魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

防犯術(情報の窃盗の抑止について)

情報はとても大切なものです。それは人の命を損なうことも、利することもできます。したがって、情報を守ることは非常に大切であり、そうした貴重な情報の窃盗を抑止することもまたかなり大切です。

 

まず、「なぜ情報の窃盗がダメなのか?」について考察してみましょう。

 

情報の窃盗が横行すると、その情報を創出した人たちに利益が適切に支払われなくなります。これは情報の搾取になりますので、情報を積極的に発信するよりも、情報を積極的に隠蔽した方が有利な状況を作り出します。結果として、社会における情報の共有が困難となり、必要な情報が必要なところに行き渡らなくなってしまいます。そうした情報が極めて重要なもの(医療的な知識など)である場合には、こうした事態は極めて深刻なものになってきます。つまり、その適切な医療情報が社会に共有されていれば救える命が、情報の窃盗の横行によって情報の発信が抑止された結果、救えなくなってしまいます。以上のことから、情報の窃盗というのは、社会の公益に著しく反する重い犯罪であり、それは時に少なくとも間接的には殺人罪に加担するものであると言えます。

 

さて、情報をなぜ盗んではいけないのか? という問いについては以上の解答で十分かと思います。

 

では、次に、どのようにして情報の盗人を社会から排除し、社会の公益を守ればいいのかという具体的な手法について考えてみたいと思います。

 

まず有力な情報の共有が社会において促進されるためには、その情報の発信者に適切な対価が支払われている必要があります。そうした重要な情報の作成には多くの労力がかかっており、それらを盗み奪うことは搾取に他ならないからです。こうした事情に対応するために「著作権」と呼ばれる一連の制度があります。著作権に関する制度は何らかの情報の著作者に対して適切な対価を支払わせようとする傾性を持ち、これによって社会における適切な情報共有の奨励という公益を達成しようとします。しかし、この制度にも限度があり、著作権が強すぎると、せっかく有力な情報が共有されても、そうした情報の上にさらなる達成を築き上げることが難しくなります。例えば、著作権は「引用」の例外などを認めることで、そうした「さらなる達成」の機能を阻害しないように努めていますが、こうした引用の作法も詭弁によっていくらでも締め上げることが可能であり、そうなれば多くの人たちから引用の権限などが剥奪され、やがて情報発信は先細り、文化は息絶えることになるでしょう。

 

以上のことから、著作権というのは諸刃の剣であることが分かります。著作権がなければ、情報の盗人を社会から排除できませんし、著作権が強すぎると人々の情報発信が抑制され、場合によっては文化ごと破壊されることになります。

 

したがって著作権は原理的に常に確率的な何割かの公益の損失を生み出します。それはなるべく中間域にその強度を保つことで、ある程度の効力は発揮可能ですが、やはり万能ではないのです。

 

よって、情報の発信者は情報の窃盗に対して「自衛」することが大切です。具体的には、どのような自衛が考えられるかというのを一例だけ挙げ、解説してみましょう。あまり解説しすぎると、盗人たちにセキュリティの手の内を明かしてしまうことになり、非常にリスキーですので、ある程度の秘密を保ったうえでの説明になってしまいますが、その点は現実的にやむを得ない点ですので、ご了承ください(本当は教えられることはすべて教えたいのですが、情報の盗人のようにそれらの知識を「悪用」する人たちがいる限りは、やはり「秘密」を守ることはどうしても重要になります)。

 

まず、「盗人」の特性を正確に把握しましょう。盗人の盗人たるその特性とは基本的にはその「低能性」にあります。例えば、知的能力が十分に高い人の場合には、そもそも他人から情報を盗まずとも自力で独自の情報を構成してしまった方が速いので、そうした窃盗罪を犯すことはないものと考えられます。したがって、窃盗を犯す盗人にはこうした低能性という特性があることが分かります。

 

例えば、あなたの情報が盗まれている場合には、その盗人よりもあなたの方が能力が上位であることを示しています。したがって、情報の盗難が確認された場合には、その盗人に対して適切な「知能戦」を仕掛けることで、そうした敵対者を制圧できる可能性が高いと考えられます。知能においては、窃盗の加害者よりも被害者の方が上位だからです。

 

以上のことから、常日頃から自分の知能を養成すること、そして発信する情報に盗人だけに特異的に悪影響を及ぼすような「毒薬」をあらかじめ仕掛けておくことが有効です。

 

窃盗は基本的には悪に分類されるもので、これは多くの宗教に共通しています。ただし、また言えるのは、常に正当防衛的な現象も担保されているということでしょう。つまり、盗みにはある程度のレベルで、盗みによって応じることが有効です(この点については「感情窃盗術」という記事がこのブログ内にありますので、適宜ご参照ください)。

 

例えば、その情報の盗人が著作権に抵触していれば、法的手段に訴えることである程度は自分の情報を守ることができ、そのことによって他の著作者たちが安心して情報を発信できるような仕組みを整理する助けとすることができるでしょう。このように法的な手続きによって盗人に対し「盗みをし返す」ことは法的にも許容されています。盗まれたら、法律の枠組みに沿って反撃することができます。これも一つの手段でしょう。

