魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

気になっていた女の子

 ずっと桜の花びらが散っているのを見ていると、自分の心まで散っていくような気がします。どうして、このような感覚になるのでしょうね。不思議です。さて、今日は何のお話をしようか決めていないのですが、散漫に散文を書いていこうかと思います。散漫術です、というかエッセイのようなものです。最近は色々な本を読んだりとかしていて、そのせいで少し忙しめです。読みたい本というものが、世間にはたくさんあって、本当に大変です。今日は改行すくなめにしてみます。そして、「開業」のことについて考えます。「何か開業したい!」というどこからともなくやってくる欲望が僕にはあって、しかし、何を開業したいのか今一つ定まっていないという体たらくなのです☆ 「いいんだ、それでもいいんだ!」と自分に言い聞かせながら日々を送りつつ、いろいろと勉強しています。経済関連の本を読むことが多いかもしれません。そのうち、生成文法の本を読まないといけないな、と思っていて。生成文法が現在トレンディーなのです。僕のトレンドは、常に変転し続けていて、それこそ、世間の流行並みに変転し続けていて、自分でもついていくのがたいへんです。マジで。なんというべきか、こうして、改行せずに文章を書くというのも乙なものですね。ぎっしり詰まっていると、読みたくなくなる人がけっこういらっしゃるかもしれませんが(笑) しかし、自分で書いている分には、思考が止まらなくて気持いい感じ。改行しすぎると、流れが無くなって、今一つ書いていて気持ちよくないんですよね。たいへんです。そんな大変でもないか。

 僕には好きなお菓子がたくさんあるのですが、みなさんはどんなお菓子がお好きなのでしょうね? 男女平等なお菓子でしょうか? それとも男女差別なお菓子でしょうか? 世の中には色々なお菓子があります。そして、お菓子のお菓子性というのはとどのつまり、無駄性であって、それ以外ではないのではないかと思うこともあります。しかし、お菓子はけっこうおいしいですよね。きっと身体がそれを欲しているということはある程度大切なのだろうという気がします。

 お菓子やお酒やたばこは嗜好品として消費されるものですが、しかし、そうした「嗜好品」という概念にも色々なものがつまりに詰まっていて、それこそ廣松渉の本くらいいっぱい色々な概念が詰まっているのかもしれません(別に廣松渉でなくても一向にかまわないのですが。しかし、今の僕のトレンディーが廣松渉だったようです。ふしぎです)。

 共同的な主観の軸で、お菓子について考えてみるとこれはこれはおもしろいことになります。

 お菓子の一つ一つに主観があって、そのお菓子が林立している。いろいろなお菓子的な主観が林立していて、そこに共同性がある?

 ほう……

 ほう( ^ω^)・・・

 一体どんな共同性があるのかとても気になります。お菓子は一つ一つ別個の個別なお菓子なのであって、それ以外ではないのではないかと思うのです。僕はそう思います。これは僕の主観ですが。つまり、僕のお菓子がそう告げているのです。そう、僕の中のお菓子が。

 しかし、お菓子を食べていると様々な快楽があるのですが、これは世の中にはさまざまなアーティストがいるということと関連しているのかもしれません。そして、さまざまな詐術もあります。みなさんもお気を付けくださいませ。詐術は怖いものです。僕たちの生活というのはもっぱら詐術的お菓子にまみれているもの、なのかもしれません。詐術的お菓子の代表格は覚せい剤かもしれません。依存症も。セックス依存症とか。たいへんですね。セックスに依存するとか、お前どんだけセックスしたんだって話ですけど。なかなかに世知辛いことです。 

 ビルゲイツが機械に税金をかけるべきみたいなことを言っていた、みたいな記事をどこかで見かけた、気がしないでもない、みたいな、気がしないでもない、みたいな気がします。

