魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

富裕と清貧

卓越の基本は「差異化」です。差異化とは差異を生産することであり、また差異を見出すことです。

 

これには大きく二つの方法があります。

 

一つが極めて「富裕」であることです。富裕であれば、一般家庭とは異質な才能を養成できます。

 

もう一つが極めて「清貧」であることです。清貧であれば、一般家庭とは異質な才能を養成できます。

 

また、富裕性の才能と清貧性の才能は互いに異なります。

 

富裕性の才能は主体に余裕がある分、優しくなりやすいです。清貧性の才能は主体に余裕がない分、正しくなりやすいです。また、優しいことには限度はありませんが、正しさは時に残虐なものになりえます。

 

富裕性の才能は基本的には贅沢や快楽と言ったものに根を持っており、これによって培われた才能は他から支配がしやすいという特性があります。

 

清貧性の才能は基本的には貧困や苦難と言ったものに根を持っており、これによって培われた才能は独立的であるという特性があります。

 

前者は人の言うことをよく聴きますが、後者は自分だけの道を邁進します。

 

いわゆる「育ちのいい人」と言うのは前者で、いわゆる「孤高の天才」と言うのは後者です。

 

社会に育ちのいい人が多くなる時には、社会は苦難への抵抗力を失いますが、その分、人は優しく穏やかになります。

 

社会に孤高の天才が多くなる時には、人々は峻厳として独立心を持ちますが、社会はどのような苦難も乗り越えることができます。

 

前者は富裕さや豊かさによって育まれ、後者は貧困さや苦しさによって育まれます。

 

つまり、前者の観点からすれば、最高に恵まれた環境によって才能は養成されます。また、後者の観点からすれば、最高に厳しい環境によって才能は養成されます。

 

才能の強力さで言えば、厳しい環境を生き抜いた人の方が、豊かな環境の人よりも常に強いです。

 

つまり、戦争などの実力の闘争になれば、富裕層は貧困層に負けます。

 

一方、優しさなどにおいては富裕層の方が有利です。つまり、実力行使を法的に取り締まり、なるべく平和で優しい状態を構築できれば、富裕層が貧困層に負けることはありません。

 

上の原理から「革命」という現象を説明することができます。

 

つまり革命とは、民衆が虐げられることによって生じます。虐げられることが最大級の才能を生産するためにそのようになります。

 

また、金銭の貧しさでも権力の貧しさでもなく、最大の貧しさとは「心の貧しさ」のことです。ゆえに「心の貧しいものは幸い」であり、そうした人が最高峰の天稟を獲得します。

 

つまり、強力な実力を獲得する上では、とにかく最も苦しい道を進むことが重要です。ただし、自分で故意に選び取った苦しみよりも、不当に他人から与えられる苦痛こそが最大の苦難なのであり、つまり、不正や悪こそが正義の天才を生産します。

 

ゆえに天才は社会への自浄作用として登場します。社会が完全に清らかであれば、悪も不正も天才も生じません。

 

その意味では、悪や不正や天才は社会の不完全性の象徴でもあります。また、人類が神として完成しない限りは、常に天才は必要となります。

 

以上のことから悪人は次のように言い広めます。「この世に天才は存在しない。ゆえにこの世において如何に多くの人が苦しんでいようとも、この世は完全であり、何の欠如も存在せず、十分である」と。

 

以上のことから天才は次のように言い広めます。「この世に天才は存在する。ゆえにこの世において多くの人が苦しんでいることは改善されるべき事態であり、望ましくない。この世は不完全であり、すべてにおいて未だに欠如しており、不十分である」と。

 

何れの陣営に与する場合でも、とりあえず「最後の勝利」は正義の陣営にあり、つまり天才が勝ちます。

 

この場合の悪人の罪状は「自分さえよければ、どんなに人が苦しんでいてもよい」とするエゴにあり、また、天才の勝因はそうした悪人たちの傲慢と自身の徹底した大義名分にあります。

 

結果としては、最も貧しく、最も小さいものが最後に勝利します。その苦難こそが力の根源だからです。

 

ゆえにこうした最も無力で、貧しく、小さい者に力を貸した人々は、その罪を免除され、天才の庇護を受けることができます。ゆえに、「もっとも小さい者のためにあなたがしてくれたことは、私にしてくれたことなのだ」と預言は言います。

 

また、等価交換の原理と公正性の原理から、天才は自身が最もつらい時に助けてくれた人を守り、自身を最も苦しめた対象を殺戮する衝動を持ちます。

 

つまり、それらの天才への虐待や苦難が窮まった時、「最後の時」には悪人への大殺戮が発生します。その時には悪人が許されることはありません。一方、最も小さい者に力を貸した義人たちは、天才たちによる庇護とその技術を授けられますが、これは高度に暗号化されており、心の清い人にしか読み解くことができないようになっています。ゆえに、凡庸な人からはそれらの技術は「不思議な歌」に見えます。また、「神は隠す」のであり、「秘すれば花」の哲理も真理には含まれているわけですから、そうした不思議な歌が悪人の手により解呪され、敗北することはありません。

 

以上のような「革命」のサイクルを人類は繰り返すために、人類史においては定期的に大殺戮が生じています。

 

ゆえに人類が完全に清らかに愛に満ち溢れるその時までは、このサイクルは大なり小なり循環し続けることになります。

 

少なくとも私腹を肥やす悪人たちが、弱者を踏みつけにして搾取し、殺し、嘲笑い続ける限りは、原理的に平和が訪れることはありません(その意味では資本主義は悪であり、共産主義は善であるといえます。ただし、共産主義は要件として人間がすべて最高度に義人であることを必要とするため、現時点ではその成立はまずありえないでしょう)。

 

また、以上の原理からは説明できない奇跡的な個体として、優しさと正義をどちらも高度に兼備しているものがあります。これはメシア的な特性ですが、その「程度」というのがあり、そうした個体のすべてがメシアであるというわけではありません。しかし、そうした奇跡的な個体は「天からの使い」ではあり、有事の際にメシアに仕え、奉仕するでしょう。

 

以下は、今日の記事のポイントです。

 

1.才能には清貧による強力なものと富裕による優しいものとの二種類がある。

2.悪や不正、穢れがある限りは、この世に不平等はいつまでも残存し続ける。

3.愛と正義の両方を兼備している奇跡的な個体は、人類の持つ哲理を越える。

 

すべての精霊とその眷属たちに豊穣な幸があるように。二度とはない、唯一のあなたという個性的な個人が、何の詭弁による迫害も受けることなく、「現に」幸せであれるように。悪人によるまやかしによって「本当の自分」を勝手に決めつけられることのないように。祈ります。

 

 

雨上がり 君は 君の目で答えを探してほしい

 

(花たん, 「アルカンシェル」, 2023 の歌詞より引用)