「はあ」
と霞は言った。
「どうしたの?」
と僕は聞いてみた。
「昨日、ずっと、友だちの相談のってて。それで寝てなくて……眠い……」
「じゃあ、寝たら?」
「嫌だ」
「そう」
霞は欠伸をした。
僕は窓の外を見てみた。雨が降っていて、雲間から、夕日が見える。
「そうそう」
と霞は言う。「雲間から差し込む光には、神様が溶けてるらしいよ」
「神様が溶けてる?」
僕は不思議に思って、そう聞き返した。
「そうそう」
霞は珈琲を飲んだ。中には牛乳と砂糖がたくさん入っている。「家のおばあちゃんが言ってた」
「おもしろい信仰だね」
「だね。天使が溶けてるならわかるけど、神様が溶けてるってよくわからないよね」
「僕には、天使が溶けてるというのもよくわからないけどね」
「そう?」
霞は不思議そうに首を傾げた。
「そうそう」
と僕は言った。
霞は笑った。
「こないだお姉ちゃんがね」
と霞は言う。「あなたのこと、イケメンだねって褒めてたよ。よかったね」
「お姉さん、美人だよね。今度紹介してよ」
「嫌だ」
と言って、霞は笑った。「私も、けっこう美人でしょ?」
「もちろん」
『いぇい!』と言って、二人でハイタッチした。特に意味はなかった。
「それで、受験勉強どう? 進んでる?」
と霞は言った。
「ぼちぼち」
と僕は言う。
「ありゃ、それは進んでない感じだな。ダメだね。ちゃんと勉強しないと」
「そうなんだけど。なかなか集中できなくて」
「本ばっか読んでちゃだめだよ? 私たちくらいの年齢でね、うまく自分を持てないと、読書に逃げっちゃったりするんだよね」
「確かに。僕は、逃げてばかりの人生だからね」
「もっと主体性持たないと」
「でも、僕、主体性ってあんまり好きじゃなくて」
「主体性に好き嫌いなんてあるの?」
「あるんだよ、それが。びっくりでしょ?」
「びっくりだね。それで、本ばっか読んでちゃだめだよ。勉強しな。勉強」
そう言って、霞は僕の肩をたたいた。
「霞は勉強できるもんね」
と僕は言った。
「そうだよ。だから、分かんないところとか聞きな。私が教えたるから」
「一体、どうやったら、数学満点なんて取れるの?」
「本ばっか読まずに、ちゃーんと勉強することだね。さあ、勉強勉強。一歩一歩だよ。今こそ立ち上がる時だよ」
「熱いね」
「熱くない。普通だよ。みんな勉強してるんだから。怠けてちゃ駄目。少しずつやっていけば、成績は上がるんだから。やった分だけ成果出るんだから、こんなにコスパ良いことってないよ。女の子にちょっかい出してるのより、ずっと生産的」
と言って、霞は手を打った。
「勉強できる人はね」
と言って、僕は手を打った。
「そうだよ。勉強はやれば誰でもできるんだから。あなたにもできるんだよ。だから勉強。されど勉強」
「勉強がコスパ良いっていうのは、なんとなくわかるんだけど、それ以外に大切なことあるような気も」
「もちろん、私だって、勉強が全てとは言わないけど。でも、勉強以外のことって、リスク高いよ。形が定まってなくて。恋愛とかそうでしょ? 危ない危ない」
「性欲とかは?」
「自分で処理すればいいし、妊娠のリスクとかもあるしね。コスパかなり悪いと思う」
「リスクか。難しいね」
「絶対勉強しておいた方がいいって。少しでも良い大学入った方が、少なくとも、多少ましなんじゃないの? 周りの目とか変わるよ? 有名大学だと。少しでもましな道をその都度少しずつ選んで、堅実に積み上げていくしかないよ。いい話なんてなんてないんだから」
「学歴の意味は風化していくかもしれないよ?」
「もしかしたらそうかもしれない。でも、現時点では、みんなそれなりに学歴見るから、少しでも得な方を選ぶべきだよ。これって、人間として当然の判断だと思うんだけど」
「僕は今でも十分に幸せよ?」
「今はよくても、将来のリスクとかもあるからね。未来のことなんてわからないというのはわかるし、考えすぎてもしょうがないことだけど、それでも、できるだけのことはしておくべき。天命を待つのは、十分に人事を尽してから」
「霞は、僕と話してて楽しくない?」
「楽しいよ。もちろん。でも、私たちだって永遠に子供でいられるわけじゃないんだから、現実見ないと。積み重ねは後になって響いてくるから、ある程度は、長期的に見る癖つけとかないと。その上で、今を生きるっていうなら、私は止めないけど。計画通りにいかないとしても、ある程度の目安は必要だよ」
「勉強しても、良い大学に行けないリスクもあるんじゃない?」
「ある。でも、恋愛とかと比べると、圧倒的にリスク少ないと思う。人の気持ちほど不安定なものないし。それに比べて、偏差値とかって目に見えやすいし、扱いやすいから」
「偏差値って、何を測ってるんだろう?」
「さあ。私も知らない。でも、みんな偏差値で人を評価するから、そのゲームに黙って乗っておけばいいと思うんだけど。私はね。楽でいいじゃん。あれこれ反抗するよりも。どうせ、確かなことなんて本当に突き詰めたらわからないんだし」
「それって、楽しい?」
「私は、それなりに楽しいよ。勉強できたらみんな褒めてくれるし、優越感も満たされるし」
