魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

内省

最近、特に思うのですけど、文筆家の方たちってどうしてあんなに大量の文章を書けるのでしょうね。不思議です。思うに大量の文章を書けるというのは一種の才能ですよね。ものすごい集中力とかが必要な気もしますし。

 

僕もブログをやっていますから、ささやかでも文筆家の端くれでありたいな、とは思っているのですが、文筆家の方々はどの方もすごすぎて僕の駄文では太刀打ちできそうにありません(笑)

 

今日の文章は散漫に書いていますが、いつもより速度を落として、優雅に? 書こうと努力しています。僕自身は優雅な人間ではないかもしれませんが、それでも文章にある種の高貴さをもたらすことは可能なのだろうか? という疑問です。力を抜いて、手書きで文字を書くようになるべくゆったりと、しかしもたつかないように、エレガントに……と意識します。

 

そして、ここまで文章を書いて気づいたのですが、エレガントというのはとても難しいです。僕には無理かも(笑) ただ、とりあえず二千字くらいは書きたいので、もう少し頑張ってチャレンジしてみます。

 

僕の戦略は速度まかせなところが大きくて、あまりに慎重さを欠く場合も多いかもしれません。しかし、それはそれでいいのかな、とも最近は思っています。自分の特質も諸々の個性として受忍していければそれはそれでいい気もするのです。

 

何事においても忍耐は大切ですね。本当にそう思います。下手に焦るよりも、何もしない方が有利な場合も多い気もします。世界というのは天邪鬼なところがあって、望むものほど遠ざかり、要らないと思っているものほど近づいてくることもあります。しかし、よく考えてみると、要らないものってまずないんですよね。どんなものも何らかの活かし方があるはずなので。ゴミでさえも適切にリサイクルとかすると有用な資源になりますね。今の科学技術ではどうしようもないゴミもきっと活用できる日が来るのだと思います。こうした希望の持ち方は科学に対して投資し過ぎた考えかもしれませんが、まあ、たまにはそのような気分に浸るのも悪くない……そう思っておこうと思います。

 

筆が乗ってきました。文筆はこうなってくるととても楽しいものですね。逆に、書き始めが大変だったりもするのですが。僕は文章を書くのが好きなのだな、と実感します。こういう時に。散文芸術。

 

散文の特性って本当に不思議です。これは何なんでしょうね。詩とも音楽とも違う。だけど、まったくそれらが通じ合っていないかと言われると、それにも首を傾げざるをえない。そういう不思議。

 

少なくとも言えるのは、散文というのは思考を発展させる偉大な形式なのではないかということです。強いて欠点を挙げるとすれば、多分、それを読むのに時間がかかりがちになったりとか、韻律が散らばりすぎると、記憶がしづらくなったりとか、その辺なのかな、とも感じます。この辺りの問題にはプロの作家の方たちはどのように取り組んでいるのでしょうね。あるいは、そうした人たちは輝く圧倒的な天才によって、そもそも内省さえも放棄し、ただただ芸術の道を邁進していたりするのでしょうか? そう考えても不思議ですし、そうでないとすればもっと不思議な感じもします。上手く言えないのですが。

 

マルクスエンゲルスの『共産党宣言』に目を通していると、すごい洞察力だな、と僕などは感服しきりなのですが、こうした洞察は強靭な内省に支えられているのでしょうか? それともどちらかと言えば、何らかの外的対象への「観察」としてそれらは現れるのでしょうか。このような問題提起も面白いと思います。

 

つまり、内省と非内省の問題です。僕たちは内省するという時に、具体的に何をしていることになるのか……そういう疑問。あるいは、外的対象を観察することと内省はどう違うのか。何が内的で、何が外的なのか。色々な問題提起がありえます。

 

それにしても『共産党宣言』には文筆の深奥が詰まっているように感じられます。文章の端々から。ものすごくレトリックが上手いし、ロジックも抜きん出ているように思います。どのような天才があれば、このような奇跡的なことが可能なのかは正直、僕のような凡俗には分からないのですが、唯一つ言えるのは、「情熱」について。

 

すごい情熱を感じます。情念と言っても良いのかもしれません。優れた作品にはそれがあるように感じられます。

 

例えば、優れた音楽には欺きようのないくらいに誠実な情熱の跡が見てとれるように思います。そういうのも僕はけっこう好きです。

 

一方で褪せることなく、どこまでも冷静に静寂の中にそっと広がっていくようなそういう音楽もあると思います。これも僕はけっこう好きです。

 

熱。冷。

 

熱いのも、冷たいのも、どちらも各々にユニークに価値が宿っています。僕はこういう世界が好きです。多様なそれが。

 

なぜなら、そうすることで互いに互いの独創性を僕たちが積極的に認め合う時、そこには既に美しいユートピアが花開いているように思われるからです。

 

人を排斥するよりは愛していたいものだな、と思います。

 

その愛が内省的であるにせよ、何らかの外的対象に向かうものであるにせよ。