魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

嫉妬の構造についての分析

 みなさん、こんばんは~

 

 今日は、「嫉妬」について考えてみましょう。

 

 まず、「嫉妬」とは何か。



 これは、「自分より優れている人をうらやましく思って憎むこと」です。



 さて、ひとつずつ構造を分析して見てみましょう。



 まず、「優秀」とは何か。

 これは非常に簡潔に述べると、「正しい人」です(詳しくは当ブログの記事の「正義術」や「モテ術とか説得術とか」を、ブログ内検索などからご覧ください)

 例えば、今回の論法では、判断が間違っている人よりも、正確な人の方が優秀であるというふうに判断します。今回は、この仮説をとりあえず採用します。



 次に、「うらやましい」とは何か。



 これは、「優れた人を見て、自分もそうありたいと思うこと」です。



 さて、では、「憎む」とはどういう意味でしょう?



 これは、「自分にとって都合の悪いもの、不利益なものとして、相手を嫌うこと」です。



 つまり、嫉妬とは次の機構を持っています。



 1.正しい人を認知する→2.自分も正しくありたいと感じる→3.正しい人を自分にとっての不利益として判断する→4.正しい人への嫌悪が生じる



 このようにシンプルに仮に考えれば、23の間に一つの分かれ目を見ることができます。



 2において、「自分も正しくありたいと感じる」ということは、ここで大きく二つの選択肢が生じることを想定できます。



 1.自分も正しくありたい→正しい人になる努力をする

 or

 2.自分も正しくありたい→その願いが叶わないので自分より正しい人を排除する



 つまり、正しい人になる努力をすることによって自分の欲求を満足させる人と、自分よりも正しい人を排除することによって自分の正しさを示そうとする人の、ニ種類の人がいると想定できます。



 この二種類の人は、次の指標により判別できると今回の場合には考えられます。



 1.正しいか正しくないか

 2.包摂的か排除的か



 まず、正しくありたいと常に努力している人は、相対的に正しくなる確率が高い、と想定できます。逆に、正しくあることをあきらめてしまうと、相対的に間違ってしまう確率が高くなると考えられます。



 また、正しくあれるのなら、そもそも嫉妬は生じづらいと考えられるので(努力ができ、ある程度報われるのなら、相対的に嫉妬する必要がないから。なお絶対的に嫉妬しないという聖人君子の事例はここでは例外とする)、つまりこの場合は、排除的にならず、どちらかと言えば、包摂的な傾向を持った人間になると想定できます。

 逆に、正しくあることをあきらめてしまっているのなら、嫉妬が生じる確率が高くなると考えられますので、この場合は、行動が排除的となり、罵詈雑言や嘲笑、あるいは言葉の衝動的な暴力性、――時と場合においては行動としての暴力性も伴う可能性もある――が上昇すると想定できます。



 つまり、可能性としては、言動が暴力的傾向であるほどに嫉妬している可能性が高い。

 逆に、言動が穏やかであるほどに嫉妬していない可能性が高い。



 これらの原則に従うなら、誰かに相対するとき、その人の攻撃性を測定できれば、その人の嫉妬深さを測定できることになります。



 攻撃的であるほどに嫉妬深く、穏やかであるほどに嫉妬が少ない。



 よって、次の定式を抽出できます。



 嫉妬量∝攻撃量



 つまり、非常にシンプルには、あなたが攻撃される頻度が大きければ、それはあなたに嫉妬や羨望のまなざしが集まっていることの、間接証拠の一つとして考えることはできます。