「周りの嫉妬とかは?」
「嫉妬なんてあっても気にしなければいいんだし、そのくらいのリスクなら、取っても問題ないと思う」
「霞は、人格者だね。正論だ。もう僕には論破不可能」
「はいはい。わかったら、勉強勉強」
僕はそれから、一時間ほど、霞に数学を教えてもらった。正直言って、学校の先生の解説よりも分かりやすかった。
「はい。休憩。夕飯にしよう」
と霞は言った。「どうする? コンビニとかでなんか買ってくる? ありものでなんか作る?」
「僕作るよ。勉強教えてもらって、さらに料理まで作らせたんじゃ、なんか申しわけないし」
僕はありものの野菜を適当に突っ込んだリゾットを二人分作った。
さほど出来のよくない料理だったが、出来のいい霞は、美味しいと言って食べてくれた。
「今日、何時まで勉強する? 私とりあえず、今ご飯終わったらお風呂入って来るけど」
「家にあんまり帰りたくないから、十一時くらいまでいていい?」
「いいよ。別に。それでさ。さっきの話なんだけど……」
と霞は言う。「あなたは、勉強よりも恋愛の方がコスパ良いと思うの?」
「いや、必ずしもそうは言わないけど。人によるんじゃないかな」
「あなたは?」
「難しいなあ。少なくとも、霞と一緒にいるのは、勉強するにしても何するにしても、僕にとってコスパ良いんだと思うよ」
「それはどうして? 私の解説が分かりやすいからとか、私が美人だからとか?」
「まあ、それもあるよね。正直言うと。でも、それだけじゃないかな」
「他には何があるの?」
「多分、人を好きになるっていうのが、僕にとって、無条件にコスパがいいんだよ。そういうのってわかるかな?」
「無条件なコスパ? それって矛盾じゃない? コスパってある条件の下で計算されるものなんだし」
「多分、その矛盾に対するスタンスで、恋愛に対するスタンスが決まってくるんだろうと、僕は思うよ」
「理性が完璧じゃないのは認めるけど、でも、できる限り、矛盾を避けて、思考することに意味があるんじゃない? そうしないと、役に立たないし」
「確かに、恋愛はあんまり役に立たないかもしれないね」
「いや、そうは言わないけど。ただ、人間って、生殖のせいで、自分のために生きられないってのが苦しみの原因として大きいと思うんだ。生殖への欲望のせいで、合理的に自分のために行動できなくて、それで苦しいんだと思うの」
そう言うと、霞は腕を組んだ。
僕は珈琲を飲んだ。
「利己的になるより、利他的になった方が得な場合もあるんじゃない?」
「あるね」
「生殖もその一つってことにはならない?」
「機械の胎盤で人工受精とかは? そういうの発達すれば、恋愛の苦しみとかいらなくなると思う」
「何かしら問題があるかもしれないけど、現時点では僕にはなんとも」
「例えば、どんな問題?」
「例えば、性交中に、遺伝子の改変が起こっていると考えると、おもしろいと思うよ。その場合、セックスや恋愛を端折って、受精させると、通常の場合の受精とは異なった受精になる」
「エピジェネティクスがセックス中や恋愛中に起こるとか?」
「例えばの話」
「可能性は否定しないけど」
「可能性の話は切がないからね」
霞はそこで黙った。何か考えているようだった。しばらくして、「まあ、可能性の話は切ないよね」と言った。
「そうだね。言いようによっては、恋愛にも意味やメリットを取り繕うことはできる」
「ねえ、私の言っていることって、間違ってると思う?」
「さっきも言ったけど、まったく正論だと思うよ」
「なんか、もしかして自分が、受験勉強とかに意味やメリットを取り繕ってるんじゃないか、というのがちょっぴり心配になったんだけど」
「可能性は否定しない」
と僕が言うと、霞は笑った。
「可能性の話は切がない」
と彼女は言った。
「まあ、そうなるよね」
と僕は笑った。
「私ね。本当は恐いのかもしれない」
「何が?」
「色々なことに傷つくのが」
「そんなの誰だってそうだと思うけど」
「そうなんだけど。私はその中でも飛び切り恐がりなのかもしれない」
「どうしてそう思うの?」
「自分の心の奥の方に蓋をしているのかもしれない。そんな気がして」
「臭い物に蓋?」
霞は笑って頷いた。「そう。臭い物に蓋」
「それなら、僕の得意分野だよ。見事に色々なものから逃げ回っているからね。それに比べれば、霞は全然逃げてないような気がするけど」
「人はね。自分が本当に恐いものを、無価値なものとして扱うことがあるの。恐いから。それで、その本当に恐いものって、本当は、すごく欲しいものであることがあるの」
「欲しいなら、取ればいい」
「でも、それが恐くてできないの。だから、蓋をする」
「イイじゃん。別に。本当に大切なものなら、蓋をしてたって、そのうち溢れ出てくるよ」
「そうだといいな」
と言って霞は、珈琲を飲んだ。
「実は、もう、溢れ出てきてるんじゃない?」
と僕は言った。
「馬鹿言うな。ボケ」
と言って、霞は笑った。
正すことが 難しくないなら
間違うのも 難しくないでしょ?
答えあわせの前に 教えてよ
アナタのその答えは 正しいの?(40mp,『妄想スケッチ』歌詞より引用)