あまりにも切実な想いは、言葉にはならない。それでもそれを記述しようとすれば、瞬く間にアポリアに飲み込まれてしまうだろう。感情の翼をへし折ってしまえば、想像力が飛翔することはできない。
魔術師には幾種類かの系統がある。五行大義に記された属性に基づいてそれらを記述することもできるし、あるいはもう少し錬金術的に記すことだってできるだろう。それこそ、それぞれの流派によってその記述の作法は多様に異なる。だから魔術は面白い。そして、とてもとても悲しい。
翠は魔術書を読みながら、コーヒーを飲んでいる。彼女は女性の魔術師なので、いわゆる「魔女」ということになる。彼女が大嫌いなことがこの世には三つある。
1.個人を圧迫すること。
2.自由を圧迫すること。
3.才能を圧迫すること。
つまり、彼女という魔女は、個人主義で自由主義で才能主義であった。その点についてはとても厳格であるが、逆に言うと、他の点についてはだいぶルーズな人間でもある。ここで「人間」というのも堅苦しい。彼女は十五歳の少女であるので、その点をぼかすのはやめておこう。
しかし、彼女の才能は彼女を子供のままにはしておいてくれなかった。彼女のその天才は極めて例外的で画期的なものだったので、誰も放っておくことができなかった。そのせいで彼女は幼いころから腫れ物に触れるような態度で大人たちに接遇され、その性格はかなり歪んでいた。しかし、根はとてもいい、そして美しい少女でもあった。
普通、魔術師の作法は五行大義的な分類で述べるところの、木火土金水に分類され、そのいずれかに特化した術式をそれぞれに習得する。彼女の場合は、これらの五行をすべて人並み以上に行使できた。
彼女が植物を育成すれば、どんなものでも生い茂るし、発火技術を用いれば、どんなものでも燃えた。どんな土塊も金塊と為すことができ、どんなに堅い金属もメルトダウンさせ、完全に流体とすることもできた。
少しだけこの世界の魔術の如何について述べておこう。
まず「木」の魔術とはどんなものか? それは使用的な観点からすれば、あらゆる観念的なものをも含んだうえでの「火薬」の錬成である。そこには独特の錬成経路があり、現行の技術論では、それらは一括して「科学」と呼ばれてしまいやすいが、実際にはより精細な幾多の理論が隠されている。原子力などの理念はこうした木の作用によって結晶化させられている。つまり、翠はほぼあらゆるものを「燃料」とすることができる。これは潜在的にはほぼ無限大の魔力を保有していることを示す。
次に「火」とはどんなものか? これは可燃材としての魔力の限りの化学作用の自在的活用である。ミサイルや重火器などの結晶化作用は、こうした「火」の属性から導き出されている。それらは急激な変化を統率できる力能であり、あらゆる固定物を溶かしてしまうことができる。翠の火術はほぼ完全に融通無碍なものであり、如何なるものもその行く手を阻むことはできなかった。ちょうど如何なるシェルターをもってしても、無限発の原爆が降り注げばついには破られてしまうだろうことと原理的には同じである。
さて「土」とはどんなものか? これは火術への対抗であるとともに、その生成物でもある。土は窮した状態でもある。例えば、人は死ねば土に還る。その意味で、火術が過程を利用した術式であるのに対して、土術は究極の形態を体現した成果物の一種である。これは火が定まらず、つかむことができず、風の力などで容易に動くのに対して、不動のものである。例えば、コンクリートを活用した技術などは土術に当たる。土術は物事を固定し、絶えず補強することである程度の強固さを発揮することができる。翠の土術はほぼ完全にすべての矛を防ぐものであった。
「金」とはどんなものか? これは土の一部に眠っていた潜在的な可変性を揺り動かした結果生じる、動と不動の両立的な産物の総称である。金術は火術の特性と土術の特性を合わせ持っており、工夫次第で、自在に変形し、自在に固定することができる特性がある。土術の場合、変化性に対してあまり強い耐性を持ちえないのに対し、金術の場合にはある程度変形に耐える。しかし、固定性に重きを置く場合には火術に弱く、可変性に重きを置く場合には土術に弱い。翠の金術は多くの土術と火術の間に備わる矛盾を超克することができた。
最後に「水」とはどんなものか? これは流れ、逆らわない。色さえなく、透明で、それでいて万物を陰ながら養う。重力に服し、そのままでは低きへと流れる。それなのにその万物を養う慈愛ゆえにあらゆるものに祝福され、あらゆる生命の基礎を形成する盤石の地位を築く。簡単に言えば、水術の要諦は、「柔よく剛を制す」ということである。そして、水は万物に宿るすべての魔力の根源に当たる。これは可燃物としての「木」を生成するのを助ける作用がある。翠の魔術はオールマイティなものではあったが、中でもこの水術に卓越していた。
