魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

内省

最近、特に思うのですけど、文筆家の方たちってどうしてあんなに大量の文章を書けるのでしょうね。不思議です。思うに大量の文章を書けるというのは一種の才能ですよね。ものすごい集中力とかが必要な気もしますし。

 

僕もブログをやっていますから、ささやかでも文筆家の端くれでありたいな、とは思っているのですが、文筆家の方々はどの方もすごすぎて僕の駄文では太刀打ちできそうにありません(笑)

 

今日の文章は散漫に書いていますが、いつもより速度を落として、優雅に? 書こうと努力しています。僕自身は優雅な人間ではないかもしれませんが、それでも文章にある種の高貴さをもたらすことは可能なのだろうか? という疑問です。力を抜いて、手書きで文字を書くようになるべくゆったりと、しかしもたつかないように、エレガントに……と意識します。

 

そして、ここまで文章を書いて気づいたのですが、エレガントというのはとても難しいです。僕には無理かも(笑) ただ、とりあえず二千字くらいは書きたいので、もう少し頑張ってチャレンジしてみます。

 

僕の戦略は速度まかせなところが大きくて、あまりに慎重さを欠く場合も多いかもしれません。しかし、それはそれでいいのかな、とも最近は思っています。自分の特質も諸々の個性として受忍していければそれはそれでいい気もするのです。

 

何事においても忍耐は大切ですね。本当にそう思います。下手に焦るよりも、何もしない方が有利な場合も多い気もします。世界というのは天邪鬼なところがあって、望むものほど遠ざかり、要らないと思っているものほど近づいてくることもあります。しかし、よく考えてみると、要らないものってまずないんですよね。どんなものも何らかの活かし方があるはずなので。ゴミでさえも適切にリサイクルとかすると有用な資源になりますね。今の科学技術ではどうしようもないゴミもきっと活用できる日が来るのだと思います。こうした希望の持ち方は科学に対して投資し過ぎた考えかもしれませんが、まあ、たまにはそのような気分に浸るのも悪くない……そう思っておこうと思います。

 

筆が乗ってきました。文筆はこうなってくるととても楽しいものですね。逆に、書き始めが大変だったりもするのですが。僕は文章を書くのが好きなのだな、と実感します。こういう時に。散文芸術。

 

散文の特性って本当に不思議です。これは何なんでしょうね。詩とも音楽とも違う。だけど、まったくそれらが通じ合っていないかと言われると、それにも首を傾げざるをえない。そういう不思議。

 

少なくとも言えるのは、散文というのは思考を発展させる偉大な形式なのではないかということです。強いて欠点を挙げるとすれば、多分、それを読むのに時間がかかりがちになったりとか、韻律が散らばりすぎると、記憶がしづらくなったりとか、その辺なのかな、とも感じます。この辺りの問題にはプロの作家の方たちはどのように取り組んでいるのでしょうね。あるいは、そうした人たちは輝く圧倒的な天才によって、そもそも内省さえも放棄し、ただただ芸術の道を邁進していたりするのでしょうか? そう考えても不思議ですし、そうでないとすればもっと不思議な感じもします。上手く言えないのですが。

 

マルクスエンゲルスの『共産党宣言』に目を通していると、すごい洞察力だな、と僕などは感服しきりなのですが、こうした洞察は強靭な内省に支えられているのでしょうか? それともどちらかと言えば、何らかの外的対象への「観察」としてそれらは現れるのでしょうか。このような問題提起も面白いと思います。

 

つまり、内省と非内省の問題です。僕たちは内省するという時に、具体的に何をしていることになるのか……そういう疑問。あるいは、外的対象を観察することと内省はどう違うのか。何が内的で、何が外的なのか。色々な問題提起がありえます。

 

それにしても『共産党宣言』には文筆の深奥が詰まっているように感じられます。文章の端々から。ものすごくレトリックが上手いし、ロジックも抜きん出ているように思います。どのような天才があれば、このような奇跡的なことが可能なのかは正直、僕のような凡俗には分からないのですが、唯一つ言えるのは、「情熱」について。

 

すごい情熱を感じます。情念と言っても良いのかもしれません。優れた作品にはそれがあるように感じられます。

 

例えば、優れた音楽には欺きようのないくらいに誠実な情熱の跡が見てとれるように思います。そういうのも僕はけっこう好きです。

 

一方で褪せることなく、どこまでも冷静に静寂の中にそっと広がっていくようなそういう音楽もあると思います。これも僕はけっこう好きです。

 

熱。冷。

 

熱いのも、冷たいのも、どちらも各々にユニークに価値が宿っています。僕はこういう世界が好きです。多様なそれが。

 

なぜなら、そうすることで互いに互いの独創性を僕たちが積極的に認め合う時、そこには既に美しいユートピアが花開いているように思われるからです。

 

人を排斥するよりは愛していたいものだな、と思います。

 

その愛が内省的であるにせよ、何らかの外的対象に向かうものであるにせよ。

統合失調症の人との接し方

今日は、統合失調症の人と仲良くする方法について考えてみたいと思います。

 

現状では、大きくポイントは二つ考えられます。

 

1.なるべく愛を以って接する

2.なるべく欲求不満を生起させない

 

まず「愛」を以って接するのは相手が統合失調症の人に限らずとも、対人関係全般における基盤ですね。統合失調症の人が例外的に異質だということはないので、愛の重要性という指針も揺らぎません。

 

