魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

呪うこと、祝うこと

心理学的な「解離」の病態については諸説あり、そのひとつには「スペクトラム」の概念を援用するものがある。

心身の解離から解離性同一性障害まで、解離という現象を一連のスペクトラム(連続体)でとらえる考え方がある。(藤岡孝志, 『不登校臨床の心理学』, 誠信書房, 2008, p.45)

解離性同一性障害はいわゆる解離と呼ばれる症状の中ではかなり重い部類のものとして捉えられるが、そうした「程度」の問題というのには多種多様な困難がある。例えば、それらの程度を「アナログ信号」として捉えるか、それとも「ディジタル信号」として捉えるか……その如何によってそうした「量」への印象は変化してくるだろう。私たちの住んでいる社会には今や様々なディジタル信号があふれていると言えるが、そこには幾多の「量子化誤差」が予め内在されていることには常に注意しておくべきである。

アナログ信号とその量子化後のディジタル信号の両者の振幅情報には、差を生じるのが一般的であり、これを量子化誤差 quantization error や量子化雑音 quantization noise と呼ぶ。(桂川茂彦, 『診療放射線技術選書 医用画像情報学』, 南山堂, 2016, p.40)

量子化誤差の概念を多面的に捉えてみよう。これは量子化の作用によって、アナログ信号というシグナルとディジタル信号というシグナルの両者に何らかの「差異」が生産されるという現象に特に着目した理念であるが、これはつまり、何らか同様の現象を表現する場合でも、そのシグナルを組織する理念の種類によって、その後に展開される帰結が多種多様に異なってくることを示している。この事情は――つまり量子化誤差におけるようなそれ――はディジタル信号のような何らかの人工の機械を特に射程とする理念以外にもその威力を発揮する。例えば、ベルゴニ―・トリボンドの法則によれば、生体内の「組織」という概念それ自体を放射線医学の領野においてかなり有意義に分析することができる。こうしたことが可能なのは、生体が持つ細胞内の「組織」という概念自体がその「翻訳」時において既に多種多様な「量子化誤差」を幾多の異分野に対して持ち、またその原理的に産出される誤差ゆえのあらかじめの「ミス」を許容せざるをえないという、一見すると正確性の観点からは歓迎し難い事情から生じる。

組織の放射線感受性について, 一般に以下に示すようにベルゴニ―・トリボンドの法則 Bergonie tribondeau's law, 1906年, として知られている.

   ①細胞分裂頻度の高いものほど, 組織の放射線感受性が高い.

   ②将来, 分裂回数の大きいものほど, 組織の放射線感受性が高い.

   ③形態および機能において未分化のものほど, 組織の放射線感受性が高い.

すなわち, 各組織の照射後の生存細胞数はその放射線感受性と分割期間中の増殖率等できまると言える. (西臺武弘, 『放射線治療物理学』, 文光堂, 2007, p.79)

上記の引用の通り、ベルゴニ―・トリボンドの法則によれば、組織の放射線感受性を規定する要因は、細胞分裂の頻度、将来の分裂回数の大きさ、形態および機能の未分化性に依存的であることが分かる。ここで特に注目すべきは、「現在の」細胞分裂の頻度のみならず、「将来の」分裂回数の大きさまでが放射線感受性に影響を与えるという事実である。因果的な経路としては、過去から未来へと流れる観点を取るのが普通であるが、ここでは逆に未来の現象を予測的に観察することによって、かえってその組織の「現在の」放射線感受性を推定することができると考えられるのである。こうした複雑な時系列についての観念の錯綜は何を意味しているのだろうか? おそらくそこにはある「リズム」が存在するだろう。しかし、それは短期的には著しく錯綜しており、ランダムで無意味なシグナルを形成している。そこで長期的視野に立つことの有効性が生じうる。例えば、医学において心電図を見る際には、どれか1つの誘導でも長めに記録した心電図を検討する必要があるとされているが、これはある心臓における病理的なパターンを認識する上でも、こうした「長期的視野」を大なり小なり必要とするという事情そのものをシグナリングするものである。

調律 (rhythm) を正確に診断するには, どれか1つの誘導でも長めに記録した心電図を検討する必要がある. (Andrew R. Houghton, David Gray, 『ECGブック 心電図センスを身につける』, 村川裕二, 山下武志ら訳, メディカル・サイエンス・インターナショナル, 1998, p.27)

さて、ある現在におけるリズムが組織する何らかの「細胞」、今この時におけるそれを捉える際にも、長期的な視野、つまり、時系列的なものの見方というのは最重要であると言えるだろう。それでは、長期的な視野だけが特権化され、瞬間的、刹那的視野が侮蔑されねばならないことになるが、はたしてそれでいいのだろうか? この問いについては、おそらくそうではない、と答える必要がある。多くの現象において、両極端に至る現象は自ずと崩壊してしまう性質があり、過剰なものは崩壊を原理的に胚胎しているからである。その崩壊の前触れとしての「不快」は私たちにちょうどいいバランスを保たせる働きを持っている。気温と私たちの身体の機能性との間の相関の例はこの問題について非常によく表現している。

