魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

流れ

 夕はノートにたくさんの図形を描いて遊んでいる。その図形は、魔法の発現のために使われる。彼女は人の体に宿る記憶の流動的な性質に焦点を当てて思考している。大体、いつもそんな感じで、そうした思考に認知のリソースを取られているがために、彼女は周囲の人から、ボウっとしているというふうに見られている。情報をインプットしたり、アウトプットしたりすることを何度も繰り返していると、記憶が流動して、変化していくというようなイメージ。そうしたイメージを夕はとても大切にしていて、彼女によれば、嘘というものも真実が流動した結果としての形態の一つで、それ自体が広義には真実なのだ、ということであった。

 夕はひとしきり図形をノートに羅列し終えると、キッチンに行き、ホットケーキを作ってそれにハチミツをたくさんかけた。ホットケーキを作るのに魔法は使わなかった。手間をかけた方が料理は美味しいというふうに彼女は考えている。椅子に座って、テーブルの上にある大量のハチミツ&ホットケーキを見つめる夕。ホットケーキを見つめていると、彼女は不思議な心持になってきた。何か前にも、そうした光景を見たことがあるような気がした。それがどこでどのように生じた現象なのかは分からない。しかし、彼女にとってはそれは紛れもないデジャブであったので、気になって気になって仕方なかった。夕のような<魔術師>はデジャブにとても豊かな意味づけを与えることがある。こういう時には、ホットケーキとデジャブの間にある因果関係や相関関係を整理し、分析する……というのが<普通の>魔術師の手筋である。しかし、幸か不幸か彼女は普通ではなかった。そうした彼女の異常性の形跡は、ホットケーキにかかった尋常でない量のハチミツが明瞭に示している。彼女は、因果を用いない。むしろ彼女は、偶然の諸事実にその拠り所を持ち、そこから幾多の自前の装置を展開していくことを好んだ。普通、魔術師は、因果を大なり小なり用いる。因果に最大の価値を置く魔術師すら存在する。しかし、彼女はそうではなかった。彼女にとっては、全てが<偶然>であった。彼女は偶然を重んじる。そんなことで一体毎日の生活をどのように彼女が送っているのか……それは僕にも謎である。

 とにもかくにも、夕は、ホットケーキを食べ始めた。ハチミツで極度にべたべたしたそれを、である。彼女は天使のようにくかわいらしい笑みを浮かべる。ホットケーキが美味しかったのだろう。そして、彼女はその糖分過剰のホットケーキの断片をフォークに刺して僕に差し出してきた。問題は数点あった。

 

1.甘すぎるだろ、そのホットケーキ

2.夕が使ってるフォークで僕がホットケーキを食べた場合……それって間接キス?(ぽっ……)

3.彼女によるホットケーキの贈与を僕が断った場合、彼女の好意を無碍にすることになる

 

「詰んでる……」

と僕は言った。

「ん?」

と夕は言う。僕の態度に疑問を抱いているのだろう。しかし、そう、何せ彼女の世界に因果は存在しない。つまり、僕の態度からの帰結を、彼女は決して、これっぽちも、推理する事がない。驚くべき女子である。

「恐るべし……」

と僕は言う。

「ん?」

と夕は言う。またしても、僕の態度に疑問を抱いているのだろう。しかし、……以下略……。

 

 

夕が魔法の練習をしている。とても真剣なご様子。

僕はその様子を見ている。彼女はたびたび、こちらを向いて、

「今の演算子どうかな?」

とか聞いてくる。この世界の魔術師は、魔術の概念と演算の概念の接続に成功している。それによって幾多の数式からたくさんの魔術の形式を抽出する事ができた。魔術は本来的に独創性に重きを持つものであり、普遍性を志向するような数式とは相性が悪いとかつては考えられていた。

 夕は数学というよりも、博物学的な魔術の使い手であった。彼女は様々な使い魔を同時にたくさん使役する事ができる。そして、とても博学だ。ただ、その<博学>の中にはもちろん数学も含まれていたし、彼女の好奇心はとどまることを知らなかったので、文字通り、大概の事は<何でも>それなりに深く極めていた。そうした事は魔術師の間においてでも、とても珍しい現象である。通常は一つの分野を極める事すらも、なかなかにままならないものなのだ。その点の状況は彼女の才能なども関係しているのかもしれないが、彼女にその事を尋ねると、例によって、

「偶然だよ」

との事であった。

 夕は狐の使い魔を召喚して見せた。狐は尻尾が九本あって、青白い火があたりに漂っている。召喚魔術の練習だった。彼女は、その九尾の狐の武術の稽古の相手を務めてほしいと僕に頼んだ。

 狐は変化して、人の形になった。その容姿は夕に似ていて、全身の様態としては小柄だった。体の大きさというのは武術にある程度の影響を及ぼすファクターだが、魔術師の戦いの場合にはそうした因子の分析は極めて困難なものとなるのが普通である。考慮すべき要素が多すぎるのだ。そればかりか、分析の手法自体が多様だった。魔術の体系の全分野を知る者がこの世界に存在するのかどうかで言えば、絶対に存在しないだろうと直感させるほどの多様性を称えていた。

 僕はひとまず素手で構える。

 狐は、例の青白い炎を僕の方に向けて飛ばした。

 炎の移動速度自体はさほどのものではなかったが、それはたびたび分裂して増殖するので、対処しなければならない者にとっては厄介な魔法だった。気付くと自分の真後ろに火炎が迫っていたりしたので、その魔術の核となっているものを見極めて破壊することなしには、対策がとても難しい。

 僕は心に一本の剣の姿を思い浮かべた。それは物心ついた時から、ずっと僕の中にあるイメージだった。心の形。それは幸せに似ている。誰もがそれと分かるのに、誰にもそれを説明する事はできない。

 次の瞬間には僕の手には剣が握られている。先ほどまで、自分の心の中にあったはずの<あの剣>だ。この剣には特性があって、一般にはそれは不可視の剣だった。常に流動しているのに、その柄は僕の手の中に綺麗に収まっている。その剣は、万物を流転させる剣だった。構成された物質の間の関係性自体を切り裂くことができる。

 僕は狐による青の火炎を心の目で見る。心にその火炎を構成している物質の様態が映じる。どこの構成をどのように破壊すれば、どのように火炎が流動するかが手に取るようにわかった。そうした直感の発達もまた、この剣の作用であるようだった。

 剣は、それが作用する一瞬の間だけ、その姿を現す。姿は表れる時々によって違うが、そのどれもが同一の剣なのであった。

 剣を揮うと、火炎は切り裂かれて姿を消した。狐の火炎は現実的なものというよりも、想像的な性質を基盤にした魔術の様式だったようで、物が何か燃えた形跡もないし、場に焦げ跡が生じているというようなこともなかった。僕の見立てでは、その火炎は精密な呪詛のようなもので、狙われた対象だけを正確に焼き尽くす類のものであった。

 夕にとてもよく似た少女姿の九尾の狐は、困ったふうな表情をして、夕の方を見た。夕はいつも通り、ボウっとした様子だった。ただ、狐と目が合うと、歩み寄り、狐の頭をよしよしと撫でた。狐は嬉しそうに目を細めて、夕に抱きついた。

 僕はその光景のあまりにもの美しさに目をやられた。

「ま、眩しい……」

 と僕が呟くと、

 夕と狐は同時に、

「何が?」

 と言った。

 

 

 僕は夕と二人で夜の散歩をしている。空には月が浮かんでいる。半月。なぜ半月なのかを考えた。夕なら「偶然だ」と答えるだろう。

「碧(僕の名前)」

 と夕は僕を呼んだ。

「何?」

 と僕は応える。

「……何でもない」

 と夕は言う。

 またしばらく二人で歩く。

 そして夕は偶然にも再び、

「碧」

 と僕の名前を呼ぶ。

 さらに僕は偶然にも、

「何?」

 と応える。

 夕は一瞬目をそらした後に、偶然にも、

「……何でもない」

 と再び応える。

 二人は公園のベンチに座り、夜桜を見上げた。

 今この時、僕と夕が過ごしている時間はもう二度と戻ってはこない。再現性がない。偶然にも。

 夕が狐をおもむろに召喚した。何も詠唱することも、魔方陣を組む事もなしに魔物の召喚を行っていて、当人は何でもないようにしているが、実はすごいことだった。<神業>というのはしばしば、周囲の目には簡単な技に見える。狐は公園の中を散策し始めた。