次に、「欲求不満」を統合失調症の人に意図的に生起させるような手法は害悪でしかありません。一般に、欲求というのは虐げられたり、迫害されるほどに肥大しやすく、何らかの被害体験や心の傷を刺激されるごとに、その強度を増します。例えば、自己愛性パーソナリティ(ナルシシズム)のような例を考える場合でもそうで、彼らは確かに周囲の人に迷惑をかけることもあるかもしれませんが、彼らのしていることは、彼らが「今までにされてきたこと」でもあります。つまり、被害者が加害者に対して「復讐」しているだけなわけです。ハンムラビ法典ですね。目には目を、歯には歯を。統合失調症の人の場合でもそれは同じで、例えば何らかの妄想症があるとして、それを単純に「肥大した権力欲によるものだ。そんな人と仲良くなろうとしてはいけない」などと言って、分断を煽り、患者を孤立させることは、より被害者達の妄想を強化することにつながりかねないと思います。妄想のある人には正義や愛を特に大事にする人もいて、そうした人は他者からのコントロールや不正な支配及び攻撃に対して非常に敏感に反応する性質があります。少しでもこちらが相手に敵意を抱いていれば、そうした悪意はすぐに見透かされてしまうでしょう。結果として、妄想による防衛反応が起きてくると考えられます。彼らは被害者であり、妄想によって自分を守っているだけなわけです。ある種の正当防衛ですね。

 

特によくあるパターンは患者の方では特に(妄想などの精神的)武装をしていないのに、医療者の方で「統合失調症の人はこういう人だから」と先入観を抱いて、それを患者に強制的に押し付けようとするパターンです。それによって医療者の方では自分の見識は正しいというふうにその「肥大した」自己愛を満足させようと、患者を攻撃するわけですね。僕もこうした瞬間を見たことはあります。感情の機微やコミュニケーションの機微に悪意をにじませていますので、現時点で公的に立証するのは難しいかもしれませんが、いずれ現行の医療者達のそうした姑息な虐待の数々が明るみに出る日は来るでしょう。神はどんな微妙な不正も正確無比に公平に裁いてくださるだろうからです。仮に僕たち統合失調症者が「弱者」であるとして不当な差別を被っていたとしても、僕たちが正しくある限りは、神は僕たちを捨てないでしょう。それくらいに正義というのは大切なものです。

 

さて、現行の医療組織における査定が公平に行われる可能性は今後も非常に低いと思います。彼らは愛するのではなく、愛を剥奪することを目指し、楽しませるのではなく、苦しませることを目指します。愛のない世界は剣の鳴り響く修羅の世界であり、苦しみの極致は地獄そのものでしょう。

 

以上のように、現行の医療的な状況の場合には、主に、患者の周囲にはオープンダイアローグ的な意味をも含めた「愛」が不足しており、また患者たちは現行の法の網の目を通過できるような患者を欲求不満に陥れて餌を投入することでコントロールや支配を為すことを意図する類の「細かな虐待」を日々受けることで学習性無力感としての一種の無為自閉的な徴候を呈しているように見られる場合もあります。

 

確かに、欲求不満は大なり小なり誰にでもあるものであるし、正義に適った真の愛など健常者でもそうそう得られるものではありません。しかし、少なくとも、「治療のため」と嘯きながら、患者を意図的に欲求不満に陥れてコントロールしようとしたり、意図的に患者から愛が生じうる機会を剥奪することは完全に間違いであると言えるでしょう。

 

まず、統合失調症者達は、以上のような多くの不正な差別と虐待を被っているのだ、ということは確認しておきます。

 

その上で、彼らにどのように応対すべきか? と問います。

 

ここまでくれば、明瞭に理解できるように思われます。不足しているものを補い、過剰なものを剥ぎ取ればよい。

 

つまり、統合失調症者達から奪われている愛や欲求の充足を、少なくとも健常者と同レベルの水準まで回復する(アファーマティブアクションはありえる)。統合失調症者達に強いられている不正な偏見やスティグマ、虐待的なロジックを適宜解除する(適切な弁護者と悪と戦えるだけの知能を統合失調症者の方でも養成し、公益に貢献する姿勢が大切)。

 

簡単に言うと、

 

1.統合失調症を治癒させるのは(オープンダイアローグ的なものも含めた)愛である。

2.現行の治療環境は患者から愛を奪い、患者を欲求不満に陥れることで支配している。

3.精神疾患の患者は感受性が鋭く、治療者の悪意やコントロールに敏感に反応する。

4.治療者が悪意による攻勢を仕掛け、それに患者が応戦する形で妄想などが展開する。

5.先制攻撃したのは治療者である場合が多いが、治療者はそれを偏見で隠蔽する。

6.現行の治療環境は、真の「治療」から遠ざかり、人を支配する方策を醸成している。

7.現行の精神医学には多くの問題があるが、一つは患者を孤立化させる傾向である。

8.対策としては、端に健常者と障害者に機会の平等を提供できればひとまずはよい。

9.例えば、患者から人間関係を剥奪しない、愛を阻まないなど当前の倫理観が大切。

10.当たり前のことを当たり前にできれば、理論的に統合失調症は何らか改善しうる。

 

というようなポイントがあるように思います。

 

具体的な統合失調症者への対人手法としては、「普通に愛を以って接することができれば、一番善い」ということです。その際に、なるべく相手を支配したり、コントロールしようとしないことも大切です。統合失調症の人が基底欠損状態とでも呼べるような状況にある場合には、彼らは心を見通すある種の千里眼のような能力を発揮できる場合があります。かなり些細な悪意でも正確に読み取られてしまう場合もあり、その意味で彼らには「鏡」のような性質があります。彼らの心にはそっくりそのままこちらの心が映っていると考えると分かりやすいでしょう。こちらが悪意に飲まれていれば、そこには悪意が映りますし、こちらが善意で接していれば、そこには善意が映ります。支配欲があれば、支配欲が映し出されますし、下心があれば、下心が映し出されます。統合失調症当事者の自我が消退している場合(自我障害)には、特にそうであるように思われます。彼らにはエゴを消し去り、自他境界を溶かし、相手に同化する一種の心的能力があります。

 

さて、仁者無敵、という言葉があります。

 

本当に相手を愛することができるなら、それこそがどんな治療薬よりも治療的なものとなるでしょう。

 

今日は以上です。

 

 

この身体を受け入れ

共に行こう 名前のない怪物

 

(EGOIST, 「名前のない怪物」,2012 歌詞より引用)

 

