「この荷物重い」
と私は一人こぼした。
――やれやれ、荷物と言うものはどうしてこうも重いのか。マジで困った。
「その荷物には何が入っているの?」
と相棒のピエが言った。
ピエは猫だった。黒猫だ。
ピエは随分と絵が上手かった。
あまりにも綺麗な猫だったので、私としては、液体窒素で凍らせて冷凍保存してしまいたいくらいだったが、もちろん、ピエはそんなこと嫌がった。
「僕は生きているので」
とピエは言う。
なるほど。たしかにピエは生きている。
しかし、ピエは何事につけても集中することを知らない。集中せず、自堕落に分散して生きることに価値を見いだしている特殊な猫だった。
結果、ピエは精神科で統合失調症と診断されるにいたった。
実に特殊な経緯である。黒猫が統合失調症を発症するという事例研究についてついぞ私は聞いたことがなかった。
ピエはネズミを探していた。しかしピエはネズミを食べることはなかった。本当に食べなかった。そうではなく、捕まえるまでの過程を楽しんだ。そして、いざネズミがつかまりそうになると、そのネズミをまた逃がして、しばらくするとまたネズミを探すのだった。まるで、ネズミを食べることには意味などない、とでも言いたげだった。
私は一度、ピエに、どうして、ネズミを食べないのかと聞いたことがある。すると、ピエは、
「必要がないからさ」
と言った。
そうなのだ。ピエは、食物と言うものを必要としない。いわば、生命からは程遠いもので、その意味では、その存在自体が、極めて霊的だった。
ピエはしばしば口を酸っぱくして言った。
「ダメだよ。創造的じゃないと。とにかく創造的じゃないとダメなんだ」
「創造的ってどういうこと?」
と私はピエに聞いてみた。
「人のことを一人にしないってことだよ」
とピエは言った。
「一人にしないこと?」
「そうだとも」
と言って、ピエは鷹揚に頷いた。そしてもう一度繰り返す。「そうだとも」
「どうして、人のことを一人にしてはいけないの?」
「寂しいからさ」
「誰が寂しいの?」
「人さ」
「人?」
「そう、ヒトさ」
ピエによると、人は寂しいもので、一人でいると基本的に生きていけないように設計されているらしい。ピエと一緒にスキーに行ったときに、そうした話をした。その時、ピエは、白猫のシロちゃんに恋をしていて、そのゾッコン模様と言ったら、なかった。本当にすごかった。マジで。
「じゃあ、ピエは猫だから、寂しくないね? それなのに恋をするんだね?」
と私はピエに聞いてみた。
「うん」
と言って、ピエは頷いた。「僕は寂しくないよ。一人でいることがまったくもって苦にならないんだ。まったくもってね」
ピエは寂しがらない。それが防衛機制なのか、強がりなのか、嘘なのか、虚構なのか、は私にはわからなかった。
私はふと、ピエの一人称が「僕」であることについて気にかけたことがある。ピエには、雄の象徴が無かったからだ。
「ピエは男なの?」
と私はピエに聞いてみた。
「私は女だよ」
とピエは言った。
「そうだったの?」
と私はびっくりして尋ねた。
「そうそう」
とピエは言った。「私は女なんだよ。君はよくわかっていないみたいだけど」
「じゃあ、なんで、一人称が「僕」なの?」
「女が自分のことを「僕」って言っちゃだめなんて法律はないよ。人権侵害だよ!」
と言って、ピエは怒った。
ピエが怒るのが珍しかったので、私は驚いた。ピエはしばしば頭がおかしかったが、それでも「根」は、まともだった。極めて。
ピエは、平常運転の時から、おかしいことばかり話すが、それでもその根には、常識が根付いていた。つまり、「狂人のふり」をしていた。無論、そうしたファッションな狂人ぶりを発揮することには、多くの虚構を構築することができる才能が必要となる。そして、虚構を成立させる才能とはとどのつまり、この世界で最高峰の才能の一つである。なぜなら、虚構とは、この世界に存在しないものを、存在しないままに成立させる術だからである。それは創造であり、その意味では、神の所業だった。
「ピエには根があるね」
と私は言った。
「根?」
ピエは首を傾げた。「何のことだろう?」
「根っこだよ。植物の」
「あるかもね。なんかセフィロトっぽいやつ」
と言って、ピエは笑った。
猫が笑うというのはなかなかにすごいことである。動物が笑うというのは薄気味悪いように感じる人もいるかもしれないが、ピエの笑いは随分とすっきりしたもので、それはそれは猫らしい孤独癖とさっぱり加減を反映したもので、その笑顔を見ていると、私は、なかなかに嬉しく、楽しくなるのだった。
「それにしても、僕ってすごくセフィロトっぽいよね」
とピエは言う。
「セフィロトっぽさって、どこから出てくるんだろうね?」
と私は言った。
「そりゃ、僕の「根」から出てくるんだろうさ。「僕の」ね」
つまり、この猫は、自身に自我が存在していると主張しているのだった。なるほど。ここまで会話できれば、確かにその主張は認められる。これは私見だが、おそらく猫には、あるいは人間以外の動物には、「理性」が存在し、彼らは意識し、自覚的に行動し、生きている。その意味で、動物と人間の差はそんなにないように思われた。ピエはしばしば私よりもずっと頭が良かったし、芸術方面の技術も卓越していた。
まるで、私は、ピエに操作されているかのような感覚を持つことがあった。ピエが卓越し過ぎた絵画技術を有していたため、私よりもずっと上の階層にピエが位置しているのではないか、そんな思いがよぎっては、自分がピエにコントロールされているのではないかという危惧が、しばしば私の胸のうちに去来するのだった。
