魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

書くこと

考えてもしょうがない時ってあるな、と思いますね。しばしば。そういう時は僕の場合、あまり考えないようにしています。

 

色々なことは「案ずるより産むが易し」みたいなことも多くて、まずはやってみるのも一つの手なのだと思います。

 

挑戦やチャレンジは尊い

 

気軽さってかなり大事だと僕は思っていて、ゲーテが言うように、向こう見ずは天才。

その意味ではバカは最強!

 

ということで僕もなるべくバカになっていきたいな、と思います。もともと頭が良いわけではないのですが、さらにバカになれるように努めていきたいものです。

 

文章の不思議はそういう向こう見ずに宿るような気がしますね。思考とは分離された一つの形態としての「言葉」というか。

 

あんまり重い文体だと読める人が減りますし、軽い文体すぎても滋味がなかったりしてバランスが非常に難しいのですが気楽にスケッチするようなイメージで文章を書くのもいいんじゃないかな、と思うこともあります。

 

もちろん、論文のようなものや重厚な小説のようなものもとてもいいのですが。

 

何事もそれぞれの良さがありますね。

 

文章を書くと言っても色々な書き方があって、文章作法などもそうですが、例えば、紙に書くのとキーボードから打ち込むのも全然違いますね。それぞれにそれぞれの良さがあります。

 

僕はかなりアナログなところもあるので、紙に落書きして遊んでいるのが結構好きな方ですね。とても楽しいですし、自由に落書きしていると色々な発想が得られます。個人的な印象としては「落書きは万学の祖」みたいな感じですね(笑) 落書き超楽しい。

 

小学校の頃とか授業聞いているのがつまらなくて結構プリントの裏とかに落書きしていましたね。色々な絵を描いたり、自分の考えを整理してみたり、当時好きだった天文学の知識を書き出してみたり……。懐かしいな、と思います。

 

こういう「遊び」ってすごく簡単にできることなんですけど、簡単すぎてかえって難しいんですよね。気づいてしまえば、「なんで今まで気づけなかったんだろう?」と不思議ですけど、気づくまでは本当に気づくのが難しいのです。発想という概念の不思議ですね。世の中には無数の不思議がたくさんあって、まだまだ人類から隠された知識もたくさん眠っていますね。自然とか宇宙とか、あるいは紙と鉛筆の中にさえも。

 

例えば、数学とか極論、紙と鉛筆で探求可能ですよね。数学素晴らしい。

 

紙と鉛筆という基礎的な用具の中に、無数の数学が眠っています。しかも、その鉱脈はどうもすごく大きくて、人間の短い人生にとってはまさに無限のようなものです。

 

未知のことがある、という事実は非常に気持ちのいいものですね。

 

基礎は何事も大事なのですが、基礎はどこにいても養えるのです。応用は多少お金がかかったりします。だけど、基礎をのばせば、応用の際にかかる費用を節約したりできたり。

 

世の中には色々な抜け道もあります。違法なことは基本的にダメですが、抜け道を上手く用いることが有効な場合もとても多いでしょう。

 

正攻法も大事ですが、「奇妙さ」というのもまたいいものなわけですね。何事も一長一短。奇策も最高。

 

効率を求めると効率が遠ざかったりしますよね。正攻法に執着するとかえって正攻法ができなくなったりするものなのです。執着すると大体、上手くいかない。なので、なるべく物事に執着せずに流れていくのも一つの手だと思います。しかも、こうした『老子』的な方法というか戦略はとても強力でもあります。何せ完全に理に適っていますからね。古典はすごいです。

 

灯台下暗し」と言って、近いところとか以外に盲点ですよね。大切なものはいつもそばにある! 的な教訓とかもけっこう大事なのだと思います。少なくとも一理はある。

 

遠くに執着すると近くが盲点になりますし、近視眼的になると遠くが盲点になります。いずれも何らかの執着が盲点を作り出しているわけですね。逆に言うと、執着を極限まで避けることで、極限まで正確に現実を認識できると考えられます。

 

そうした執着を脱した状態って、多分、気軽なものとしても現れやすいと思います。執着は何か、人を動けなくするみたいです。

 

とか言いつつも、僕もなかなか執着から完全には自由になれないように思いますし、なかなか難しいですね。

 

村上春樹さんが新作の小説を出されるそうで、僕はとても楽しみにしているのですが、一体どんな小説なんでしょうね。軽快なのか、重厚なのか、あるいはそのどちらでもないのか……。

 

僕としては、軽快さも重厚さもどっちも好きですので、問題はそれがどのような種類のものであるかというよりも、ひょっとするとその洗練の強度の問題なのかな、とかも考えたりしますが、様々な小説観が世の中には存在しますので、一概には断言できないところです。

 

昨今はかなり物騒な世の中でもありますから、そう考えると重厚な物語なのか……それともそうした現実の重圧がかえって軽快さを生むことになるのか……予測しがたいですね。優れた作品の一つの条件はこちらの予想を超えてくることかもしれません。

 

「書く」というのは難しいことです。「読む」ことがそうであるように。