魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「教育」について簡潔に

皆さん、こんばんわ!

 

今日は、勝野正章, 藤本典裕ら, 『教育行政学 改訂版』, 学文社, 2010を参考にさせていただきながら、「教育」について簡単に思索してみたいと思います(ページ数は引用文の後毎にそれぞれ記載します)。

 

まず、単刀直入に言って、教育には投資性が認められます。教育には人々の能力を向上させる効果が見込めます。人々の能力が向上すれば生産性も向上します。生産性が向上すれば国が富みます。国が富むと、より優れた教育を行うこともできるようになります。すると、また人々の能力が向上し、生産性が上がり、国が富み、さらに優れた教育が可能になっていきます。このように、教育はかなり優れた一種の投資の対象でありえます。

 

教育は一種の投資とみなすことができる。(p.78) 

 

では、教育を成立させる条件とは何なのでしょうか? その条件として考えられるのは、モノ、ヒト、カネの三つであると考える説があります。例えば、学校などの設備はこの中ではモノに当たるでしょう。学校なしで教育するのもそれはそれで独特の困難が伴うかもしれません。次に教育者であるヒトがいなければ、教育を行うこと自体が困難でしょう。だから、教育活動を行うのにはヒトも大切です。そして、学校などの設備を構築したり、教育者を雇ったりするために一般に必要とされるのはカネであると考えられます。これらの想定には突飛なところはなく、ある程度妥当な説であるとも考えられると思います。

 

教育条件とは、端的にいえば教育活動を行うために必要な「モノ」「ヒト」そしてそれらを購入・雇用し、維持するための「カネ」である。(p.91) 

 

また、人には発達や成長をしていく権利が認められるべきとするような議論もありえます。基本的には、成長や発達は能力の向上を生み出し、その限りで富を生産する裏付け足りえるものですから、それらは繁栄の根拠となりえます。仮に富貴安逸や子々孫々の繁栄といったものに正当性を認めるのなら、人々の発達や成長はできるだけ促した方が合理的です。したがって、人々の学習が人々の成長や発達を促す限りは、生涯にわたって学習するということは長期的に多大な利益を生産する手立てとなりえるというふうに考えることができます。

 

生涯学習の権利を、一言で述べるならば、生涯にわたって学び続け、発達・成長していくことが保障されること、ということができるだろう。(p.105) 

 

さて、自由で主体的な学習はどのようにすれば担保できると考えられるのでしょう? 自由や主体性は現代社会ではある程度大切な指針として概ね認められていますが、まず、もしも国家が主体性の要件を設定して国民に対し「主体的であれ」と命令及び強制した結果として国民が「主体的」に振舞うのなら、それは真の主体性とは言い難くなります。この場合、主体は国民にではなくて権力によって命令を為した国家にあることになるからです。これは自由の場合も同様で、国家が定義した自由を国家の権力によって国民に強制した場合、それは国家による国民への束縛であって、真の自由であるとは言い難いでしょう。したがって、国民や住民が自発的に考え、行動するのでなければ、真の主体性や真の自由はありえない……そのように考えることができます。

 

教育・文化活動の主体となる国民・住民自身が自ら考え、行動することではじめて自由と主体性が確保されるのである。(p.113)

 

では、教育の質を向上させるにはどうすればいいのか。これは、教育者の資質や能力を向上させることで可能になると考えられます。

 

学校教育の最前線で実際に児童・生徒を前にして教育を行っているのは言うまでもなく一人ひとりの教師である。したがって、教師の資質や能力はそのまま教育の質に反映される重要な課題である。(p.119)

 

以上のことから、教育者には良い教育を行うための努力が求められるものと考えることができます。逆に言えば、教育者には自身の資質や能力を研鑽するための機会が供給されることも必要であると考えられるでしょう。

 

教員の仕事は直接に教育実践の質を左右する。したがって教員がその職責を果たすためには常に自らの資質・能力を高める努力をしなければならない。(p.127)

 

結論としては、自由や主体性、生涯学習の権利の保障などといった教育の土壌を確保し育むための手段としては、人々が自発的に考えて行動し、教育者もまた自身の資質や能力を高めるための努力を常に行い、そのようにしてそれぞれに主体性を持って生涯における学習や活動を自由に行っていく……というような路線が基本となるのかもしれません。そのために僕たち一人一人に何ができるのか? 行政においてはどのような補助が適切であると言えるのか? などというように、それこそ「主体的」に考え、議論するべき事項はまだまだたくさんあるように思います。

そして、こうした僕たちの主体性や自由が致命的に損なわれてしまった場合、その場には「教育」はもはや存在しなくなっているというふうに考えられます。主体性や自由が致命的に毀損された空間にあるのは教育ではなくて、民衆統制の手段としての所謂「洗脳」であることでしょう。教育の目的にも様々なものが考えらえるかもしれませんが、洗脳と教育の境界線はどこにあるのか? というような問題についても粘り強く思考していくことが必要であると言えるのかもしれません。

 

もし教育が、国家による民衆統制の手段となっているとすれば、もはやそれは教育ではなく、一部権力者による国民の「教化」であり「洗脳」であるといえよう。(p.133)

 

ここまでの帰結をまとめて、今日は終わろうと思います。

 

 

 

今日のまとめ

 

1. 自由は大切。

2. 主体性は大切。

3. 生涯学習の権利は大切。