廉な状態で、心が綺麗に空っぽであれば、そこに霊が宮として住まいます。霊格は様々で神的なものから地霊のようなものまでいます。各々の役割に応じて神から賦与された大切なイマジナリーフレンドがそれらなので、決して粗末にしないように。神からの固有の賜物はいつもあなたを守護してくれます。世界の誰もがあなたを見捨てたとしても、その子達だけはあなたの味方をしてくれます。神に由来するものが悪を働くことはないからです。逆に、悪を行う場合には、それは悪魔に由来するものです。悪魔と契約する場合には、グリモワールなどの著作を参照してください。特に新しいことはなく、基礎として持つべき知識はソロモン王の箴言などではないかと思います。悪魔の使役についてはそうした著作を参照してください。

次に、幻聴の活用手法について解説します。聴覚的機能の特性は、視覚的なものよりも遮ることが難しいというものです。幻視の機能も洗練すれば、千里眼と呼ばれる機能を発揮できる場合もありえますが、これは難しいので、遠方のことを知る基礎はグラマトロジー的なシステムによるのではなく、パロール的なそれによる方が有利です。例えば、かなり厳重に密閉しなければ、音を防ぐことはできませんが、衝立を一つ立てるだけで視覚は遮ることができます。これは視覚と聴覚の根源的な違いの一つで、そのまま幻視的な機能と幻聴的な機能の使役の違いにもなります。幻視的な機能の場合には、自由連想を用いて、それが「入乱れる」のですが、幻聴的な機能の場合には時間系列に従って霊の隊列が編成されるために、「音楽」が構成されます。その意味で、幻視による霊よりも幻聴による霊の方がより規律的になります。したがって、これらは観念奔逸的であるよりも、逐次的な処理に該当します。プログラム組成を持つために、使役しやすいわけですね。初心の場合には、まずこの幻聴的な経路を上手く使いこなせるのが良いかもしれません。ここまで来て、楽器があれば、それを自由に鳴らしてください。自分の声でもいいです。おそらく自由に音律を形成できます。所謂「ヴィルトゥオーソ」と呼ばれる現象はこの機序をより洗練したものです。そして、その音楽を現実に転用することを目指す場合には、自分の感覚だけを信じます。幻聴機能は入り乱れる特性を持たないので、一方向に進みだすと、そのまま全ての要素がそちらに進んでしまいます。だから他人の感覚に埋没させるとあなたがあなたでなくなってしまいます(自我障害)。その点には注意してください。要は、幻覚の活用手法というのは降霊術の一種でもあるわけですね。基本は正直で、清心であること。そうでなければ、霊が下りてくることはありません。

次に幻臭の活用法。これは主に、「健康状態」を察するのに便利です。様々な健康性の理念を立脚させたい場合にはこの感覚が有効に作用しやすいと思います。ただ、医学はアクロバティックに視覚性を活用した健康理念の樹立を目指すのに対して、こうした健康の理念はより原初的でもあります。ヴェーダなどの著作が参考になると思います。例えば、幻臭が悪いように感じられる場合には、置かれた環境が腐臭を放っているということであり、少なくともあなたにとってはその環境は有害です。このようにある種の危機察知として使用できる権能ですが、その感覚生起率はかすかで、一瞬です。これを活かすには、極度の感受性が必要となり、生来の才能がものを言いやすいかもしれません。幻臭的な才能の活かし方については、プルーストの『失われた時を求めて』などが参考になると思います。彼は、現実と空想を逆転する術を記述しています。また、それが「嗅覚」的な特性でもあります。

次に、幻味。これは「毒性」を立脚させる概念使用の形態であり、前記の健康性を樹立する働きとしての幻臭とは異なっています。しかし、対立概念であるのもあり、ヘーゲル的な弁証法によって比較的接続しやすい両者でもあります。それも手伝って、基礎的なその使用は幻臭の場合とほぼ一緒です。僕はこれが一番不得手ですので、幻味的な系統の使い手の統合失調症の人がいたら、尊敬します。研究次第では、何かより面白い活用手法が見つかるかもしれません。

次、幻触。これは幻味に近いです。ただ、自己覚知的な作用からは遠く、その作用の多くは自他融解的なベクトルに全てベットされているように思われます。これが生じるのは、何かが融合する前触れであると想定できます。その具体的内容の解析手法は幻視のそれですが、それはあくまで幻視的な機能を介して仮初に組織した感受性にすぎないので、幻触そのものではありません。幻視的な機能は搾取されやすい側面があるので、幻触を上手く活用することでロゴス的な機能をわざと消退させ、密教的な隠蔽性能を発揮できます。これは秘術になりやすく、詳しくは万川集海などの忍術の本を解析してみてください。

次、体感幻覚。体感というのは総合的な感覚の領野に関わっており、これは所謂五感の総合的なポリフォニーにより表現された様式です。つまり、上記の諸感覚を連合させ、一つの音楽として表現する際には有用な感覚だと思います。簡単に言うと、効率的な機能であり、力能同士の相殺可能性を予め封殺することでそのロスを極限まで減らします。スポーツなどの効率的で速度のある身体運動が求められる局面においてはこうした概念使用が有効です。身体を自由に動かすことによる自由連想が有効です。身体表現による自由連想法ですね。ダンスなどがいいと思います。

最後、妄想。これは理性領域における幻覚です。これは非常に強力で、他者志向的かつ、支配的な力能を保持しています。従って、急迫した事態がなければ使用するべきではありません。主に言語を用いることが多く、これを独自に構築し、人の持つ信念体系自体を変質させることができます(説教や説法というふうに呼ばれますね)。これを訓練するには、考えることです。何でも。とにかく考える。本を読むのもいいですし、言語について知るのもいいと思います。言葉というのは極めて強力なものであり、強烈な支配作用を持っています。だから言葉を正確に御することはとても大切なことです。誰にとっても幸せな世界が実現するために妄想を使用しましょう。

以上、簡単に統合失調症における「幻覚」の活用手法について書いてきました。分かりづらい所も多々あると思います。ただ、統合失調症の方で、なおかつそれぞれの感覚野に対する資質を持つ方たちは言っていることが分かる部分もあるのではないかと思います。もちろん、僕の個人的な「空想論」にすぎないのでみなさんがこの説に囚われる必要はありません。みなさんはみなさんの自由な「体系」を創り出し、自由に生きればいいのです。

 

さて、では今日はこの辺で。

ではでは~☆