創意工夫

最近、農学の本を読んで、「突然変異」って何なんだろうなって疑問です。突然変異は謎ですよね。謎だけど、凄まじく強力な概念ではあるのだろうな、と思います。ある意味、統合失調症とかも遺伝子の働きが関連して発症する可能性もあるという説もありますし、それは「進化」というか何らかの突然変異なのかもしれないですね。そういうふうに捉えるとなんか統合失調症はかっこいい気がしてきます(笑) 何事も捉え方次第な面はありますね。どうせ事実は変わらないので、何でもいい方に捉えてしまえばお得。無理にネガティブになって苦しむ必要もないですからね。ポジティブに統合失調症にも積極的な価値を見出していけばいいのだろうな、と思います。

 

それにしても、文章を書くと割りと色々な発見がありますね。言語は発見装置であるという説もありますから、言語を用いているうちに、色々な発見があるのはある種当たり前の事なのかもしれません。だけど、不思議です。言語という無数の組み合わせを好きにいじっているうちに、これほどに数多の発想の奔流が生じるというのは。精神医学的に言えば、こうした思考の奔流は「自生思考」とか「観念奔逸」ということになるのかもしれませんが、これほど有用な機能はなかなかないように思います。どんなものも用いようです。使い方を工夫すれば、名器に化ける。これも不思議な機構ですが、世の中ってそういうものなのでしょうね。創意工夫ができる人が断然有利。何でもプラスに活かしてポジティブライフを送っていきたい。

 

読書術などの本を見ていると、世の中には本当に色々な読書の手法があって、読書というのは奥深い技能なのだな、としみじみ感じます。読書というのは凄まじく高度な技術だと思いますが、その割に文字が読めれば、誰でも挑戦できるという敷居の低さもあります。どんなものでも高度にやり遂げるのはそれは大変でしょうけど、それでもみんなそれぞれにそれぞれの必要なものを必要な分だけ使用して、ある程度はエコロジーにも配慮しつつ、資源を有効活用していけるといいな、と思います。

 

それで、最近考えるんですけど、ぼやけた視界とクリアな視界ってあるじゃないですか。例えば、視力が弱めだと、眼鏡とか必要になると思うんですけど、世の中には多分、ぼやけた世界とクリアな世界があるんですよね。僕は視力が弱いので、眼鏡を使用することで、このどちらもの世界を経験できるのですが、これも一種「弱さ」の持つ特権ですね。弱いからこそ経験できることがある。つまり、このぼやけた世界というのは視力の強い人には持つことのできない貴重なものなのだと思います。そこで僕のアンテナがビビッと反応するのですが、つまり、これも有効活用できれば、徹底的に武器にできると思うんですよね。ぼやけた世界独特のファジーな論理性と細部に囚われない概括的把握の様式には何か黄金が眠っているように思われます。もちろん、細部に注意を払う時には、眼鏡とかあるいは顕微鏡とか、そういう道具を用いることもだいぶ有効だと思いますけど、ぼやけた視界やその世界を上手く活かすことができれば、それは圧倒的なアドバンテージになると思うんですよね。ここに宿るファジーな感覚って認知的複雑性とか曖昧さ耐性などの概念とも相まって、非常に強力だろうとも思います。ぼやけたファジーな世界の持つ芸術性、あるいはその思想性、そこにしかない感覚、センス、そうした圧倒的な経験の渦。大切にしていきたいものだな、と思います。

 

何が言いたいかと言うと、つまり「どんなものもやりよう」ということです。この世界には絶対的なプラスというものも存在しませんが、逆に絶対的なマイナスというものも存在しません。つまり、どんなものも、ヴェイユが言うところの「充溢せる注意」というようなものを対象に注ぐことで必ず圧倒的な武器に化けさせることができる訳です。これも魔術の基礎的な原理に数えてもいいくらいかもしれませんね。創意工夫が大切。

 

例えば、もしかすると、癌細胞を活用する方策もあるかもしれないですね。癌細胞が例えば、限度なしに増殖できる力能を持った細胞であるとすれば、それってある種の不死性じゃね? ってことになってくるので、それって不死への切符ですよね。もしもその細胞分裂の機制を細かに制御して、他の細胞との調和と均衡を回復できるような心理的技法があれば、手術も化学療法も放射線療法もなしに、癌を回復できるばかりか、健常者よりも癌を活用する分だけのアドバンテージを得ることも可能になります。それってできたらすごくいいと思うんです。病気で悲しむ人が減ると思いますし。

 

思うに、癌という病にも何か積極的な意味があるはずなのです。それが現代の科学技術では上手く活用し切れないだけで。そういう無益であると、あるいは無駄であると、マイナスであると切り捨てられているゴミのような現象の数々を上手に再構成して、活用するのが魔術の基本です。今後も、色々な研究を重ねて、できることなら、癌を患っている方々の希望になるような方策を少しでもいいから見つけられるといいな、と思います。そのためには、やはり、ありったけの本に目を通すことも必要ですし、そうなると寿命を延ばしたりとか、そういう技術によって上手く記憶や経験を自分の中に長期間蓄積する仕組みなどを構築する必要性も出てきて大変ですが、一度しかない人生ですし、上手くいけば救える人が山のようにいることを考えても、挑戦する価値は十分にあると思いますね。極めて難しい問題なので、僕の人生は塵となるかも(笑)

 

まあ、未来のことは誰にもわかりませんから、ぼちぼちマイペースに頑張っていきたいものです。

 

みなさんも自分にできる「創意工夫」を積み重ねてみてください。ゆくゆくはそれが誰かの傷ついた心を癒すことができるかもしれません。

兼愛

中国とかの文化ってすごいですよね。儒教とか道教とか。もちろん、日本の文化もすごいとは思いますけど。神道とか。

 

神道では神道自身のことを「種子」と言いますね。神道という大本があって、そこから儒教なり、仏教なりの文化が花開いて実をつけるのだそうです。

 

