魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

兼愛

中国とかの文化ってすごいですよね。儒教とか道教とか。もちろん、日本の文化もすごいとは思いますけど。神道とか。

 

神道では神道自身のことを「種子」と言いますね。神道という大本があって、そこから儒教なり、仏教なりの文化が花開いて実をつけるのだそうです。

 

神道によると、大本は神道なのですが、仏教などがそれに劣っているのかと言うと、そうではないみたいです。と言うのも、無味乾燥な砂も宝石を磨く機能を持ちえるから……ということだそうです。砂と宝石の原石がこすれ合って、やがて綺麗な宝石ができるイメージですね。一見、価値あるのは宝石だけに見えますが、それを精錬する機能を持っているものとしての「砂粒」も実はすごいという感じ。こうした意味では、無味乾燥な砂粒と美しい宝石というのは実はどちらも大切でであるということになります。これに似たことは僕たちの世界にもたくさんあるように思います。

 

根本というのは枝葉末節に助けられることで成立しているし、枝葉末節というのは根本に助けられることで成立しているわけです。それらは一体となって、互いに互いの機能を補い合いながら、共に進んでいく運命共同体なわけです。このように考えてくると、不思議な感じがしますが、とりあえずこの世界に無駄なものは実はないのだ……ということが分かってくるのではないかと思います。

 

では、無駄なものをいたずらに排斥するとどうなるでしょう? そうすると陰ながらにその「無駄」が果たしてくれていた機能が消失します。すると、根本の機能にも支障を来すようになり、バランスを失い、均衡は崩れ、物事の総体としての世界はカオスに陥り、世界上の多様な事物が急激な運動の出現によって崩壊します。こうした崩壊は悲劇として考えられることが多いと思います。崩壊の後に救いを見る方法もないではないですが、できれば、すべての人や物が損なわれることなしに、穏当に救済を受けることができるようなシナリオを探していくのが合理的であるようにも思います。難しいですけど。とても。

 

例えば、ロシアがウクライナを攻撃した、どうして? というふうに問う時にもこうした事情は見ておかねばなりません。一見、ロシアに何の理もないように見えたとしても、実はそうではないかもしれないのです。誰も死にたくないし、戦争なんてしたくないのがデフォルトだとすると、そこには何かの事情があると考えるのが普通だと思います。ロシアの攻撃が完全に無駄であるのなら、それは奇跡的なことです。下らない枝葉末節、一粒の砂粒にさえも、無限の意義があるのです。どうしてロシアという人類の同胞が担っている国の一つが無価値であると言えるでしょうか? それは不可能です。

 

だとすれば、争いをこじれさせるような扇動やプロパガンダにもある程度の効果は認めるにしても、そうした欺きだけでは、平和を回復することは難しいでしょう。そもそもそれなりに意義があるものを否認して、排除するとするなら、その意義ある者達はすべからく排斥者達に牙を剥くでしょう。世知辛いことだと思いますし、攻撃されれば、復讐したくなるのも人情ではあるしょう。それはウクライナもそうであるように、ロシアもそうであろうと考えられます。

 

お互いの事情を無視して、お互いの利益を勘案するのでなければ、残るのは殲滅戦だけです。妥協を排する姿勢は、正義に適っているとは言い難いでしょう。

 

なるほど、確かに世の中に完全なる悪が存在する可能性はゼロではありません。ゼロリスクはないからです。しかし、そうしたことは極めて少ないというのが世の常識であり、またリベラリズムや民主主義の基礎でもあるでしょう。もしも民衆の大部分が悪人であるのなら、民主主義などできるはずがありません。聖人による独裁以外に解決策がなくなってしまいます。しかし、様々な問題を抱えつつも、現在、日本は民主主義を何とか維持し、何とか社会を回してもいるというのも事実でしょう。その意味では、民主主義が完全なる悪であるとは言えないことが分かります。どんなにそこに問題があるにしても、です。そして、これは日本以外の国についても言えるのです。ロシアでも、中国でも、韓国でも、あるいはウクライナでもそうです。どこの国にもその国なりの事情があり、正義があり、文化があり、各々の愛があります。それを排斥されれば、どの国も怒りに身を任せるようなことになっても不思議ではない。自分にとって大切な信念を貶められれば、反撃したくなって当然です。それはウクライナがそうであるのなら、ロシアもそうでしょう。いつも、どちらか一方だけを糾弾する姿勢は間違っているのです。

 

すると、次のような反論が出てくるでしょう。つまり「障害者を殺戮するような事件にも正当性があるということになるのではないか? ウクライナに対するロシアの戦闘を正当化するのであれば……」と。

 

このような不用意な論点の拡大はあまりおすすめはしませんし、念のためにお答えしましょう。僕ならこの質問に対しては、次のように応答します。

 