 したがって、次の定式が抽出できます。



 優秀量∝被攻撃量



 つまり、あなたが優秀であればあるほど、あなたが攻撃(「攻撃」とは簡単に言うと、非論理的衝動的言動です)を被る確率が上昇すると考えられます(なお、今回は詳しく触れていませんが、優秀な人は賞賛が多くなることもあります。したがって、理想的なデータ収集下における正確な解析では、賞賛と罵倒は五分五分で分布しているかもしれません。ただ賞賛にせよ罵倒にせよ、その分量が、優秀な人の場合には大きくなると考えられます。罵倒と言っても場合によっては、「黙殺」なども罵倒の一種となりますので、これもとても測定の難しい指標となります。一見何の反応がないように見えても、周囲に嫉妬心が引き起こされている可能性自体はあります)



 簡単に言うと、あんまり優秀過ぎて、それを隠さないでいると、みんなから嫉妬をかい、攻撃を受ける確率が上がると想定することはできる、ということです。



 なので、優秀な人は、積極的にその能力を隠すことを個人的にはおすすめします。「能ある鷹は爪を隠す」と言いますね。「名を取らせて実を取る」とか、この手のことわざは色々あります。



 もしも、能力を隠しきれずに、攻撃を受け易くなってしまっても、確率としては、攻撃量に応じて、あなたが優秀である確率も上昇するとも考えられるので、あんまり気にしすぎなくていいかもしれません。少なくとも、攻撃されることで、思い詰めすぎてしまうようだったら、必ずしもあなたが全面的に悪いというわけでもないと思いますし、自傷行為とかに至ってしまうくらいなら、少しくらい気を抜いてもいいのかもしれません(全面的に悪い人というのはなかなかに存在立証がむずかしいですね。むしろ個人個人を見ると悪い人自体はそんなにいないんじゃないかという気もします。集団の熱狂? とかでちょっとおかしなこと? になっている事例などは割にあるかもしれませんが。「孤独」は意外に大切なのやもしれません。ある程度は)。



 ただ、優秀な人を嫉妬によって排斥するために、次のような論法を用いてくる人もいると考えられます。



 「嫉妬深い人ほど嫉妬されていると考える」



 この論法を用いられると、「私は嫉妬されている」と優秀な人は明言できなくなります。なぜなら、「私は嫉妬されている」と明言すると、上記の原則から導き出される帰結として、「私は嫉妬深い」と主張することと同義になってしまうからです。



 ですので、あなたが仮に本当に嫉妬されているとしても、その思いを明言するのは危険かと思います。



 その点から考えても、相手に攻撃をやり返すのではなく、できる限り、能力を隠すことが正着打かと思います。



 また、「嫉妬」というと悪いイメージばかりありますが、生存競争としては、正しい感情であるという論法もあり得ます。



 能力や才能のある優秀な人というのは、ある意味、その能力が「たまたま」適合する環境にフリーライドしているという側面があるのです。もしも、その能力を発揮する環境が整っていなければ、そもそもその人の才能が開花することはありませんでした。例えば、野球を作ったのは、野球選手ではありませんね。野球を作ってくれた無名のたくさんの人たちのおかげで、野球選手の人たちは野球をプレーし、お金をもらうことができるのです。そのように考えるなら、能力や才能のある人は、その能力によって得た利益を多くの人たちに還元する必要があります。しかし、能力というのは、お金や名誉と違い、かなりその人の個人所有のものですので、その人から分離することが難しいです(お金や名誉は徴収できても能力それ自体は徴収できない。非常にセキュリティ性の高い資本です。目に見えにくいですし。ステルス性能も高い)。お金なら累進課税ができるし、名誉なら縁の下の力持ちになることで他の人に分け与えることができますが、能力だけはかなりの程度自分のものです。このように能力とは投資対象として非常に安定した資本でもあります。お金や名誉は奪われることがあっても、能力自体はまずもって奪われることがない。ただし、年を取るとどうしても身体能力などは落ちていってしまう傾向もあるとも言われます。能力への投資はかなり理に適っていますが、自分の能力が老化などにより失われてしまった場合に備えて、「信頼できる人」を作っておくことも必要、ということになるかもしれません。「信頼」については、そのうち詳細に記述するかも知れません。あまり期待せずにお待ちください(笑)