神道によると、大本は神道なのですが、仏教などがそれに劣っているのかと言うと、そうではないみたいです。と言うのも、無味乾燥な砂も宝石を磨く機能を持ちえるから……ということだそうです。砂と宝石の原石がこすれ合って、やがて綺麗な宝石ができるイメージですね。一見、価値あるのは宝石だけに見えますが、それを精錬する機能を持っているものとしての「砂粒」も実はすごいという感じ。こうした意味では、無味乾燥な砂粒と美しい宝石というのは実はどちらも大切でであるということになります。これに似たことは僕たちの世界にもたくさんあるように思います。

 

根本というのは枝葉末節に助けられることで成立しているし、枝葉末節というのは根本に助けられることで成立しているわけです。それらは一体となって、互いに互いの機能を補い合いながら、共に進んでいく運命共同体なわけです。このように考えてくると、不思議な感じがしますが、とりあえずこの世界に無駄なものは実はないのだ……ということが分かってくるのではないかと思います。

 

では、無駄なものをいたずらに排斥するとどうなるでしょう? そうすると陰ながらにその「無駄」が果たしてくれていた機能が消失します。すると、根本の機能にも支障を来すようになり、バランスを失い、均衡は崩れ、物事の総体としての世界はカオスに陥り、世界上の多様な事物が急激な運動の出現によって崩壊します。こうした崩壊は悲劇として考えられることが多いと思います。崩壊の後に救いを見る方法もないではないですが、できれば、すべての人や物が損なわれることなしに、穏当に救済を受けることができるようなシナリオを探していくのが合理的であるようにも思います。難しいですけど。とても。

 

例えば、ロシアがウクライナを攻撃した、どうして? というふうに問う時にもこうした事情は見ておかねばなりません。一見、ロシアに何の理もないように見えたとしても、実はそうではないかもしれないのです。誰も死にたくないし、戦争なんてしたくないのがデフォルトだとすると、そこには何かの事情があると考えるのが普通だと思います。ロシアの攻撃が完全に無駄であるのなら、それは奇跡的なことです。下らない枝葉末節、一粒の砂粒にさえも、無限の意義があるのです。どうしてロシアという人類の同胞が担っている国の一つが無価値であると言えるでしょうか? それは不可能です。

 

だとすれば、争いをこじれさせるような扇動やプロパガンダにもある程度の効果は認めるにしても、そうした欺きだけでは、平和を回復することは難しいでしょう。そもそもそれなりに意義があるものを否認して、排除するとするなら、その意義ある者達はすべからく排斥者達に牙を剥くでしょう。世知辛いことだと思いますし、攻撃されれば、復讐したくなるのも人情ではあるしょう。それはウクライナもそうであるように、ロシアもそうであろうと考えられます。

 

お互いの事情を無視して、お互いの利益を勘案するのでなければ、残るのは殲滅戦だけです。妥協を排する姿勢は、正義に適っているとは言い難いでしょう。

 

なるほど、確かに世の中に完全なる悪が存在する可能性はゼロではありません。ゼロリスクはないからです。しかし、そうしたことは極めて少ないというのが世の常識であり、またリベラリズムや民主主義の基礎でもあるでしょう。もしも民衆の大部分が悪人であるのなら、民主主義などできるはずがありません。聖人による独裁以外に解決策がなくなってしまいます。しかし、様々な問題を抱えつつも、現在、日本は民主主義を何とか維持し、何とか社会を回してもいるというのも事実でしょう。その意味では、民主主義が完全なる悪であるとは言えないことが分かります。どんなにそこに問題があるにしても、です。そして、これは日本以外の国についても言えるのです。ロシアでも、中国でも、韓国でも、あるいはウクライナでもそうです。どこの国にもその国なりの事情があり、正義があり、文化があり、各々の愛があります。それを排斥されれば、どの国も怒りに身を任せるようなことになっても不思議ではない。自分にとって大切な信念を貶められれば、反撃したくなって当然です。それはウクライナがそうであるのなら、ロシアもそうでしょう。いつも、どちらか一方だけを糾弾する姿勢は間違っているのです。

 

すると、次のような反論が出てくるでしょう。つまり「障害者を殺戮するような事件にも正当性があるということになるのではないか? ウクライナに対するロシアの戦闘を正当化するのであれば……」と。

 

このような不用意な論点の拡大はあまりおすすめはしませんし、念のためにお答えしましょう。僕ならこの質問に対しては、次のように応答します。

 

「なるほど。あなたはウクライナに対するロシアの戦闘を正当化すれば、障害者を殺戮することは正当化されるというふうに考えたいようなパーソナリティの持ち主なのですね。よく分かりました。あなたの中に障害者差別への根深い執心があるということは……。では、あなたが今、障害者達に対して不当な論点拡大を行い、彼らを加害したのと全く同じ無神経な仕方で、私たちはその悪に対抗することにしましょう。ナチズムは沢山の人を殺戮しました。それはあなたたちの言い方を借りるなら完全なる悪であることになるでしょう。絶対に許すべきではない完全なる悪です。如何なる手法を用いたとしてもこれを阻止しなければなりません。だとするなら、どうしてロシアが武力に訴えることを非難できるのですか?」と。

 

つまり、絶対悪としての敵を想定することは、以上のように、確実に自分に返ってくるのです。こちらが敵を絶対悪であると認定し、排斥することは、敵にこちらを絶対悪として認定させ、排斥させることをも正当化させます。「人を呪わば穴二つ」……ということです。誰かの不幸を願うなら、その誰かはあなたの不幸を願うでしょう。誰かを一方的に糾弾して、逃げ道を塞げば、敵も「背水の陣」を展開してきます。その攻勢は必然的に苛烈なものとなるでしょう。何せ逃げ場がないのですから。追い詰められた者が精一杯抵抗するのは当然のことです。ウクライナがそうであるように、ロシアもそうなのです。このような他者の視点を想像するという作法は、ある種の優しさを絶えず磨いていなければ、できないかもしれません。想像力が適切に作用するには、その成長に愛を役立てる以外にはないからです。愛のないものが、長じることはありません。剣を振るうことによって立つものは、丁度その剣によって滅び去るのですから。