 そして、ここで、ドゥルーズの出番なのです。つまり、リゾーム。根はモジャモジャです。この文章みたいに。

 そして、ここで、私はドゥルーズになりきりたくなってきます。しかし、到底そんなことはできません。才能の量に雲泥の差があります。大変です。

 才能の差というのは時間の差なのかもしれません。時間の量の差。つまり、余暇の量が、いろいろなものを良い方向にもっていく気がします。すると、ベーシックインカムとか導入すると、みんなの余暇が増えてウハウハになるのではないかという気がするのです。なぜ、「ウハウハ」かっていうと、だって、暇な人が増えると、ナンパがしやすくなるじゃないですか。これは楽しいですよ。みんな忙しそうだと、なかなかどうして、時間を取ってもらうのがたいへんというか、申しわけない気もします。現代人はみんなあくせくしていますからね。だから、こんな時代にこそ、僕は、「暇」の大切さを説きたい!! 心の底からそう思います。そう暇は大切。大切です。これは真理です。いま、僕が創った真理。僕は神のようです(どやっ)嘘です。ごめんなさい。恥ずかしいことを書いてしまいました。しかし、僕は統合失調症を患っているというふうな側面もないことはないですので、その辺は一種の誇大妄想として許していただきたい。僕の溢れ出るリビドーこと、溢れ出る妄想的文章はこうしてどこまでもどこまでもとめどなく流れ続けるのです。すべてのものが流れていきます。すべて妄想となって。何もかも流れていくのに、そこに何かの形が残って見えるのってすごく不思議。なんでなんでしょう? これは僕が思うに、ナンパの問題に深くかかわっているのです(どんだけナンパの話好きなんだ? とか言わないでね☆ 僕もこの文章けっこう恥ずかしいんですから(笑))。直観で書いた文章ですからね。そりゃ、ナンパとリビドーは関係してきますし、妄想とリビドーは関係してくると思いますよ。そして、こうした、リビドーの強さが、とてもナンパにおいて大切なのではないかという気がしないでもない。疲れてくると、欲望とか減退してくる気がして。ある意味で、正しく欲望を持てるというのは、一種の幸運であり、殺菌作用であり、清潔的芸術ではあると思うのですが、それはそれとして。――さて、ヘーゲルならなんというでしょうね。弁証法で何とかするのでしょうか。どのようにナンパと欲望を「アウフヘーベン」するのでしょうか。とても気になります。ヘーゲルに会ったら、ぜひ聞いてみたい。カントのごとく、超自然的ともいえる仕方で、分析判断と総合判断を分離させるというのも手だとは思うのですが、なかなかどうして、僕程度の才能では、そこまで気が回らないのです。

 総合判断で、ナンパできたら素敵ですね。何の脈絡もなく、ベッドイン☆ ほお。これはすばらしい。それにしても、僕はいったい、何の話がしたいのかについてそろそろみなさん気になってきたかもしれません。それはですね。「気になっていた女の子」ということについて僕は語りたいのです。どういうことだと思いますか? 十秒待ちますので、考えてみてください。善かったらね。強制はしません。

 

 ハイ、十秒経ちました。みなさん、何をどのようにお考えになりましたでしょうか。さて、まず、ポイントをまとめますよ。

 

1.ナンパ

2.欲望

3.アウフヘーベン

 

 そう。ナンパと欲望をどのようにアウフヘーベンするのか。

 欲望がたぎりすぎると、女性の方ドン引きしてしまうやも。例えば、このような文章などは、極めて「キモい」文章であることは間違いないでしょう。できれば、そのキモさにファブリーズを施して、なんとか脱臭できないかという気もしないでもないのですが、如何せん臭いものは臭い。臭いものには蓋をするに限り、それというのも、みんな「成長」したくないからなのです。みんな「アウフヘーベンなんてしたくない」。僕はそう思います。

 なぜ、統一しなければならない? 主体? 統一? では、その主体から除外された人はどう過ごせばいいのやら。やれやれ、としか言いようがない。

 主体について語りだすと、止まりませんので、やめておきます。

 そして、主体という言葉も、これもまた面倒臭い言葉で、言語化が難しいどころか、不可能なものに仕立て上げる哲学者もいる始末。やれやれです。本当に。

 つまり、ここにおいて、ナンパと欲望は分離されております。ならば、アウフヘーベンはされない。すると、ナンパと欲望は対立項目ということになるのか。おそらく、そうはならない。全ては余暇の問題、つまり、「暇」の問題なのです。そもそもある程度の余裕がなければ、何かを欲望できない。馬車馬のようにくるくるくるくる資本的に回転するだけです。そうして、どんどんどんどん搾取されて、挙句の果てに、この文章のようにキモくなってしまうのです。やれやれです。そして、この文章の生みの親たる僕は、その自分のキモさに終始辟易してすごしていかなければならないのです。やれやれです。これもまた、ひとつの不幸としては一種の機能、有効性を持っているともいえるかもしれません。僕は不幸が大好きです。嘘です。嫌いです。幸せになりたい。

 しかし、それはとても難しいことです。それこそ、大好きなものに対し、大嫌いだなんて言ってしまうくらいにそうなのです。

 人間の心というものは日々こうした反動形成に曝されているのであって、なかなかに思うようにならないものです。

 すると、性欲が主体なのでしょうか? この文章の主題は性欲なのでしょうか? おそらくそうはならない。なぜなら、性欲と主体は「分離」されているからです。この事実は重要かと思います。

 実は、今日の隠れた目的は、徹底的にキモい文章を書いてみようということなのです。これは、キモいとは何か、ということを確認するための、ひとつの実験です。実験は大切。何度でも実験したい。

 百回くらい実験すれば、なんとかなるかもしれない。それがダメでも、百一回目がある、というふうに生きております。希望の無限連鎖。きりがない。希望は無限。絶望も無限。本当にきりがない。どうしようもないな、と思う今日この頃です。しかし、無限というものもそれほど悪いものではないのかもしれません。それらは目に見えずとも、不死の魂でもって、僕らの動向を見守ってくれている、のかもしれません。そう考えると、この文章も多少、ロマンチックになるかな、という希望的観測を持っています。以上です。

 とどのつまり、気になっていた女の子とは、一種の男にとって無限以外の何物ではない、ということに尽きるのかもしれません。やれやれ。