魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「能力」についての個人的で簡潔な意見の概要

お久しぶりです。

 

今日は能力や美と呼ばれるものについて軽く考察します。

能力とは「何かができる力」のことです。

美とは「感動を引き起こす力」のことです。

では、高能力の高能力たる所以とは何でしょうか? それは感動を引き起こすことです。

ただの能力の場合、感動はなかなか引き起こされません。しかし、例外的に卓越した立派な能力の場合には、並々ならぬ感動が引き起こされることがあります。そうした感動という現象における情動の動きは、嫉妬のような形態を取ることもあるし、憧憬のような形態を取ることもあります。能力とは美です。

さて、では次のような反論についてはどう応えるべきか? 「能力とは純粋に量の問題であって、美のような質的なものではない。例えば、学力テストなどは量として成績を掲示しており、しかしそれは能力を表すことに成功している。つまり、能力は質的な美ではなく、量の問題であり、あなたの主張は根本的に間違いである」

なるほど。たしかに、そのような意見もありうるかもしれません。この論に対しては僕ならこう答えます。「学力テストは量によって簡易的に能力を指示すかもしれないが、量とはその測定に単位の統一を必要とする。しかし、人の精神はその原理から言って多様なものであり、その単位は統一可能なものではない。つまり、本当に正確な意味での各々における精神に派生するものとしての多様な能力という事象を量として測定することは不可能である」

では、次のような反論はどうでしょうか? 「量は質に転化する。あくまで量があってこその質なのだ。量がなければ如何なる質も存立可能ではない。もしも美が質的ものなであるのならば、美とは副次的なものに過ぎず、能力の根本としては不適である。しかし美とは能力に関連した根本的な事象としての側面を持つ可能性がある。ならば、美とは量である」

なるほど。おもしろい意見だと思います。この論に対しては僕ならこう答えます。「確かに量は質に転化しうるかもしれない。しかし、量が質に転化することと量と質が同一であることとは異なる。つまり、量から転化する質の存在はありうるが量から転化しない質の存在もありうる。つまり、少なくとも量は質のすべてではない。例えば、質の高い英才教育を受けている英才児と質の低い英才教育を受けている英才児では、その才能の質が異なるであろう。質の高い英才教育をある程度の量受けている者と質の低い英才教育をその程度の量受けているものとでは、その才能の質が異なるであろう。より分かりやすく言えば、質の低い怠慢な時間を送ってきた人と質の高い修練の時間を送ってきた人では、時間の量としては同じでも、その才の出来栄えには雲泥の差が生じるであろう。そしてこの時、怠慢と修練とは異なる概念である。怠慢と言う時には一般に怠け過ぎている状態を言うのであり、怠けるという時には勉学や何らかの鍛錬とは質的に異なることをしていることを言うのである。修練するという時には、一般に努力を旺盛に行っていることを言うのであり、勉学や何らかの鍛錬をしていることを言うのである。さらにより簡潔に言えば、ピアノを弾く人と絵を描く人では、その能力の質は異なる。ピアノの技能が30レベルになった時点でその技能が絵を描く技能に転化するということはある程度はありうるのかもしれないが、基本的には稀である。なぜなら、ほとんどのピアニストが絵描きであるわけではないし、ほとんどの絵描きがピアニストになるわけではないからである。このようにそれらの差異とは質の違いであって、量の問題ではない。このようにこの世には質の問題というものがあり、それは量の問題ではない」

さて、では次のような反論は?「ピアノと絵とは原子のレベルまで化学的に分解すれば、すべては原子の挙動として統一された単位で測定することが可能である。したがってピアノの技能と絵の技能とは統一された単位によって測定することが可能であり、その根本として量である」

僕ならこう答えます。「化学的に原子レベルまで分解されたピアノや絵は、現象としてのピアノや絵とは質的に異なる。したがって、それらを同一の俎上によって論じることはできない。そうした原子レベルまで分解されたピアノなどが持ちうる音楽の存立可能性は否定はしない。音楽に限らず芸術とは誰にでも開かれたものである。しかし、それと芸術に関する能力という概念との間には差異があり、質的に異なる」