 

こうした考察を積み重ねていれば、やはり少なくとも基本の路線としては「愛」以外に突破口がないことは分かるのではないでしょうか? 人を憎み、排除しても、その刃は次の瞬間、自身の身に翻ってくるのです。正義に反する者は、必ず正義に復讐されるように世の中の機構自体ができています。僕たちは不完全で、正しくあることはとても難しい。しかし、そのための奮闘や努力を放棄するのなら、必ず、歴史に報復されることになるでしょう。不正を犯して、自分だけのうのうと幸せになることなど誰にもできないのです。すると、次のような反論があるかもしれません。

 

「絶対の正義などない。だから正義なんて幻想だ」と。

 

僕なら、この論説に対して、次のように応答します。

 

「あなたが絶対神を信仰していないことは分かりました。そしてあなたは唯一の真実であるところの神を幻想であると考えていることも。では、あなたは何を信仰しているのですか? お金ですか? 権力ですか? それらのものがあなたを救ってくれると思うのならば、そうしてみればいいでしょう。しかし、それらがあなたを天国に導くことはありません。偶像崇拝の末路は地獄だからです。……さて、偶像など実は存在しない、ということは分かりますか? この世界の全てが愛すべきものであるということは分かりますか? そうした愛すべき幾多のものを養ってくださる偉大な神の威光が感じられるでしょうか? なぜなら、偶像崇拝を避けるべきとする規範そのものを崇拝することも、偶像崇拝に他ならないからです。だから全てを愛するのが良いでしょう。それがいつも最良のことなのです。全てを喜んでいるのが良いでしょう。それがあなたに与えられた使命なのであるなら。この世界に滅びるべきものなどないのです。全ては愛すべきものです。滅びの恐怖を煽る預言にすらも、あるいはそうした偽典の類にすらも、愛は宿っているのです。あなたに愛を思い出させようとしているのです」と。

 

さて、今一度、問いましょう。

 

あなたが憎むべきものは何ですか? 

 

おそらくそんなものは存在しないことが分かるでしょう。

 

万物に無限の意義があり、価値があり、愛さえあれば、それらのものはこちらに従って、力を貸してくれます。

 

サタンでさえもそうでしょう。

 

愛が勝ちます。

 

だとすれば、どうして僕たちは敵を愛さずにいられるでしょうか? それ以上に、有効なものなど、この世界にはないというのに。

 

愛という偶像さえも通り抜けて、真の愛に向かいましょう。それはもう愛の形をしていないかもしれません。どこまでもどこまでも変化し、万物を渉猟していくのです。理想郷は遥か彼方です。おそらくは真の命もそこにあるでしょう。そして、いつか気づくでしょう。

 

僕たちが探していたものが、すぐそばにあったことに。

 

そうした逆説が世界に満ちていて、そのすべてが僕たちを啓示へと優しく導いてくれていたことに。

 

それがアニミズムだろうと、統合失調症の症状だろうとどうでもいいことです。

 

善きものはもう「そこ」にあるのです。

 

まして、賢いあなたの心にそれが宿らないなどということが、あるはずはないのですから。

 

 

天よ詠え 空よ眩ませ

万花の咲いた 世の果てに

今日の続いたこの夜に

いらないものなどない

 

After the Rain,「万花繚乱」, 2021 の歌詞より引用)

 

層化術(統合失調症における妄想の活用手法の一つ)

今日は「層化術」という術式について紹介したいと思います。これは統合失調症の「妄想」と呼ばれる症状を活用する手法の一つです。以前に「幻覚」の活用手法については解説しましたが、今回は妄想の活用手法についてより細かく詳述してみようと思います。

 

まず解離性障害に時として認められる「パラコズム」について知ってください。簡単に言えば、これは非常に精密な空想の世界のようなものです。それらの世界は現実的ではないという意味では、まさしく妄想に他ならないのですが、それでも当事者にとってはそれはまぎれもなくもう一つの世界です。想像力豊かな人の特徴の一つと言えると思います。

 

つまり、世界の「複数性」について僕は今言及しているわけですね。これについては当ブログの「多世界生成術」などを参照してください。ブログ内検索から出てくると思います。

 

層化術の発想には層化抽出法などの概念なども用いられています。その辺りの理論も参考になるかもしれません。とはいえ、今回の記事では数式などには触れませんので、その点はご安心ください。

 

さて、では層化術について具体的に記述していきます。

 

これは、端的に言って「世界の層化」です。世界をいくつかの「層」に分けてきめ細やかに把握することで妄想による思考異常と問題行動を鎮圧することを目的としています。

 

まず統合失調症の人は基本的に普通の人よりも大量の情報を脳内に取り入れることができます。結果、普通の人には見えないものが見え(幻覚)、考えられないことを考える(妄想)ことができます。

 

ここで、普通の人の視点による世界の他に、統合失調症の人の視点による世界を想定できます。前者を常識層、後者を非常識層というふうに層化できます。

 

ここで「基盤性」の強度を策定します。要は、どちらの層がより基盤的であるのか? そういうことを比較検討します。人の数だけの基盤があります。多様性。あなたが統合失調症であれば、あなたの基盤は非常識層に分類されます。

 

さて、次に、層化原理の他に層ごとの「制約」原理を確認します。つまり、各層では、それぞれの支配原理が存在し、非常識層には非常識層に独特の原理、常識層には常識層に独特の原理がそれぞれ多様に存在します。これらの原理による支配がそれぞれの世界層に独特の制約をもたらす結果、それぞれの世界ではそれぞれの「文化」が営まれることになります。

 

この時、非常識層の原理を常識層に持ち込めば、当然エラーが生じることになります。逆も然りです。このエラーが「妄想」の正体であると考えられます。

 

さて、僕が実際に使用している層化原理における分類を一応書いておきます。僕の経験上、概ね、次の層化原理を導入することで、大概の統合失調症による問題を才能へと転換することができます。

 

