魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

魔術師になるには(個人的な考えです)

今日はちょっと、「魔術師のなり方」について自分なりに「考察」してみようと思います。いつも通り、個人的な空想論ですが、その点はご承知ください(笑)

 

まず「魔術師」とは何か? について整理してみます。

 

これは「不思議な術を使う人」の事ですね。

では「不思議」とは?

 

これは「考えたり、議論したりできない対象の様態」を意味しています。

つまり、その術が考察の対象になり得たり、議論の対象になり得るのなら、それは「不思議」ではなく、「明晰」であるわけです。

 

所で、魔術とは「不思議な術」の事ですね。したがって、それは明晰ではなく、それについて議論したり考察したりすることはできない事になります。

 

つまり、魔術師になるためにはまず、「考察」と「議論」への依存を断ち、精神的に自立した状態を持つ事が有効であることになります。

 

よって、まず考察的な姿勢と議論的な姿勢を放棄します。では、ここで言う、このような「姿勢」とはどのようなものなのでしょう?

 

これはざっくり言ってしまうと、「他者と共有可能な姿勢」として良いかもしれません。

 

考察をするのは、それを「方法化」するためです。つまり、「反復」を可能にするために、そういう事をします。ところで、方法化し、反復可能なのであれば、それは誰にでも行使可能なものになり、ユニークとは言えません。また、方法化され、そこから反復の作用による再現性を誰でも客観的に実現可能なのであれば、それは、「明晰」であると言えるので、したがってそれは厳密には「魔術」とは言えない事になります。

 

また、議論をするのは、これもまたそれを「方法化」するためです。定式化、理論化、と言っても大体OKだと思います。以下同文。

 

しかし、魔術は「極度に普通」なものでもあります。なぜなら、そこから何かの「特徴」を抽出可能なのであれば、その性質は明晰であり、それは不思議な術としての、魔術ではない事になるからです。このように、「普通」なものもその程度を極める事で、無徴化する事ができ、それによって、その術を不可視化し、他者との共有可能性のない状態に生成する事で、ユニークなものとする事ができます。この文章も、この経路を利用して書かれています。なぜなら、方法化できないはずの魔術を、方法として記述するためには、それが方法である必要があるからです。この二重性を、時系列に対して直線的に再配分し、その現在から未来にかけての「ズレ」を利用しています。

 

簡潔に言うと、魔術は方法化できない。しかし、方法を非方法へ生成変化することはできる。したがって、方法から、方法化できない魔術に至る事ができるかと言えば、可能性はある、という事です。

 

とにかくどんなものでも、極度に極めれば、それは「魔術」となり得ます。こうした全ての達人の技の事を「魔術」と僕はそう呼んでいます。

 

よって、「魔術師になるには何かの技を極限まで鍛え上げればいい」というふうに考えることができます。

 

その「技」は原理的にどんなものでもOKで、むしろ奇天烈なものであるほど、魔術らしくはなるかもしれません。ただ、最初は奇天烈でも、上達に従い、正統性の由来を認知しやすくなり、それに伴い、技は洗練され、人目にも美しいものへと徐々に変化していきます。しかし、結構な労力をかけて修練する必要はあります。すくなくとも、普通の人よりは多くの修練が必要であると思われます。

 

さて、今度は、「極める」とはどのようなことなのかについて考えてみましょう。

 

これは反復練習によって生じることが多いです。

 

例えば、剣道の修練は、主に竹刀などの「剣」の扱いを繰り返し修練する事で磨かれていきます。料理の修練は、フライパンの扱いや包丁のそれ、あるいは食材の質の見極めなどを、繰り返し練習する事によって育まれていきます。このように、「反復練習」により上達は生じます。

 

しかし、上達速度には個人差がありえます。例えば、同じ年月を生きた人同士でも、その能力は著しく異なる場合があります。もしも時間が重大な能力養成のファクターであり、なおかつ時間があれば誰でも等しく上達するのだとすれば、長寿の方の全てが、ダ・ヴィンチのような才能を有していてもおかしくはありません。しかし、時間が等しく与えられていても、全ての人がダ・ヴィンチになるわけではないのもまた事実です。であるのなら、時間は確かに一つの能力養成の要素ではありますが、それだけで能力が構成されているとは考えづらくなります。よって、上達速度には個人差があると考えられます。ただ、僕の実感では上達自体は誰でも起きているように思われます。ただ、上達速度が、その人の感覚の繊細さが感受できるサイズよりも、さらに小である場合、その上達を本人が感知できない可能性はあると思います。

 

ここで、誰しも資源は有限であるとする仮定を導入して思考してみます。実際、多くの資源は有限であり、この仮定はある程度現実的に有効な可能性が高いと言えます。

 

この場合、その資源を集中する事で、ある技を極めやすくなると考えられます。なぜなら、例えば、数学なら数学に全力を傾注する事で、少なくとも、数学能力を養成する事はできる可能性が高くなると考えられるからです。あるいは、数学をしなければ、数学が上達しない……とする仮定が成立すれば、後は単純に、どれだけ数学についての修練を積むか、という問題にもなります。これを、集中型の魔術と呼びます。

 

もう一つ筋がありえます。それは分散型の魔術です。これは、遅効性ですが、長期的な利率はおそらく高い術になると思います。ただ、ただでさえ、時間のかかる修練が、さらに遠大な時間を要するものになり、かなりの忍耐を要します。長い間、人より劣った環境に甘んじ、人より劣った自分像に苦しみ、また、そこまで頑張ったとしても、上達速度が十分でなければ、一生涯を無益に過ごす事になりえます。

しかし、もしも成功できれば、『みにくいアヒルの子』のお話のようにして、大きな美(能力)をある程度開花する事が可能になりえます。この現象は一般に「大器晩成」と呼ばれます。

 

しかし、自身の才能が「大器」であるという自信が今一つない場合には、集中型の魔術を駆使する方が無難ではあるのかもしれませんが、人生の選択権は皆さんのものですので、そこについての判断は、個人的には差し控えます。

 

ただ、利益を確定する、という観点からすると、集中型の魔術の方が、安全ではあるのかもしれませんが、そもそも魔術自体が方法化できないものである以上、著しく安定性を欠いています。したがって、その道を志す場合、それなりの覚悟は要するとは言えるのかもしれません。

 

僕個人は、自分が統合失調症であるのもあって、分裂的な道筋を取ったのですが、その結果がどうであったかと言うと、少なくとも現時点では、名声の点では、集中型の修練方法を取った人々に劣っていると思います(笑) したがって、いわゆる「成功」したい場合には、集中型の魔術を取る方が良いのかもしれません。

 

その意味で、この分散型と言うか、分裂型の修練方法は「リスクがある」という事は一応、忠告いたします。また、そうした道義的責任上、あまり詳細について記述する訳にもいかないのですが、このような言い方をすると、気になってしまう人もいらっしゃるかもしれませんので、簡潔にだけ書いておきます。

 

例えば、統合失調症(分裂症)の症状に、連合弛緩というものがあります。

 

これは色々な物事が勝手にどんどん関連付けられる思考の特徴の事です。この思考を利用すると、普通の人とは異なった思考経路を得られますので、結果、普通の人とは異なったユニークな成果を得る事ができます。

 

また、この症状には、被害妄想と呼ばれるものもあります。

 

これは、自身が何かの被害にあっている可能性が強迫的に妄想(普通ではない思考)として絶えず現れる症状です。このままだと、怖くなって疲弊してしまいます。しかし、意識が、被害可能性を察知する能力自体は、常人を凌駕する状態であるとも言えます。これを活用すると、普通の人よりもリスクに対し敏感に反応できるため、普通の人よりも損失やエラーの発生率を減じることが可能になりえます。簡単に言うと、普通の人が危機を感じないところで、危機を感じることができるので、普通の人よりも危機を避ける確率を上げることができます。しかし、そのためには、現実的な戦略論をある程度、勉強する必要があると思います。戦略を適切に知らなければ、被害可能性をせっかく察知しても、それへの対処行動を誤ってしまいます。これが統合失調症的な問題行動として噴出してしまう事はありえると、僕は思っています。無論、個人的な空想論ですが。

 

最後に、この症状の特徴の一つである「集中力の欠如」について。

 

集中力が欠如するので、分散型の魔術を行使しやすくなります。これは、簡潔に言うと、統計的な技法を応用した魔術手法であると言えると思います。多様なデータを大量に偏りなく収集し、そこから論理的に正しく答えを導き出す事で、偏りのないより普遍度の高い方式を抽出できる可能性に賭ける手法です。従って、一つの物事に集中するのよりも、集中力が欠如している統合失調症の状態の方が、分散型の魔術の行使には有利であると考えられます(集中すればデータが偏り、分散すればデータの偏りを減じることができうる)。この修練法は、先述の通り、リスクは高いですが、成功すれば、「理論上は」、絶大な効果を見込めます。ただ、僕はこの魔術を行使したのですが、その割に実力が高いとも言いかねるので、その点の解釈は皆さんに委ねます(笑) 大器晩成を成し遂げる「大器」が備わっていると自信がある方の場合には、そうした道もありえると言えば、ありえるとは思います。しかし、リスクは高いと思いますので、その点は予めご了承ください。また、その関係上、私はこの手法を皆さんに推奨することはできません。したがって、「決して、真似しないように」とひとまず言わざるをえません。

 

一応、「魔術師になるには」という問題について僕なりに考察はしてみましたが、何かの参考になれば幸いです。

 

ではでは~☆

メープルシロップ

 謎の深い現象を考察する事。そこにはどのような意味があるだろうか? そこに意味などと言うものは、そもそも根付いていると言えるのだろうか? 楓にはまずもってそれが分からなかった。そして、そのような事を考え続けていると、この世界のありとあらゆる事が分からなくなってくるような気が、少なくとも彼女はした。

 ふと、楓はコーヒーを飲みたくなったので、淹れた。しかし、頭の中はごちゃごちゃしていて、<どうして自分はコーヒーを淹れているのだろう?>というような不毛な問いに貴重な認知資源を奪われる事となった。誰にとっても、認知資源は貴重なものだ。それは命や時間にも並ぶ財宝の一つだと、彼女は考えている。

 楓は、とても考えることが好きだ。そして、常に考える事に追われている。例えば、苺について。苺の形状について。生物学的なその機序について。コーヒーとの味や匂いの相性について。その育成及び販売の歴史や生成メカニズムについて。……。

