魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

字の汚さ

僕は滅茶苦茶に字が汚いんですが、一体何なんでしょうね(笑) できればもっと美しい心を持って美しい字を書きたいものです。

 

とはいえ、僕は極めて普通の人間ですし、そんな桁外れに美なる心なんてどこにあるのかすら分かりません。ですので「宝探し」をしたいな、と思うのです。

 

さて、僕の求める宝はどこに眠っているのでしょうね。美なる心というのは?

 

ここかな? そこかな? あそこかな?

 

色々探すのですが見つかりません。

 

それが実は自分の心に予め宿っていたものだった……なんていう美談を期待してもみますが、どう考えても僕は何の変哲もない普通の人間です。特別によくもないし、悪くもない。

 

幸せであるとも不幸であるとも色々な様相を呈する万華鏡的な人生。これは「よい」のでしょうか?

 

それともこうした着眼点というのはいわゆる「統合」を「失調」したものとしてのキメラの様相にすぎないのでしょうか?

 

さて、様々に難しい事情があります。それらの確証性については後世の歴史家に任せ、僕たちは「今」を生きましょう。そうした過去にも未来にも束縛されない「自由」によってこそ統合失調症の、狂気の、その才能が芽吹くのでしょうから。その時もはや、狂気は狂気ではなくなっているでしょうから。狂気は基本的に「思惟」の過剰ですから、その思考的な天分に見合うだけの豊かな「感覚」や「情報」、「経験」を潤沢に供給してやれば改善すると思います。情報不足のままに思考することでいわゆる妄想が生じやすいので、たくさんのことを知り、研究し、真摯に感じることで狂気を鎮静化できる可能性は高いと言えるのではないでしょうか。統合失調症の特性の一つはその妄想が極度に被害的なことで、あくまでその人の世界において害を被るのは「自分」であるという特性があり、またそれを他者への「愛」によって「許容」できてしまうことで無力感を発端とする無為自閉の症状が出てくるように思われます(残酷な世界を許さずに、あくまで正義に基づいて反抗しようとするうちはバイタリティが消失しないでしょう)。簡潔に言えば、他者のために自分を犠牲にし過ぎる結果、自分の心身の機能自体が故障してしまう……それが統合失調症の発症原理の一つと言える側面はあるかもしれません。したがって単純には他者に対する思いやりを抑制することで――よく言えばリアリスティックになることで――症状を抑制しやすくなる可能性は高いと思います。そう考えるなら、マキャベリズムを学ぶことは統合失調症に対してダイレクトに有効であることになるでしょう。統合失調症の患者さんにはとても純粋な人が多いので、その意味では現実の醜さを学び、リアリスティックな処世術を身につけることは自分の心身を守ることに繋がり、悪性の症状としての「否定的分離」をギフテッド的な資質としての「積極的分離」へと導く契機になりえるのではないでしょうか。色々と考えられるところだと思います。統合失調症の問題は本当に面白いですね。天才と狂気は紙一重。まさに至言です。

 

未来の僕たち。過去の僕たち。それらのすべてを愛しつつ、それでも前に進むのです。そんなことができたら、それこそが真の「自己肯定」というものなのではないかという気もします。

 

どの道、優しくない残酷な自分を肯定するだなんて無理です。欺瞞です。ならせめて、優しい人でありたい……そうした願いは至極もっともなものだと思うのです。

 

時代は移り変わっていきます。方丈記

 

その先に何があるのでしょうか? 僕たちの進む先には何が? そういうふうに想像してみます。

 

あるいはアランのように想像力それ自体を偶像崇拝の一種として駆逐するべきでしょうか? 想像は「像」を「想う」ことですから、偶像性に転落する恐れ自体は常にあるでしょう。それは神に繋がっていなければ、生きながらえることができない脆いものです。世界のすべてのものがそうであるように。

 

逆に、和辻哲郎のように偶像を再興するべきでしょうか? 偶像の中に真理を見るという逆説的な仕方によって……。なかなかのアイロニー。確かに一理あります。

 

世の中には多様な事情があります。そして、そうした多様性は尊重されなければなりません。そうでなければ社会どころか地球ごと滅亡してしまいかねないのですから。もしかしたら僕たち人間は滅びるかもしれません。あるいは長らえるかもしれません。それはきっと神以外の誰にもわからないことなのでしょう。

 

さて、あなたはどうしたいですか?

 

僕はどうするべきでしょうか?

 

心身の間にある「リンク」はどのようなものでしょう? 美しい心が美しい形を生み出すのなら、そこにはもはや欺きは存在しないでしょう。

 

欺く者は天に召されることはない……確かにそうでしょう。

 

しかし、どんな悪人も未来の永劫の果てでは悔い改めることができるかもしれません。であるなら、悪人たちでさえ救われる可能性がゼロとなることはないのではないでしょうか。親鸞悪人正機説を持ち出すまでもなく……。

 

真の優しさとはどんなものでしょうか? 愛とは?

 

僕とは何でしょうか? あなたとは?

 

僕たちは優しく、そして力強く互いの手を取り合うことができるのでしょうか?

 

そのすべての趨勢を神の手に委ねましょう。いつもそれが最良のことなのですから。

 

僕たちはなるべくなら正しく、そして愛情豊かに、真心からの信仰を持って進んでいくことにしましょう。

 

どのような所にでも、必ず希望はあるのですから。

 

たとえそこがどんなに汚物に塗れていても、真の美しさを汚すことは決してできないのですから。

 

そう考えると僕の「汚い字」も愛しいものですね。もしも幾許かであっても、僕にも真の美しさが天から与えられているのなら、どうしたってそれを欠損させることはできないのですから。その時、全ての汚物を煌びやかな装飾の如く愛することができるのでしょうから。どんな醜さも清いものとして自他のどちらもを守れる、十分な実力を備えた上で、優しく愛することができるのでしょうから。

 

幾多の惨めな「敗北」さえも糧にして……。

 

 

耳をすませ遠くで今 響きだした音を逃すな 呼吸を整えて

いつかは出会えるはずの 黄金の色したアイオライト

きっと掴んで離すな

 

(米津玄師, 'LOSER', 2016 の歌詞より引用)