1.人層(人の思想や行動を主体とする層)

2.地層(大地などの自然科学的な原理を主体とする層)

3.天層(天使の思想や行動を主体とする層)

4.悪層(悪霊が跋扈する層)

5.聖層(聖霊が祝福する層)

6.霊層(聖霊と悪霊の中間域に当たる霊のスペクトラムを表現するための層)

7.神層(神霊が支配する層)

 

ひとまず、この七つが基本になると思います。もっと細かく分けることができますし、もっと大雑把にすることもできますが、ひとまずこれらの層化原理によって妄想の解体手法を見せようと思います。

 

例えば、自分は神に支配されている、という妄想。

 

これは厳密には正しいのですが、世俗というのはいつも間違っているものです。したがって、正しい着想をそのまま常識層に持ち込めば、それは非常識層の価値観ゆえにエラーを起こし、排斥されます。逆に、人間こそこの世界の王である、という妄想。これは常識層においては常識なのですが、非常識層に持ち込むと、一なる神以外の偶像を崇拝している多神教の罪を犯すことになり、排斥を被るリスクが高くなります。ラジオではチューニングする場所によって聞こえてくる番組が変わりますね。これに似ています。つまり、それぞれの層にそれぞれに独自のルールがあり、そのルールに違反すると、その層域においては妄想という現象が生じるのです。その意味では、妄想というものは厳密には存在しません。端に、あるべき層にその現象がカテゴライズされていないことで解釈上のエラーが生じているだけです。

 

あるべき場所にあることで、全ての現象はその真価を発揮します。ピアニストからピアノを奪って、銃を持たせてもしょうがない。軍人もピアニストもそれぞれの立派な仕事ではありますが、それぞれにあるべき場所というのがあるわけですね。これが層化原理の基本です。

 

恋愛妄想についても見てみましょう。

 

例えば、Aさんは私のことが好きだ、話したことはないけど、という妄想。

 

これも層化原理によって解決できます。まず、「縁」の概念を導入します。縁というのは様々に入り組んでおり、実際にどうなっているかについて知るには、幾多の重厚な検証を経る必要があります。とても難しいです。一方、直感の原理にも一理あります。つまり、この時、Aさんは確かにあなたのことが好きであるのかもしれません。しかし、それは「どの層」においての事実でしょうか? もしもその直感が人層においての直感であるのならその直感を常識層に持ち込んでも問題は起きません。しかし、実際には、それは地層の原理かもしれないし、霊層の原理かもしれませんし、はたまた悪層の原理かもしれません。

それが地層の原理であれば、その直感は人に直接的に作用すべきものではなく、究極的には自然界の原理によるものですので、自然科学的なものであることになります。どういうことかと言えば、例えば、「生物学的には」そのAさんはあなたに発情してはいる、しかしそれをAさんという「人格」が正確に認識しているかどうかは別問題です。この場合、その地層の原理を人層に転換できなければ、その恋愛を開始することはエラーとなり、妄想になってしまいます。

それが霊層の原理であれば、その霊がどの程度の善き霊であるのかが重要になります。その霊が悪霊であれば(悪層)、その言葉をそのままに受け入れることはエラーを生み出しますし、それは妄想ということになってしまうでしょう。あるいはその霊が善き霊であったとしても、しっかりとその言葉を屈曲せずに受け止めるのでなければ(誠心)、意味が曲がってしまいます。基本的に巫覡として託宣を得るためにはどこまでも清らかでなければなりません。そして、心は空っぽに綺麗にしておかねばなりません。エゴが絡むと、預言が曲がるからです。

 

迫害妄想についても見てみましょう。

 

例えば、みんなが私のことを迫害している、みんな敵だ、という妄想。

 

これはある意味、正しいです。主に、地層においてはそうで、それと言うのも生物というのは生存競争をしているのが普通だからです。互いに互いを蹴落としあっている側面は確かにあります。よって、みんなが敵であるということも、みんなが「私」を害しているというのも真実です。しかし、それをそのまま常識層に持ち込めば、エラーが生じてしまいます。その場合、地層の言葉を人層にまで正確に翻訳してやらなければ、一般の人達には伝わりません。正確な翻訳なしに、その想いや言葉を健常者にぶつけても、「妄想」というふうに解釈されてしまうでしょう。実際には妄想ではなくて、正確な「洞察」なんですけどね。

 

要は、妄想なんて存在しないということですね。厳密には。全てのものにそれぞれの価値があり、ただそれを活用できるだけの才能のある人とそれができない人との文化の差異があるだけです。実のところ、この世界に役立たずなんて一つもないんですよ?(笑) すべてのものに潤沢な意味が宿り、今も完全にそれぞれにそれぞれの職務を全うしています。全ての人がそうですね。だから、無駄な人なんて一人もいないし、ないがしろにされてもいい人も、殺されてもいい人も、暴力を揮われてもいい人も、一人もいないわけです。

 

つまり、妄想が生じるというのは「世界から爪弾きにされている」、ということですね。全ての人たちが適材適所に各々の「天国」に配されますように。あなたがあなたの「世界」をちゃんと見つけられますように。祈ります。

 

 

こんな世界と泣かないで お願い

目に焼き付いている

君があの日失くした青い空へ

 

(まふまふ,「栞」,2022 の歌詞より引用)

 

能力主義

思ったことをつらつら書いていきますね。

 

戦争は嫌ですね。何と言っても、人が死んでしまいますから。そういうのって良くないと思うんですよね。話し合いで解決できればいいのですが。色々な事情が複雑に絡み合って難しいのでしょうね。そうした外交的な諸々の問題を適切に解決するためにはしばしば天才的な才能を要します。圧倒的なコミュニケーション能力。しかも、片方だけがそれを持っていても不十分で両方の陣営からそうした人が出てくるのでなければ、戦略的不均衡が生じるので、この場合、侵略や虐殺などのリスクが高まります。何事もバランスが大切なわけですね。みんなが仲良く暮らせるような、あるいは喧嘩しつつも共存できるような、そういう優しいのほほんとした世界がいいですね。人が傷つくのは嫌です。