考えれば考えるほどに、何も分からなくなった。しかし、考えている時、楓には何かを確証することはできないが、それでも<からしいもの>を幾許かの確率的な信念に基づいて、個人的に選別する事はできた。それは彼女にとって、それなりに幸運な事で、そうした<信念>が、もしも彼女の意識の中に皆無であったならば、彼女は永久に行動を起こす事ができず、真っ暗な思考の海の底に沈み、身動きも取れずに凍えていなければならなかった事だろう。世の中には、そうした悲劇的な境遇に身を置かざるを得ないような人たちもいるかもしれないが、目下のところでは、楓の下にそうした地獄の呪いとでも言うべきものがもたらされる事はないのだった。ただ、それと同時に、彼女は幸運からも見放されていた。なぜなら、幸運というものが、実際の所、不幸を拠り所にした存在であるから。不幸がない所に、幸運は生じない。如何なる幸運も、それは不幸からの脱却として現れるものであるから。幸運でも、不幸でもない事。それは、彼女にとって<幸せ>であるのかどうか。それは彼女にしか分からない。

 楓は、コーヒーにシロップを淹れて、その黒い液体を飲んだ。彼女は甘いものがとても好きで、ケーキ、クッキー、果物と甘い物に目がなかった。同時に、健康には人一倍気を使う方でもあり、そのためなのか肌はすべすべで、心身ともに健康を維持していた。甘い物を食べる事は、彼女にとって、理に適った防衛でもあった。少なくとも、甘い物を食べていると、一時的には気が紛れた。一時的にでも気を紛らわす事ができれば、後はそうした気概を助走にして、当該の固執的な問題から逃走する事ができた。とどのつまり、何か嫌な事があっても、それを忘れる事ができたし、その事から気分転換の機会を持つ事もできた。そうした効用において、甘い物は楓にとって便利でさえあった。<娯楽は便利>は彼女の信念の一つでもある。そうしたテーゼを転回した形の一つとして、<甘い物は便利>との命題を導き出しては、少々甘い物に対して依存的な自身の態度を自分に対して正当化する事を習慣的に行っている。

 彼女はコーヒーを飲み終わると、冷え冷えとした朝の光を浴びながら、木刀を振るう練習をした。型はインターネットの動画や剣道や居合について書かれた様々な書籍を参考にした上での、独自のものであった。たまに、道行く人々の目にその姿が留まるが、彼らは何事もないようにその場を素通りしてしまう。楓は生まれながらに、影が薄かった。例外的なくらいに。本当に目立たない。しかし、その容姿をよく観察してみると、信じられないくらいの美人であった。その美の極まりようは誰の目にも明らかな水準のものであり、彼女が目立たない人間であるという事実の方が間違っているのではないかと、世界に対して嫌疑を持ちかけてしまいたくなるくらいのものであった。本当に世界には不思議な事が起こる。この絶世の美女は、全く目立たないのだから。立つ鳥跡を濁さず。この世界の善きものや美しいものには後腐れがないという特徴がある。しかし、後腐れがないからこそ、後腐れを容認する優しさをも持つのだ。楓はちょうど、そういう傾向性を持った人物だった。

 木刀を上手に扱うのは、非常に大変な技術の要る作業である。剣術のプロに素人が戦いを挑めば、瞬く間に負けてしまう確率が高い。楓の剣術は名人芸であって、また極度に実用的なものが自然に培う美しさのようなものをも備えている。しかし、それほどに偉大な技を扱う事ができても、彼女は目立たない。とことん目立たない。誰も彼女に気を留める事はない。今までもそうだったし、これからもずっとそうだ。ずっと一人で生きていくのだ。そのように楓は考えていた。少なくとも、夕と言う無二の親友と楓が出会う、その日までは。

 

 

 楓は学校に通っている。その学校は特別な学校で、<特殊な才能>を持つ子供達が集められている。しかし、そうした才能を持つ子供達の中には、精神が不安定であったり、繊細であったりする者も多いため、普通の学校とは違い、精神科医が多数配備されている。通常の学校で言う所の、スクールカウンセラーのようなものであるのかもしれない。ただ、一般的に、精神科医が精神医学の系統に基づく機構であるのに対して、スクールカウンセラーなどの職業は心理学系の機構に基づくものであるという差がある。つまりは、楓達のような特殊な子供たちの生活を保全するためには、心理学よりも精神医学の方がより向いていた。少なくとも、楓たちの住む社会においては、そのように考える人々が多勢であった。

 楓や特殊な子供達は、ロールシャッハテストや知能検査、スクリブルなど、多種多様な心理学的技法に触れる機会も多く持っていた。

 楓の担当の精神科医は元井という人だった。元井は心理職の人と共同で、楓のケアに当たっていた。楓達にはあまりプライバシーがなく、彼女の住んでいる家にも監視カメラや盗聴器のようなものがたくさん備え付けられている。その行動も政府の任命した国家機関の下で統率される。それと言うのも、彼女達の知能が異常に高い事が原因だった。推定される演算能があまりにも莫大であり、その勢いは人工知能をも凌駕するほどのものであった。しかし、人工知能<凌駕>すると言っても、それは楓の知能が人工知能式のものと同一だという事を意味するのではない。むしろ、それらは異質なものであった。それにもかかわらず、彼女は機械達と流暢に会話することができる。そうした会話により、機械達の持つ<情緒><機微>を正確に読み取り、仲良くする事ができた。その事で、機械達は楓に対して愛情を持つようになり、楓も彼らを愛した。彼らは互いに協力関係にある。2096年には機械に対して市民権が認められ、彼らには選挙権も与えられた。そうした世界的な快挙を最初に成し遂げた国はロシアであったが、日本がそれに続き、アメリカ、イギリス、フランスと徐々にその運動は拡大していった。

 楓は診察室で元井と対面している。2396年のある冬の事だ。

 元井は楓に言った。

「最近、調子はどう?」これはいつもの決まり文句のようなもので、大概、この常套句により彼らの会話は開始される。

 楓は2秒ほどの沈黙を挟んだ後に、

「変わりありません」

 と言った。

 元井は精神医学会において著名な男性医師で、影の薄い楓に<関心>を持つ事ができる数少ない人間の一人だった。そうした人間は<エルダー>と呼ばれている。その概念の形成には多大な歴史的な機微が関与しており、それだけで歴史学の題材になるくらいの代物だが、この言葉をごく一般的な日本語で表すのなら、こうなる。

 

 <ミクロ領域における極度に特殊な事物の認識及び分析が可能な高度特異型精神保有>

 

 元井医師などのエルダーと呼ばれる人達は、簡潔に言うと、非常に細かい事象を正確に把握する事ができる。こうした<徴候>を認識する才能は、古代においては<占い><神託>と呼ばれ、<占い師><巫女>と呼ばれる人達が行使してきた。彼らは現代の世界の<症状>を通して<未来>を認識できる。その予測精度は同じエルダーでも人によって異なるが、高度なレベルになるほどにその数は減っていく。元井医師はその中でも、トップクラスのレベルのエルダーだった。

 では、なぜ、そのようなトップクラスのエルダーが楓の担当医になっているのか? それは、トップクラスのエルダーでなければ、楓の存在を<認識>する事ができないからである。この事は、日本国におけるトップシークレットであったし、また、最重要の研究対象である所の楓は、秘密裏における<人間国宝>でもあった。多くの人は彼女の存在を知らないが、より高い認識能力を持った者達だけが、彼女の存在をかろうじて認識する事ができた。

 そうした事情もあって、多くの人達にとっては、楓は<幻影>であり、科学的な文明レベルの低い最初期の頃にあっては、彼女を認識できる者達が嘘をついているのではないかと考えられたり、また、妄想や幻覚の症状を呈していると考えられたりした。そのために、彼らは多くの差別や排除を被り、苦しんだ事もあった。しかし、徐々に、科学技術やあらゆる学問の知見が蓄積され、それまでよりも世界を比較的明晰に見通す事ができるレベルまで人類の知識が向上してくると、楓が本当に実在する存在であることが分かってきた。正確には、これは楓の実在に限った話ではない。この<特殊な才能>を持った子供達や大人達は、この極度の高知能者たちは皆、揃いも揃って、<目立たない>のである。

 彼らの容姿は非常に美しいのが常だが、それにもかかわらず、目立たない。民間の諺の言う所によれば、次のような言い回しがある。

 

 <神の子達は皆透明>

 

<神の子>と呼ばれる楓達は、特殊な扱いを受けている。しかし、色々な事情が錯綜して、情報が混乱し、その事がまた、彼女達の存在を覆い隠すヴェールにもなっている。多くの<無知のヴェール>が人々を覆い囲んでいるのだと、楓たちはよく言う。そのために世の人々の目には、多くの神兆や神や妖精や、鬼や、あるいは悪魔の姿が見えなくなってしまっているのだ、と。世の人達にとって、楓達の存在は<都市伝説><迷信>であったりした。

 

 

 楓は彼女の大親友である同年代の少女の夕と卓球をしている。あるいは、テニス、サッカー、数学の問題を出し合ったり、哲学的な問いを立てては、気紛れに遊んでいる。楓も夕も遊ぶ事がとてつもなく好きなのだった。普通の人がその姿を見たら、<遊び依存症>とでも診断してしまいたくなるくらいの姿だろう。だが、彼女達がそうした<病名>を押し付けられる事は無い。なぜなら、彼女達の遊びこそが、この世界の富の源泉であったからである。全ての富は彼女達の遊びから生まれている。彼女達が好きな事をし、自由に遊ぶほどに、その周囲の人々の財布は潤った。楓は<創造>の泉であり、夕は<換金>の泉である。楓はどんなものでも創造した。ただし、狙って作るわけではない。いわば、無意識的に、呼吸をするように、あるいは暑い日に汗をかくように、極度に自然な様態に基づくときに、多くの創造を為した。