 したがって、優秀な人は、ある程度、嫉妬による攻撃甘んじて耐え抜く必要があるかもしれません(能力のおかげで得をしているわけですので、名誉やお金をある程度再分配するべき、という論法はあり得る。それに「優秀」というのは漢字として分析すると、「優しさ」に「秀でている」ことですね。つまり、優秀な人とは、「とても優しい人のこと」とも考えられます。優秀な人は言っていることが論理的で間違っていなくても、「偽善的だ」などのレッテルを初めとした非論理的攻撃を受ける可能性も上がるとも想定できます。僕は個人的には、たとえ善に今は至ることができなくても、そのために努力をしている人というのは必ずしも「偽善」ではないと思います。非常に難しい点ですが)。一種の「ノブレスオブリージュ」みたいなものかもしれませんね(笑)ある程度、あなたの名誉や価値が傷つけられるのもしょうがない……というふうには極めて言いづらいのですが、やはり、現実的には、あなたの能力を隠蔽する以外に手段はないのではないかと個人的には思います。少なくとも、私には思いつきません。



 優秀な人は、能力を隠し、優秀でない人の面子を立てて、罵倒されながら、しかも、その自分の能力を正しいことに使い続けることが必要になることになります。



 そのように考えると、個人的には、「優秀な人って大変だな」、と思わないこともないです(笑)何というべきか、わかりませんが、……頑張ってください、としか。僕には他にどう言っていいかわかりません。



 いずれにせよ、嫉妬にも機能があり、正しい人にも機能があり、構造がかなり複雑で、難しいです。



 少なくとも、嫉妬にもある程度の正当性はあるし、正しさにも正当性はある、としか。



 今日は非常に気持ちの悪いお話だな、と思います。



 嫉妬している人が悪いのでもないし、正しい人が悪いのでもない。



 とても難しい。



 とりあえず、嫉妬する人と正しい人の間の折衷をうまく取り、どちらも致命的には傷つくことのないようにできるといいのですが、それもまた非常に難しいお話になります



 僕は間違っていることがたくさんある人間ですので、決して優秀な人間ではありませんが、それでも、何となく思い起こされるのは、「優秀な人って大変だよな」、という例の気持ち(優秀な人を賛美しろ、というような話ではないんですよ?(笑)ただ、みんながそれなりに幸せになれるといいんですけどね。難しいです)



 嫉妬もある程度は間違っていないというふうにも考え得ますし



 だって、「自分だけ違う」だなんて誰にも言えないじゃないですか(笑) 悲しいですよね。すごく寂しいのではないかと、多少身勝手ながら憶測してしまいます。優秀な方は、ぜひ、自分と同じくらい優秀な方を探してみてくださいませ。希少だと思いますので、かなり精力的に探さないと出会えないかもしれませんが。確か、ゲーテによると、同時代の天才はなかなかにいものなのだそうですよ。僕にはおよびもつかないことですが(笑)



 嫉妬している方も、嫉妬されているも、どちらの方も良い感じで生きていけるといいな、と個人的に思います。



 今日は以上です。



 P.S.攻撃性について

 攻撃性にも本当に色々ありまして。 

 すごく人を傷つけることが上手い人も世の中にはいます。すごく絶妙なラインで攻めてくる人とかいらっしゃるんですよ(笑)

 近頃だと多分、「マウンティング」とかいうふうに呼ばれるのでしょうね(優秀な人ほど罵倒に会う機会は多いかもしれませんが、僕のように別段優秀ではなくても、確率論ですので罵倒に会うことはあります。またすべての罵倒の原因が嫉妬であるという話でもありませんね。「確率論」として、のお話です)

 さっと痕跡を残さず、相手の心を抉っていく人とかね(笑)これも考えようによってはひとつの「攻撃性」ですね。一見静かに見えて、おそろしい人というのはいるものと思います。「人は見かけによらない」というのも場合によって、ひとつの真理かもしれませんね。