大体、以上のような感じで僕は考えています。似たもの同士ならば、近似的に単位が同一に近くなる可能性はありますので、ある程度、擬似的に量として能力を捉えられるかもしれません。しかし、その能力が卓越している場合には、そもそも比較可能な統一された単位を共有する個体がいないか希少であるため、量として捉えることは難しくなるのではないかと思います。つまり、量的能力の存在はある程度あり得ますが、同時に質的能力というものがあり、質的能力は量に還元しづらいのではないか、という一つの仮説です。統計を取るにしても、卓越した人々についてのデータはあまりに数が少なく(彼らは稀少ですので)、相当の母数を確保できなければ、有効な統計的判断は難しくなるのではないか、とも思います。本来的に質の異なるもの同士を混同するのも判断のエラーにつながると思いますし。

このような感じで、僕個人は能力とは質的な問題であり、量の問題ではない、と考えています。ただ、前述しました通り、擬似的に、というか一種の比喩としてならば、能力を量として捉えることができるかもしれないとも考えます。メカニズムは不明ですが、なぜか厳密な理論よりも比喩の方が人に伝わりやすいように思われます。僕たちは分かりやすく説明するときに、よく例え話つまり比喩を行うと思うのですが、比喩には多くの人に開かれた普遍的な特性があるのかもしれません。この点も研究してみるととても面白いかもしれません。

 

さて、僕は能力とは質であり、美であると考えています。つまり、それらは経済的な意味での貨幣などの量概念とは異なります。そして、量の分配はありえると思うのですが、質の分配はとても難しい。ピカソの絵を七十億等分して、世界の人々が所有するというのも一つの手なのかもしれませんが、基本的にはそれは紙切れとなってしまい、ピカソの渾身の芸術は毀損されてしまった……という結末になるのだと思います。社会的な地位も分配可能です。僕たちはそれをよく行っており、医師には医療の権限を分配し、裁判官には司法の権限を分配しています。権力には強さの程度があり、程度とは量の概念に関わるからこういうことが起こります。

では、「能力の程度」はどうでしょうか? それは量なのではないでしょうか? 量であれば、分配可能なのではないでしょうか? 可能でしょう。それが質的な能力でなければ。量的能力であれば、量の分配によって、能力をある程度ならば分配することが可能であると思います。例えば、勉強時間の足りない人がいたら、勉強時間の「量」を増加することで、ある程度の能力の発達を見込むことができます。しかし、同じ時間勉強させても、それぞれに能力の「質」は異なります。つまり、ここでも、量と質は同一のものではありませんし、また、質とは量から転化するばかりのものでもないということがお分かりになるのではないでしょうか。煮込み料理をする時でも、ただ漠然と煮込み時間の量だけを増やせばいいのかと言うとそういうわけでもないものと思います。様々な質的な能力や質的に異なる諸技術の集積がある質的な条件を満たしたときに、料理は美味になります。もちろん、その過程には量の概念も混入しますが(調味料の量など)、料理が「格別に」美味しいなどと言う場合には、やはりそこには格別な能力が根付いている可能性が高く、また、格別な能力とはその特性上、質的なものとするのが最適打なのではないかと思います。フライパンの具材に塩を振る、という単純な動作にも質は現れていて、これは量として表すことが困難です。例えば、「フライパン」とは「1」ではないし「26548」でもありません。フライパンはフライパンです。このように僕たちの身近には量として表せない質的な現象が多く根付いており、量とは異なるそれらの質を混同して扱うことはあまり賢い方法ではないでしょう。

そして、僕個人は「能力」については量よりも質の方が関連性が大きいであろうと考えています。能力のある人の体を等分に切断してみんなで分け合っても、能力は能力者を切断して殺した瞬間に消失してしまいます。能力は質であって、量ではない。したがって、分配できない。そういう事情があるので、量を基準にした思考の理路と言うのは時に危険なものになり得ます。本来質であるものを量の問題であるとして、身体を切り刻まれた能力者の気持になっていただければ、そこに潜む残酷性に気づく手掛かりにはなるのではないかと思います。