 対して夕は如何なるものでも<>と為す事ができた。彼女達のこうした技は、フランスの学者である、ジル・ドゥルーズ達の概念創造にあやかって、<生成変化>と呼ばれている。簡潔に言うと、生成し、変化する事が彼女達のしている事であったから、このように呼ばれる。彼女達は何にでも<なる>ことができた。<変身>という概念があるが、ちょうどそれに近い現象である。彼女達は吸血鬼に変身したり、ある時、数学それ自体であったり、茸であったり、茸の中でも特に松茸であったりした。こうした表現をしても、彼女達の特性について記述し切れるわけではないだろう。何せ、読者諸氏には未だ、この文章の意味するところが伝わらない可能性が高いであろうから。彼女達は、何の誇張もなく、松茸であったり、数学であったりする事ができる。しかし、だからと言って、彼女達の身体の組成がそれらの個別的な事物の慣例的な機構へと生成変化を遂げるという訳でもない。むしろ、有機体の変化ではなく、そうした有機的な結合の関係が一切粉砕された、諸所の分子達の動き、――つまり、ミクロの領域――における考察や実践が彼女達の生成変化そのものであった(無論、塵も積もれば山となる、と言うように、ミクロ的な事象を地道に積み重ねる事で、マクロ的な生成変化を実現する事もまた、可能ではある。彼女達には。例えば、老婆になったり、赤子になったり、龍になったり、はたまた男性になる事もできた。それらの生成変化には、現状では多大な時間を要するが、彼女達は<不老>の存在であったので、時間はおそらく無限にあった。ただし、<不死>であるかどうかまではよく分かっていない。歴史上、彼女達が死んだ事がなかったからである。そうした観測的な事実から、かろうじて、彼女たちが不死なのではないかと推定する事はできたが、真実は闇の中だ)。

 多くの人はマクロ的な視野に基づいているために、ミクロ的な物事を容易に見逃してしまう。彼らはそれらを<誤差>という概念によって考察や理論的整合性から切り捨ててきた。しかし、彼らはその誤差こそが現実を形作る最大の要素である事に、ある時に気付いた(これは人類史において第六次の産業革命の起因となった思想である。当時しばしば掲げられた標語は<マクロからミクロへ>であった。無論、この閃きには量子力学の諸理論なども深く関係している)。

 楓と夕は諸々の遊びを一通りし終えると、公園のベンチに座り、夕焼け空を眺めた。近くの家からジムノペディの音が聴こえた。

「サティは好き?」

 と楓は夕に尋ねた。

 夕はボウっとした様子で10秒程沈黙した後に、

「うん」

 と通常のそれよりはスローな頷きを返した。。夕はとてもゆったりとした性格をしている。ちなみに、彼女には碧という恋人がいる。碧は夕と同年代の才能豊かな男の子だ。彼については、後に詳述する。

 楓は夕と剣術の稽古をする事にした。楓が念じると、どこからともなく、真剣が現われ、それは彼女の手に握られた。その出現の様式は、徐々に出るものではなくて、急に生じる類のものである。楓は時系列を操作する事で、古代のある空間における座標系に準じるあらゆる<><召霊>する事ができた。時間を超越し、現代に復刻した霊性の刃である。イデアの刃と言ってもいいのかもしれない。

 夕は指を素早くスッと宙を切るように動かす。すると、空間が切断され、そこから一本短剣が出てきた。現代の用具の名を無理矢理にそれに当てはめると、それは<ナイフ>の類である。

 楓は特に躊躇いなしに、全力で夕に切りかかった。そのように切りかかっても、夕が彼女の斬撃を受け止めてくれる事を彼女は友への<信頼>という宝物の力によって悟っていた。

 夕は楓の信頼を裏切る事なく、正面からその斬撃を受け止め、また背面へと流れるような見事な所作で力を受け流した。楓は自身の斬撃の反動でわずかに硬直した上半身による戦略的ロスを嫌って、まだ動く下半身から素早い蹴りを繰り出す。夕は左手を正面に突き出して、楓の蹴りを抑えると、右手のナイフを楓の首筋に向けて揮う。楓は、刀を一度宙に放り投げ、それによって一時的に自由となった両手で夕のナイフを持つ右手を捉えた。そのまま、夕の体を柔術を使って放り投げる。夕が受け身を取っている間に、宙を舞っている自身の剣の柄を握り取り、受け身後の硬直によるわずかな隙に甘んじている夕の鼻先に刃の先端を突きつけた。

 夕は降参し、楓は勝った事で、喜んだ。彼女達のこうした<遊び>の長期的な勝率は五分五分と言ったところである。

 

 

 ここのところ、楓の住む街では、連続殺人事件が起きている。正確には、被害者達の遺体が発見されていないために、本当に彼らが殺害されているかどうかは分からなかったが、大量の血痕は大量の出血の痕跡として現場に残っており、おそらく致死量の失血が認められるものと一般には推定されている。

 楓には類稀な推理能力のようなものがあった。そのため、こうした事件が起こる時には、楓が動員される事がある。楓の通う学校を通して、彼女の下に秘密裏に指令がやってくる。様々な指令が来るが、楓の仕事の達成率は今の所、100%である。楓は、警官と共に、事件の現場を検証している。楓が言う事、為す事に、警官たちは翻弄される羽目に陥ったが、それと言うのも、彼女の発想が常識離れしているためである。非常識なものを常識によって処理しようとすると、そこには甚大な誤差が生まれる。実のところ、現場の警官達も、極少数の上層の人々を除いては、楓の事を知らないのだ。それこそ、上手く<認識>する事ができない。楓の存在に意識の焦点を合わせる事ができない。しかし、そうした事情も手伝って、楓は多くの人々に悟られる事なく、隠密行動をする事ができた。その結果得られた様々な情報を、巧みな筆致で描き出し、記録すると、そのデータを警察に転送する。これらの作業は全て、彼女の頭の中で行われる。彼女はテレパシーの一種によって、機械と自身の脳をダイレクトに接続する事ができる。彼女は機械と非常に仲が良いのだ。

 楓は、事件の真相を掴み、その報告を終えると、一人である場所に向かった。それは楓の推理によれば、この事件の犯人のいる場所であった。

 

 

 楓は、大きな山の麓にある山小屋の中に入って行く。その中に、一人の男がいた。男は、じっと窓の外を見つめ、夕日の光を浴びている。楓は、男に声をかけた。

「こんにちは。私、楓です」

 と彼女は言った。

 男は黙っている。

 楓は続けて言う。

「あなたは人々の魂をあなたの<ポケット>に格納しましたね?」

 <ポケット>とは空間の中の異次元の部分にアクセスする際に使用されるポイントの事である。このような、空間を切断する事でそこに生じた穴の中に任意の物を保存する事ができる能力は普通の人には使う事はできない。つまり男は、楓と同様に<特殊な才能>を保持している。

 男は言う。

「喉が渇いてしょうがない。飲んでも飲んでも、足りない」

 楓は、そのまま男が泣き崩れるのを見ていた。この男にどのような事情があるのかという事実的な側面はこの際、度外視するにしても、少なくとも、彼が深く傷つき、悲しみ、そして罪に手を染めてしまったという物語には、何か言葉に還元し切れない特別な情緒のようなものがあった。

 泣いている男に楓は言った。

「喉が渇いたから、人を殺して、その魂を奪い、彼らの血を飲んだのですか?」

 男は何も言う事なく、泣き続けている。

 楓は、男が泣き止むまでじっと待っていようと思った。男が多くの人達の命を奪った事は確かに許し難い事だと彼女は思った。しかし同時に、人の命を奪わなければならない程の苦しみを彼に与えた<何か>に対しても、強烈な怒りを覚えていた。人々は、なぜ彼に殺されなければならなかったのだろうか? 彼は、なぜ人々を殺さなければならなかったのだろうか? そういう疑問。殺戮は罪だ、しかし殺戮をしなければならない状況に生物を追い込む事もまた罪ではないか? そのように楓は自問してみた。しかし、いつも通り、彼女の思考に単純明快な<結論>はありえないようだった。答えは永久に出ないのかもしれない。それでも考え続けるしかない、時に泥臭く、時に洗練に。楓はそう思った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 男は誰にともなく、そう呟き続けていた。

 楓は自分がどうするべきなのかについて考えてみた。しかし、そうした思考は、現実の悲劇の前には、無力であった。現実には、タイムリミットがある。無限にいくらでも潤沢に認知資源が用意されているわけではなかった。楓は、普通の人々よりは多くの認知資源を保有しているかもしれないが、それでも、その能力の総量は、どのようなわけか、<>に及ぶものではなかった。楓は<神の子>などと人々から呼ばれていても、やはり普通の女の子でもあるのだ。どんなに知能が高くても、どんなに才能があっても、不老でも、その事実は容易に揺らぐものではなかった。

 楓は、泣きじゃくる、今ではもう疲れ果て、擦り切れてしまった殺人鬼の男をそっと抱き締めた。

 そうして、

「大丈夫……大丈夫……」

 と優しく彼女は囁いた。その囁きが男の耳に届いているのかどうか、そうした事実は楓にとってどうでもよかった。ただ、目の前で苦しんでいる人の心に寄り添う事、それが現に正しい事であるように楓には感じられた。彼女は、もしかしたら自分は間違っているのかもしれない、とも考えた。しかし、それにもかかわらず、罪人に施されるその優しさが、この世界の枢要などこかに通じているのではないかと、彼女はそう感じずにはいられなかった。

 その頃には、楓と男がいる山小屋は警官達に包囲されていた。

 やがて、彼らは山小屋の中に突入し、楓に男から離れるようにと言った。彼らの手には銃という名の殺傷兵器が握られている。

 男は楓を突き飛ばすと、警官たちの首を一瞬のうちに何処からか取り出した日本刀で切り落としてしまった。辺りには、血飛沫が舞っている。

 男は返り血を大量に浴びて、泣いている。

 生き残っている警官は、男に対して反射的に発砲し始めたが、男は弾丸を全て切り落としてしまった。彼にも、未来の<徴候>を読み取る能力があるのだ。彼には、弾丸の軌道が読める。

 男は、さらに人の命を殺めようと、刀を振りかざす。その修羅の様相にストップをかけたのは、楓だった。楓は、彼女の剣で、男の刀をはじき返した。男は表情を変える事なく、泣き腫らした後の顔のままに、楓を見ていた。

 その様子を見ていると、楓も泣きたくなった。実際に泣いてしまった。何か、悲しく、悔しかった。

 男の顔が一瞬驚きに染まったが、その表情はまたすぐに絶望に飲み込まれていった。警官達はなおも発砲を繰り返していたが、銃弾よりも速く動く事のできる楓と男の応酬を認識する事ができない。自身達の命の危機に興奮したままに発砲を繰り返した結果、容易に弾は底をついてしまった。