「碧」

 と夕は言う。

「何?」

 と僕は応える。

夕は言う。「まだ世界が嫌い?」

 僕はそれには応えず、近くの自販機に二人分のコーヒーを買いに行った。

 それは夕の問いに返答するのが難しかったために生じた、一種の代償的な行為だった。ただの時間稼ぎ。根本的な解決にはならない。

夕は僕からコーヒーを受け取ると、ありがとう、と言う。そして、そのコーヒーを何も言わずに飲み始めた。ただ、コーヒーを飲んでいるだけだったが、それでも夕には立派な風格のようなものがあって、絵になる光景だった。

「応えたくない?」

 とおもむろに夕は言った。

 僕はボウっとしていたので、一瞬、夕が何の話をしているのかが分からなかった。

「そんなことないよ」

 と僕は応じる。「相変わらず、世界は嫌いだよ」

「……そう」と夕は言う。「私も嫌い?」

「いや」と僕は言う。

「私がいても、世界が嫌い?」夕はそう言いながら、俯いて、ベンチの上に座り、細い両脚をふらふらと揺らしている。

 僕は考えてみた。<世界を否定することは、夕のいる世界そのものを否定することになるのだろうか?>

 夕は僕の返答を待たずに、言葉を紡ぐ。「私には色々な世界があるの。でも、その世界のどれにも、碧はいない。碧はこの世界にしかいない。だから、私にはこの世界が大切なの」

「世界が醜いものを続々と作り出してしまうことと、世界そのものが醜いということとは違う」と僕は答えた。

「……いいよ、それでも」と夕は言う。そして、残っていたコーヒーを飲み干すと、「碧」と僕の名前を呼ぶ。

 僕は気恥ずかしかったので、ボソッとした声で、

「何?」と応える。もちろん、そうした挙動は全て偶然で構成されている。全て偶然だ。特に意味はない。

「碧は私の事、好き?」

 と夕は言った。無論、そこに意味はない。夕は、ただただ偶然に、僕を好きになってくれた。彼女は、理由があって僕のことを好きなわけではなかった。容姿でも、経済でも、権力でも、地位でも名誉でも、性欲でも、もっと言えば、愛でもない。彼女はどのようなものにも依拠することなしに、ただただ<偶然>、僕のことを好きになってくれた女の子だった。

 夕はとても不思議な子だった。何せ、僕のようなポンコツを好きになってくれるくらいだから。

 正直、僕にも、夕が何を考えているのかは分からない。まったく。行動も思考も隅から隅まで実に奇妙だった。しかし、それが彼女の魅力でもあった。

 もしかすると、僕もまた、彼女のことがただただ偶然に好きなのかもしれない。こんなことを考えることにも特に意味はない。僕の抱く、人知れぬ懊悩もまた、ただの偶然なのだろう。

 狐が鳴いた。狐は僕と夕の間に割って入ると、九本の尻尾もろとも綺麗に丸まって、気持ち良さそうに目を閉じる。狐の体はふさふさとしていて、触り心地がとてもよかった。

 夕と僕は目が合うと、お互いに微笑んだ。

 夕は、狐を撫でている僕の手を握ると、

「結婚しよ!」

 と臆面もなく、唐突に言った。

 僕は顔が一息に熱くなるのを感じた。その様子を夕に見られたくなくて、目を逸らした。

 夕はクスクスと笑っていた。

 多分、僕の顔が赤かったのだろう。偶然にも。

 

 

P.S.直観術は比喩です。

「帝王学」の存立についての簡潔な導入

帝王学って難しいですよね。これはいったいどういう問題なんでしょう? などということをふと考えました。これはとても難しい。

 

帝王というのは人の上に立つ人のことなわけなので、そういう人に誰が教えるんだ? という問題。

もしも帝王の位が天賦のものなのなら、これはどう考えるべきでしょう? 天から授かるものであるとするなら、そこに人の手が介在する余地はあるのかどうか。

あるいは、帝王の位が完全に人の手によるもので、そこに神的な正統性が欠けているのなら、それは成立するのか?

根本的に、人の上に立つ人のさらなる上の存在がいなければ、帝王学の意義の存立が難しい気がしています。

まず、帝王が残忍であったり、傲慢であったりするのは不味いのだろうな、と思うので、ある意味での穏和な資質などは、帝王に求められるのやもしれない。人の上に立つ人が残酷な人になったりしたら、大変なことになるような気はする。優しい人が良いね。王様はね。僕にはそのように思われます。

 

また、もしも人の上に君臨するだけの器を備えている人なら、そうした人の全容が一般の人に理解し切れるものなのか? という問題もあります。もしも、一般の人達に理解し切ることが可能であるのなら、それは少なくとも並外れた君主であるとは言いづらい。並外れた資質を持っているのなら、並みの人の理解の範疇は凌駕していなければならない。だとすれば、誰が自分に理解できない君主にわざわざ仕えようとするであろうか? という問題も。むしろ、自分に理解できないことに嘘のレッテルを貼り、そのことによって、「異分子」となった君主の卵を排斥しようとするのが概ねの場合における関の山なのではないかとも感じます。

 

徳の高い並外れた君主はどうも現実的に、人々には受け入れられないような気がします。しかし、並外れて徳の高いそうした君主が統治する国でなければ、徳の低い劣った君主が統治する国でしかありえない。低劣な君主が低劣な統治を行うのだとすれば、そうした統治がまかり通ってしまう国が良い状態に至れるとも思えない。

 

諸所のことを考えると、少なくとも人の手によっては、正当な君主制は成立しないように思われます。であれば、優れた君主は人の手によるものではなくて、天の作用によって訪れるものであると考えられます。

 

しかし、「天」とは人の手の及ばない遥かに高邁な領域のことをそう名指すのであり、その限りで、それを普通の人が認識できるとは考えづらい。ならば、天の作用を受けた君主は、人々に奇跡的にそれとして認識されることで統治に踏み切るか、そうでなければ、人々の認識外から、つまり天から授かった術によって、不可思議に人々を統治するものと考えるのが妥当なのかもしれません。

 

天から授かった才能を、仮に「天才」と呼ぶとすれば、一種の統治の天才によってのみ、人の生活の善き状態は導かれることになるのかもしれません。

 

人の力は儚いもので、例えば、天災などが起これば、瞬く間に多くの被害が出るようなこともありますが、仮に将来的にこうした天災が人間にある程度コントロール可能になるとして、その時、さらなる天災が顔を出してこないとも限らないように思われます。つまり、人の技術は現在生じている事象を支配する術を時間をかけて編み出せるかもしれないが、少なくともそれは全く過去の事象と全く未来の事象をまで支配するものではないのかもしれない。

 

では、予測技術はどうか? 予測できれば、未来は支配できないのか? 仮に予測できても、それだけでは未来を支配する事はできない。むしろ、絶望的な未来を無力なままに予測してしまって、残りの人生を悲嘆に暮れながら過ごさなければならなくなる場合すら考えられる。つまり、未来を変える力と未来を予測する力は別物であると考えるのが概ねの線なのかもしれない。

 

もしも、現在は漸次的に支配可能であり、未来はそうではないのなら、未来は現在の行進につれて常に生じ続け、それ自体更新され続けるのであるから、「来るべき出現」については人間は何らの術も持ちえないことになる。

 

来るべき出現を正確に予測できたとしても、そのことが直ちにそうした出現を阻止したり、促進したりする技術の存在を保証する訳ではないのだろう。

逆に、未来を予測できないが、未来を変える力があるという場合。この場合、未来が変わったかどうかを認識する事ができない。つまり、この場合、僕たちの認識外におけるせめぎあいにおいて、未来におけるすべてが決定されている。しかし、それは人の認識外の出来事なので、人には認識できない。この時、すべては天にゆだねられる。

 

では仮に、未来への予測と未来を変える力の両方を所持した主体を想定してみましょう。この場合、未来を予測し、それを変えることができるはずである。しかし、もしもその予測が変更されるものであるのなら、それは正確な予測ではありえず、未来が変更できない状態なのなら、もはや未来を変える力自体を持ちえない。したがって、こうした主体は少なくとも一つの矛盾を抱えている。論理上は、そのどちらもを取ることはできないようにも思われます。しかし、こうした不可能な両立なしにしては、人間が天の作用に成り代わることはできず、この矛盾を克服できなければ、人間は永遠に神の支配下にあることになる。もしも、矛盾が人間の認識の限界であるとすれば、矛盾の先に神への道があるが、それは人間にとってはどうしようもない矛盾、ある種の「無意味」として現れているのなら、そもそもそうした無為なものを分析しようと思うことすら普通はできない。とどのつまり、天は原理的にいつまでも人の上に君臨し、人にとっての偶然が、神にとっての必然でありえるような状態が続行し続けることになる。

 

もしも、論理と呼ばれるものが、人間の生物学的限界を示すというふうに考えるとしても、それは人間のリミットなわけであるから、人間はその先には行けない。その先に何が隠されていようとも、人はそこに至ることができない。

 

リミットがリミットではないのなら、それ自体が既に矛盾であり、そこでも論理が破綻する。

 

つまり、僕に考えられる限りの範囲では、帝王学は天賦のものであるということになるのかもしれません。真のそれは人の手から発露したものとは考えられないし、人の手で発現するとも考えられない。これはいわゆる奇跡と呼ばれるものですが、人がこうした神の奇跡を超える日はやってくるのでしょうか?

