世の中のすべてがそうではありませんが、中には嘘をつく人もけっこういるにはいます。このように欺かれると心が傷つけられて、被害を受ける人もいるでしょう。あなたは悪くないです。
ただ、欺かれたからと言って、あなたまで不用意に人を欺くようになってしまえば、それも悪に堕ちることになりえます。また、悪の乱用は地獄への道です。
悪にも種類があり、欺きや偽証も罪の一種と言えます。以下に一般的に主要な戒律を列挙しておきます。
- 主が唯一の神であること
- 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
- 神の名をみだりに唱えてはならないこと
- 安息日を守ること
- 父母を敬うこと
- 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
- 姦淫をしてはいけないこと
- 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
- 隣人について偽証してはいけないこと
- 隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと
(モーセの十戒, Wikipedia, 21:18時点より)
偽証も以上の条項の第九番目で禁止されており、基本的に罪になります。
では、なぜ嘘をつくのは悪いことと規定されているのでしょうか? ここではそれについて少し機能的に考察してみましょう。
例えば、偽証や欺きを大々的に許すと裁判においても偽証や欺きが溢れ、たくさんの罪のない人たちが冤罪事件の犠牲になるでしょう。これは明らかに公益に反しており、法律が欺きに満ちていれば、誰も法律を信用しなくなる結果、革命や反乱が起き、共同体が崩壊、多くの人たちの血が流されることにもなるでしょう。
以上のように、偽証や欺きは基本的に悪いことであり、非常にリスクが高い行為であることが分かります。つまり、正直であることは善い資質です(欺きや偽証から遠い資質であるため)。
ここで、「小説などのフィクションは嘘だから、罪なのではないか?」というタイプの反論がありえます。しかし、これはそれが小説であること、虚構であること、フィクションであること、比喩であること……などが普通に分かる様式で示されていれば、罪にはなりません。(ただ、フィクションを事実であると虚偽の主張をすると、それは欺きや偽証の罪に当たる可能性もあります)
こうした善良なタイプの嘘の擁立は仏教的な文脈では「嘘も方便」と言います。このように嘘は基本的に悪ですが、総体的に今よりも善い効果をもたらす場合には、例外的に許容されることもあります。
欺かれても相手を愛するとすれば、それは立派なことです。それが無理でも相手を害すことなく、そっと離れるというだけでも相当に立派な行為です。
欺きの連鎖はたくさんの悲しみと不毛を生みます。なるべくは正直でありたいものです。