 

しかし、先述の通り、法的な著作権も決して万能ではありません。そこで、情報の発信者が各自で「自衛」することが要請されるのでした。では、具体的にどのような自衛が考えらえるのか? それが「情報の毒薬」です。

 

ただし、そうした「毒薬」が致死性のものであったり、過剰な反撃性を有する場合にはこれは「過剰防衛」になりえますので、注意が必要です。基本となるのはハンムラビ法典であり、「目には目を歯には歯を」となります。つまり、「盗みには盗みを」ということですね。

 

また、過剰防衛を徹底して避けるためには、その盗みが相手の盗みと同等程度の害を相手自身だけに特異的に及ぼす必要があります。

 

これを把握するためには、まず盗人の特性を分析し、その主体の構成因子に独自の特徴に狙いを定め、正確に「情報的な」「狙撃」をする必要があります。

 

先述のように公益の観点から詳しくは書けないのですが、例えば、先述のように窃盗犯の主体としての特性の一つにはその知的低能性があります。したがって、知的土壌において彼らに戦いを仕掛けるように持っていくことができれば、彼らに勝利することができます。低能な人の特徴にはまた、「偶像崇拝」などがあります。つまり、彼らは神ではなく偶像を崇拝しているので、その認識が根本的に混乱しているという特徴があります。したがって、そうした無秩序性に狙いを定め、情報的に狙撃すれば、そうした情報は悪人からだけ奪い、善人にその資本を流入させる機序として機能させることが可能です。しかし、こちらの能力に関する査定能力が「盗人」と思われる主体よりも劣っている場合には、こちらが敗北します。その場合には、こちらよりも相手の方が知的能力において上位だったのであり、つまり、その主体の盗みは何らかの「正当防衛」であった可能性が高くなります。その場合には、深追いすれば、かえってこちらの破滅につながります(相手の力量の方が上ですから)。いずれにせよ過剰防衛のリスクを避けるためにも、その場合には、撤退するべきでしょう。

 

非常に簡単に言えば、情報の盗人が情報を盗んだ場合にだけ発動する情報的な「爆薬」のような情報をあらかじめ情報に仕掛けておく……ということになります。こうした機構を実装するための最大の知恵は、確実に「神様に仕える」ことなのですが、それができない場合には、何事も努めて精進し、あらかじめ自分の知的能力を向上させておくことが最も有効でしょう。それによって敵の「クラッキング」に対して「ハッキング」で対抗することが大切です。

 

また、この記事のような「盗みがなぜダメなのか?」という機軸を発する情報を普及しておくのも手でしょう。多くの場合、盗人も魔が差して罪を犯しているだけであり、それほど強固な「悪人」というのはまずもっているものではないからです。だから、彼らの良心を適切に賦活できれば、彼らを罪による死の道から救い出すことも、ある程度は可能かもしれません。その点は、彼らの心の清らかさにかかっており、僕たちには如何ともすることはできないのですが。その人の心をどうにかできるのは、当事者自身と神様だけだからです。しかし、それでも僕たちは、自分たちにできる限りの善行を積む必要があります。その意味でも、盗みという罪を犯す罪人が生じてしまわないように、ある程度の牽制をかけ、犯罪を抑止することは社会の公益に適う上に、倫理的にも重要であると言えるでしょう。

 

そして、言うまでもなく、情報上の最大の自衛は「沈黙」にほかならず、要は「沈黙は金雄弁は銀」ということになります。また、「秘すれば花」と言ってもいいでしょう。それが結局は盗人のような悪人に罪を犯させないためには重要で、彼らが罪を犯す「芽」をあらかじめ摘むことができれば、犯罪を完全に近く抑止することもまたできます。究極的に言えば、「世間に広まって困る情報はそもそも言及しない方がいい」ということでもあります。

 

さて、今日の記事のポイントをまとめてみましょう。

 

1.神様に仕えるか、それが可能でない場合、何事も努力するようにしよう。

2.公益のためには秘密にするべきこともある。

3.盗まれて困る情報は、本当に信頼できる人以外には秘密にしよう。

 

今日は以上です。色々と物騒な世の中ですので、みなさんも色々と用心なさってくださいませ。

 

本当は「著作権」のような性悪説的な制度はないで済む方がいいんですけど、情報の盗人が存在する限りは、これらをなくすことは難しいように思います。

 

ちなみに僕のこのブログについては、社会の文化の発展に効率的に貢献するために著作権は放棄しているので、自由にご自分で考えて使用してくださってけっこうです。ただ、当たり前ですが、その使用に際しては必ず「善意」に基づいてください。「悪用」は絶対にやめてくださいね。人を金づるにしたりとか詐欺にかけたりとかそういうことには決して使わないでください。倫理や法律は基本としてちゃんと守りましょう☆ 特段の事情がない限りは。

 

ではでは~♪