 

もしも、僕たちが何らかの正統な君主を迎えることができるのなら、あるいはそれを認識できるのなら、それは人知を超えた、ある種の直観的な認知によるのかもしれません。論理の向こう側の世界。それが現行の論理の拡張として現れるのか、それとも全く別種にパラレルなものとして現れるのかは不明ですが、いずれにせよ並大抵の所業でもないようにも思われます。

 

存在と無が両立するような奇妙な領域には一体何が存在しているのでしょうか? そもそも、存在と無によって物事を記述する一種の二進法は何を示しているのでしょう? 謎は尽きませんね(笑) あなたの「0」と「1」はどこにどのように根付いているでしょうか? この問題にはずいぶんと潤沢に帝王の位やその正統性についての知識が詰まっているようにも、個人的には思われます。二進法が非二進法を指示すること自体がありえるのかもしれません。

身体と領域

一見すると何でもないようなことを真剣に深く掘り下げて考えている人のブログを拝見させていただくと、ただひたすらにすごいな、と感じる今日この頃。どうもプルプルタンです。

 

いやー。マジですごいですよね。すごい人はすごい。頭の良さみたいなものというか、それよりももっと深遠な領域みたいなのがあって、そこがドーン! バーン! となんか爆発しまくってて、とーーーーーってもエキサイティングな位相というのがある気がするんですよね(我ながら意味不明。ただ、正直な所感を言葉にするとこうなってしまう)。

 

頭の良さって、それはそれで大切なのだろうと思うんですけど、そういうものを遥かに凌駕してすごいものというのもある気がします(特に何かの分野の創始者的な人とか、そういう傾向が強い気がする。例えば、精神分析を創始したフロイトとか。半端ない。個人的には精神分析とは反対? 的な立場を取ることもあるかもしれないけど、僕は逆説的に精神分析が好きなのかもしれない。フロイトがすごいかすごくないかで言えば、すごいのだろうとは思う)。

 

精神分析ねえ……

 

難しいですよね。僕なんかだと、割と単純な頭をしているので、

 

精神分析!! なんかかっこいい!!!」

 

みたいな感じで嬉々として勉強してみたりしますけど、やはりもっと僕なんかより頭の良いというか、深遠な人から見れば、色々と問題があるんだろうな、と思います。

 

深遠って何だろう? とふと考えてみるのですが、考えて分かるようなものであれば、それはそもそもからして深遠ではないのではないかというふうな気もします。つまり、考えても考えても、それでも考えつくせないものが、「深遠」なのではないかという仮説です。

 

簡単に言うと、僕の頭脳の演算力を遥かに超えてしまっている事象は、僕にとっては深遠であるという事かもしれません。そうした深遠はまるで、仮想的で理念的な、純粋な数学的空間において、磨滅することなくどこまでも粘り続ける、そういう粘性の物体をイメージさせます。納豆のイメージを援用すると分かりやすいのかもしれません。如何に強靭なネバネバ力を誇るあ奴と言えども、どこまでも伸びられるわけではなくて、引っ張りまくっているとある時にぷつりとネバネバの糸が切れてしまいます。これは納豆が物理的な性質を持っており、様々な力学的な作用をその身に受けるためにそうなるのであろうと思われます。では、納豆のような粘性の物体を、物理的なレイヤーから数学的に色々と捨象されたレイヤーに移した場合、何が起こるんでしょうね。物理的、物質的なものとしての有限な「納豆」が、純粋で無限な「粘性」に変換される様を僕はなんと呼べばいいのでしょう? その粘り以外の他の物理的諸条件を全く捨象された純粋な粘性としての「数学的納豆」。何かロマンを感じます。僕は納豆になりたい……! そんな数奇な想いさえ抱いてしまいたくなるほどに崇高な思いがします。そうした純粋な粘性としての数学的納豆は僕の憧れのようなものなのかもしれません。どこまでも粘り強く……かっこいいですねえ……。

 

まあ、僕がこうした数学的納豆に憧れを持つのは、多分、僕自身がそうした粘り強さに欠けているためなのだと思います。僕はとにかく飽きやすく、さらに人よりも意志が弱いのです。だから、色々な工夫をします。そうした工夫はささやかなものですが、あるいはちょっとした魔法であるのかもしれないとも思っています。ささやかにでも誰かの役に立てていれば、それはうれしいことだな、とは思います。

 

普通の人が躓かない部分で、躓けるというのは優れた資質であると僕は思います。躓くことでしか分からないことというのが、この世にはたくさんあるようで、極端な話、「躓く才能」というものがあるとも思っています。ちょっとしたことで躓く人は、躓かない人よりも、ものすごく多くの滋養を得る事ができるのではないかと僕は思います。しかし、困ったことに、そうした躓ける素敵な人に限って、自身の「躓くことができる」という美質を悪しきものであると思い、悩んでいることもあるようです。

 

僕は頭は良くないのですが、その割にあまり物事に疑問を持つことが少ないタイプかもしれません。何か疑問を持つべきところがあっても、何となく分かったふうに思ってしまうところがあるというか、何を読んでも、最短経路の個人的な最適解を勝手に計算してしまうというか、このように言うと、何やらかっこいいようにも見えますが、全くそういうことはなくて、単に物事を「深める」ことがなかなかできないのです。

 

例えば、1+1=2と言われて、躓くことができる人は、「ん? それって違くない? 的な神がかりな発想を持って1+1=1を提唱し、後に発明王として世の人々に崇められるようになります」

しかし、僕はと言えば、1+1=2と言われると、「ふーん、そうなんだ」で終わり、1+1=1と言われると、「まあ、そういう規則なのね」で終わってしまうことが多いです(笑) まことにお恥ずかしい限りですが(笑) まったくもって、自分の低能ぶりには困ったものですが、それでも、できる限りのことは為していきたいな、とはいつも思ってもいます。

 

その代わりなのかどうかはわかりませんが、自分と他の人が違うと思われる点の一つに、「受容力」のようなものがあるかもしれないな、とも思います。なんか、大概のものはなんでも受容して、自分の中に受け入れてしまえるというか、その点は結構違うかもしれません。しかも、受け入れたものを、整合性が取れないままに、ばらばらに分裂したまま、保存しておけると言いますか……。

 

例えば、マルクスを読むと、そのまま彼の文章を無批判に受け入れて、マルクス領域みたいなのが脳というよりも体の中にできる感じです。それで、マルクス領域を起動すると、後は自動的にマルクスの思想を再生できる……みたいな感触。もちろん、しょせん、こうした幻覚は、僕の脳が演算して作り出しているものだと思いますから、本物のマルクスに匹敵するだけの思考力を保持しているとは思いませんが、それでも色々とマルクスっぽい助言をくれたりして、とても助かる事もあります。他にもドゥルーズ領域とか、ライプニッツ領域とか、色々あります。ただ、先述のとおり、すべて無批判に受動的に受け入れているだけなため、あまり主体的な理解ではないですし、理論的な統一性にも欠けています。本当に、そのまま受け入れるだけで、そこから発展を引き出すには、ごちゃごちゃとした作業が必要になります。

 