 おそろしい話です。

 かといって、そこに突っ込めば、痕跡がないので、「被害妄想」として片づけられてしまいます。

 一方で、「嫉妬されている」と訴えても、「自己愛性パーソナリティ障害」として片づけられてしまいます。

 だから、優秀な人のポジションってなんというべきか、「詰んでる」んですよね(笑)

 そのような事情がありますから、優秀な方はぜひ、ご自身の優秀さを隠しながら、世のため人のために生きていってくださいませ(もちろん、自信がおありで、嫌われることを辞さず、世のために行動する人も必要なのかもしれません。日蓮などの系統の情報を調べてみると、「嫌われることを恐れて、相手に正しい忠告をしないのは、相手のことを本当には考えていないからだ。自本当に相手のことを思うのなら、自分を捨てて、相手に嫌われても忠告しなさい」みたいな感じの情報に触れることもあります。本当に世の中には色々な意見があります。おもしろいです)

 優秀な方は、ぜひ、嫉妬している方たちのことも幸せにしてくださるといいな、と思います。

 僕のような凡人にはとても耐えられない境地ですね。天才というのは相当タフなのでしょう。普通そんな環境じゃ生きていけないと思う(笑)

 また、蛇足になりますが、名誉やお金は徴収されますが、能力は取り上げることが非常に難しいので、能力はとても投資対象として向いた資本だと思います。何か投資しようかな、と考えていらっしゃる方など、御自分の能力に投資なさると面白いかもしれません。たとえお金がなくても名誉がなくても、基本的に、かなりの程度は「能力」だけはあなたを裏切ることはありませんので。本読んだりとか、情報収集したりとかするのはけっこう大切かもしれませんね。「情報資産家」になるというのは、この時代には、ある程度有効な手法のひとつかもしれません。

 

 なお、今回、「仮」に「優秀」という言葉を用いていますが、優劣は「厳密」には存在しません。この言葉の意味が分からない場合には、ここに記述されたことについては綺麗に忘れたほうがいいかもしれません。一応その点は念押しいたします(正しいものはなかなかにこれとは決められないもので、したがって、正しい人――つまり今回の場合の優秀な人、というのはこれとは決められないというふうに考えられます。ここでいう、「厳密」とは「論理的」くらいの意味でお考えください。つまり、優劣は、「論理的には」存在しない、という意味です。つまり、「非論理的」専ら「感情」というふうに呼ばれる領域においては、言葉が難しいですが、存在し得ます。この点にご興味のおありの方は、当ブログの「正義術」など気が向いたらご参考下さい)。





P.S.2優秀な人の探し方について

この話題については、僕は優秀ではないので、よくわからないのですが、それでも誰かの参考になるかもしれませんので、一応書いておきます。

まず、「正しさ」とは次の様態を指します。



1.データ抽出が無作為である

2.データ量が多い

3.データ解析が論理的



つまり、優秀な人は無作為に行動し、多様な情報を保有し、論理的に思考します。

よって、その分布は基本的に「無作為」になります。

つまり、優秀な人は、基本的にどこかに地層のように堆積する確率は低いのではないかと推理します(つまり、優秀な人を吸引する手段はなく、出会うためには偶然に出会うしかない。逆に言えば、それくらい「レア」ですので、もしもそういう人に出会ったら絶対にその人を離してはいけません(笑) 後になってから超優良な人だったことに気づいてがっかりなんてことにならないようにみなさんご注意ください(笑)ストーカーとかは危ないかもしれませんし、相手の嫌がることをするわけにもいかないでしょうが。バランスの難しいところです)。

優秀な人に出会うためには、シンクロニシティを当てにする以外には、なかなか難しいのではないかと思います。データ抽出が無作為であることから、その後の能力形成もオリジナリティがあり、予測や可視化がしづらいというふうに考えられ、簡潔に指標化すること困難でしょう。