さて……翠はコーヒーを飲み終わると、家の外に出ることにした。
彼女の行く先には大概「魔物」がいるのだが、今日まず会いに行くのは彼女の友人であった。その友人は紅と言う。紅は翠の一個年上の女の子で、魔術の中でも火術を得意としている。
翠は紅と家の近くの公園で待ち合わせていた。紅は約束の五分前には既に公園に到達していたのだけど、翠は約束の十分後に到達した。
紅は言う。
「……翠遅い」
翠は言う。
「コーヒー飲んで本読んでたら、遅れちゃった☆ かわいい私をぜひ許してね☆」
紅は翠によく感じ取れるように大きくため息をついた。
翠は自分が遅れたのにもかかわらず、ぷりぷりと紅のため息に対して文句をつけだした。
紅は「あーあー、聞こえない、聞こえない!」と言って耳を塞ぎ、翠の小言をやり過ごしていた。
おそらく彼女たちはバカであった。天才なのに……。あるいは天才だからなのだろうか……。
……さて、一転して真面目な顔で翠は言う。
「それで<今日の魔物>はどんななの?」
紅は翠にもっとたくさんの文句を言ってやりたかったが、そこはこらえて、彼女の言葉に付き合う(翠はなかなか真面目にならないので、その瞬間を逃すと何もかもするすると通り抜けてどこぞに逃げていってしまうのだ。水のように)。
紅は<今日の魔物>についての資料を翠に渡した。
翠は紅からそれを受け取り、さっと目を通すと、
「じゃあ、行くか!」
と明るく言った。紅にとっては翠の持つ一種の明るさは救いだった。
時が止まり、空間が終わる所に魔物はいる。そうした時空間が有効性を持たない位相にアクセスできるのは魔術師だけである。翠と紅は今日の魔物に対峙していた。
魔物は彼女たちに言う。
「とても痛い。苦しい。悲しい。助けて欲しい」
翠は得意の水術の一種であるエンセイアと呼ばれる癒しの術式を用いて、魔物の傷を治療した。エンセイアは多くの魔力を消費する魔術で、翠以外の魔術師は効率が悪いとしてあまり使うことがない。しかし、翠は多くの魔力を持っていたので、この魔術をふんだんに用いることができた。エンセイアは非常に燃費は悪いが、一種の医術としては最高度の操作性を完遂できる機能でもあった。
魔物は言う。
「まだ痛い! 痛いよ! どうして私だけがこんなに痛いの! どうしてあなたたちは平気なの? 私だけ! 私だけ! 私だけ!」
翠は言う。
「傷自体は治ったよ。そのことについては完全に保証する。だけど、<それでも>あなたは痛くてたまらないんだね?」
魔物は言う。
「私の傷は当たり前に痛いの。あなたたちには決して分からない痛みなの。私だけの痛みなの。だから、あなたたちがどうしようと私を治すことはできないの」
紅は魔物に答えて言う。
「あなたの言うことは正しいよ。あなたを救えるのはあなただけだから。だけど、私たちにできることがあったら、言って欲しい」
魔物は言う。
「どうして何かできるだなんて無邪気に言うことができるの? 私の何があなたに分かるって言うの?」
そう言って、魔物はさめざめと涙を流している。
翠は言う。
「あなたの名前を教えて」
魔物は答えて言う。
「私は翠」
紅は言う。
「あなたの名前を教えて」
魔物は答えて言う。
「私は紅」
すると、魔物の身体が光り輝いて、そこから<鏡>が出てきた。鏡には翠と紅の名が刻まれている。
その切々とした想いの数々が、魔物の鏡には鮮明に映っていた。
「誰もあなたのことを気にかけてくれなかった……そんな気がしているんだね」
と翠は魔物に言う。
魔物は首を横に振って、泣いている。魔物は言う。
「どうして私から逃げないの? 怖くないの?」
紅は言う。
「怖くない。あなたの鏡は綺麗で、あなたは本当は<魔物>なんかじゃないから」
魔物は憤怒して言う。
「そうやって私をだますんでしょ? そうやって優しいふりをして私を殺すんでしょ? 知ってるよ。みんな狡いんだ。みんな私を……私を……」
魔物はそこまで言うと、自分の鏡を自分で破壊してしまおうとした。翠は素早くカルダロンという金術の一種を使ってその魔の手の作用を切断した。カルダロンは無数の大剣を随意の空間に付置して即時的に召喚することで強制的に物体を切断する大魔術だった。
魔物は再び憤怒して言う。
「ほら……やっぱりあなたもみんなと同じだ。力で私をねじ伏せる……なら、死ね!」
そう言うと、魔物はクイスレイクと呼ばれる土術を用いて、一面に地震を起こし、それと同時に翠と紅の立っている地面を急激に隆起させ、それによって殺そうとした。