つまり、マルクス領域やドゥルーズ領域など、色々な領域と対話して、その上で、少しずつ意見をすり合わせていかなくてはいけません。上手く統率が取れないと、無為に時間を過ごしてしまうこともあります(汗) そもそもマルクスにしても、ドゥルーズにしても、(僕の脳が生み出した劣化コピーであるにせよ)、僕ごときに統率が取れる方々ではないので、頭の中は常にごちゃごちゃとしています。それこそ、僕には統合失調症がありますので、そうした幻覚や妄想的なことでこうしたことが起こっているのかも? しれません。ただ、存外、悪い気はしなくて、にぎやかなので、一人でいても、あまり寂しくなりませんし、頭の中で会話していると楽しいですし、不思議と心が安らぎます。

 

とにかく、僕は、情報を「鵜呑みにする」ことにかけては割にすごいのかもしれません(全く褒められたことではありませんが(笑))。

 

何かを受け入れることは、もしかしたら得意な方なのかもしれません。ただ、情報を鵜吞みにするのはやはり危険なことだと思いますので、人にはすすめられないですし、僕自身も情報に飲み込まれないように、「情報は鵜呑みにしてはいけない」と常に念じ続けています。ただ、それでも、やはり、情報が身体になだれ込んでくることは止められず、どうしても、マルクス領域なり、ドゥルーズ領域なりに、身体が乗っ取られるような感覚があります。僕が下手に行動するよりも、彼らが行動してくれた方が良いような局面も多々あるようにも思われます。全ての領域が、それぞれに異なっていて、得意なことや不得意なことがあるので、うまく切り替われればいいのですが、やはり、頭がごちゃごちゃしているのは僕の専売特許みたいなところがあって、うまくいくとは限らない気もします。

 

こういう操られるというか、身体を乗っ取られるような感覚は、いわゆる自我障害と呼ばれるものなのかもしれませんが、これはしんどい事もありますが、わりに悪くはないよな、とも思ったりしてもいます。頭の中が賑やかで楽しいから(笑)

 

僕は結構一人でいるのが得意なのですが、孤独を感じるか感じないかで言えば、感じる時も、感じない時もある、というのが本音かもしれません。なんといえばいいのか分からないのですが、心の中に様々な経路や領域があって、そのうちの一つの経路が不自然にブロックされたり、あるいは逆にリビドーというか感情の流れ? みたいなものが過激すぎたりすると、感情がスタックしてうまく作動しなくなり、結果として、孤独感などが生じたりとかはあるかもしれませんが、うまい順序でそれぞれの領域を作動させて、そのプログラムを何回か念じるように繰り返すと、孤独感が消失するというか、そんな感じです。自分でもよく分からないのですが。無理矢理に言葉にすると、そういう雰囲気。

 

人から見るとかなり珍妙なこと書いているのかもしれないという気はしますが、そんな感じです。

 

全ての存在が、人格を持って見えるというか。アニミズムみたいなものなんですかね。こういうのって。

 

さて、御託はそれくらいにして……

 

僕も数学的納豆を目指したいですね。粘り強い人間になりたいぜ☆ そして、躓くべきところで躓ける人間にもなりたいですね。たくさん疑問を持つことができて、なおかつそこから自分なりに自分の頭で考えていけるような素敵な人には憧れます。不思議なのが、そういう素敵な優しい人に限って、自分はダメな人間だ、頭が悪い人間だと、自責しまくっていることが多々あることです。不思議です。今の僕の抱く謎の中でも、まさしく最大級の謎です。そうした、自分自身がダメ人間だと思い込んでいる天才な方々にはとても興味があります。対して、僕は「無能性」のようなものをとことんまで極めていく感じの人生。有能な人達とは全く真逆の経路とも言えるかもしれませんね。すごく簡潔に言うと、「愚かさを極めることで賢慮に至ること」を目指します。これには次のような理論的な根拠があります。

 

まず、賢慮は普遍的なものであるとします。特殊な場合にしか通用しない賢慮というものもあると思いますが、一般的には普遍的な価値を持った知恵などが、賢慮と呼ばれるような気がしていますので、今回はこの定義を採用しておきます。

すると、賢慮は普遍的なものなので、どこにでも通用しているはずです。そして、そうした無数の賢慮の事例の中には「愚かさ」という場でさえも含まれているでしょう。したがって、もしも賢慮が普遍的な価値を持ったものであるとすれば、どのような場からでもそこに至ることが可能なのであり、愚かさを極めた先から、賢慮に至ること自体が原理的には可能であろう……と僕は考えます。

 

極論で言えば、「愚かな人は賢い」ということ。これを体現する事を目指しています。だから、世の中でゴミ扱いされている無数の事柄を自分の手で構成して、それを活かす事を魔術と呼び、そうしたことに日々精を出しています。一説によると、「発明」に必要なのは、「大量のゴミ」なのだそうです。「ゴミ=悪」とする図式は単純には通用しないように思われます。

 

だから、逆説的ですが、僕は愚かな人が愚かだと素朴に考える事はしません。そうした次元を遥かに超越した、賢慮などの事象がこの世界には純粋にありえるとそう考えるからです。

たとえ、愚かであったとしても、必ず活路はあるはずです。ただ、その際に人を不当に傷つけたりとか、犯罪したりとか、そういうのは基本的にはダメだと僕も思いますが、そういう最低限のことを守っていれば、後は自由にしていいのではないかとも思います。

 

世の中には色々な場合があり、事情は多様です。とても難しいです。だから、何事も一概には言えません。有名な人が必ず正当なわけではないし、無名な人が必ず無価値なわけでもないとも思います。

 

ネットなどを見ていても、素敵な方はいらっしゃるように思いますね。とても絵が上手な方もいらっしゃいますし、優れた哲学的論考や詩的で文学的な文章を書いていらっしゃる方もいらっしゃいます。彼らはもはや、有名とか無名とか、富豪とか貧民とか、そうした差別を遥かに超越した領域での機能を果たしておられるように思われます。

 

無理強いはしませんが、気が向いたら、あまり自分を責め過ぎずに、自信を持ってその道を歩んでいってほしいなあ、と身勝手ながら思います。

 

素敵で、学校の勉強とかと言うよりももっと純度の高い才能に恵まれた、優しい人たちに幸あれ、とささやかながらお祈り申し上げます。

 

優しい人へ。あなたがどんなに自分を責めたとしても、あなたの価値は毀損されるどころか、ますます輝くばかりであるのだと僕は思っています。どんなに苦しく、出鱈目な定義がまかり通るような末法の世の中においても、本当の「光」は互いに導きあうものです。夢はなかなかどうして儚いもので、切り捨てざるを得ないような場面もあるのかもしれません。しかし、その時、夢は「ゴミ」になります。ゴミは新たな創造を行うための原動力になります。逆説的ですが、「ゴミはゴミではなく、愚か者は愚か者ではない」、ということです。夢を捨てることは、新たな夢を生みます。

判断は原理的に人を傷つけます。それよりはかえって、あなたの優しい「ためらい」が、世界を明るく照らすように。純白の雪のように煌めきながら光を反射し、放射し続けるその運動には無限が詰まっているようにも思われます。やがては暗闇で藻掻くすべての人たちが幸せになれるといいなあ、と僕は思います。純粋なあなたがあなたを苦しめる記憶の桎梏から解放されるように。僕は無力であり、何もできませんが、あなたの光を信じています。

 

 

儚い欠片 舞い散る

その光 全て照らし 導き合う 

 

fripSide, 「Hesitation Snow」より引用)

 

因果術

 I. Per causm sui intelligo id cujus essentia involvit existentiam sive id cujus natura non potest concipi nisi existens.

 

(Bnedictus de Spinoza, "Ethica", https://la.wikisource.org/wiki/Ethica より引用)

 

I. By that which is self—caused, I mean that of which the essence involves existence, or that of which the nature is only conceivable as existent.