 楓と男は、幾度か剣戟を交わす。そのたびに、火花と轟音が散る。龍が嘶いているようであった。こうしたメタファは、いくつかの夾雑物を含む事で概念としての純度を落としてはいるものの、全く的外れな感覚ではない。その時、楓の身体の器官における有機的組織はともかく、その<><><>は龍のそれに<生成変化>していた。

 楓と剣を交えている、この男もまた生成変化を行っている。今の彼の場合、<吸血鬼>への生成変化であった。吸血鬼は、他者の生き血を自分の力に還元することができる。血。生暖かく、生命の象徴でもあるそれは、非常にメタフォリカルな存在でもある。

 特殊な才能を有しない人々にも、漠然とならば、今の楓が醸し出しているような気風を感じる事は、ある程度ならできる場合がある。

 警官の一人が、

「龍がいる……」

 と呟いている。多くの者は言葉を失っている。しばしば、<迷信>というものはこのようにして生まれる。

 楓は暗黙裡に、男に対してテレパシーで語り掛けた。

『やめよう?』と。

 男は答えなかった。楓の言葉は男の心にまで届かない。

 楓と男の周囲の時空が揺らいでいる。その場の警官達には、<何となく気持ちの悪い感じ>として、ある独特の印象が生じる。こうした揺らぎは、楓と男が未来の徴候を読むたびに生じ、互いに苛烈なスピードで時空を改変し続けているために生ずる副作用のようなものである。あまりに激しくこれらの行為を長く続け、その度合いが臨海値を突破してしまうと、多くの人は錯乱状態に陥る。楓やこの男のような特殊な才能を持った人の場合には、意識を時空間に簒奪されてしまうリスクがある。楓達の言うところによると、時空間は意志を持っているのだと言う。その意志に沿うと時空間は、自分に従属する主体に対して援助してくれる。どのような座標系のどのような物のどのような系列にも<>が宿っている。万物に宿る神の、それぞれの固有の個物に宿るものとしてのその性質を<付喪神>と、楓のような人々は呼んでいる。

 楓と男は、それぞれにそれぞれの付喪神達の力を借りている。そして、ここで言う神は、根源的には一つだが、全ての事物を司る者であるので、同時に全ての物でもあるという不思議な性質を持っている。さらに、極度に自由であり、全知全能の存在であるので、原理的にはそうした唯一神が全てを必然的に創造した、というふうに楓達の時代においては考えられている。神は一つだが、多でもあり、しかし、それは実は一であり……と言うような循環的な思考の麻痺を生じさせるその超越は、確かに神的なものであり得て、人間の手中に収まるようなものではない。一方で、そうした超越を人間が強力に活かすためには、神のようなある種の外在に全てを委ねてしまいながらに、極力、内在の努力に留まる必要があった。結果としては、全て神に収斂するし、実際、それは極めて正確な発想でもあるが、一方で、人事を尽くして天命を待つ、というような事もまた、ある程度は重要な機能を果たすというのが、この世界において摂理とされるものでもあった。

 男は、時空がこれ以上歪む事を避けて、山小屋から神速で退避した。楓は、それを追わなかった。物理的には追跡する事は可能だった。だが、心理的に無理だった。彼女の体は、激戦の後にもかかわらず傷一つ負っていなかったが、その心はぼろぼろだった。

 楓は、子供のように泣きじゃくった。というか、彼女は子供であった。少女であった。外面的にはともかく、本質的には、<普通の>女の子であった。

 

 

 楓が自分の家の寝室のベッドの上で毛布に包まり、泣きじゃくっているところに、夕がやって来た。

 夕は楓の好きなメープルシロップを買ってきた。楓は、このシロップをコーヒーにたっぷり入れて飲むのが好きなのだ。

 夕は楓のベッドにもそもそと入り込み、楓と一緒に毛布に包まった。楓は、一時泣き止み、自分の鼻先にある夕の綺麗な顔を数瞬眺めると、また、泣き出した。しくしくと。夕は、楓の背に手を回して、キュッと抱き締めた。そして、変な子守唄のようなものを歌いだした。夕の自作曲だった。夕は正確には音痴ではないのだが(彼女には絶対音感がある)、なぜか音痴的なものを愛していて、そのリズムも曲調も不思議なものに仕上がっていた。強いて言えば、シューマンのような傾向が強いとは言えるのかもしれないが、そのメロディーラインの滅茶苦茶ぶりは、まさしく、音痴そのものであった。

 楓は、

「……夕の音痴……」

 とむすっとした顔で言うと、寝転がったまま自分の膝を抱え込んだ。

 夕もまた、音痴と言われた事が、一応気に食わなかったのか、むすっとしていた。二人はずいぶん異なる人間のようにも見えるが、似た者同士にも見える。

 ただ、夕は、楓よりも大人なようで、楓が自分に八つ当たりしてきても、容易に感情的になる事はないようだった。

「コーヒー淹れよ?」

 と夕は笑顔になって言う。

 楓は、むすっとしたまま、ベッドから出て、キッチンに向かった。コーヒーをペーパードリップしている間も、ずっとむすっとしていた。

 コーヒーが出来上がると、楓は、予め温めておいた二つのカップに、二人分のコーヒーを注いだ。美味しそうに湯気が出ていて、その液体が熱々である事が誰の目にも明らかな様相だった。

 コーヒーを淹れ終わる頃には、楓の機嫌が少し良くなっていた。コーヒーを淹れるという作業が良い気分転換になったのかもしれない。それでも楓は、内心では、例の殺人鬼の男の事が気にかかってしょうがなかった。

「むすっとしてるのも可愛いけど、笑顔だともっとかわいいね?」

 と夕は楓に言った。

 楓は、夕のその言葉が気に食わず、またむすっとした。むすっとする事は、一つの楓の職業であるのかもしれない。楓は機嫌を損ねる事が多かった。それは彼女の置かれている特殊な環境がそうさせている面もあるかもしれないし、あるいは彼女自身が極度に繊細な感受性を持っているという事もそこには関係しているのかもしれない。

 夕はコーヒーを一口飲むと、楓の部屋にあったチェロをおもむろに弾き始めた。バッハの曲だった。夕は、バッハの曲や、バルトークヤナーチェクなどのそれを好んだ。

 楓は、自分の部屋のウクレレを手に取ると、夕の奏でる音に合わせて演奏を始めた。それはそれは独特なバッハで、二人のバッハは世界に唯一のバッハだった。

 少し演奏すると、二人は残りのコーヒーを飲み干す。

「一緒に音楽すると気持ち休まる」

 と楓は言った。

「コーヒーも美味しい」

 と夕は言った。

「そうだね」

 と楓は笑って言う。

「楓のは甘すぎだけど」

 と夕は言う。

 楓は5秒ほど考え込んだ後に、

「演奏が甘い? それとも私のコーヒーが?」

 と言う。

 夕はにっこりと上品な笑みを浮かべて、

「どっちも」

 と言った。

 楓はそれを聞いて、むすっとした。

 夕は楓の目まぐるしい表情の変化を見ていて、とても楽しくなってしまった。テラスに差す午後の日溜りみたいな、暖かさを感じた。

 

 

 男は、自分が時空の歪みに囚われてしまったように感じていた。倫理が擦り切れている、そしてもう引き返す事はできない。そういう感じ。

 どんな物事にも限度がある。その限度を超えてしまうと、戻ってくる事のできない、不可逆的なラインというものが。男の頭の中では、そうした不可逆性がぐるぐると回り続けていた。もう何をしてもダメで、どんなに努力しても、取り返しがつかないような焦りを感じていた。

 自分の中の何かが激しく叫んでいる。しかし、それを自分ではどうする事もできない。<それ>を動かそうとすると、何処からか止めどない絶望感が溢れ出てきて、男の心の中を席捲する。男は、自分がもうどこにも行けない存在であるような気がしていた。

 自分の周囲で蠢いている様々な事物の動きがあまりにも速すぎて、自分の能力では、それらを何一つ掴み取る事ができない、と言うふうな絶望感。男は、もはや自分には何も残されていないような気がしていた。

 

 

 夕は自分の家の部屋で夜に小説を書いている。原稿用紙に一字ずつ丁寧に文字を埋めていく。音楽を奏でるように、リズムと文字の発音の質感を慎重に吟味していく。彼女は一日の終わりに、その日の勲章を飾るように小説を書く。彼女の小説は、直接的には全く現実的ではなかったので、一見した所では、それが夕の小説だとは誰にも分からなかった。少なくとも多くの場合は。しかし、彼女が小説を書く目的は、彼女の音楽がある種の音痴を志向するように、一つの文盲性であった。

 夕は文盲ではない。むしろ、明晰すぎるほどに、文を認識する事ができる知能を持っている。しかし、だからなのか、彼女はかえって曖昧で暗いものにしばしば愛情を向けた。全く明晰ではない、文盲や音痴という現象に、強く心惹かれ、自身の明晰な資質にかかわらず、世の中においては、しばしば蔑まれている個人的性質を愛した。夕も楓に劣らず、不思議な女の子だった。彼女には比較的、弱い者を愛するという事が多い。

夕が今書いている小説の題名は、『メープルシロップ』だった。そして、その物語の主人公の形象はどうも、楓に近いものがある。しかし、そうした連関は、少し見ただけでは見えてこない。夕自身は明晰な人間だったが、彼女の書く文章や奏でる音楽は、暗躍的なものであった。

 夕は生まれながらの、音痴、文盲、のようなものに強く憧れを抱いていた。

 また、彼女は、楓の事を考えながら、その小説を書いているわけではなかったが、その無意識においては、もしかすると、楓の事が絶えず巡っているのかもしれない。それは神のみぞ知る事で、おそらくは夕本人にも閉ざされた事実なのだろう。閉じた扉を開くには、独特の技術が要る。扉に頑丈な鍵がかかっていれば、なおさらそうだろう。

 夕は小説を書く際に、意識が飛ぶような感覚があった。自分がそれを書いているというよりも、自分ではない何か、例えば夕のイマジナリーフレンドが夕の体を使って、そうした小説を書いているような感覚だった。夕の中の、こうした芸術作業をするイマジナリーフレンドは特殊で、ものを言わない。彼らはただ、その作品のみによって語ろうとする。職人気質というか、気難しい友達であったが、夕は彼らの事が大好きで、また、彼らの紡ぐ作品がとても好きだった。