 

また、能力による差別はいわゆる優生思想であり、これは公的には厳密には認められません。したがって、「能力差別」は「悪」です。

では能力者を殺してもいいのか? これは生存権に抵触するので、成り立ちません。

では能力のない人は差別を被ってもいいのか? いわゆる優生思想に抵触するので、これも成り立ちません。

つまり、能力者を排除せずに、能力のない人への差別を抹消すればいい。つまり、能力者と非能力者とは平等であるというふうになればいい。双方の資質が毀損されることなく、のびのびと発揮されればよい。ひとまず、そうなりますよね。

さて、もう一段階思考を進めますと……。

すべての人が平等であるためには、その世界には個性や多様性が存在してはなりませんね? 個性や多様性があれば、どうしてもそこには差異が生まれ、それが差別の温床になります。

つまり、個性や多様性はこの時、排除されてしまいます。それが「平等」の究極の姿です。

すべての人が同じ顔をして、同じことをし、同じ世界体験を持つ、「同一」づくめな世界。それが「平等」の究極の姿かと思います。これはおかしいということが直観的にお分かりになるかと思います。一応、もう少し省察しますと……

全てが同一であり、多様性が存在してはならない世界を理想にするなら、すべては平均化されていくでしょう。つまり、最終的には究極的に平均的な唯一者のみがその世界においては残るのであり、僕たちのような多様な個性を持った普通の存在は一人残らずすべて排除されます。平等思想とは究極の優生思想に転化し得る側面があります。それと言うのも、本来質的なものを量と混同したがためにそうなります。能力は質です。それは「平等」には分配できません。

では、能力のある人を人体実験にかけて、能力を再現するのはどうか? 「科学」的にはそういう発想もありうるかもしれません。この場合は、明確に能力者への人権侵害ですので、ダメであることは直観的には分かりやすいのではないかと思います。一応、もうすこしだけ書いておきますと……

再現性を基礎とする科学的分析では、再現性がないか、薄いものについての正確な知見を得ることは難しい。一回性の出来事を科学的に検証することはとても難しい。天才などの格別な才能が分析対象であれば、特にそうでしょう。つまり、量的な科学手法によっては、基本的に質的能力へのアプローチは困難であろうとする仮説です。ご参考下さい。そもそも簡単に再現されるものであれば、それはありふれたものなのであり、つまり抜きん出たものとしての「才能」ではないはずです。どんなに人の体を切り刻んでも、人の本質には到達できません。

もう少し実利的な観点からも、能力について記述することもできます。単純に、能力の高い人を能力の低い人が利用すればいい、という話なのですが。能力の高い人は少数派なのですから、能力の低い人達は数の上では高能力者に勝っています。だから、徒党を組めばよい。徒党を組めば、ファシズムによる崩壊の危機は生じ得ますが、高能力者は利他的な人がもっぱらですから、ファシズムへの警鐘を鳴らし助けてくれるはずです。そのようにして、高能力者の高能力を利用するだけ利用すればいいのです(しばしば、それでも徒党による暴走は止まらず、惨劇が繰り返されることはありますが)。ファシズムのような極端な事例は除けば、高能力者の能力を促進して、低能力者はそれを適度に利用すればよい。一人で高能力者を独占すれば、他の嫉妬により排除されますので、したがって、高能力者とはみんなの共有物としての側面があります。独占してはならない。また、高能力者であれば、寛容な人が多いはずですので、分け隔てなく、みなさんに援助してくれるのではないかと思います。

難しい点なのですが、高能力の人ほど、奉仕に見返りを求める可能性は低いと思います。彼らはとても利他的なので。そして、とても優しいです。あなたが困っていれば、きっと助けになってくれるのではないかと思います。ただ、この知識というか体系は、表上は否定しておいた方が社会がよく機能するかもしれません。もしも、これらの仕組みについての質的な記述に擬似的な量によって反駁可能であれば、そうした擬似的な反論によってこれらの知見を隠蔽するというのは一つの手としてはありなのかもしれません。なぜなら、これらの知見を利用し過ぎる人が出てくるかもしれないからです。