 

(Bnedictus de Spinoza, "The Ethics(Ethica Ordine Geometrico Demonstrata)", translated from the Latin by R. H. M. Elwes, http://www.gutenberg.org/ebooks/3800 より引用)

 

(私訳)一. 原因によるその原因は、本質が存在を含むそれとして、または、性質が存在それ自体以外とは想像できないそれとして理解する。

 

皆さん、こんにちは。いやーあれですね。夏が近いですね。場合によってはもう夏と言ってもいいのかもしれませんね。しかし、僕にはあまり季節性がないみたいで、季節によって行動を左右されるという事があまりないようにも思われます。時間があれば、大体、本を読んだりとか楽器をいじったりとかデッサンとしたりとか料理したりとか、……そんな感じです。

さて、季節に行動を左右される人の事例について考えてみます。季節を原因として、行動が生じていることを、「季節→行動」と表してみます。すると、僕の行動様式はどのように表現されるでしょうか? そうですね……こんな感じでしょうか。「非季節→行動」。

……

…………

………………

「非季節」って何だろう? そうですね。例えば、「自分」という概念とかはどうでしょう? これは少なくとも季節ではないので、非季節の一種と言えるかもしれません。では、とりあえず仮に、僕の行動様式の原因にあたる部分を、僕自身に当たるものとして表現してみます。「自分→行動」。

うむ。何やら奥深いような、当たり前すぎて役に立たないような微妙な式が出てきました。

 

第一テーゼ 「季節→行動」

第二テーゼ 「自分→行動」

 

季節とは何か。これは春夏秋冬などの事。春夏秋冬とは何か? 気候なのかな? 気候とは何か? 何だろう? とりあえず、「環境」の一種であることは間違いないように思われます。そこで、「季節」の項に「環境」を代入できる場合を考えてみます。すると、

 

第一テーゼ 「環境→行動」

第二テーゼ 「自分→行動」

 

となってきます。

ここで、自分と環境との関係について考えてみます。

すると、ここで問題になってくるのが「自分って何?」ということ。

色々と考えてみるのですが、これは僕にも全然分かんないです。なので、「環境って何?」という問いを立てて補助線を引いてみます。

環境というのはそれこそ気候とか、自然とか、あるいは住居とか、色々。いわゆる「場」のこと。すると、どうも、その場の「内」に存在している「観測者」のことをどうも「自分」と呼ぶのではないか? みたいな仮説が出てきます。ここまでの議論をまとめて、テーゼを書き換えてみます。

 

第一テーゼ 「場→行動」

第二テーゼ 「場の内に存在する観測者→行動」

 

では、「場の外に存在する観測者」というのは存在するでしょうか? もしも、「存在」しているとすれば、それは「ある場における存在」であると考えるのが一般的かもしれません。なぜなら、どこの場にも属さない存在というものを概念として許容すると、「どこにも存在しない存在」というパラドックスが顔を出してくるからです。これは面倒くさいので、今回は、ちょっとこいつの処理は割愛して、一般論の力を借りておきます。つまり、今回は、場の外の存在については考察しないでおきます。

すると、場と観測者のどちらが先にこの世界に存在していると言えるのか? という問題も持ち上がってきます。この場合、存在の定義について軽く考察する必要があります。「存在って何?」。ある観測者を想定した時、観測者が存在しなければ、観測は存在しません。観測が存在しなければ、あらゆる存在を観測できません。もしも、観測できる対象のことを「存在」というふうに呼ぶのならば、観測が存在しなければ、あらゆるものは存在しません。あらゆるものの中には「場」も含まれます。このように考える時には、場よりも「先に」観測者が存在していることになります。しかし、もしも、場が存在しなければ、そうした存在は「場の外の存在」となってしまい、例のパラドックスが発生します。つまり、次の結論が得られます。

 

「場と観測者は同時に生成し、並立して存在している」

 

場と観測者は切り離して考えることができません。なぜなら、場なくして観測者はありえず、観測者なくして場はありえないからです。さて、式の代入項を過去にさかのぼる事ができる場合を考えてみましょう。その場合、次のように現象を捉えることができます。

 

「環境と自分は同時に生成し、並立して存在している」

 

こうした「環境」と「自分」が一体となった状態を環境を「客体」、自分を「主体」と考えて、「主客一体」と仮に呼ぶことにしましょう。この時、自分とは環境であり、環境とは自分のことです。つまり、環境に従って動くことと、自分の意志で動くこととの間に違いがないような状態。

 

すると、二つの相反するかに見えたテーゼは次のように融合できます。

 

第三テーゼ 「主客一体→行動」

 

ここで、この式の左辺は原因であり、右辺はそこからもたらされる結果であるように表記されているわけですが、この事情を式に表しますと、

 

第四テーゼ 「原因→結果」

 

となります。ここで、原因の場に「主体」を置いてみましょう。すると、結果の場は原因の場から観測して「客体」となります。こうした主体の取り方に立脚した理論を、「原因論」と呼びましょう。次に、結果の場に主体を置くと、今度は原因が客体になります。これを「結果論」と呼びましょう。つまり、主体の位置を自由に取ることが許される場においては(つまり、主体が自由に移動できる場においては)、

 

第五テーゼ 「{(原因=主体) and (結果=客体)} or {(原因=客体)and (結果=主体)}」

 

原因も結果も、主体でも客体でもありえます。原因論の立場を取るにせよ、結果論の立場を取るにせよ、原因も結果も、ある時には主体的であり、ある時には客体的です。さて、この式を見ていると、いまだ表現し切れていない場が存在していることが分かります。それは次のような場です。

 

第六テーゼ「{(原因)=(主体) and (結果)=(主体)} or {(原因)=(客体) and (結果)=(客体)}」

 

さて、主体(自分)が主体である限り、主体は基本的には一つしか存在しません。もしも第六テーゼのような式が成立する場があるとすれば、そこでは、「原因と結果は同一の現象」として生起していると考えられます。ただし、それは第六テーゼの左辺から導き出されることであって、右辺のそれではありません。右辺は主体(自分=観測者)が存在していませんので、そこにおいては何も観測することはできず、そもそも「存在が存在しない」というふうに今回の論法の場合には考えます。つまり、この第六テーゼから導き出せるものは次のようになります。

 

第七テーゼ「{(原因)=(主体) and (結果)=(主体)}」=「{(主体)=(主体)} and {(主体)=(主体)}」

 

この場合、原因も結果も全て主体です。そして、主体は一なるものなので、全てが「一」であるというふうに捉えることができます。

こうした、原因と結果を統合し、原因と結果という図式自体を生み出す原因となっている究極的な原因(原因の原因)を「神」と呼びましょう。

この時、神は、原因であり、同時に結果でもあります。

 

 

P.S.

 

私訳はあまりあてにしないでね☆ めちゃくちゃ適当なので(笑) 一応、スピノザさんの英語の訳を見つけてつけておきましたので、そちらをご参照ください。それにしても、何か感慨深いです。色々な事が。季節の移り変わりが美しいなあ、と。うむ。そんなことを思います。

 

「魔法を使えるようになる方法」についてご興味おありの方へ。

 

それは……我が道を行く事だ……

 

ふっ……☆(自慢げな表情)

 

それはそれとして少し真面目にお応えしますと、古典とかいっぱい読んでみるのも一つの手なのかもしれません。古い本、良いですよ~。とても。カントとかドゥルーズとかが僕は好きなんですけど、それこそスピノザとかも全然いいと思いますし、何をやってもいいのではないかと(もちろん、犯罪とかはダメですけど(笑))。これね、本当に何でもいいと思うんですよね。自分のしたいことをするのが一番いい気が僕はするのですが、色々な人がいますからね。その人によって処方するべき方策が全然違うので、少なくとも僕が何かをあなたとかに教えさせていただくということになりますと、まず会ってお話したりとか、一緒に遊んだりとかするところから始まるのかな? とは思います(その人にはその人の「道」があるので、それを僕が曲げるわけにはいかないんですよね(汗)だから、せいぜい普通にお話したり、一緒に遊んだりとかして、後は、僕の振る舞いなどから発想なり技術なりを自分なりに勝手にもぎとっていただく、というのが基本なのかもしれません)。別に、そうした「弟子入り」のようなものの対象は僕以外の誰かでもいいと思いますし(むしろ、僕は人に教えるのがとても下手なので、僕以外の人に師事する方が良いと思う(笑))、自分が好きな人でいいと思います。人に対して声をかけるのは難しいという場合には、このブログなどを参考にしていただくという手もあるかもしれません。文章による効果は、やはり仮構的な側面があって、まして僕の文章は拙いレベルのものですから、どうしても僕の文章のレベルでは自分自身以上のものは作り出せないのです。ですから、もしも僕が皆さんに自分にできる限りの最高のものを提供しようと思えば、一番なのが、一緒に「遊ぶ」ことということになるかと思います(ホイジンガという思想家がいますので、「遊び」の概念について調べる際の参考になさってください。)。また、僕も魔法使いになりたいと常日頃から思って、色々と頑張っていますが、僕自身は極めて平凡な人間ですので、特別、僕の文章や僕に師事することにこだわる必要はないと思います。基本としては、あなたはあなたの道を行くのが一番いいのではないかと、僕はそう思っています。

絶え間なく流れゆく季節の中で、もしも僕の文章なり僕自身なりが、誰かのお役に少しでも立てたなら、それは幸いです。

ただ、もしも……

もしもですよ? とにかく何としても僕の力が必要で、僕なしでは如何ともしがたいような出来事があったとすれば、その際はできる限りでは対応はしますので、とりあえずコメントとか下さればいいのかな、と思います。そんな感じでどうでしょうか。最後に、魔法を使えるようになる方法についてのポイントをまとめておきます。

 

 

魔法使いになるための、僕が個人的に考えるポイント? みたいなもの

 

1.自分の「道」を行く(「道」の哲学については、老子などを参照してください)

2.自分が好きな人、良いと思う人に弟子入りする(詐欺などには注意してください)

3.古典を読む(ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリの著作が個人的に好きです)

大変!

