魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

能力主義

思ったことをつらつら書いていきますね。

 

戦争は嫌ですね。何と言っても、人が死んでしまいますから。そういうのって良くないと思うんですよね。話し合いで解決できればいいのですが。色々な事情が複雑に絡み合って難しいのでしょうね。そうした外交的な諸々の問題を適切に解決するためにはしばしば天才的な才能を要します。圧倒的なコミュニケーション能力。しかも、片方だけがそれを持っていても不十分で両方の陣営からそうした人が出てくるのでなければ、戦略的不均衡が生じるので、この場合、侵略や虐殺などのリスクが高まります。何事もバランスが大切なわけですね。みんなが仲良く暮らせるような、あるいは喧嘩しつつも共存できるような、そういう優しいのほほんとした世界がいいですね。人が傷つくのは嫌です。

 

何事も能力が資本なのですが、これも様々な難しい問題を持っています。例えば、能力をどう測定すればいいのか? この問題からして難問中の難問です。能力が重視される社会であれば、凡庸な人は自分の能力を偽装しようとするでしょう。そうするとどれが本物の能力なのかが分かりづらくなり、結果、国家体制は適切な才能を活用できなくなり、滅びます。だから、能力主義すぎてもいけない。かと言って、能力主義が壊滅すると、国家の存続が危うい。バランスですね。何事もバランスが大切。

 

要は、全ての人に価値があるわけです。全ての要素、全ての現象、全ての生命に潤沢な価値がある。ただ、それぞれに差異があり、役割が違うのです。

 

完全に同一な人間だけでは、人類は多様な戦略的な手段を放棄することになります。色々な人がいてくれるから、色々な生存手段を確保することができます。その意味では多様性の量が巨大であるのに応じて、その国家の実力は底上げされていくでしょう。多様性は国力の源です。しかし、そこには国家成員への負荷がかかります。多様な人を許容するのにも多くのコストがかかり、つまり対人的能力が高くなければ、多様な他者を受け入れることはできません。優しい人が能力も高いのは当然の帰結なわけですね。優しいということは、多様性を受け入れることができる資質であるので、必然的に能力も上がるのです。一方、他者を排除する人はどんどん能力の低下を来し、霊的な意味での組織の癌化を免れません。彼らは「自分こそは、自分だけが偉大である!」と叫ぶのですが、実際には全ての人が特別なのであり、彼らだけが偉大であるということはありません。全ての人達が偉大です。みんな違っていて、みんなそれぞれに課題も役割も使命も異なりますが、それでも価値のない人は一人もいない。仮に無脳症の人間であったとしても、そこには潜在的に潤沢な価値が宿っています。そうした「人」も大切な成員なのです。クレッチマーはどうあがいても活用不可能であるような絶対的に排斥される資質も遺伝子には存在するという旨の主張をしていますが、僕からするとこれは誤ったものの見方です。如何なる場合にも、価値のない人はおらず、それがいるように見えるとすればそれは、僕たちの能力の不足に起因した「絶望」によるものです。

 

真の希望を抱いた人は、絶望という希望を抱く場合はありますが、単なる絶望ではどうすることもできません。基本としては希望こそが未来を拓く鍵でしょう。

 

それにしても文章を書くのも体力が要りますね。何事も身体的能力と知能的能力の双方を潤沢に必要とします。少しでも不調があれば、パフォーマンスの質は著しく低下してしまいます。それは多くの悲しみを引き起こします。能力が不足しているばかりに、救えない命が増えるからです。だから、僕たちは一つでも多くの命を救うために、あるいは救済できずとも、せめて援助だけでもするために、日々努力し、能力を最大化していく必要があります。今、僕たちが能力の研鑽をやめることは、たとえそれが少しの期間であったとしても、誰かの命を暗黙の裡に切り捨てていることを意味します。もしかしたら僕たちのちょっとした能力が誰かを助ける力になるかもしれないのです。常に。怠慢が殺人であるのは、そのような仕組みがあるからです。

 

かと言って、無理をし過ぎて体調を崩してしまえば、能力の低下を来してしまい、これはこれで誰かの命を切り捨てることになります。また、能力というのはきわめて繊細なもので、様々な複雑な調整を絶えず必要とします。しかも、その調整の如何は本人にしかわからないのです。僕たちに何ができるのか? それを知っているのは、神様と当事者であるそれぞれの個人だけです。如何なるファシズムもその個人の領域に追随することはできません。そこに「心」があります。

 

思うに、心なしには何事も為すことはできません。清らかなそれなしには。逆に言えば、それだけが大切なのでしょう。古来より神道の教説では、祈らずとも心を正しくするなら、その者は神の恩寵を受けるという旨の主張が為されています。僕もこれはそうだと思います。正しくなければ、どんな実入りも期待できません。

 

そして、不完全な正しくない人に情けをかけることなく、排斥することもまた正しくはないでしょう。「愛」がないからです。逆に、能力の不足ゆえに不義を為してしまったとしても、真の愛ゆえの誤りであれば、それは免責される方向に巨大な力が働きますね。仁者というのは無敵なものなのです。思い遣りの深い人達が本当に無敵な人たちなのですね。愛と正義の勝利は森羅万象によって確約されています。それらがオーセンティックなものであれば……。

 

たとえ裕福になったとしても、正しくなければ、それは不幸なことだと思います。たとえ高い地位があったとしてもそうでしょう。

 

また、能力は正しく養成されなければ、すぐに成長を「故障」によって止めてしまいます。真に高度な能力はその人が長期間にわたって正しかった証です。それらは極めて美しく、人を欺きません。長い髪のようなものですね。美しい長髪は長期にわたってその個体が現に健康であったことを示す明かな証拠となります。欺きや盗みは自分の弱さに起因するものです。真に実力があれば、そうした罪悪は不要なのですから。あるがままの自分に自信を持つ……ということ。

 

あるがままの本当の自分であること。何物も欺くことのない清らかで正しい心で。たとえ明日世界が終るとしても、真心からあなたが望むことは、何ですか? 何の対価もなしにそれ自体に至高の価値がある神様のように……。つまり、あなたが神様から授かった使命は何ですか? どんな物にも依存せず、どんな誤魔化しもなく、心底から大切にできるその生命の「旋律」はどんなものでしょうか?

 

すべての人たちが本当に自分にとって大切なそれぞれのものを大切にできますように。祈ります。

 

 

今ここで好きなように音を鳴らす

最後の日に二人きりの街で

 

(YOASOBI,「アンコール」,2021 の歌詞より引用)