「大丈夫だとも」
と彼は言った。
私は、彼がそう言うのなら、まあ、大丈夫なのだろうと思った。
――でも、何が大丈夫なのだろう?
しかし、それをそのまま口から出して尋ねるのはなぜか気が引けた。聞いてはいけないことのような気がした。
だけど、私が何か言わなければ、物語が始まらないのだ、ということもまたわかっていた。
「私、絵を描いているとたびたび思うんだけれど、絵って、どうしてこんなにピアノとか小説とかに似ているんだろう?」
「それは君が似せているからさ」
と彼は言う。「翻訳しているんだ」
「翻訳?」
「そう、翻訳。僕たちはみんな翻訳者なのさ。ある人の言葉、ある植物の言葉、ある動物の言葉、ある神霊の言葉、そういったものを自分を霊媒なり、媒質にしながら、伝えて伝えて伝えて……それで……」
そこで、彼は涙を流し始めた。
「どうしたの?」
と私は心配になって聞いてみた。
「悲しいことを思い出したんだ」
「悲しいこと?」
「そう、悲しいこと」
「どんなことがあったのか、聞かせてごらんよ。私は人の話を聞くのは得意なんだよ」
「それは、恵まれた才能だ。羨ましいことだ。羨ましいだなんて言ったら失礼かもしれないけど」
「そんなことないよ。それよりもさあ、話してごらんよ」
「実は好きな人が死んでしまったのさ」
「それは哀しいね」
「そう。悲しい。でも、筆舌に尽くし難い悲しみなんだ」
「あなたには神様の加護はないの?」
と私は聞いた。
「この世界には神様の加護があっても、防ぎきれない傷というものがあるんだ。それというのはずばり、自分さ。自分で自分を傷付ける人間を神様は救うことができない」
「自傷行為?」
「そう。ジショウコウイ」
――ジショウコウイ。
「大丈夫だよ。きっと、神様は助けてくれるよ」
と私は言った。
「いいかい? 神様が助けるのは、二種類の人間なり、動物なり、植物なり、神霊だけなんだ」
と彼は憎しみに顔を歪ませながら言う。「基本的には、才能がある人間のことしか、カミサマは助けない。そして、例外的に、君みたいな人間を助ける」
「私みたいな?」
と私は言った。「どうして?」
「君が謎であるからだよ」
と彼は言う。
「謎?」
「そう、謎だ」
「どうして?」
「君は、どうして?、としか言わないね」
「ごめんなさい」
「謝ることないよ。君は何せ、カミサマに守られているんだから」
「でも、神様は分別しないよ?」
「分別しないように見えるだけさ。自分の信奉者に慈悲深い存在に見せるために、そう装っている。いや、それももしかしたら、カミサマなりの優しさなのかもしれない。神様だって、愛だけは一つしか持てないんだ。愛とはそういうものだからね。だから、君が愛されるということは、僕は愛されないということなのさ」
私は彼のことが何だかかわいそうになってきた。彼の言っている部分部分の言葉の意味は分かるような気がした。それなのに、彼の言葉の全体像はばらけて見えた。そのせいで、彼が本当に何が言いたいのかが、よくわからなかった。何かのセキュリティが彼の心を厳重に守っていた。いや、守っているのならいいのだ。でも、もしも、彼がそこに閉じ込められているのなら、わたしがすることは一つだった。
「私はあなたをそこから連れ出したい」
と私は言った。
「そんなことできないよ」
そう言って、彼は腰にぶら下げられていた銃を手に取った。そして、それを自分のこめかみに当てた。
私は神様にお願いして、彼から銃を取り上げてもらった。すると、彼はとても怒った。
「君は、僕に、どんなに卑劣なことをしたか分かっているのか?」
と彼は言った。
私は、自分が卑劣なのかについて考えてみた。しかし、答えは出そうになかった。卑劣だと思えば、卑劣であるような気がしたし、卑劣でないと言えば卑劣でないような気もした。世界はすべてに対し肯定的なようだった。
彼は続けて言う。
「君は、僕の誇りを奪ったんだ。もちろん、ちんけな誇りだ。こんな小さな腰にぶら下がるくらいのね。でも、それは、僕の唯一の武器なんだ。君みたいに、カミサマにお願いして何でも解決ということにはならないんだ。どうして、それが分からない? 僕は君とは違うんだ。僕は霊媒でも無ければ、神霊でもない。ただの人間なんだ。そんな人間が、この世界で生きるためには、<銃>が必要なんだ」
「でも、あなたは、その銃を、自分に向けたじゃない。生きるために銃を使っていなかった」
「僕が死ねば、誰かがその分、生きることができる。だから、これは善だよ」
「善悪は存在しない」
「強者の理屈だ。バカなことを言うな。ふざけるな。君は一体何がしたいんだ。僕の心の傷をほじくり返して、おもしろいか? それとも、それがカミサマの思し召しなのか?」
「今は、神様は関係ない。強者は存在しない」
「じゃあ、カミサマは何なんだ?」
「神様も強者じゃない」
「お前の言っていることは、もう俺には何もわからない」
その時、二人の下に、猫がやってきた。
猫は、ゴロゴロと喉を鳴らした。
彼は、猫をその手に抱いた。
それで、彼の心は落ち着いたようだった。