 さてさて、今日は思いついたことを徒然なるままに書いてみようと思います。散漫術です。

 

魔法の実現可能性について。

 

色々な意見があるかと思いますが、魔法というのものを現行の人類による理論だけでは説明できない神秘的な現象の一種であるとするのなら、もう既にそれはあなたの目の前に実現していますね。この世界の存在そのものがそもそもからして、魔法の一種であると考えられます。

 

魔法を使えるようになる方法について。

 

魔法には明瞭で定まったドグマとしての「方法」というものは基本的にないものであると、僕は考えています。不明瞭な機微の中にあるものをうまく構成していく手技のことなどを僕は「魔法」と呼んでいます。どちらかと言えば、明瞭で、簡単で、お手軽で、効率的で誰にでもできるものではなくて、不明瞭で、難しくて、手間がかかり、非効率的で、その人の独創性によっているものが、簡潔に言えば、「魔法」です。したがって、僕の考える「魔法使い」とは、誤解を承知で簡潔に言うと、自分の道を行く人の事であって、人真似をしている人のことではありません。人それぞれに置かれた状況は著しく異なるのが常だと思います。多様性という現実。必要なものも、行使するべき手法も、一つとして同じものはなくて、それぞれの人によって著しく事情が異なります。人真似をすれば、自分に合っていない方法を行使する分、心身への負担も増加すると思いますし、エラーも大きくなり、罪障が増える恐れがあるとも思います。簡単に言うと、足の大きさがみんな違う、というのと同じことです。ちゃんと自分の足のサイズやサイズだけでなく、もっと微妙な履き心地の良さ、あるいは目的に合った靴を履くのでなければ、瞬く間に足を痛めてしまうことになるでしょう。自分の道は自分で切り開くのが一番利率が高いと、僕は考えます。答えは、あなたの「外」にではなくて、あなたの「内」にあるものと僕は考えます(「禅」の考え方とかは、これっぽいのかもしれません)。

 

以上は、アクセス解析から見た、皆様のご興味? 関心? への僕なりの応答ですので、ご参考ください。

 

さて、ではでは、もっと自由に書いていこうかな♪

 

最近は、山崎豊子さんの小説を読んでいました。『白い巨塔』とか『華麗なる一族』とか。面白いです。作家は本当にすごいですね。小説が描くスペクタクルの偉大さにはいつも尊敬の念を抱かずにはいられません。作家いいなあ。僕も作家になりたいな、と思った時期はありましたけど、(まあ、なりたいかどうかで言えば、今もなりたいかもしれませんけど)、いやはやこれだけの大作を描き切るというのは大変な頭脳と忍耐の賜物だな、と思います。

 

山崎豊子さんの小説。金銭欲求について、かなり詳細に書かれているような気がします。でも、それだけでもないみたいで、才能とか地位とか性とかそういうものへの欲求というか、総じて言うと、人間の業? みたいなものを描くのがとても上手な方なのかな、と今のところ感じています。

 

文学の広大さを感じるぜ……☆

 

音楽とかだと、Neruさんの「SNOBBISM」とかすごいな、と感じました。メロディーも好きですし、歌詞も、思想的意味合いも深いなあ、と感じ入りました。もちろん、動画とかもいいなあ、と思います。Neruさんとか、めちゃくちゃに優しい人なんじゃないかと個人的には感じています。気が向いたら、これからもいい曲作り続けてほしいな、と身勝手ながら思っています。

 

*このサイトは個人的に一人のファンとしてNeruさんを応援しています。(でも、あんまり応援し過ぎてプレッシャーとかになってもダメだな、とか思って、普段あんまり触れないんですけど……なのでNeruさんを密やかに応援することにします。以降、お口にチャック☆)

 

哲学とかだと、色々見ているんですけど、やはり、ジル・ドゥルーズ氏。個人的に最強だと思います(笑)。個人的に、ね?(他人には強制しません)。いやはやジル・ドゥルーズ氏、マジパないです。僕も分裂分析家(スキゾ分析家)になろうかな……。それこそドゥルーズ氏によると、誰でもが分裂分析家を自任して登場していいという事らしいので。分裂分析と精神分析の違いは何か? ってめっちゃ難しいかもですけど、どうも「自我」というのがキーワード。「自我に戻れ」というのが精神分析で、「自我を解消せよ」というのが分裂分析なのかも? しれません。この辺り、超難しい事情がありそうなので、ご興味おありの方は、まずは『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』をよくお読みになってみてくださいませ。

 

後、医学の本とか、ベイズ統計や機械学習の本とか。化学の本も。どれも奥深いですね。一朝一夕にはいかない。産婦人科学の本を見ていて、産婦人科医の皆さまってこんなことなさっているのか……と驚いていました。本で見る限り、すごい難しい手技をこなしておられるようにも感じられる。何にでも熟達が必要なものだと思いますが、まさに職人芸だなあ、と感じていました。

化学は有機合成化学という分野と高分子化学という分野が、個人的に肝かな、と感じました。化学式とか、ものすごく記号の本質がむき出しになっているような気がして。語学とかに役立ちそう……とか思ったり(笑) 関係妄想かもしれないけど(笑) ふ……関係妄想だって問題ないさ。僕は我が道を行きますよ。自分の感覚を信じるだけさ。ふ……(不安です。ガクブルです。大変です。でも頑張ります!)

機械学習は本屋さんで一番詳しそうなの買ったんですけど、個人的にはネットの情報の方が詳しい場合がある気がしています(でも、僕は機械に弱いので、この勘は外れているかもしれません)。

 

思ったんですけど、大学入試問題って結構楽しいですよね。赤本。クイズ本的にも楽しめるいいシリーズだと思います。たまに東京大学とか京都大学とかの過去問に目を通すんですけど、よくできてますよねえ。すごいなあ、と思います。多分、他の大学の過去問もすごいんだと思います。本当によく作られているなあ、と。時間内に全問正答できるか? と言われると、僕には無理(笑) だけどね☆。そこはご愛嬌ということで(笑) 現行の教育はもちろん、完全ではないですけど、多分、みんな精いっぱい頑張っているのではないかな、と僕は思っていますので、大学の方々とかファイトです。もしも、大学なり学閥なりが、権力を振りかざして、みんなの生活を圧迫するのなら、それには僕も抵抗しますが、でもきっと基本的にはみんな善良な方々なのだろうと、現時点では考えています。僕はね?

 

後は、何かな……語学とか? 経済学とかのこともちょっと書いておきます。

 

今はラテン語とかに力入れてますね。聖書のヘブライ語とかも。ただ、実験的な習得法を試していて、うまくいくかどうかは不明(笑) まあ、語学は膨大な時間かかりますし、実験がうまくいくかどうかが分かるのはかなり何年もしてからなのですが、うまくいくといいなあ、と思っています。ドゥンス・スコトゥスとかトマス・アクィナスとかのラテン語にお世話になっております。何もわからなくても、文章自体が美しいので、彼らマジで偉大だな、と思っております。こういう古典の人達本当にすごいと思う。本当に。

経済学。これは計量経済学金融工学の辺りが、個人的な肝かな、と感じていました。しいて言えば、ゲーム理論とかかな、後は。でも、医療経済学とか都市経済学とかいろいろな経済学も、遜色なく面白いので、おすすめです。ご興味がおありの方は、好きなのを極めればいいのではないかと、個人的には思います。何でもそうですが、極めれば本当にすごいものだと思うので、達人になりたい方々は何かを徹底的に極めてみるのも手なのかも? しれません。

 

今日は、こんな感じでどうでしょうか。少しでも皆さんの参考になれば、筆者としては幸いです。

 

ほとんど近況報告でしかない文章を書いてしまった……。僕の近況に興味ある人とか多分そんなにいないと思うんですけど、まあ、書いてしまったからには仕方ないですね! アップしておきます。

 

はっ! そういえば、村上春樹さんのエッセイをまだ読んでいないんですよ。なんか出てるらしくて(「なんか出てる」って言葉、なんかエロいですよね)。世の中には読むべきものがたくさんあって、大変ですな。大変だ。でも、それだけ楽しい気もしますね。大変だと楽しい。そんな気もします。ホント、大変!

