「とりあえず、この三人を殺してくれればいい」
そう言って、男は三枚の写真とその人たちに関する資料をテーブルに広げた。
ノアは、それらの資料をひと通り見て、記憶すると、その場を去った。
ノアはバッグの中から、ナイフを取り出してみた。
月明かりに照らされていた。
光源からの距離や蒸気、風の具合、それらの情報が同時に頭の中に流れ込んできて、一瞬、ナイフがねじれて見えた。
――世界はまっすぐじゃない。ねじれているんだ。
誰かがそう言ったが、それが誰なのかはノアにはわからなかった。
ノアは、大きな工場の前に立っていた。その工場は、幾人もの警備員とセキュリティシステムに守られていた。
ノアは、暗号をまず解読する。
次にロックを解除する。
そして、警備員の運動を全て予測する。
そのまま、彼らの目に留まらないようにしながら、工場の中を分け入っていく。
ノアは昔からこの手のことには慣れていた。
ノアの家系は、殺し屋の家系だった。だから、隠密行動はお手の物だった。
ノアには双子の妹がいた。彼女は、ノアよりもずっと目立つ。そして、ある時、殺し屋をやめて、どこかに行ってしまった。父はそのことでとても怒った。あの時の父の権幕は今でも忘れられない。父がどうしてあそこまで起こったのかは、ノアにも、わからなかった。
と、どうしても通らなければならない扉の前で、警備員が二人。
ノアはナイフを抜いた。
さっと警備員の背後を取ると、そのまま、通りすがりざまに、首を掻き切った。
さぁっと血飛沫が上がる。
驚いたまだ生存している警備員が急いで銃を抜いた。
ノアはサプレッサーを装着した銃で、その脳天を打ち抜くと、そのまま、扉のセキュリティを解除し、工場の中に入った。
工場の中は白い光で満ちていた。蛍光灯。
ノアは、まず警備室の警備員をころし、工場のセキュリティシステムをダウンさせる。
監視カメラの映像から、殺害対象の姿を見定め、しばらくそれを眺める。
ノアの脳裏に対象の行動パターンがトレースされる。
すると、ノアは、その殺害対象の動きを予測しながら、その元へと向かう。
殺害対象は、工場内の喫茶室と思しきところで、お茶を飲んでいた。
まるで、ノアがここに来ることがわかっていたようだった。
殺害対象は、銃を抜くと、ノアになんのためらいもなく発砲した。
ノアは、柔軟に身体を運動させながら、銃弾を避け切ると、ナイフを殺害対象に向かって投げた。
勝負はあったように見えた。
しかし、相手にはボディーガードがいたようで、そのナイフは叩き落されてしまった。ボディガードの存在は、ノアの認識外にあった。
ノアはそのことをとても疑問に思う。今まで、敵についての情報を見逃したことがなかったので、余計にいぶかしかった。もしも、ノアの予測を越えられる誰かがいるとすればそれは……
ノアの目の前に、彼女の双子の妹のリリスが立っていた。
ノアはたじろいでしまった。
リリスは、銃を抜いた。
ノアは気をとりなして回避しようとしたが、リリスの銃弾を左腕に受けてしまった。とても痛かった。
ノアは撤退しようと思った。
――左腕を失った状態では、リリスには勝てない。
左腕は、ノアの利き腕だった。
ノアは、すぐに退却しようと、部屋から出た。
リリスは、すぐに追ってくる。
銃弾がノアの右耳をかすめる。
ノアは焦った。
死の危機を感じた。
手榴弾を使う手もあったが、できれば、最後の最後まで使いたくはなかった。
爆発物を使っては、隠密行動の意味がない。
そして、困ったことに、リリスはノアよりも足が速い。
状況は絶望的だった。他の警備員もノアを追ってきた。
ノアは、
――ああ、死ぬんだな。
と思った。
思えば、人を殺すだけの人生だった。
本当にそれだけだった。
今のノアには、何も自分と呼べるものが残っていなかった。人を殺して、殺して、特別に意味もなく、殺して、ただ仕事だから、殺して、それだけで……
それが、ノアの定めだった。目的なんて何もなかった。
ノアは何か言った。
しかし、ノアには自分が何を言っているのかもわからなかった。どんなに言葉を紡いでも、その音は無限の虚無に吸い込まれていってしまう。
ノアは、警備員の持っていた銃を奪っては、リリスに向けてそれを連射するということを繰り返した。
そうしているうちに、右手はどんどんしびれていく。
一人、殺す。二人、殺す。三人、四人、五人、六人、……
ノアは、自分では今まで気づいていなかったが、自分がずいぶんと罪の意識にさいなまれていることを知った。心は、痛みばかりであふれかえっていた。
ノアは自分がノアであるということすらももう、確信を持つことはできなかった。生きている意味なんてないのだ。
――闇雲に生きてきて、闇雲に死ぬ。バカみたいだ。一体、何のために今まで生きてきたのだろう?
――所詮、自分にはこれが限界なのだ。
――何一つ、何一つ、抱きしめることもできないままで。
――すべて夢だ。
すべて
名もない感情が胸の中を流れていく。そのたびに、罪の鼓動を感じた。
――私はあまりにも穢れ過ぎていたのだ。
もう銃を撃つのは限界だった。右手はしびれて動かなかった。
サイレンが鳴り響いていた。
警備員も集まってきている。
ノアも出血により疲弊していた。
うまく警備員の目を欺けたとしても、リリスの目までは欺くことはできない。
それに――……
……――生きているのはもう嫌だった。
リリスがノアの目の前に立っていた。
リリスはノアに銃を向ける。
ノアがリリスに笑いかける。
リリスはそれと同時に、銃の引き金を引いた。
死の間際、ノアは思った。
――嘘なんてつけないのだ。どんなに冷酷になろうとしても、どんなに心を凍らせても、どうしても苦しいものは苦しいのだ。
――これでやっと、楽になれる。
ノアの死に顔は、とても安らかだった。
――ありがとう、リリス。抱きしめられなくて、ごめんなさい。
ノアより
枯れ行くパトスでは
破れるだけ
痺れた右手じゃ抱き締められない(雄之助,『Pathos』歌詞より引用)