何にせよ、彼の心が落ち着いたのなら、私はよかったと思った。しかし、同時に、自分の無力を感じた。彼の言うような、神様に願って何でも解決というようなことにはならないのだ。神様は私の得になることはしてくれるが、彼の得になることはしてくれなかった。神様は万能ではなかった。神様も、一匹の猫に敗北することがあった。もしかしたら、敗北という言葉は適切ではないかもしれないけれど。
「猫が好きなの?」
と私は聞いてみた。
「ああ、好きだ」
と彼は言った。
「ふわふわしてるもんね」
と私は言った。
「そうなんだ。とても柔らかくて、あたたかい」
「あたたかいものが好きなの?」
「そうだよ。君は冷たいものが好きだから、分からないかもしれないけど」
「私も、あたたかいものは好きだよ」
「でも、冷たい物の方が好きなんだよ。君は。だって、神様のことが好きなんだろ?」
「確かに、神様のことも好きよ。優しいし、話もおもしろいもの」
「僕のことと神様のこと、どっちが好きだい?」
「比べられないよ」
彼は、悲しそうに顔を歪ませた。
私は彼のことを抱きしめたくなった。でも、それはすべきではないような気がしていた。私が彼に手を差し伸べたら、彼は壊れてしまうみたいだった。世界は、そういうふうにできているようだった。だったら、私は一人で生きよう。そして、世界の隅っこで、彼のことを見守っていよう。そう思った。
私は神様の家に来ていた。神様はかいがいしく紅茶を入れてくれた。
「ありがとう」
と私は言った。そして、私はお土産に持ってきたケーキを、神様に渡した。神様は喜んでそれを食べた。
「何か悲しいことがあったんだね」
と神様は言った。
「うん」
と私は言う。
「それは大変だったね」
「はは」
「でも、大丈夫だよ。あなたには私がいるからね」
「はは」
「それにしても、このケーキは美味しいね。どこのケーキなの?」
「私が創ったの」
「へえ。あなたが。それはいいね。手作りのものは、私もすごく好きなんだ」
「労働だからでしょ?」
「そう。手の込んだものには人の血が詰まっている。人はそれを労働力と言う」
「神様はマルクスを読むの?」
「読まない」
「カントは?」
「読まない」
「ドゥルーズは?」
「読まない」
「村上春樹は?」
「ちょっと読む」
「はは」
「はは」
「どうして真似するの?」
「私は基本的に鏡だからね。神様は鏡だから」
「鏡なのに、私と違う動きをするなんて不思議ね」
「世界の外においては、それが可能なんだ」
「ここは世界の外なの?」
「そうだよ」
「じゃあ、ここに書かれた言葉はすべて、私的言語なの?」
「そうだよ」
「それじゃあ、誰にも伝わらないの?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「ふーん」
「あなたが、全部決められる。伝えたければ、伝えることもできる。私たちだけの言語にしておきたければ、それもまたできる。全部あなたの願いを叶えてあげる」
「でも、私、願いってないんだ。強いて言えば、友だちが欲しいかな。でも、神様が作ってくれた友だちじゃなくて、自分で作った友達がいい」
「ふーむ。わがままだね。どうして、わたしがあなたの願いを叶えちゃだめなんだい?」
「だって、暇なんだもの。たまには、自分で何かしたい」
「こないだは、世界を見て回るとか言って、とても楽しそうにしていたじゃないか。それじゃダメなのかい?」
「世界もおもしろけど、やっぱり人の方がおもしろいよ」
「私には人と世界の区別はつかないけれど」
「神様は分別しないものね」
「あるいは、そういう夢を見せるのが仕事なんだ」
「そう。夢を見せるのが私たちの仕事」
「今日も祈りましょう」
「そうね」
私はそう言うと、礼拝堂に行った。神様の家には礼拝堂がある。
「ここはいつ来ても、きれいな所ね」
と私は言った。
「しかし、汚いところでもある」
と神様は言った。「美は人の血でできている」
私はその神様の言葉には何も答えなかった。
私は祈りをささげ、神様は踊った。
変な枝みたいなのがいっぱい生えた変わった剣を振るっていた。はた目から見ていて、殺傷能力はなさそうに見えた。
でも、神様によれば、その剣は、この世界のどの剣よりも切れ味が良いのだという。少なくとも、物理法則には反しているが、そんなことも世界の外では起こるのだろうな、と漠然と私は思った。
ひと通り、お祈りが終わると、私と神様は、朝食を取ることにした。
神様はトーストと目玉焼きとサラダを作ってくれた。
私はコーヒーを入れた。料理は苦手なのだ。
神様といろいろとおしゃべりをすると、私は、神様の家を出て、自分の家へと帰った。
すると、どこからともなく音楽が聞こえてきた。現在の時刻は真夜中で、辺りはしんとしているのに、音楽が聞こえてきた。
どうやら、世界の外だけではなく、世界の中もまた、物理法則が通用しないのかもしれない。不思議なことはいくらでも起こるのだ。この世界では。
遥か遠い思い出の話 君が自慢げに見せてくれた
馬鹿みたいな設計図 子供の空想
そして手招く君に釣られ たった今目の前にあるのが
あの日の飛行船だ(Neru、『脱獄』歌詞より引用)