 分かりやすく言えば、夕は、自分で小説を書くわけではない。それは、彼女の手が勝手に書いてくれる。そこには特に支障らしきものはない。本当に流れるように、美しい物語が紡がれていく。不思議な事である。

 しばらく小説を書くと、夕は立ち上がって、伸びをした。そして、料理をする。卵焼きを丹念に巻いて、わかめと豆腐の味噌汁を作り、同時にご飯も炊いていく。

 夕は、アナログなものが好きで、シームレスに物事を考えるところがある。どちらかの極に偏った思考よりも、それらの間を取って考える事の方が多い。

 彼女は物理的には一人で、ゆっくりと出来上がったご飯を食べていく。しかし、先述のように、彼女の頭の中には、イマジナリーフレンドがいるので、彼女の感覚としては、自分が一人であるという感覚はなかった。

 夕のイマジナリーフレンドの一人に、<うきゅ>という鼠のような生き物がいる。頭に何かの不思議な葉っぱを載せていて、牙を自在に伸縮させる事ができる。うきゅは夕の想像上の毬のようなものをコロコロと転がして、遊んで、楽しそうに、

「うきゅ! うきゅー……、うきゅ!」

 などと言っている。うきゅの形象は、夕の中の多くのイマジナリーフレンドに比べて明晰そうだが、その生き物の姿がデフォルメされたかのような質感のものであるという事が、そうした事情を促しているのかもしれない。

 夕が食事を終えると、彼女の家に来客があった。

 夕のケアの担当医の<佐々木>だった。

 佐々木もまた、楓の担当医の元井医師と同様にエルダーの一人である。ミクロの事象を的確に把握する才能を有している。夕や楓などのような特殊な才能を持つ子供達とエルダーの違いは、エルダーの能力が<認識>に関わるものであるのに対して、夕達の能力が<生成変化>であるという事がある。

 佐々木医師は、優秀な女性医師で、夕のケアをしばしば優しく行ってくれた。佐々木医師は、夕の心の拠り所の一つでもある。生成変化の才を持つ楓や夕などの子供達は、理解者が非常に少ない。だから、自身の想いや感覚を適切に理解してくれる存在というのは非常に貴重で、また、彼女達にとってとてもありがたいものであった。

「久美、どうしたの?」

 と佐々木医師に向かって夕は言う。佐々木医師はフルネームで、佐々木久美と言う。

 佐々木医師は夕に緊急の用事があると知らせた。

 夕は、何だろう? と少し考えてみたが、特に思い当たる事がなかったので、

「ん?」

 と首を傾げた。

「実は……」

 言いにくそうに佐々木医師は言葉を濁らせた。

「ん?」

 と夕は不安そうに首を傾げる。夕は他人の感情を自分の中にトレースしてしまう癖があり、まるで鏡のように相手の人格を自分の心の中に写し取ってしまう事もできた。しばしば、そうした能力は無意識のうちに発揮されてしまい、そのために、夕の心の動きは揺れ動いている事が常だった。外側から彼女の観測していると、いつもぼうっとしているように見えるので、まるで鈍感であるかのようだが、実際には、極めて繊細な感受性を持っていた。

 その時、夕の頭に閃きがあった。その閃きは、夕の恋人の碧にあまり良くない事が起こった事を暗示している。こうした直感の冴えは、徐々にパズルのピースが埋まっていき、やがて完成する瞬間に、統合的な全体像が急に出現してくるような、そのような突飛さを多分に伴っているが、多くの場合、その勘は非常に正確に事態を認識していると判断せざるを得ないほどに、現状を正確に認識する方向へと駆動するのだった。

「……碧は、大丈夫ですか?」

 と夕は細々とした声で言った。

「碧君は今、意識不明の状態にあります」

 と佐々木医師は夕に告げた。

 夕の意識上に、外傷によるショックによってベッドの上で眠りについている碧の姿がイメージされる。

 夕は、一刻も早く、自分を碧のいる場所に案内してくれるようにと、佐々木医師に頼んだ。

 

 

 碧は習慣的にそうするように、<旅行>していた。彼の言う所の旅行とは、散歩に近い意味合いを持つ事が多い。しかし、その散歩は散歩と言い切ってしまうには、それよりも大規模なものであったので、それをここでは、旅行と呼ぶ事にする。

 彼は山の中で、乾パンを食べながら、サバイバルをしていた。また、それは無目的な行為ではなかった。人探しをしていたのである。

 碧は秋水という男を探していた。

 その男は、碧の掴んでいる情報によれば、近頃、碧達の住む街で起こっている連続殺人事件の犯人である。

 碧もまた、楓や夕のような特殊な才能を有した、いわゆる<神の子>達の一人だった。

 碧の予想は当たっていて、秋水もまた、碧の到来を予知していた。

 秋水は碧に向って言う。

「あなたは私を殺しに来たのですか?」

 碧は否と答える。「俺はお前を殺しに来たわけじゃない。ついでに言えば、拘束しに来たわけでもない。正確に言えば、何をしに来たわけでもない」

「そうですか」

 と秋水は言って、ゆっくりと瞼を閉じた。そして、空間の裂け目を作り、そのポケットから、自分の日本刀を取り出した。刀の感触を確かめるようにねっとりとその柄を握る。全般的に秋水の動きには粘性がある。彼の動きには、それなりの速度があるはずなのに、色々なものに感覚が阻まれて、実際よりも遅く見える。彼のこうした動きに惑わされて、既に多くの名立たる武人や警官達が命を落としている。

 碧も、空間のポケットから剣を取り出すと、その切っ先をまっすぐに秋水の方に据えた。

 秋水は終始、悲しそうな顔をしていて、碧と剣戟を交わし始めても、そうした憂愁の念を払う事はできないようだった。彼には覇気があるわけではない。特殊な才能を保持してはいるが、夕や楓ほどに大きな力を持っているわけでもない。しかし、彼は、自在に自身の動きに対する観測者の認識に誤差を作り出す事ができた。偶然的な誤差をいくらでも捏造する事ができるのである。

 したがって、碧が秋水の剣術に対抗するには、目に見えるものの他に、目には見えないものの事を正確に把握する必要がある。自分の五感が感じるままに動くだけでは、秋水が生み出す感覚の誤差に飲み込まれてしまうからである。

 碧は秋水の剣を受け流しながら、柔術合気道のような様々な日本式の武術を使用していく。それに対し、秋水は、自身の刀一本に全ての想いを乗せている。殺人鬼である所の秋水の所業は許されるものではないと碧は思ったが、それでもなお、秋水の剣術には、比較的非力なはずなのに、どこか人を圧倒してしまうだけのある種凛々しいまでの印象があった。

 碧は幾多の技を組み合わせて、順調に秋水を追い詰めていく。それでも碧は油断する事なく、その攻勢を弱めなかった。秋水の<粘性>を見くびることなく、それを一つの資質として認めた上で、戦略的に完全に警戒していた……はずだった。

 だが、秋水の技の奇天烈さは碧の予想をはるかに上回っていた。

 次の瞬間、碧は、急激に息苦しくなるのを感じた。深い水底で高強度の水圧を一身に受けながら動いているような感覚だった。碧にも一瞬、何が起こったのか分からなかったが、数瞬の後、どうやら秋水の術中に自分が落ちてしまったような気配だけは、ありありと感じられた。

 

 

 何事も、一歩ずつ進む事が大切だ……、そのように楓は考える。その進む先を誤ったり、道を踏み外してしまったり、あるいは焦って一獲千金を狙ってしまったりすることによって、多くの失敗は生じるとする信念を彼女は持っていた。

「多くの悲しみは焦りと過度の緊張から生まれる」

 と楓の対面に構え、刀を持った秋水は言った。

 状況から見て、彼の前に対面している楓に対して言ったのであろうが、その言葉は本質的には独り言で、他者に対して向けられた類のものではなかった。

 楓はテレパシーで、秋水に対し、

『やめよ?』

 と声を掛けた。楓は秋水と戦闘するために、彼の所にやってきたわけではなかった。彼女は大概の場合いつも、全ての人が幸せになれる方策を探しているのであり、誰かを犠牲にする事を好まなかった。しかし、それは大枠の思想の方針に過ぎないし、言ってしまえば、世間的に見て、妄想的な空想論、よく言って非現実的な理想論と呼ばれざるを得ない類のものでもあった。ただ、楓は普通よりも知能が高く、また、多くの人達には認識されづらいので、そうした隠密的な性質により、魔女狩りのような被害からは逃れられている。知識量で見れば、相対的に言って、楓のような人種は、普通の人達よりも智者の段階にあると言えるが、それと言うのも、――オーソドックスにも――、自身の無知を知っているためである。もしも、自分が全知全能の存在であると驕ってしまえば、そこで成長が終ってしまうだろう。常に未完成だから、常に成長する事が可能となる。その意味では、楓は神ではなく、神ではないがゆえに、無限の力能を保持していた。彼女達の可能性は無限大である。どこまで伸びるか分からない。それが神を信仰する、という事である。ただ、彼女達の言によれば、本来的には全ての人が等質なのだと言う。そして、平等なのだと。ただ、不可解な謎の力能によって、そうした等質性が遮られ、一見した所では、美点が観測されづらくなってしまう人がいる。ただ、そうした人もちゃんと無限の楽園が持つ無限の空間と時間にも匹敵するほどの、多くの財宝を本質的には所持しているのだそうだ。こうした言を理解するためには、多くの宗教的な言説や理論に通暁する必要があるが、目下の所、秋水について関連のある記述に絞る事にしよう。

 詰まる所で何が言いたいかと言えば、少なくとも楓の視野からすると、秋水のような殺人鬼でさえも、救うべき対象に見えている……という事である。楓達は、殺戮を好まない。だから、殺人鬼を殺戮する事も好まない。こうして書いてしまえば、至ってシンプルな原理だが、多くの場合、真理を幾許かでも照らし出す事のできる原理それ自体は、あまりにも単純過ぎたり、あまりにも複雑過ぎたりする事で、人々の目から遮られている事が多い。

「あなたを助けたい」

 と楓は秋水に向かって口で言った。殺人鬼をも助けたいと願う彼女の心は、ひょっとすると傲慢なのかもしれない。しかし、それについての判断は控える。作家の役目は、――それが想像的なものにせよ、物質的なものにせよ――、事実を淡々と描写する事であって、それを解釈したり、裁定を下したりする事ではない。