 

何事も能力が資本なのですが、これも様々な難しい問題を持っています。例えば、能力をどう測定すればいいのか? この問題からして難問中の難問です。能力が重視される社会であれば、凡庸な人は自分の能力を偽装しようとするでしょう。そうするとどれが本物の能力なのかが分かりづらくなり、結果、国家体制は適切な才能を活用できなくなり、滅びます。だから、能力主義すぎてもいけない。かと言って、能力主義が壊滅すると、国家の存続が危うい。バランスですね。何事もバランスが大切。

 

要は、全ての人に価値があるわけです。全ての要素、全ての現象、全ての生命に潤沢な価値がある。ただ、それぞれに差異があり、役割が違うのです。

 

完全に同一な人間だけでは、人類は多様な戦略的な手段を放棄することになります。色々な人がいてくれるから、色々な生存手段を確保することができます。その意味では多様性の量が巨大であるのに応じて、その国家の実力は底上げされていくでしょう。多様性は国力の源です。しかし、そこには国家成員への負荷がかかります。多様な人を許容するのにも多くのコストがかかり、つまり対人的能力が高くなければ、多様な他者を受け入れることはできません。優しい人が能力も高いのは当然の帰結なわけですね。優しいということは、多様性を受け入れることができる資質であるので、必然的に能力も上がるのです。一方、他者を排除する人はどんどん能力の低下を来し、霊的な意味での組織の癌化を免れません。彼らは「自分こそは、自分だけが偉大である!」と叫ぶのですが、実際には全ての人が特別なのであり、彼らだけが偉大であるということはありません。全ての人達が偉大です。みんな違っていて、みんなそれぞれに課題も役割も使命も異なりますが、それでも価値のない人は一人もいない。仮に無脳症の人間であったとしても、そこには潜在的に潤沢な価値が宿っています。そうした「人」も大切な成員なのです。クレッチマーはどうあがいても活用不可能であるような絶対的に排斥される資質も遺伝子には存在するという旨の主張をしていますが、僕からするとこれは誤ったものの見方です。如何なる場合にも、価値のない人はおらず、それがいるように見えるとすればそれは、僕たちの能力の不足に起因した「絶望」によるものです。

 

真の希望を抱いた人は、絶望という希望を抱く場合はありますが、単なる絶望ではどうすることもできません。基本としては希望こそが未来を拓く鍵でしょう。

 

それにしても文章を書くのも体力が要りますね。何事も身体的能力と知能的能力の双方を潤沢に必要とします。少しでも不調があれば、パフォーマンスの質は著しく低下してしまいます。それは多くの悲しみを引き起こします。能力が不足しているばかりに、救えない命が増えるからです。だから、僕たちは一つでも多くの命を救うために、あるいは救済できずとも、せめて援助だけでもするために、日々努力し、能力を最大化していく必要があります。今、僕たちが能力の研鑽をやめることは、たとえそれが少しの期間であったとしても、誰かの命を暗黙の裡に切り捨てていることを意味します。もしかしたら僕たちのちょっとした能力が誰かを助ける力になるかもしれないのです。常に。怠慢が殺人であるのは、そのような仕組みがあるからです。

 

かと言って、無理をし過ぎて体調を崩してしまえば、能力の低下を来してしまい、これはこれで誰かの命を切り捨てることになります。また、能力というのはきわめて繊細なもので、様々な複雑な調整を絶えず必要とします。しかも、その調整の如何は本人にしかわからないのです。僕たちに何ができるのか? それを知っているのは、神様と当事者であるそれぞれの個人だけです。如何なるファシズムもその個人の領域に追随することはできません。そこに「心」があります。

 

思うに、心なしには何事も為すことはできません。清らかなそれなしには。逆に言えば、それだけが大切なのでしょう。古来より神道の教説では、祈らずとも心を正しくするなら、その者は神の恩寵を受けるという旨の主張が為されています。僕もこれはそうだと思います。正しくなければ、どんな実入りも期待できません。

 

そして、不完全な正しくない人に情けをかけることなく、排斥することもまた正しくはないでしょう。「愛」がないからです。逆に、能力の不足ゆえに不義を為してしまったとしても、真の愛ゆえの誤りであれば、それは免責される方向に巨大な力が働きますね。仁者というのは無敵なものなのです。思い遣りの深い人達が本当に無敵な人たちなのですね。愛と正義の勝利は森羅万象によって確約されています。それらがオーセンティックなものであれば……。

 

たとえ裕福になったとしても、正しくなければ、それは不幸なことだと思います。たとえ高い地位があったとしてもそうでしょう。

 

また、能力は正しく養成されなければ、すぐに成長を「故障」によって止めてしまいます。真に高度な能力はその人が長期間にわたって正しかった証です。それらは極めて美しく、人を欺きません。長い髪のようなものですね。美しい長髪は長期にわたってその個体が現に健康であったことを示す明かな証拠となります。欺きや盗みは自分の弱さに起因するものです。真に実力があれば、そうした罪悪は不要なのですから。あるがままの自分に自信を持つ……ということ。

 

あるがままの本当の自分であること。何物も欺くことのない清らかで正しい心で。たとえ明日世界が終るとしても、真心からあなたが望むことは、何ですか? 何の対価もなしにそれ自体に至高の価値がある神様のように……。つまり、あなたが神様から授かった使命は何ですか? どんな物にも依存せず、どんな誤魔化しもなく、心底から大切にできるその生命の「旋律」はどんなものでしょうか?

 

すべての人たちが本当に自分にとって大切なそれぞれのものを大切にできますように。祈ります。

 

 

今ここで好きなように音を鳴らす

最後の日に二人きりの街で

 

(YOASOBI,「アンコール」,2021 の歌詞より引用)

 

字の汚さ

僕は滅茶苦茶に字が汚いんですが、一体何なんでしょうね(笑) できればもっと美しい心を持って美しい字を書きたいものです。

 

とはいえ、僕は極めて普通の人間ですし、そんな桁外れに美なる心なんてどこにあるのかすら分かりません。ですので「宝探し」をしたいな、と思うのです。

 

さて、僕の求める宝はどこに眠っているのでしょうね。美なる心というのは?