しかし、一方のピエはというと、そんなことはまるでお構いなしで、むしろ、私のことを褒めるのだった。
「操作されてるという感覚を持てるということは、あなたに才能がある証拠だよ。武者小路実篤がそう言ってた」
とピエは言った。
なお、武者小路実篤をピエが読んでいたということもひとつの驚きだが、それは別として、武者小路実篤が、果たして本当にそんなことを言っていたのかどうかは、私には定かではない。それも、ピエが作った、即興の「虚構」かもしれないのだ。
ピエの描く絵画は、極めて自然的なもので、一種の自閉症スペクトラムを思い起させるものであったが、しかしそれは思い違いのようで、彼女はありとあらゆる絵を描けるようだった。模写がとても上手い。特に、配色のセンスが絶妙なものだった。もはや、色の見え方そのものが、私とは異なっているのであろうことを暗示させる独創的配色であるのに、同時に高度に自然的であった。こうした矛盾的傾向を両立させ得る資質というのは、まことに得難いものである。
ピエには、豊かな創造の才能があった。
ピエは、基本的に何をやってもうまくできたが、その中で、彼女の失敗とかろうじて呼び得るものが一つある。それも、道徳的には失敗のレッテルを張ること自体が間違っている類のものである。
ピエはある時、どこぞで妊娠してきたのだが、その妊娠が上手くいかなかったようだった。どうもピエの飲んでいる薬があまり上手く作用しなかったらしい。
このことは、ピエにとって、きわめてショックな出来事だったようである。
妊娠したことのない私にはそのショックは計り知れないが、しかし、とにかくピエの落ち込みようときたらなかった。
驚くべきことに、そんな傷心しているピエのことをあざ笑う人達もいたが、無論、ピエの豊かな才能に嫉妬している人たちだった。
なので、私は、ピエに、「彼らの言うことは気にするに当たらない」と言おうとしたが、そもそもピエは、鉄の精神――あるいはそのように見える精神――を持っていたので、私に言われるまでもなく、気にしていない「よう」だった。
とは言え、ピエが子供を失ったことで、傷ついていることは火を見るよりも明らかなことだった。そして、驚きだったのが、傷ついた猫を見て、平気であざ笑うことのできるという人々のその神経だった。まさに世界は謎で満ちている。思わず、「駆逐してやる!」などと、思ってしまった浅学な私であったが、いやはや早くすべてのことを許すことのできる、心優しい聖人君子になりたいものである。しかし、傷ついたピエを放っておくのはまったく私の本意ではなかったので、私はしばらくは聖人君子になることはないのだろう。思うに、時に怒りは正義となり得る。この世界に、まったく無駄なものなんて、そんなにない、というふうに安易な自己正当化をしておこう。この私のつつましやかな生存戦略など、ピエの圧倒的才能に比べれば、いずれにせよ小さなことだ。
――しかし――
ピエはこう言った。
「相対的に言って、私は幸せだよ。何せ、才能を認めてくれる人たちがいるしね。なんだかんだ言ってもさほど孤独でもない」
ピエはそう言って、走り去って行った。その背中は随分と孤独であるように私には見えた。ピエの周りには誰もいなかった。いわゆる、「孤高」と呼ばれる状態だった。
ピエの周りには誰も立っていないようだった。
それは、ピエが極めて、独創的な猫であることを間接的に証し立てていた。
私もピエの後を追って、重い荷物をしょい、歩き始めた。
私にはピエほど軽やかな才能はないが、それでも、鈍重に荷物をしょいながら、一歩一歩歩くことで、ピエの隣を歩くことがかろうじてできるであろうと楽観的な期待を抱きながら、これからの人生を生きていくのだろう。
ピエには随分と深刻な傷が根付いていた。その傷のもたらす悲しみが彼女に一種の才能をもたらしているのやもしれない。
ピエのお話については、より詳細に書きたいことがたくさんあるが、それは私が書くどのような物語にも共通していることである。
私に書くことのできる物語の量に比べ、人生はあまりに短い。
しかし、できることなら、ピエと、またどこかで出会えたなら、私はピエにこう伝えたい。
「あなたのことを色々と今でも信じています」
無論、私はストーカーではないのだが(黒猫に付きまとうストーカーとはまことにシュールである)。
思い出というのは、時に、どんな現実よりも精彩なものである。そのことを、ピエが私のところに残していったいくつもの色鮮やかな絵が思い出させてくれる。
その絵は、空気でできており、私以外の人間の目には見えないのだが、思うに空気とは極めて本質的なものである。すべては空気でできていると言ってもいいかもしれない。
空気は目にみえず、手にも触れられないが、たしかに存在しているものである。そういうものを大切にすることが、おそらくは、黒猫のピエや私のような人間を守ることにつながるのであろう。
過ぎ去ったものが戻ってくることはないが、思い出は意外にすぐ近くにあるもので、ふとした拍子に、思い出しては、顔が綻んだり、懐かしいような、楽しいような、切ないような思いにさせてくれる。とても大切な「空気」である。
私は今日も元気いっぱい空気を吸い込んで、身体を代謝し、エネルギーを回しながら、広大な地球の循環の中で生きていくわけであります。
そして、それは、ピエのような甚大な才能を有している猫にしても、同じことなのだろうと思う。
「いやはや、空は今日も青いな」
と心の中のピエが言った。
その声は、そこら中の空気の中を伝わって、世界中に広がっていくようだった。