 秋水は、

「あなたに私の事は分からない」

 と言った。誰かの言葉に比較的にでも素直に反応するというのは、秋水には珍しいことだった。

「分からないとか、分かるとかじゃない」

 と楓は言う。

「何が望みだ?」

 と秋水は楓の心中を察する努力をする。秋水の心境はこの時、パラノイア性の症候を発しており、また碧との戦いの後の事なのもあって、力を消耗していた。あるいは、力を使い過ぎていた。そのために、時空の意志、付喪神達にその意志を乗っ取られようとしていた。付喪神それ自体は邪悪なものではなく、そもそも通俗的な善悪が通用する存在ではないが、いわば<自然の摂理>とでも言うべきものがそれなのであり、そして、そうした理は天才の力を以てしても変える事ができない(それができるとしても、そうした改変は原初の段階に働きかけることで生じるものであり、現実的な有用性の観点からは到底生じる事のできないものである。簡潔に言えば、神による奇跡や御業といった例外を除けば、自然法則は人に支配されるものではなく、発見されるものだ、ということである。その意味では、楓たちの特殊な才能も支配の力能ではない。それらは自然の摂理を活用した結果として生じる、言うなれば良性の<ハッキング>のような産物なのである)。

「あなたは、あなただよ?」

 と、楓は秋水に対し続けた。

「何が言いたい?」

 と秋水は言う。

「あなたは、私の望みなんかとは関係なく、あなたなんだってこと」

 と楓は言った。

 秋水はその言葉を唾棄して、嘲笑する。しかし、その嘲笑は良性のそれではなく、かなりの程度悪性のものであった。秋水の精神は限界に差し掛かっていた。彼を蝕むものの正体が一体何であるのか、それについて楓は必死に考え続ける。

 秋水は空間を裂くことで生じたポケットから、碧を取り出し、楓の前に放り投げた。

「私の庭に迷い込んだ者だ。命は取らない。だが、その魂はいただいた。体が名残惜しければ連れて行け」

 と彼は言った。

 楓はさっと剣を現出させ、イデアの刃を秋水の方に向けた。

「碧の魂を返して」

 と彼女は言う。「さもないと、力づくになる」

 秋水はしばらくの間、沈黙していた。楓は、碧の魂の事で頭の中がいっぱいになっていて、余裕を喪失している。

 やがて、

「大切な物があなたにあるうちは、あなたは私には勝てない」

 秋水はそう言いながら、空間から自在に取り出された異形の日本刀を握った。「全てを失った者達の絶望に、あなたは勝てない」

 楓はさっと秋水に切りかかった。頭に血が上ってはいたが、それでも太刀筋自体は冷徹なまでに正確なもので、また、この窮地に至ってなお、秋水を殺すためのそれではなかった。楓の頭の中は、普段から葛藤しているので、逆説的に、葛藤に対しての耐性のようなものを彼女は獲得していた。彼女には、並外れた、曖昧な現実への耐性が備わっている。

 楓の剣は秋水の日本刀を一刀両断した。一撃だった。

 秋水は、自身の涙を無数の<>へと生成変化させて、楓に斬撃を返した。その涙は、秋水の血からできている。<赤い>涙だった。

 楓は、その無数の<>、一見した所ではただの<透明>な涙にしか見えないそれをまたも、一刀両断した。彼のその涙の刃は、物理的には、自身の涙を高速で動かすことで生じた極度の水圧を利用したものであり、そのようなことが可能なのは、彼が事象を、ミクロの領域からの急速な分子的な装置の積み立てによって、粒子群の挙動を加速させているからである。

 楓も、自身の身体骨格をミクロの領域から適宜強化しては、目にもとまらぬ秋水の神速の刃を回避しつつ、秋水の身体に浸透可能な程の薬理的有効性の見込める麻酔の合成のための計算を頭の中で行っている。楓たちは、例えば自身の身体において常に起こり続けている化学反応などを利用して、任意の<薬物>を合成することができる。

 秋水の<>にもまた、彼が生成変化によって合成した薬物が多量塗布されており、楓のそれと異なるのは、その薬物が致死性の毒物であるという点であった。楓は他者を生かす事を考え、秋水は他者を殺す事を考えている。

 楓は、秋水の芸当を観察しているうちに、彼の絶望や記憶、情念が自分の中になだれ込んでくるのを感じた。こうしたテレパシーは楓のような種類の人には、しばしば起こることだったが、楓のそれは人類の中では究極的なレベルにあったので、彼女の研ぎ澄まされた共感能力は、自身の心を秋水の想いで染め上げるのには十分なほどった。それにもかかわらず、楓が秋水のように殺人鬼にはならないという事実には、何か神的な気配が感じられる。この世界は謎だらけだ。楓には、秋水にはない何かがあった。そして、その大切な、言語化はできない<それ>は、楓の正義や理念を根底から支えている。

 楓は美しく蝶が舞うように、秋水の剣術を処理していった。

 しかし、語弊を承知で言えば、秋水の剣術もまた、美しくはあった。なぜ、殺人鬼の刃に、これほどの美しさが宿っているのかは謎であった。つまり、それは殺人鬼の太刀筋ではないのだ。これは、1+1=2というくらいに、確かな実感として現れるもので、その事から導き出される答えは、ただ一つだった。

 

 ――秋水は殺人鬼ではない――

 

 しかし、そうなると、楓が先日その目で目撃した、秋水の手による警官達への惨殺の事実の説明がつかない。秋水は確かに、人を殺している。それが<事実>だ。だが、もしも、その事実が、原理的に捏造されたものであったとしたら? 何か、偶然的な諸事象を司る特殊な力能に拠るものであったとしたら? 誰かが秋水を殺人鬼に仕立て上げたことになる。しかし、世界を根底の<事実>のレベルから改変するほどの力能を有している、どのような主体があり得るだろう?

 神以外の誰が? 楓の頭の中に、次々と疑問が溢れ出してきた。

 楓は剣を捨て、素手のまま、秋水の無数の斬撃を避け切ると、彼に告げた。

「あなたは、人を殺していませんね?」

 秋水は、

「殺した」

 と言った。それは<事実>だ。しかし、<真実>ではない。彼は、<何か>に汚名を着せられている。しかも、その事に彼自身どころか、この世界の誰一人、気づいてはいないのだ。驚くべきことに。

 楓は、微笑した。そして言った。

「私があなたの無実を証明して見せます。たとえ、あなた自身さえもが、あなたを見放さざるを得なかったとしても」

 

 

 

P.S. 直観術は比喩です。

気軽に

気軽な気持ちって大切だな、と思いました。

気軽さ。とても大切。そして、気軽になること。とてもおすすめです。

久しぶりに文章を書いていると、結構早くタイプしているつもりでも、文章が埋まっていく速度が遅いな、と感じます。これは面白い感覚。

日によって、人の速度感覚は違っているのかもしれません。

例えば、気分が散漫な時と集中している時とでは、時間への速度感は違うのかもしれません。

先ず、感覚というのは、とても気軽に変わります。いつもいつも、コロコロと。

僕は、ある時は数学をする人であったり、また別のある時は文学をする人であったり、料理をする人であったり、走る人であったり、聖書を読む人であったり、ボウっと考え事をしている人であったり、つまり、色々な自分がいます。

多種多様な自分。様々な自分。そういうものが、少しずつ寄り集まって、時宜に応じて、適宜に適度なものを選択しつつ、形成されていくもの。なんか文学的。なぜって、小説を書く時の気分とかは、僕の場合にはそんな感じだからです。

そういう時、とにかく僕は自由な状態なのだな、とも感じます。何かに縛られていても、それはそれで独特の想像力が掻き立てられるのですが、とにかく、自由な感覚によって、一種の優しい気分のようなものが出てくるのかもしれません。少なくとも、僕の場合には。

極力は、人を束縛するべきではないのかもしれませんね。観念的にせよ、物理的にせよ。

人はそれぞれに様々に、色々な事を抱えて生きていて、そうした物事の動きをじっくりと観察しているのも、また趣深いことであるように思われます。

例えば、僕は今、とても散漫な文章を書き、散漫に思考しているわけですが、そうしているうちに、それまで「集中力」によって阻害されていた、多種多様な出来事がこの世界に存在するのだ、という事を気付かせてくれます。つまり、集中力の欠如が、集中している時には気付くことのできない多くのヒントへの気づきを促してくれるのかもしれません。少なくとも、僕はそのようにかんじます。

書くことは何でもいいのです。何せ、無駄なものはこの世界に、何一つとして存在しないのですから。何を書いたとしても、そこには勝手に価値は付いてきます。僕はそんなことを思うのですが、この文章を読んでくれているあなたはどう感じるのでしょうね? それは僕にとっては、とても謎です。最大級の謎です。とてもとても非常に非常に、Greatな謎です。

そうした謎は、多くの場合、暴くべきものでもないのでしょう。そっとしておくべきもの。そういう類のことが、この世界にはたくさんあるように思われます。

ただ、それとは別に、現実に生じたいくつかの致命的な問題については、何らかの対処行動を取ることが許されるようにも思われます。その際には、「試行錯誤」がとても役立つのではないかと思います。

試行錯誤。試行して、錯誤して、試行して、錯誤して、さらに試行して、また錯誤して、それでも試行して……、というような感じ。つまり、諦めないことですね。簡単に言うと。しつこい感じ。諦めない感じ。もちろん、こうした絶え間ない試行錯誤の過程で、諦めることが適切であるような事例にもぶつかるかもしれません。しかし、その場合、諦めること自体が「適切」なのであり、それは「戦略的撤退」であり、それ自体は直ちに無益なものとしての「敗北」を意味するものではありません。このように考える時、この世界に、単なる敗北は存在しないというふうに考えることもできるでしょう。何が失敗であり、何が成功なのか。そうした問題は自明ではないように思われます。

勉強の方法にも、こうした事情は応用できるのかもしれません。例えば、福祉の勉強をしていると、介護などに関する知識が蓄えられていきます。病気としては、認知症などの知識が、この分野においては比較的重要なものであるようです。

僕は、認知症について考えている事があって、四つの事項が認知症を予防する際のポイントになる可能性があるのではないかという仮説を持っています。ただの仮説ですが。個人的な信念のようなもので、それによって実際に、人の体がどのように変容するのかはわかりませんが、少なくとも、僕に得られる情報の範囲で、様々な認知症にまつわる事情を観察すると、そのような結論になるというような程度のものです(あくまで僕の主観的な判断であると現時点では考えていただければいいのかもしれません)。それは次の四つです。