 

ここかな? そこかな? あそこかな?

 

色々探すのですが見つかりません。

 

それが実は自分の心に予め宿っていたものだった……なんていう美談を期待してもみますが、どう考えても僕は何の変哲もない普通の人間です。特別によくもないし、悪くもない。

 

幸せであるとも不幸であるとも色々な様相を呈する万華鏡的な人生。これは「よい」のでしょうか?

 

それともこうした着眼点というのはいわゆる「統合」を「失調」したものとしてのキメラの様相にすぎないのでしょうか?

 

さて、様々に難しい事情があります。それらの確証性については後世の歴史家に任せ、僕たちは「今」を生きましょう。そうした過去にも未来にも束縛されない「自由」によってこそ統合失調症の、狂気の、その才能が芽吹くのでしょうから。その時もはや、狂気は狂気ではなくなっているでしょうから。狂気は基本的に「思惟」の過剰ですから、その思考的な天分に見合うだけの豊かな「感覚」や「情報」、「経験」を潤沢に供給してやれば改善すると思います。情報不足のままに思考することでいわゆる妄想が生じやすいので、たくさんのことを知り、研究し、真摯に感じることで狂気を鎮静化できる可能性は高いと言えるのではないでしょうか。統合失調症の特性の一つはその妄想が極度に被害的なことで、あくまでその人の世界において害を被るのは「自分」であるという特性があり、またそれを他者への「愛」によって「許容」できてしまうことで無力感を発端とする無為自閉の症状が出てくるように思われます(残酷な世界を許さずに、あくまで正義に基づいて反抗しようとするうちはバイタリティが消失しないでしょう)。簡潔に言えば、他者のために自分を犠牲にし過ぎる結果、自分の心身の機能自体が故障してしまう……それが統合失調症の発症原理の一つと言える側面はあるかもしれません。したがって単純には他者に対する思いやりを抑制することで――よく言えばリアリスティックになることで――症状を抑制しやすくなる可能性は高いと思います。そう考えるなら、マキャベリズムを学ぶことは統合失調症に対してダイレクトに有効であることになるでしょう。統合失調症の患者さんにはとても純粋な人が多いので、その意味では現実の醜さを学び、リアリスティックな処世術を身につけることは自分の心身を守ることに繋がり、悪性の症状としての「否定的分離」をギフテッド的な資質としての「積極的分離」へと導く契機になりえるのではないでしょうか。色々と考えられるところだと思います。統合失調症の問題は本当に面白いですね。天才と狂気は紙一重。まさに至言です。

 

未来の僕たち。過去の僕たち。それらのすべてを愛しつつ、それでも前に進むのです。そんなことができたら、それこそが真の「自己肯定」というものなのではないかという気もします。

 

どの道、優しくない残酷な自分を肯定するだなんて無理です。欺瞞です。ならせめて、優しい人でありたい……そうした願いは至極もっともなものだと思うのです。

 

時代は移り変わっていきます。方丈記

 

その先に何があるのでしょうか? 僕たちの進む先には何が? そういうふうに想像してみます。

 

あるいはアランのように想像力それ自体を偶像崇拝の一種として駆逐するべきでしょうか? 想像は「像」を「想う」ことですから、偶像性に転落する恐れ自体は常にあるでしょう。それは神に繋がっていなければ、生きながらえることができない脆いものです。世界のすべてのものがそうであるように。

 

逆に、和辻哲郎のように偶像を再興するべきでしょうか? 偶像の中に真理を見るという逆説的な仕方によって……。なかなかのアイロニー。確かに一理あります。

 

世の中には多様な事情があります。そして、そうした多様性は尊重されなければなりません。そうでなければ社会どころか地球ごと滅亡してしまいかねないのですから。もしかしたら僕たち人間は滅びるかもしれません。あるいは長らえるかもしれません。それはきっと神以外の誰にもわからないことなのでしょう。

 

さて、あなたはどうしたいですか?

 

僕はどうするべきでしょうか?

 

心身の間にある「リンク」はどのようなものでしょう? 美しい心が美しい形を生み出すのなら、そこにはもはや欺きは存在しないでしょう。

 

欺く者は天に召されることはない……確かにそうでしょう。

 

しかし、どんな悪人も未来の永劫の果てでは悔い改めることができるかもしれません。であるなら、悪人たちでさえ救われる可能性がゼロとなることはないのではないでしょうか。親鸞悪人正機説を持ち出すまでもなく……。

 

真の優しさとはどんなものでしょうか? 愛とは?

 

僕とは何でしょうか? あなたとは?

 

僕たちは優しく、そして力強く互いの手を取り合うことができるのでしょうか?

 

そのすべての趨勢を神の手に委ねましょう。いつもそれが最良のことなのですから。

 

僕たちはなるべくなら正しく、そして愛情豊かに、真心からの信仰を持って進んでいくことにしましょう。

 

どのような所にでも、必ず希望はあるのですから。

 

たとえそこがどんなに汚物に塗れていても、真の美しさを汚すことは決してできないのですから。

 

そう考えると僕の「汚い字」も愛しいものですね。もしも幾許かであっても、僕にも真の美しさが天から与えられているのなら、どうしたってそれを欠損させることはできないのですから。その時、全ての汚物を煌びやかな装飾の如く愛することができるのでしょうから。どんな醜さも清いものとして自他のどちらもを守れる、十分な実力を備えた上で、優しく愛することができるのでしょうから。

 

幾多の惨めな「敗北」さえも糧にして……。

 

 

耳をすませ遠くで今 響きだした音を逃すな 呼吸を整えて

いつかは出会えるはずの 黄金の色したアイオライト

きっと掴んで離すな

 

(米津玄師, 'LOSER', 2016 の歌詞より引用)