例えば、無償ボランティアの過剰によって、労働力を搾取し過ぎれば、民が疲弊します。そのための口実に、「高能力の人ほど、奉仕に見返りを求める可能性は低い」などと使われてはたまったものではありませんね(笑)

どうしても、ここに書かれた知見などを援用したい場合には、極力分かりづらく書くというのも手かもしれません。すると一定の読解力がある人にしかその真意は伝わりづらくなるかと思います。

能力者は次のことを公言しておくのがいいかもしれません。

 

1:(一般的な論法における量的)能力差とは微々たるものである

2:(特殊的な論法における質的)能力差は甚大だがそうした人は稀である

3:一般的に能力に優劣はない

4:極めて特殊な場合に稀に能力への優劣の判定が「仮に」有効な場合がある

5:能力の高い人を崇拝する必要はない

6:能力の低い人も能力の高い人も各々に好きに生きていけばよい

7:多様な能力があるので、能力の高低は一概に言えるものではなく、その判断機構は極めて複雑なものとなる。

 

非能力者は次のように考えるといいかもしれません。

 

1:能力の高い人は確かにすごいが、彼らは数において劣っており、それ自体では脅威ではない。

2:政治においてもしばしば多数派の威力は甚大である

3:適切に仲間と連携すれば、高能力者と低能力者は実質的に対等な関係である。三人寄れば文殊の知恵。

4:高能力者も人間であり、人権を持つのでわざわざそれを侵害して、貴重な労働資源を損なうことは合理的ではない。

5:仲間との緊密な連携によって高能力者と対等な関係を築き、公正に「取引」を行えばよい。

6:高能力者に高能力者の世界があるように、自分と仲間にも世界がある。世界の大きさに比べれば、どんなに甚大な才能も小さなものに過ぎない。団栗の背比べである。

7:高能力者を嫉妬したとしても、結局のところ、彼らには彼らの辛さが多分にある。隣の芝生は青く見えるだけに過ぎない。わざわざ自分の手を汚してまで排除するには及ばない。

 

 

P.S.

さてもうちょっとだけ、能力について僕が思っていることを書きます。能力は美ですが、能力人つまり美人というのはかなり辛いものではないかと考えています。僕自身は美人や能力の高い人と特別に縁があるということはないので、もちろん正確なところは分からないのですが、僕に得られる情報から推理する限りでは、美人の立場というのはそんなにいいものでもないように思われます。むしろ、美や能力とは苦しみの象徴なのではないかと思われることすらあります。能力者や美人というのは不幸を特権的に享受している人々のことなのかもしれません。そんな憶測を感じることもあります。一般に、不幸を欲しがる人は少ないですが、彼らはやはり不幸なのではないかというふうにも僕には思われます。その意味では、不幸に適応するために、過剰な能力や過剰な美が必要とされ、その結果として美人や能力者となる……のかもしれません。色々な検討が必要な点かと思います。無論、美人も能力者もどちらかと言えば稀少のカテゴリーに入る方々だと思いますので、科学的検討は難しいと僕は考えます。才能があったり、美しかったりするということは、一般に思われるほどいいものではないのかもしれません。したがって、彼らのことを羨んだり、嫉妬したりするのにも及ばず、むしろ知能が普通だったり、容姿が普通だったりする人の方がずっと幸せである可能性もあると思います。色々な意見があるかと思いますが、少なくとも一面的な見方でもって、事の優劣を決めてしまったりするのは愚策だと思うので、天才や美人ではない人たちには、「彼ら(天才や美人)にも人一倍の苦労があるのではないか」といま一度想像してみることをおすすめいたします。

れるりりさんの『美少女嫌疑』などの曲は色々と美人などについてのイメージを膨らませるのにいいのではないかと思います。

あまり美人や能力者の欠点ばかりを暴き立てていると、僕が彼らのことを嫌っている風に思われる方もいるかもしれませんが、僕個人は彼らのことはとてもとても好きですのでその点は彼らにも分かっていただけるといいのですが(笑)