「なるほど。あなたはウクライナに対するロシアの戦闘を正当化すれば、障害者を殺戮することは正当化されるというふうに考えたいようなパーソナリティの持ち主なのですね。よく分かりました。あなたの中に障害者差別への根深い執心があるということは……。では、あなたが今、障害者達に対して不当な論点拡大を行い、彼らを加害したのと全く同じ無神経な仕方で、私たちはその悪に対抗することにしましょう。ナチズムは沢山の人を殺戮しました。それはあなたたちの言い方を借りるなら完全なる悪であることになるでしょう。絶対に許すべきではない完全なる悪です。如何なる手法を用いたとしてもこれを阻止しなければなりません。だとするなら、どうしてロシアが武力に訴えることを非難できるのですか?」と。

 

つまり、絶対悪としての敵を想定することは、以上のように、確実に自分に返ってくるのです。こちらが敵を絶対悪であると認定し、排斥することは、敵にこちらを絶対悪として認定させ、排斥させることをも正当化させます。「人を呪わば穴二つ」……ということです。誰かの不幸を願うなら、その誰かはあなたの不幸を願うでしょう。誰かを一方的に糾弾して、逃げ道を塞げば、敵も「背水の陣」を展開してきます。その攻勢は必然的に苛烈なものとなるでしょう。何せ逃げ場がないのですから。追い詰められた者が精一杯抵抗するのは当然のことです。ウクライナがそうであるように、ロシアもそうなのです。このような他者の視点を想像するという作法は、ある種の優しさを絶えず磨いていなければ、できないかもしれません。想像力が適切に作用するには、その成長に愛を役立てる以外にはないからです。愛のないものが、長じることはありません。剣を振るうことによって立つものは、丁度その剣によって滅び去るのですから。

 

こうした考察を積み重ねていれば、やはり少なくとも基本の路線としては「愛」以外に突破口がないことは分かるのではないでしょうか? 人を憎み、排除しても、その刃は次の瞬間、自身の身に翻ってくるのです。正義に反する者は、必ず正義に復讐されるように世の中の機構自体ができています。僕たちは不完全で、正しくあることはとても難しい。しかし、そのための奮闘や努力を放棄するのなら、必ず、歴史に報復されることになるでしょう。不正を犯して、自分だけのうのうと幸せになることなど誰にもできないのです。すると、次のような反論があるかもしれません。

 

「絶対の正義などない。だから正義なんて幻想だ」と。

 

僕なら、この論説に対して、次のように応答します。

 

「あなたが絶対神を信仰していないことは分かりました。そしてあなたは唯一の真実であるところの神を幻想であると考えていることも。では、あなたは何を信仰しているのですか? お金ですか? 権力ですか? それらのものがあなたを救ってくれると思うのならば、そうしてみればいいでしょう。しかし、それらがあなたを天国に導くことはありません。偶像崇拝の末路は地獄だからです。……さて、偶像など実は存在しない、ということは分かりますか? この世界の全てが愛すべきものであるということは分かりますか? そうした愛すべき幾多のものを養ってくださる偉大な神の威光が感じられるでしょうか? なぜなら、偶像崇拝を避けるべきとする規範そのものを崇拝することも、偶像崇拝に他ならないからです。だから全てを愛するのが良いでしょう。それがいつも最良のことなのです。全てを喜んでいるのが良いでしょう。それがあなたに与えられた使命なのであるなら。この世界に滅びるべきものなどないのです。全ては愛すべきものです。滅びの恐怖を煽る預言にすらも、あるいはそうした偽典の類にすらも、愛は宿っているのです。あなたに愛を思い出させようとしているのです」と。

 

さて、今一度、問いましょう。

 

あなたが憎むべきものは何ですか? 

 

おそらくそんなものは存在しないことが分かるでしょう。

 

万物に無限の意義があり、価値があり、愛さえあれば、それらのものはこちらに従って、力を貸してくれます。

 

サタンでさえもそうでしょう。

 

愛が勝ちます。

 

だとすれば、どうして僕たちは敵を愛さずにいられるでしょうか? それ以上に、有効なものなど、この世界にはないというのに。

 

愛という偶像さえも通り抜けて、真の愛に向かいましょう。それはもう愛の形をしていないかもしれません。どこまでもどこまでも変化し、万物を渉猟していくのです。理想郷は遥か彼方です。おそらくは真の命もそこにあるでしょう。そして、いつか気づくでしょう。

 

僕たちが探していたものが、すぐそばにあったことに。

 

そうした逆説が世界に満ちていて、そのすべてが僕たちを啓示へと優しく導いてくれていたことに。

 

それがアニミズムだろうと、統合失調症の症状だろうとどうでもいいことです。

 

善きものはもう「そこ」にあるのです。

 

まして、賢いあなたの心にそれが宿らないなどということが、あるはずはないのですから。

 

 

天よ詠え 空よ眩ませ

万花の咲いた 世の果てに

今日の続いたこの夜に

いらないものなどない

 

After the Rain,「万花繚乱」, 2021 の歌詞より引用)