魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

性質と欠如

器質的な病と非器質的な病の区別って非常に難しいよな、とふと思いました。それはある種の的中性の欠如に罹患しているようにも見えます。

 

かと言って、ある的外れな宣戦布告を想定する時に、では、それらの持つ元来の適正な「資格」とは何か? と問うとさらに難しいですね(笑) 当該の機能の公正な資格を判定するのは非常に難しく、政治的な中立というのはまずないものです。

 

基本として、悪人の幸せは速やかに過ぎ去るものと想定できますが、それと言うのも、悪は悪に相殺されるからですね。もしもこの世に楽園の中庸が実現していれば、そもそもそのような悲劇は起こらないわけです。政治的な中立を自称する陣営でさえも、非常に偏っているのが常です。油断は禁物。

 

何事にもリズムというものがあり、タイミングがありますね。物事には適した時期というのがあり、機を逸すると失敗しやすいです。これも別の視点から見た、油断は禁物、ということのパラフレーズですね。多様な表現の形式があります。

 

その中には大きな問題もあれば、比較的小さな問題もあり、また、小さいにもかかわらず致命的な問題というのもあります。

 

例えば、音楽においてオクターブの概念がもたらす周期的な構成をどのように捉えるのがいいでしょう? そこにはどのような見地がありえるでしょうか?

 

ケルト信仰のように死を乗り越えていくような姿勢というのは非常に大事なように思います。何かを乗り越えていく時にしか見えない風景もあり、ある一周分のオクターブを構成する音素だけでは表現し切れない豊穣が、その上なり下なりの、高音および低音には導出されてもきます。このように考えれば、世界というのは本当に不思議なものですね。ある種の反復が新たな境地を開き、しかも無数に差異化していくのですから。オリジナリティの哲学。

 

無私の愛というのは良いものだと思いますが、何とも言えない格上に対する純粋な愛情、尊敬というものもあります。あるタイミングでは、その類の現象も重要なのでしょう。多分。そして、そうした愛こそがオリジナリティの哲学の核心を為してもいます。

 

絶え間ない「独白」の形式というのは面白いかどうかは別にして、新しい文学を切り拓く可能性を秘めているのかもしれません。プルースト的な洗練された観察眼の発露。これらがオリジナリティの様式を担保しているようです。

 

過分な好意は毒になるのか、薬になるのか……それは永遠の謎です。しかし、それらがオリジナリティの波の影響を受ける時には、常に万能薬と化す性質があり、逆に退屈な単なる反復に堕す時に破滅が始まります。聖人君子は測定不能の創造力によって破滅を遠ざけることができるようです。不思議なことです。

 

過度な「愛」というのは基本的にはないはずなのですが、過度な「正義」というのはありますね。過度な正義は残酷になりやすいようです。その点はよく注意していきたいものですね。つまり、愛の強度は無限でランダムに発散するため、測定できませんが、正義には強度が現実的に見積もることができる……というわけです。

 

そのようなわけなので、神様にすべてを委ねて安らかである……というのも一つの達成であるように思います。それは尊いことのようにも思えます。そこには愛があり、安寧があり、また均衡による平和があるのかもしれません。

 

「メロドラマ」のような概念に対する独特の風当たりの強さには何となく感じ入るところがありますね。不思議です。個人的にはメロドラマは嫌いというほどではないですね(笑) それはどことなく信仰に対立する偶像性を彷彿とさせるところはあるのかもしれませんが、そうした惰性の果てに、何らかの意志が生起しないとも限りませんし。そうした測定不能な希望にこそ、天才は宿っているのでしょう。