翠はカルダロンによる大剣を素早く操作して、隆起しつつあった地面の運動をねじ伏せ、切断し、紅はラムディンという広域に作用を及ぼす火術を用いて、魔物の荒した大地を根こそぎ燃やし、そこに眠っている魔力源を無力化した。
魔物は魔力源を奪われ、悲しんだ。
魔物は言う。
「私は悪い子なの? だから、みんな私をいじめるの?」
翠は言う。
「違う」翠はそう言いながら、魔物のボロボロの身体を抱きしめた。その身体は深く傷ついて、その心は深淵へと閉ざされていた。
翠は再びエンセイアを用いて、魔物の身体の腐食を抑えようとした。しかし、治しても治してもその心身は崩れ落ちていく。
紅は翠のエンセイアを手伝うために、火術の一つであるライクレアを用いた。ライクレアは事象を過去に遡らせることのできる魔術で、局所的な物体の化学反応を逆算して構築することができる。そのことによって、傷を得る前の清い身体を回復させることができる。ライクレアを用いれば、大概の傷は数秒で癒える。しかし、翠と紅の目の前にいるこの魔物の傷はどんな大海よりも深いものだった。
翠と紅は力を合わせて、その無限の傷の深さに抗う。何とか無限を超克しようと死力を尽くしている。
魔物との戦いはいつも命懸けなのだ。魔術師はいつも己の力の限りを尽くして、傷の深淵に抗う。それでもしばしば傷に敗れ、魔物を救おうとした魔術師さえもがその深みに足を取られ、暗黒の中に落ちていく。しかし、それだけのリスクを背負ってでも、魔物を救うことに価値があった。少なくとも翠と紅にとっては。翠と紅の心身も急激な魔力の行使につれて、傷ついていく。
魔物は言う。それまでとは少し違ったふうに。ほんの少しだけ静謐な悲しさを湛えて。
「もういいよ。私死ぬんだね?」
翠は言う。
「君は死なない」
魔物は翠を小馬鹿にしたように笑う。そして言う。
「あなたって自分のことかわいいと思ってるでしょ? だからこんなに必死に……私なんかのために血を流して……」
翠は答えて言う。
「私がかわいいのは事実だけど、それが何でだか知ってる? 私は君を助けたい。どうしても助けたいの。見捨てたくない。その心が嘘だったらさ、君が私をかわいいだなんて、思うことなんて、きっとなかったよ」
紅は魔力の限界を感じながら、魔物に言う。
「翠は性格はひねくれてるけど、嘘つかないよ」
魔物は微笑んで、そのあとに涙を流した。そして言う。
「あなたたちは不思議ね。私は魔物だよ? あなたたちを殺そうとしたんだよ? どうしてもう助からないものを助けようとするの? どうして、優しいの?」
翠は言う。
「君が助かるからだよ! 私は優しくはないけどね! 紅は……まあ、ウザいなりに優しいけど」
彼女は続けて言う。「君が魔物になっちゃったのは、君が悪いんじゃないんだもの。そんなの全部この世界が悪い。私は誰よりもそれを知ってる。だから、助ける」
魔物は言う。
「バカみたい」
紅は魔物に言う。
「翠はいつもバカみたいだけど、これでも魔術の大天才なんだ。だから魔物さんの傷もきっと癒えるよ」
翠は言う。
「私バカじゃないよ! 天才だよ!」
魔物は紅と翠のやり取りを見て弱弱しい息遣いで、それでも楽しそうに笑っていた。そして二人に言う。
「ありがとう」
その瞬間に魔物の鏡は光を取り戻し、<彼女>の身体から<厄災>が出てきた。それまで魔物だった身体は人の形を取り戻して、今は眠っている。深い深い息遣いで。その深遠は今までとは打って変わって安らかなものだった。とてもとても。
魔物という依り代を失った厄災は新たな依り代を求めて、翠と紅に襲い掛かる。厄災を祓うことを除霊と言うが、これは翠と紅の得意分野である。厄災を祓うことは、人を救うことに比べて容易い。とてもとても。
厄災は<鏡>のように、翠と紅の攻撃魔術をまねる。しかし、翠と紅からすれば、それらの魔術のシステムは拙いものであり、恐れるに足らない劣化コピーであった。翠はカルダロンによる無数の大剣を一息に空間に射出し、厄災の<核>を破壊した。
厄災は真珠のような美しい宝石となって、翠の掌に収まった。その宝石には多くの魔力が宿っており、魔術師の間では高値で取引される。
翠は土術に分類される工作系の術式であるマズレイカによってその魔力石を上手に加工し、魔物だった女の子のネックレスにした。魔物だった女の子はまだ眠っているが、やがて目を覚ますだろう。どんな悪夢だって、やがては覚めていく。
厄災が去ると時空は動き出し、日常が戻ってくる。
翠も紅も魔物だった女の子も、等しく日常に戻っていく。それは<平和>ということだった。
勝手に君のそばで あれこれと考えてる 雪が溶けても残ってる
(Official髭男dism, 「Subtitle」, 2022 より引用)