フォルセティ

光がない場所で、光を拝むことはできるであろうか。

輝くことのない場所で、輝くことはできるであろうか。

言葉がない場所で、言葉を発することはできるであろうか。

風がない場所で、風を起こすことはできるであろうか。

理神論の通底とは、そのようなものである。

 

フォルセティは山々を抜けて、岸に辿り着く。その岸の対岸には風が激しく吹き荒び、塵が光のように満ちている。こちら側の岸とは大違いだった。

フォルセティはその奥に、龍の姿を見て取る。何匹もいるように見えるが、その根元は一匹であるような龍だった。

フォルセティは、

「多でありながらに、一であるようなあなたは誰であろうか」と声を上げた。

龍がフォルセティに応えて言うには、

「わたしはナーガと言う。同時にあなたがフォルセティであるように」

フォルセティは今までに幾多の蛇に出会ったことがあった。しかし、ナーガのような龍に出会ったことはこれまでに一度もなかった。

フォルセティは剣を抜いた。

ナーガは巨大な牙をフォルセティに見せた。

ナーガは言う。

「蛇であるからと私を嫌うことがないように。私には大きな牙があるのだ」

フォルセティは剣を収めた。

ナーガは満足そうに深い深い海の底に牙を沈めた。

その時、フォルセティの耳に、悪魔の声が聞えた。

悪魔は言った。

「その龍は、お前の仇である。なぜかと言えば、その龍はお前の子供たちを殺すことになるから」

フォルセティは言う。

「悪魔の言葉と天使の言葉には大きな違いがある。悪魔のそれが、それ自体では現実にはならないのに対して、天使のそれがそれ自体で現実になるということだ。これらは神の恩寵によるものである」

その言葉に従うようにして、悪魔は姿を消した。

ナーガはフォルセティのその様子を見て、とても喜んだ。

ナーガはフォルセティに酒を振舞った。飛び切りの美酒であった。

フォルセティは今までに、ナーガの美酒のようなものを飲んだことはなかった。その美酒はどんな美酒よりも美味しいものであった。この地上の全ての海を集めても、この美酒の豊かな香りの密度には到底及ばないことが、明らかであるような、あるいはそのような啓示をフォルセティに与えるような、圧倒的な快楽の水であった。

フォルセティはナーガに礼を言う。

ナーガはフォルセティに礼を言う。

フォルセティは、なぜ礼を言うのかと尋ねた。

「あなたがわたしに仇為すはずであった悪魔を切り伏せてくれたから」とナーガは言った。

ナーガによると、悪魔は一であるものを多にしてしまい、多のままに荒地へと放置してしまうのだと言う。

「私の根本が一であるように」とナーガは言った。

フォルセティは問う。「ナーガはなぜ、塵にまみれているのか。なぜ光を嫌うのか」

ナーガが言うには、「あなたが裁きを剣とするように、私は塵を光とする」と。

 

フォルセティとナーガの問答。

 

フォルセティ:ナーガの予言は何か?

ナーガ:あらゆる戦であり、あらゆる分裂である。わたしがあたかも多であるように。

フォルセティ:ナーガは、分裂を望むのか?

ナーガ:わたしはあらゆる分裂を望む。わたしの根本が一であるように。

フォルセティ:ナーガの言う『戦』とは何か?

ナーガ:地上のあらゆる真の戦士による真の行為である。

フォルセティ:ナーガは神か?

ナーガ:神とは無限に異なる。しかし、そう呼ぶ者もいる。

フォルセティ:ナーガは偶像か?

ナーガ:罪ある場所に、罰ある場所に、わたしはいる。偶像であるとも、偶像でないとも言える。

フォルセティ:ナーガは聖なるものか?

ナーガ:穢れたものである。

フォルセティ:明らかに聖なるものでありながら、自身を穢れとして示すのはなぜか?

ナーガ:それが道理であるから。

 

フォルセティは剣を再び抜いた。

フォルセティが言うには、「ナーガは自身を穢れであると言う。しかし、ナーガは穢れてはいない。つまり、ナーガは嘘をついたことになる。これは確かに穢れである」

ナーガが応えて言うには、「あなたはとても賢い。英知によって、全てを裁く。だが、わたしはもう既に裁かれている。私が多であるかのように」

ナーガの姿は風と塵と光の中で、消え失せた。

フォルセティの耳にだけ、消えたナーガの声が聞える。

ナーガが言うには、「これから先に、わたしの子供たちとあなたの子供たちが出会うであろう。その時に、あなたはあなたが討つべきものを討つだろう。あなたの子供たちの幾人かはあなたの法力を為し、わたしの子供たちの幾人かはわたしの法力を為す。中でもあなたの心を実直に継ぐ者はあなたの神器を為し、中でも私の心を実直に継ぐ者はわたしの神器を為す。それぞれフォルセティ、ナーガと呼ばれ、わたしとあなたの名は後世にまで永遠に伝わるだろう」

 フォルセティはナーガの声を聴きながらに、嵐の中を進む。フォルセティが剣を揮うと、嵐は切り裂かれた。この時、フォルセティは風の要諦を知った。知恵はナーガからフォルセティへの贈り物だった。

 

 ロキはナーガがフォルセティに知恵を授けたことを快く思わなかった。そこで、フォルセティに悪魔を差し向けた。

 

 フォルセティはロキの悪魔を風の要諦によって退けた。風は目にはそれとは見えない力であった。だから、自分の知を超えるものを想定できない傲慢な悪魔はその力を捉えられずに、フォルセティの剣に敗北した。

 それを見ていたロキはフォルセティの前にあらわれると、剣を抜いた。

「フォルセティは剣を揮った。剣によって滅びるだろう」とロキは言った。

フォルセティが応えて言うには、

「剣を揮った罪は消えない。浄化されるとすれば、神業であろう」と。

ロキは「今や神はない。神は下等な者への過度な慈悲によって自らを滅ぼしてしまった。神の知恵とお前が錯覚しているそれを捨てるがいい。そうすれば、わたしがお前により優れた知恵を授けよう。二つのものを同時に求めることはできない。一つを求めよ」と。

フォルセティは言う。「神性は全ての存在に宿り、神話は厳正に開闢の時を示す。それらは一であるから」

ロキは「フォルセティは神の言葉を退け、悪魔に騙されている。地獄に落ちるだろう」と言った。

フォルセティが言うには「もしも、地獄を恐れて、それだけを信奉するのなら、地獄が訪れるだろう。神を畏れて、それだけを信奉するのなら、恵みが訪れるだろう」

ロキが言うには、「フォルセティは神という名の無を信仰している。無はまず存在がなくては存在しない。フォルセティは起源ではなく、偶像を信奉している。それは罪深い」

フォルセティが言うには「無は無い。全ては一であるから、多のようなものも一である」

ロキは憤怒して言う。「フォルセティは多神教を肯定している。これは罪深い。地獄に落ちるだろう」

フォルセティは言う。「悪人に対して慈悲がないのなら、悪魔であろう。その目に善性が開かれないのなら、見るものは全て悪性であろう。悪人を絶対的な悪人であるとするのなら、無を信奉していることになるだろう」

ロキはフォルセティを説得するのをあきらめた。

ロキはフォルセティとこの世界に次のような予言を残した。

「これから先に、わたしの子供たちとあなたの子供たちが出会うであろう。その時に、あなたはあなたが討つべきものを討つだろう。あなたの子供たちの幾人かはあなたの法力を為し、わたしの子供たちの幾人かはわたしの法力を為す。中でもあなたの心を実直に継ぐ者はあなたの神器を為し、中でも私の心を実直に継ぐ者はわたしの神器を為す。それぞれフォルセティ、ロキと呼ばれ、わたしの名は後世にまで永遠に伝わり、あなたの名はロキとあなた自身によってすぐに滅ぶだろう」