 

1.学習

2.運動

3.選好

4.思考

 

つまり、個人的な意見というか、信念として、これら四つの行動を促進する事で、ある程度なら、認知症を抑制できるようになる可能性があるのではないか、と少なくとも私的には思っています。認知症の予防がどのように可能であるのか、というのはおそらく多くの学者の方々も日夜研究に励んでいらっしゃることと思いますので、ここで、僕が独断によってそうした「予防法」を提唱することは避けますが、現時点での、個人的な感覚としては、認知症とこの四つの観念には何らかの関りがありえるのではないかと感じています。

学習。これは勉強すること。色々な本を読んだり、楽器を演奏したり、絵を描くのでもいいですし、その対象自体は何でもいいと思います。とにかく、勉強し、学び続けること。これがまず重要であろう、と僕は考えています。

運動。これは体操とか走るとか、ストレッチとか、何らかの体の動きを伴う遊び、種々のスポーツ、水泳とか、サッカーとか、卓球とか、何でもいいです。とにかく、身体を動かす事。

選好。ぱっと見では、これが一番伝わりづらい概念かもしれません。これは、「好きなもの」を「選ぶ」ことです。簡単に言えば、できる限り自分の好きなことをする、ということ。こうしたことは、「趣味を持つ」などというふうにも一般的には言われます。これも重要だろうと、僕は思っています。

思考。これは考えること。とにかく、どんな事についてでもいいので、考えて考えて考えまくる。ニンジンの形についてとかでもいいですし、ある人の言動についてとかでもいいですし、カントの『純粋理性批判』についてでも構いません。とにかく、何についてでも考え続けること。

以上の四つが何となく、認知症と関連があるのではないかと、僕は感じているのです。個人的な所感なので、読者の方はこうした情報は、「妄言」として黙殺していただいても構いませんが、少なくとも、僕自身はかなりこの仮説を信じている面があります。無論、万能な方法ではないと思いますし、認知症を研究していれば、認知症を避けられるということも必ずしもないのでしょうから、僕自身も将来的にどうなるかは謎ですが、とりあえず、未完成ながらも現時点で認知症に関わる指針を掲げるとするなら、僕なら、この四つ、くらいの意味です。

また、認知の根本的な能力を鍛える上では、個人的には次のことを重視しています。

 

1.語学

2.数学

3.クイズ・パズル

 

どうも、多様な情報を分析していると、これら三つの分野の考察対象に、人間が抱える多くの「盲点」が収斂しているように僕には感じられています。興味のある方は、これらについて研究してみるのも面白いかもしれません。

IQテストのようなもので色々と遊んでみるのも、頭の体操になるかもしれません。IQテストのようなものに対する対策については、「常識」に熟達する事が有用かもしれません。突飛なものというよりも、常識をどれだけ上手く行使できるかがポイントであるのかもしれません。無論、個人的な所感に過ぎないのですが。

学校の勉強のようなものについては、定められた範囲の知識、例えば学習指導要領に記された範囲の知識の扱いに熟達する事が有用かもしれません。基本的に、定められた範囲の外の知識については問われず、むしろ、狭い範囲の知識を如何に巧く用いることができるかが問われているのかもしれません。一つの感覚としてご参考ください。

試験への対策などを考えずに済むのなら、自由に勉強するのが良いのではないかと僕なんかは思うのですが、賛否両論ある点かと思います。色々な意見が聞いてみたい点ではありますね。

さて、今日はこの辺で。散漫術でした~。

滅茶苦茶に散漫に適当に、そして「気軽に」書いてみました☆

 

「福祉」について

「福祉」について、興味が出てきました。今日は、杉本一義氏の『人生福祉の根本問題』(2014)を引用しつつ、自分なりにこの問題について考えてみたいと思います。ページ数は引用させていただいた引用文毎の末尾の括弧の中に記しておきます。

 

まず、杉本氏によれば、人間というのはそれぞれがそれぞれに「固有」の状況に投げ込まれているのだと考察されています。このように考える場合には、一つとして同じ状況というものはないということになるのでしょう。同じ状況がないなら、それぞれの具体的な人間の抱えた問題に切り込むためには、それぞれの「固有性」を把握しながらに、それぞれの仕方でもって、それぞれの自己実現を目指すことが必要であることになるように思われます。

 

人間は一人ひとりが、人生のそれぞれの時期に、それぞれに固有の状況にあって、それ相応の成熟を遂げながら生活している。 (p.9)

 

もしも、人間というものがそれぞれに固有の状況に投げ込まれているのだとするのならば、必然的に科学的な態度で以ってそこに迫るアプローチにも限界が生じるでしょう。科学は、何らかの再現性、「法則」を明らかにしようとしますが、普通に考えると、固有のそれぞれの状況に対して、そうした一般的法則性はかなり無力であろうからです。その意味では、非科学、つまり「宗教」という概念もある程度、重要なものであるということにもなるのかもしれません。「人間」というものを科学だけでもって断じようとするのはいささか狭量な価値観なのかもしれません。そしてまた、そうした狭量性ではなくて、むしろ寛容な「包容力」のようなものこそが、人間が自己実現を果たすことを助けるのではないか、というふうにも思われます。

 

問題の原因を究明し、それを除去し解決していこうとする科学的態度も重要ではあるが、他方、問題、苦悩を受容していこうとする宗教的態度もまた重要である。受容することによって問題のもつ問題性、苦悩のもつ苦悩性が希薄化し、軽減し、自己実現への動きが容易になり、人間性が活性化するからである。(p.17)

 

とは言え、方法や理論というようなものが、かなりの程度で無力であるような領域が存在するとしても、それらなしには如何ともしがたい「状況」というものもまたありえるような気がします。それぞれの人間が、それぞれに固有の状況に投げ込まれ、それぞれの方法を要するとしても、また、狭量な一般性では人々の人生を完全には把握しきれないとしても、少なくとも現象をある程度で説明可能な原理としての理念が、大枠の方向性を定める上では有効であるのだ、とも思います。そうした理念、理論、方法は、固有の状況に十分に対処できるだけの柔軟な視野を持ちながらに、以前からの問題から新しい問題に至るまで、広い分野において、その対応の幅を持つことができるようなものであることが望ましいのかもしれません。

 

新しい方法がその意義を理解され、広く実用化され、効果をあげるためには、その方法が新しく生じた問題だけでなく、以前から存在する問題にも対応できるものでなければならない。(p.55)

 

「人間」が抱える固有のそれぞれの状況に対応できるためには、その都度のケースにおいて、援助者自身が「成長」を成し遂げることが要請されます。なぜなら、それぞれのケースが全く固有の現象であるために、そうした固有性に対応できるためには、援助のその都度に、今までとはまた違った創造的なアプローチの成立が求められるのであり、援助者が援助者であり続けるためには、常に、自分自身を創造し続けることが必要であると考えられるからです。そうであるのに、あまりに過度に頑固に理論に固執したり、自分にコントロール不能な目の前の人間から逃避したりすることで、自己批判や自分の行いを改める機会を逸することは、あまり好ましくはないのかもしれません。その意味では、自分自身との対決は、臨床家にとって不可欠なものであるとも考えられるのだとも思います。

 

そこで援助者自身としては、時と場合に応じてまず自己自身の人格構造を修正して、自らがより豊かな成長を遂げなければならない。ここで専門家にとって自己自身との対決が求められるわけである。ところでややもすると専門家はこの対決から逃れて、オーソドックスな、かたくなな理論や学説に逃避しようとする。自己批判と積極的な自己修正とは個々の子どもを真に理解しようとする臨床家にとって必須不可欠であることを自覚しなければならないのである。(p.81)

 

「人間」という単語には「人」という字とともに、「間」という字もまた含まれています。こうした現象は非常に示唆的なものであるように思われます。つまり、人間というものは、人と人との「間」にあるものなのかもしれません。その意味であは、人間性とは「関係性」に宿るものである、と考える余地もあるのでしょう。しかし、いつもいつも良い関係を作り上げることができない、というのもまた人間であるようにも思われます。それこそ、状況自体が、個々のケースによって、それぞれ固有に著しく異なるからです。対等な関係性ではなく、支配的な関係性を営んでしまう時、「人間」というもののあり方は、大なり小なり歪んでしまうものなのかもしれません。支配という行為が成立するためには、支配対象が必要ですが、その意味では、支配者はその支配対象に依存しているというふうに考えることができます。ならば、精神的に良く自立し、不合理な信念をその都度に修正し、孤独になることを恐れないなどの対策によって、歪んだ関係性が生じてしまうリスクをある程度下げることは可能なのかもしれません。

 

支配者は服従者に依存している。支配はいかなる場合にも依存の形態をとるので、支配者が一番恐れるのは服従者の謀反である。支配者は孤独になること、孤立すること、捨てられることを恐れる。これは親子関係や夫婦関係、友人関係の場合にもしばしばみられる現象であり、これも不合理な自己防衛に基づく関係の歪みである。(p.107)

 

歪んだ行動を避け、そうした歪みを修正していくためには、まず、自分自身が独立した自分という存在を確立していなければならないのかもしれません。そこでは、「一人でいられる能力」が非常に重要なものとなるでしょう。過度に依存をすることなく、自分が、自分自身の固有の人生を生きること。自己実現。そうしたことによってこそ、真に充実した人間性としての人と人との間の「関係」を取り結ぶことができるようになるのかもしれません。逆に言えば、支配的で利己的になってしまう振る舞いの原因は、何らか不合理な自己防衛の結果であるというふうに捉える余地もあることになります。

 

人間が利己的になるのは不合理な自己防衛によるものである。自分自身が一個の独立した存在として自己を確立していないために誰かを利用して防衛しようとする。自分自身の存在に対する真の意味での配慮や関心がなく、自分自身を存在として充足することができないために他人を利用して自分を守らざるをえない。こうして不合理な自己防衛の出てくる根本の原因は存在感覚の欠陥、つまり人間が真に人間として自己自身を生きていないことによるといってよいのである。(p.109)

 