また、「予言者郷里に容れられず」と言って、例の嫉妬の構造もありますので、優れた人が相応の評価を受けている確率も必ずしも高くはないと思います(データ抽出の偏りのない理想的環境下においては、評価されている確率は五分五分でしょう。完璧に無作為に行為する優秀な人なら。評価される行為をする確率が五分五分なので)

一方で、優秀な人は無作為に行動しつつ、論理的にも行動するという性質があり、つまりは、偶然でありなおかつ必然であると推理できます。その意味では、偶然でありながら必然な出会いという不思議な現象が想定でき、これを「運命」と呼びます。つまり、無作為(「ランダム」という意味。つまり「偶然」のことです。)な自由性に、なおかつ論理による意志決定(決定されていることは、「必然」と呼び得ますね機構を備えた状態であり、これは、「自由意志」とも呼びます。自由意志は、原理上存在を立証することはおそらくできないのではないかと個人的に思います(「必然かつ偶然」という言葉使いが、言葉の一般的用法から見ると矛盾していますし)。しかし、少なくとも相対的には、優秀な人は、自由意志的「傾向性」をある程度備えているというふうに考えられます(これもひとつの記事ができる話題ですな(笑)そのうち自由意志について検証するのも手かもしれません。とりあえず、気になる方は、当ブログの「創造術」という記事がありますので、ブログ内検索などからご覧ください)

優秀な人をかろうじて」(「厳密には」優劣はないということ)、指標化するとすれば次のようになります。



1.神出鬼没(どこにいるかわからない)

2.自由人(自由意志的傾向が強い)

3.オリジナリティがある(独創性が強く、既存のフレームからは認知されづらい。これがステルス能力となる)



ただし、真に神出鬼没であれば、神出鬼没「でない」ことが可能となるので、この指標化も虚しい努力に終わります。自由人という傾向についてもオリジナリティについても同様です。自由人は、自由なので、自由人でないこともできます。オリジナリティは全く独創的(独は、「ひとり」という意味で、創は、「つくる」という意味ですね。一人でつくるので、基本的には他人に口出しされないのです。だから、オリジナルな人は、世間などで一般的にオリジナルでないと呼ばれるものをつくりたいと思う時、あえてそれを作ることもできる)なので、オリジナルでない選択をすることもできます。優秀な人の挙動を予測することは厳密には不可能であると考えられます。予測が難しいし、その特徴を見出すことが難しいので、なかなか優秀な人を識別することは難しいと考えることもできます。



「出る杭は打たれる」、という世の中でありますので、ステルス能力も磨きがかかっているでしょう。



見つけることはとても難しく、やはり、偶然、厳密には、「シンクロニシティ」を頼りの綱にするのが精いっぱいかもしれません。



ある意味では、彼らは常に「逃走」していると考えられます。色々な点と点(人と人をつないだり、物と物をつないだり、ありとあらゆる「点」をつなぐわけです)をつなぎながら、「逃走線」(点をつなぐと線になりますね。逃走しながらつないだ点ですから、これを、「逃走線」というふうに呼びましょう)を引き続けているわけですね。



また、ドゥルーズ=ガタリによれば、逃走する人たちが逃走線の末に出会うことは偶然ではないのだそうです。



ですので、優秀な方たち、御自分の同類に出会いたい場合には、積極的に「逃走」するのもひとつの手かもしれません。この辺りの事情について知りたい方には、『千のプラトー』という著作をお勧めいたします(「逃走論」について書くのもおもしろそうですね。そのうち気が向けば(笑) 今回は割愛します)



とは言え、おそらく、優秀な方たちは僕の上を行っていると想定できますので、こうした僕の試行錯誤は徒労ではあるのかもしれません。ただ、優秀な方たちの生態って超興味あるんですよね(笑) 個人的に。なので、色々と身勝手ながら憶測してしまいました(笑) 少しでも皆さんのお役に立てればいいのですが。今日はなかなかに難しい、デリケートなお話でした。