まず、当ブログの『知能(IQ)についての試論』と、『統合失調症の機構についての試論』をお読みいただけると嬉しいです。
さて、統合失調症ではなぜIQが低下するのか。あるいは低下しているように見える形で測定されるのか。
これは、あまりのも大量の情報に暴露し、処理速度(本当のIQ)がそれに追いつかなかったために、脳が損傷したということではないかと思います。
例えば、「本当のIQ」が150(毎秒150の情報を処理)あっても情報の取り入れが100000になったら、脳に情報があふれかえり、処理が追い付かず、エラーが増えますし、また、脳細胞が損傷するのではないかという仮説が立てられます。
この場合、「本当のIQ」が150あったとしても、「知能検査によって測定されるIQ」は60とか80とか90とか、その位に測定されるかもしれません。
つまり、認知的脱抑制と、いわゆるIQはトレードオフの関係にあるのではないか、という一つの仮説です。
例えば、同じIQ150でも、本当のIQが1500で情報の取り入れ量が1500なのと本当のIQが15000で情報の取り入れ量が15000なのでは、違いがあるのではないか、という仮説です(数字が極端ですが(笑))。
つまり、創造性が強い分、IQが低く測定される可能性があるのではないかと、一応進言しておきます。
いわゆるギフテッドの場合、高い「本当のIQ」と高い「認知的脱抑制」の両方を持っているのであろうと予想します。
次は、多世界生成術とモナド、世界内存在について。
これは、あまり話さない方がいいと思いますので、ちょっとだけ。ハイデガーとか非常に複雑ですので、一概に言えないのですが。
例えば、創造性を組み合わせとして定義しますよね。新しい組み合わせが創造性。すると、要素数が多いほどいいのです。つまり、肌理が細かいほどに良い。すると、究極的には、微分された微粒子(僕の言うところのモナド)を認知するのが最も創造性に都合がいいだろう、ということです。
この場合、モナドは広がりをもたないので、世界内存在ではない、ともいえるかもしれませんし、または、無限のモナドを無限に敷き詰めるという論法で、世界たりえる、というふうにも表現できるかもしれません。これらの二概念は、上記のように関連づけて、僕は考えています。
ただ、もしも、この人になら伝えても大丈夫であろうと僕が思うような人が見つかれば、その時は、「口伝」でこの術式についてお伝えすることはあるかもしれません。とは言え、さほど大層なものではないので、あまり期待されても困るのですが(笑)。ぼくの書くことは、せいぜいいつも月並みで当たり前の事ばかり? だと思いますので(笑)。ただ単に、危ないのです(うまく使えればいいのですが……)。この術式。ですので、倫理的にお教えするわけにはいかない感じです。
これは、自由と多様性を標榜する人に対し、自由と多様性を否定する人が出てきた場合、どうなるのか、という問題。
例えば、欧米の自由主義が、イスラム国の一種のファシズム? にどう対応するかみたいな問題です。
僕の苦手な政治ネタ(笑) ちょっと頑張ります。。
まず、自由とファシズムを二極ではなく、連続体で捉えます。
すると、全てのものは大なり小なり、ファシズムとなり、大なり小なり自由主義的となります。
すると、できる限り、ファシズムに向かう、という動きと、できる限り自由主義に向かう、という動きとが大きく二つ生じます。
自由主義は、この場合、理念的にはファシズムを認めなければなりませんが、実質的には自由主義の中に、ファシズムが含有されています。この場合、その含有度だけの、反撃が可能となります。
しかし、大きなファシズムの攻撃力は高く、小さなファシズムでそれに対抗できるのか、という問題が残ります。
そこで、ファシズムの欠点を尽きます。それは、セキュリティ性が低く、指揮系統および体制の長期的安定性が低い(であろうという仮説)という点です(当ブログの政治術参照)。
したがって、短期決戦に持ち込む戦略をファシズムは取ってくると考えられますから、逆に、自由主義側は長期的戦略(多分、防衛ってことになるんじゃないかと。攻撃より守り側の方が色々と準備できて有利だと思います。クラウゼヴィッツ『戦争論』参照)を取り、ファシズムが内部崩壊するのを待ちます。
つまり、ファシズムの攻撃性(動員力の高さ)に対し、自由主義の防御性(セキュリティ性)で対抗します。
とはいえ、これは最悪の事態ですね。戦争になってしまってからでは、遅いですから。