暑さ, 寒さは人間の覚醒度と行動性を低下させる. (軽部征夫, 『医療従事者のための医用工学概論』, オーム社, 2009, p.98)

しかし、究極のバランスは、究極の統一を意味し、それらはすべてのものを一なる神の下に調和させる機能を持つ。これは一見、素晴らしいことのように思える。しかし、その場合、今この時の「私たち」という存在はこの世から完全に抹消され、また完全に不要な産物でなければならない。なぜなら、全知全能の神が抹消する存在に、寸分の意義もあってはならないからである。しかし、そうだとすれば、神が私たちを生み出したことに合理性が皆無であることになり、神は全くの無駄な行為を為したということになるだろう。これは誤っている。なぜなら、神の御業は如何なる場合にも、完全に善きものへと統一されているはずだからである。だからこそすべての悪をも愛で溶かすことができるわけである。また、神の御業はすべてのものに対し、その隅々まで及ぶのだから、それは特異的なものと言うより、極めて「普遍」的なものであることになるだろう。著しく特異性の強度が低いわけである。この場合、神の下にある万物はすべて互いに調和的な相互作用を持たねばならない。これについてはいわゆる薬物相互作用における生理学や薬理学などの知見が呈する論理構造が参考になるだろう。

CYPは基質特異性が低いために, 1つの酵素が複数の薬物の代謝に関与している。したがって, 同一のCYPで代謝される薬物を2つ以上投与すると互いに影響し合い, これらのうちCYPに対する親和性が強く, かつ代謝されにくい薬物が阻害薬として働く。(藤村昭夫, 『疾患別 これでわかる 薬物相互作用』, 日本医事新報社, 2000, p.9)

以上の引用におけるCYPの事例がそうであるように、一つのものが複数のものに関与する時に「相互作用」が生じる。これは原理的なものであるが、もちろん実践的な機制にも多大な影響を及ぼし、この心理的なスキームそれ自体が既に私たちの文化を有効に構成する機序をもたらしているのである(現に、ある程度にせよ、有効な「薬物」の構成に人類は成功している)。

さて、神学的帰結はひとまず保留するにしても、こうした相互作用を生起する原理には様々な実りがある。例えば、薬理的な様々の化学構造の相克がそれを如実に表している。それと言うのも、ある原子なり分子なりが別のそれらに対して相互作用を持つという、化学が一般に持っている理論の構造がその傍証となるために、ここに「微粒子の哲学」が提起しえるのだと言えるから。微粒子の哲学はそもそも幾多の切断による分析的な手続きによって生じる位相である。それは自然であるよりも、時に人工的でさえあるが、実際にはそうした何らかの工学的な機序自体は自然の幾多の生命も使用しているのである。

菌体はタンパク質, 核酸, 多糖体, 脂肪, 水などで構成されている。増殖するためには, 外界からブドウ糖などの炭素源, アミノ酸などの窒素源, ナトリウムなどの無機イオン, ビタミンなどの栄養素が必要である。(廣田才之, 『食品衛生学 改訂版』, 共立出版株式会社, 2007, p.26)

以上の引用から、菌体の構成要素は複数の「種類」を持っており、そうした分析的な要素の集合として菌体の組織は与えられている。ここでホーリズムの観点に立つなら、そうした要素の視点と総体の視点は極めて異質なものであることにもなる。そして、こうした分析的な差異の産出の帰結――ここに演繹された理論の経路それ自体――こそがそもそも人工的であり、分析的な機序に依っていることが分かる。

また、菌体はその「増殖」に際して、炭素源や窒素源といった多種多様な源泉による栄養素の共有を必要とする。究極的には、そうした「栄養素」は無限大の要素を持つ。まずもって厳密に数え上げることは、少なくとも現在の私たち人類には不可能であろう。

以上の帰結をそのままに斟酌すると、この世界のありとあらゆるシグナルがそもそも原理的に誤差を持ち、絶えず互いに差異化し、ブルデューも真っ青な「ディスタンクシオン」を永久に繰り広げる生存競争的な地獄のようにも見えるかもしれない。しかし、そうではない。

なるほど、確かにすべてのものには隅々に至るまで固有の賜物は行き渡っている。代替可能なものなど何一つないし、コピーできるものも何一つとして存在しない(すべての存在が一回だけのものなのだから!)。すべてのものは誤差によって隠され、少なくともその「全貌」は明らかではない。そして、重要なのは、それなのに「神秘はある」という事実である。神秘は無限に解体できる。しかし解体する人々、そのように偶像崇拝の「死骸」を愚弄している人々が死に魅了されている間に、私たちはより先に進み続けることができる。私たちには未来があり、希望がある。人、動物、植物、あるいは菌体に至るまで、万物は固有のものとして愛され、祝福されているのである。紛れもなく、神によって。

神にはすべてが可能である。その御意志が問うているのは、私の心、意志であり、あなたの「それ」である。

 

目一杯の祝福を君に

 

(YOASOBI, 「祝福」歌詞より引用)