その時、ナーガはフォルセティにだけ聞えるように言った。「どんなに強い魔力でも、起源を誤魔化すことはできない。それは心あるものへの真理であるから。魔を憎めば、魔に落ちるだろう。魔を憎んでも、慮って施すのなら、天に昇るだろう。多であるようなものに恵むことで一と為し、一であるものに仕えることで多を為せ。多くを求めれば全てを失い、一つに満足するのなら、全てを得るだろう」

フォルセティはナーガの言葉を心から信じた。ロキの姿はいつとも知れずに消えていた。

フォルセティが辺りを見渡すと、空間に満ち、嵐に紛れていた無数の塵の一つ一つ、その全てが眩く輝く宝物となっていた。そこには一つとして無価値なものはなく、全てがそれぞれにそれぞれの固有のかけがえのない価値を称え、それぞれがそれぞれに分裂した、にもかかわらず、それぞれがそれぞれにただ一つであるような不思議な調和を享受していた。どのような苦役も強制されることなく、全てのものが全く自由であり、生の喜びに満ちている。悪はなく、全てが善きものであった。フォルセティは、何物も否定されることのない、無限に寛容で、優しい園に至る。フォルセティはその時、真の行為のどのようなものであるかを知る。

 

 

 

風が強い

君にもわかるはず

 

(YOHKO, 宮川弾, 「向かい風」の歌詞より引用) 

 

 

 

 

P.S.直観術は比喩です。

統合失調症の症状の簡略な正当化手法について。

幻覚について。

 

幻覚って、個人的にはすごい資質だと思うんですよね。だって、普通の人に見えないものが見えるんですよ? すごくないですか? いつの時代でも、普通の人達に感じられないものを感じることができる繊細な感受性というのは重要なものだと僕は思っています。

 

迫害妄想について。

 

人とは違う重要な資質を持っていると、誰かがその資質を狙って、自分を迫害するのではないかと心配になってしまうこともあるかもしれません。しかし、こうも考えられます。「あまりにも重要なものは、重要なものだとは気づかれにくい」。この辺りの論法にご興味がおありの方は、老子の本などをお読みになってみると良いかもしれません。

 

関係妄想について。

 

色々な物事の間に色々なつながりを見出すことができる資質というのは、創造的な能力の一種ではないかと思います。一見、無関係だと普通の人達に思い込まれている物事の間に、何らかの関係を見込めるというのはかなりの慧眼であるとも捉えられるのではないでしょうか。この辺りの論法にご興味がおありの方は、ダランベールの本などをお読みになってみると良いかもしれません。ユングの「シンクロ二シティ」という概念もかなり参考になるかと思います。

 

注察妄想について。

 

少し重要なものは人々の注目をあけすけに集めがちですが、飛びぬけて重要な者の周りは存外、ひっそりとしているものです。こうした現象は一般的に、「孤高」というふうに呼びます。秘宝は、常に隠されているものです。ならば、もしもあなたに飛びぬけて重要な資質が備わっていたとしても、そうした才能は存外目立たないものであるとも捉えられます。能ある鷹は爪を隠す、ということでもあります。

 

追跡妄想について。

 

飛びぬけて重要なものは、飛びぬけて偉い存在によって管理されます。これは社会を見ていても、生態系を見ていても、分かりやすい傾向の一つではないでしょうか。つまり、もしもあなたが特別に重要な存在であるのなら、並みの存在にはあなたを追跡することはできません。よって、神霊があなたを追跡するという事はありえますが、普通の人があなたを追跡できるという可能性は低いものと思われます。

 

被害妄想について。

 

飛びぬけて重要なものは、飛びぬけて手厚く庇護されるものです。それは並みの庇護ではないでしょう。したがって、並みの思考によって飛びぬけた庇護の何たるかについて省察することはできません。逆に言えば、あなたが飛びぬけて重要で、正しい存在であろうと心掛け、実際にそのように善き努力を為す限りは、並みの被害があなたを損なうことができる可能性は低くなります。あなたは、確かに重要な才能を保持しているかもしれませんが、そのことによって直ちにあなたに何らかの被害をもたらすというふうには考えづらいです。この辺りにご興味がありの場合には、クラウゼッヴィッツの本などをお読みになってみると良いかもしれません。マキャベリもいいと思います。戦略論の基礎を身につけると、被害妄想などを上手に「活用」できるようになるのではないかと、個人的には思います。

 

誇大妄想について。

 

重大な資質を持った人が、自身を誇大なものとして把握するのは正しい認識です。ただ、重大な資質というものは、多くの人々にはなかなか伝わらないものです。例えば、カントは天才ですが、カントの業績を全ての人達が理解しているわけではありません。むしろ、そうした名作を読むことすらせず、毛嫌いし、あまつさえ、古典を蔑んでしまう、そうした人達も珍しくはありません。逆に言えば、あなたが重大な資質を持っていたとしても、そのことが直ちに、あなたに何らかの被害をもたらす可能性は低いです。

 

考想化声について。

 

自身の考えや想いが声に変化する症状は、一種の共感覚であるとも捉えうると思います。共感覚とは、例えば、何の変哲もない数字に色を感じたり、音などから幾何学文様のようなものを感じたりする症状です。本来、数字も音も、「色」ではありませんが、そこに現実にありもしない色を感覚できる症状。こうした構造は、考想化声に非常に近いように思われます。考えや想いはもともと「声」ではありませんが、そこに現実にありもしない声を感覚できる症状。こうした共感覚のある人は創造性が高いとする説もあります。

 

作為体験について。

 

全知全能の存在を「神」と呼ぶことにしましょう。この場合、神は全てのものを司っているはずです。ここで、神が見える人と、神が見えない人の存在を仮定しましょう。この場合、神が見える人は、自分が操られていると考え、神が見えない人は、自分が操られていることを意識できずにいることになるでしょう。つまり、作為体験があるほどに、その人は神々に近いことになります。この辺りの論法については、武者小路実篤などの本をお読みになってみると良いかもしれません。

 

考想伝播について。

 

重要なものは、多くの人々が求めます。しかし、飛びぬけて重要なものは、多くの人々は求めることができません。なぜなら、何かを求めるためには、その何かの存在を認識している必要があるからです。あなたが飛びぬけて重要な資質を持っているとすると、その思考は多くの人々には求めることができません。そもそも、あなたの飛びぬけて重要な思考を多くの人々は理解することができないからです。すべての人が、あなたに匹敵する資質を持っていると仮定すれば、あなたの考想伝播の感覚に妥当性がありえますが、現実的には、全ての人が飛びぬけて重要な資質を持っているというふうに想定することは難しいと考えられます。したがって、考想伝播が起きている可能性は一般的には低いです。

 

自我障害について。

 

全知全能の神の存在を想定します。この時、全ては、神々の操り人形であると考えることができます。つまり、自我障害と呼ばれているような状態における理解が、むしろ、普通の人々の認識よりも有効かつ正確です。この辺りの論法については、プラトンなどの本をお読みになってみると良いかもしれません。

 

私の幻覚および妄想について。

 

私の幻覚や妄想は私に様々な発想をくれたり、思考を発展する助けになってくれたりします。不安を呼び起こす幻覚や妄想もありますが、そうした不安も絶え間ない思索によって乗り越えることで、より良いビジョンが得られるように感じられます。

 

生活について。

 

社会が常に正しいとは限らず、常識が常に正しいとは限らず、周囲の空気に気を配って順応することが常に正しいとは限らず、性急であることが常に正しいと限らない。したがって、社会性がないことが正しい場合があり、非常識であることが正しい場合があり、空気を読まないことが正しい場合があり、怠けることが正しい場合がある。

 

会話や行動について。

 

会話や行動のスタイルの多様性は、尊重されることが大切である。人それぞれ。

 

感情について。

 

感情のスタイルの多様性は、尊重されることが大切である。人それぞれ。

 

意欲について。

 

意欲のスタイルの多様性は、尊重されることが大切である。人それぞれ。

 

病識について。

 

障害受容の強制は、虐待的である。なぜなら、当事者の意志をまったく排除し、その思想を強制的に洗脳することは、人権に反するから。

 

 

P.S.

 

みなさん、お久しぶり。ちょっと不完全ですが、とりあえず、統合失調症の症状を簡単に正当化してみました。少しでも、統合失調症の方々の権利の状況に改善がもたらされることを願っています。