できれば、戦争になる前に、言論の領域で、なんとか自由を確保し、それを拡散し、情報戦争の内にとどめるのが大切かも知れません(これは、多様性の尊重というファシズムですね(笑) 自由主義の方が唯一用いる可能性のあるファシズムかもしれません)。本当に武器をもって、戦争をするとなった場合、これは大変というか「悲惨」ですので。
それで、自由主義、多様性尊重的だと、他の国家と連携を取りやすいと思いますので、助力を得やすいというメリットもあると思います。一つ一つのファシズムは小さくとも、うまく連携を取れれば、大きなファシズムを抑制できるのではないか、と個人的には思います(ファシズムだと、排他的方針となりますので、助力が集まりづらい傾向があるのではないかと予想します)。
大体、こんな感じ。一応、個人的に思ったことを書きましたので、ご参考下さい。
あと、みなさん、「呪い」のお話が聞きたい感じですか?(笑)
でも、呪いはダメですよ。いや、人間である限り、ある程度はしょうがないにしても、あんまり褒められた行いではない気が、個人的にはします。
しかし、あんまり辛い思いをして、呪いたくて呪いたくてたまらない人もいるというのも分かるのですが(笑)
でも、それでも、できれば、少なくとも積極的には呪わない方いいと思いますので、下手すれば、「他害」なわけですから、法的にも問題になる可能性もあると思います。
あとは、割とクリーン?(笑) な願望として、「かわいい女の子と仲良くなるための呪いが欲しい!」みたいな意見もあるようです。
いいな。僕もかわいい女の子と仲良くなりたい(笑)
そういうことは僕じゃなくて、もっとモテて魅力的な人に聞いてくださいね(笑) 宮台真司さんの本とか読んでみるといいかもしれませんね。
正義について。
これヤバい。ぼくには無理(笑)。正義の本とかたまに読むんですけど、マジで何一つ決められない(笑)。未知の分野ですね。あんまり単純明快な問題ではないということだけは確かだと思います。何が正しいかわからないので、正義は相対的なものだというふうに捉えておくのが無難かもしれません。
とりあえず、重要なのは、「生存権」ではないかと。すくなくともこれはいかなる場合も確保される必要があるのではないかと思います。原則的に。だから、生活保護とかベーシックインカムとかが、重要になってくるのだと思いますが。未来のことはわからないので、ベーシックインカムもうまくいく保証は厳密にはないと思いますけど(ベーシックインカムがうまくいかないということではなく、いかなるものにも絶対的な保証は成立しない、という意味)、でも、やってみる価値はあるのではないかと思いますね。個人的に。ご参考下さい。
女性嫌悪について。
おもしろい現象ですよね。ちょっとどういう構造になっているか見てみましょう。まず、嫌悪するためには、関心が女性に向かっている必要はあるわけですね。その場合、関心があるという点で言えば、好きと嫌いは一緒のことです。では、どういう場合に、好きという感情を起こし、嫌いという感情を起こすのか。
これは、端的に言えば、相手がその関心を受け入れてくれるか否かかもしれません。相手が、もしも、その関心を受け入れてくれるなら、相手を否定する必要は、単純にはないですよね。すくなくとも。ですので、関心が受け入れてもらえなかったときに、嫌悪が生じるのではないかという仮説が上がってきます。要は、「相性」の問題ですね。女性嫌悪の場合には、女性との相性。相性が良ければ、好感が生じるでしょうし、相性が悪ければ、嫌悪が生じるであろう、みたいな。これは、女性嫌悪以外でもそうだと思います。基本的には。相性はあっても当然ですから、多少の嫌悪は当然ですが、あんまり強い嫌悪すぎると、多少生きづらくなってしまったりすることも、場合によってはあるかもしれませんね。
これは、理想の高さにもよるかもしれませんね。例えば、女性嫌悪の場合、女性に対し、理想が高いと、その分、関心が高くなりますから、その理想を満たせないだけ、嫌悪が生じる、とか。つまり関心の高さが逆に仇となって、嫌悪感が強く生じるということもあり得るかと思います。いろいろと考えられますので、みなさんも、女性嫌悪なり、嫌悪感なりについて、つらつらと思いを巡らしてみるのも楽しいかもしれません。
嫌悪にせよ、好感にせよ、なんらか関心が生じるのなら、その対象に対し、向き合っているあかしであると言えるかもしれませんね。おもしろいです。
さて、今日はこの辺で。
直観術は気分で(笑)