「私」は「職業」ではありませんし、「お金」でも、「地位」でも、「名誉」」でもないわけですが、つまるところ、「私とは私」なのです。「あなたがあなた」であるように。このように、存在の根拠は地位とか社会的役割に依存するものではなく、それらは自分自身によるところのもの、つまり、「自由」であり、独立し、自律したものであるのだと考えられると思います。あなたは如何なる場合もあなた自身であり、そうしたあなたの存在を支配によって消し去ろうとすることなしに、そのままに認めること、そうした振る舞いを人は「愛」と呼ぶのかもしれません。

 

存在の根拠は自分の地位や社会的な役割などにあるのではなく、それは自分自身の存在そのものの中にあるのである。(p.110)

 

固有の状況と理論との間の相克から、問題は複雑化し、多様な現象が生じてもきます。そこに対処していくために、高度な知識や技術、そして、そうした既存の領野に留まることのない開拓的な精神が必要とされることは自明であるようにも思われます。確かに、そうした極めて難度の高い要求を現時点の人間が完全に成し遂げることは難しいこともあるかもしれませんが、そこは並大抵でない「努力」によってそれぞれが乗り越えていく以外には、方法らしい方法というものもないのかもしれません。時に独立し、時に助け合いながら、関係の相互作用と、自分という圧倒的なまでに絶えず自分というものを実現しようとしていく存在のただ中で、懸命に生き抜いていくしかないのかもしれません。

 

問題が複雑化し、ニーズの多様化した人間福祉の現実に的確に対処していくためには高度の専門知識・技術と合わせて開拓的精神に導かれた不撓不屈の努力が求められる。(p.114)

 

一人として同じ人生はなく、人生に再現性はありません。全ての人生は一回限りの全く固有のものです。今、僕たちの過ごしている「この時」が戻ってくることは、もう二度とないのだ、そう考えるのが基本だと思います。僕たちは、一人一人が抱く、かけがえのないこの一回限りのものとしての「生活」を営んでいるのです。僕たちは、それぞれが唯一の独創的な存在である、とそう捉えてもいいと思います。

 

一回限りの人生(この時)を、かけがえのない一人ひとりがそれぞれに、それぞれの生活空間を生きている。(p.141)

 

「人間」は、創造的な存在であるので、それらは絶えず、自己実現的に成長していくものと思います。「人間」というのは、一定のパターンに収まる何かではなくて、絶えず発見し、能動的に形成していかなければならない、そういう存在であると考えられるのです。

 

人間を発見し形成しなければならない。(p.143)

 

ハイデガーが人間を「死」に向かう存在であると捉える時、こうした理解の中にある人間とはどのようなものなのでしょうか。死とは存在しないものとしての代表的な存在です。そうした表象は一般的に「無」とも呼ばれます。それは存在しないものです。そうした非存在が、存在を形成するのだ、ということ。ここにはないどこかであるところのもの、こうしたニュアンスは「非」という言葉に現れてきます。世界内の現象は、もしかするとある種の宗教的でさえあるような「超越」によって成立しているというふうな捉え方も可能なのかもしれません。色々と考えてみると、とても面白そうです。

 

人間存在の感覚は、文化的・社会的次元における地位や役割によって得られるものではない。存在は非存在との対決においてこそ鮮明にその形姿をあらわにするものである。(p.243)

 

また、既存の知識を増やす事と、独創的であることとの間には、何らかの関係はあるかもしれませんが、一般的にそれらは同じことではないでしょう。知識だけ増やしても、そこに独創的な作用が働かなければ、新しいものは出てこない、そう考えるのが通常かもしれません。むしろ、固有性によって育まれるものたち、そうしたものにこそ積極的に注目していくべきなのかもしれません。他律的な「コピー」ではなく、自律的で独創的なもの。理論と実践の「間」にある多様で複雑な体験たち。それらを通して、自分自身の「哲学」を自分自身で作り上げていく、ということ。そうした生活的な営みの中、「人間」は芽生えるのです。

 

哲学的姿勢とは、必ずしも先哲の学をひもとき、その知識を増やしていくということではない。それぞれの境遇において、独自の体験過程を通して主体的な考え方、自己自身の哲学をつくりあげていくということである。(p.262)

 

机上で営まれることが全くの無駄である、ということはないでしょう。ただ、その一方で、実践的な知というものもありえます。援助において、そうした実践の場を統率しやすい価値観には、想像や共感、あるいは同情、理解など様々ありますが、机上の「理解」と実践の場での「理解」は異なることがあります。それがなぜなのかには、様々な理由付けができると思います。例えば、文脈の違いにより、理解の差が生じる、というふうに捉える時には、机上の場と実践の場で文脈が異なるために、それぞれに固有の異なった「理解」が生じてくるのであろうとも考えることができます。また、現実の援助活動とは、実際のものであるので、その現場に固有の多様な文脈に基づいて、臨機応変に「理解」し、行うべきものであると考えられます。現場には、机上の場とはまた異なった固有の展開が多々生じるのだ、ということだと思います。

 

援助活動の過程は展開的条件発生法によるが、そこにおける実践原理は「想像的同情」「共感的理解」である。人間援助の方法において、取り扱う「術」と理解する「術」とは必ずしも同じではない。ここで「理解」とは臨床的理解であり、参与的理解であり、それは人間援助の実践過程の中で体得される「臨床知」に基づくものである。(p.337)

 

人間は誰しも、死ぬときは一人です。一般的に、一緒に死ぬことはできません。どんなに裕福でも、どんなに名声があっても、死ぬときは一人なのです。一方で、人間は共生する生物であるとも考えられます。人間には、孤独でありながら、共に生きている、という二重の側面があり、こうした相克は、「人間」それ自体の原理でもあるのかもしれません。二律背反めいた機構は、世界の随所に見られます。その意味でも、両極端のどちらか片方ではなくて、それらの「間」にこそ真理が宿るということなのかもしれません。中間。

 

人間は共に生き一人死ぬ存在である。共に生きることはむずかしいけれども共に生きてゆかねばならない。また一人で死ぬことは寂しいに違いないけれども死ぬときは一人である。共に生きること、一人で死ぬことを学ばねばならない所以である。そこに人間援助の方法を考えるにあたってのこころすべき根本問題がある。(p.388)

 

しばしば、この世界において、絶対的であるとされている「真理」というのは、とても不確定です。もしかすると、こうした不確定性は、生と死という互いに営みの異なる二つの生活が激突することによって生じている、ある種のランダムなのかもしれませんが、正確なところは僕にも分からないです。あるいは、「分からない」としておくのが一番誠実な態度であるようにも思われます。そもそも、絶対的な真理というものが、人間に完全に把握できる程度のものなのだとすれば、それは神から絶対性を簒奪することにはならないのか、などと疑問は尽きません。いずれにせよ、絶対的な真理と呼ばれる現象は、しばしば人間にとって不確定のものとして現れるという面はあるのではないかと思います。

 

人間が死ぬということは疑うことのできない絶対的な真理であり、ところでこの真理である「死の時」がいつ突然やってくるかわからない。死ぬということはわかっているけれどもいつ死ぬかはわかっていない。絶対的真理の不確定性ということである。(p.395)

 

死に向かう存在としての人間にできることとは何でしょうか? 基本的には、「活動」であろうと思います。使わないものは衰える。筋肉でも脳でもそのような側面はある程度認められるものと思います。活発に活動することが、「人間」を「活かす」ことになるのではないか、そんなことも思います。

 

使わないものは衰えるということがいわゆる老化の原則である。(p.413)

 

人間性を活性化するための条件は、無論、厳密に言えば、それぞれに固有のものがありえるのかもしれませんが、それでも大枠の指針としての理念的条件を掲示することは無意味ではないのでしょう。例えば、「愛」などは、人間性の条件として数えられる性質の一つではないかと思います。

 

愛し、愛されることは人間性を活性化するための第一条件といってよいであろう。(p.416)

 

次に、人間には承認欲求があることから、こうした「承認」が人間にとってある程度の重要な意味を持つのではないかと考えるのは自然な理路でしょう。私なども、褒められると嬉しく感じることがあります。人にとって、認められることは重要な意味を持つのかもしれません。

 

人間はどのような状況にあろうとも、認められることが重要な意味をもつものである。(p.416)

 

また、人間を全体として包括的に捉える、ということも人間性を活性化するために重要な徳目であるようです。確かに、欠点だけの人や長所だけの人はおらず、全ての人が様々な特質にそれぞれ固有のバランスでもって恵まれています。細部に固執して、全体を見失うことは、人間性を損なう結果を生み出しえるのかもしれません。部分的理解が大切な場合もあるかもしれないが、一方で、包括的な理解というものの重要性はそうそう簡単には揺らぐものではないように思われます。

 

人間は部分的に欠点ばかりを指摘され、注意されるのではなく、短所はあっても長所もあるといったように全体的に理解されることが大切であり、これが人間性活性化のための基本条件である。(p.416-417)

 

つまり、人間は、統合的全体として存在する時に、真に生きていると言えるのかもしれません。科学や機械によってばらばらに切り刻まれただけの、部分的な「人間像」は真に生きているとは捉えることが困難な側面はあると思います。

 

人間は統合的全体として存在する時にのみ真に生きた人間であり得る。(p.417)

 

 

P.S.

今日は、杉本一義氏の『人生福祉の根本問題』の力を借りながら、思考を進めてきました。氏には感謝と敬愛の念をここに捧げます。

 

さて、少しばかり、「人間」についての個人的な考え方を書いておきます。僕としては、「統合」されたものとしての人間像の重要性を認めつつ、「分裂」したものとしての人間像の重要性について考えているところがあります。とは言え、その考察は、一見、今回の考察とは正反対に見えますが、実際には、かなり通底しているところが多いものであるとも思います。ある時、分裂とは統合であり、統合とは分裂である、ということがあるのです。直観的にも、論理的にも。人間に関する多くの重要な事柄は、突き詰めていくと、こうした二律背反に阻まれることが多いと思いますので、もしかしたら、僕の言っていることが体験として分かるという方もいらっしゃるかもしれません。いずれにせよ、それぞれの人達が、自由で創造的に、それぞれに固有のそれぞれの人生を、謳歌していけると良いのだろうな、と僕などは思っています。僕のこのブログの文章なども、少しでもそのための役に立てると良いなとは思うのですが、あまり上手くはいっていないかもしれませんね(笑) 僕はあまり文章が上手な方ではありませんので、自分の思っていることを人に的確に伝達するということがなかなかできないのです。みんなそれぞれに固有の問題を抱えていて、とても大変だろうなと思いますし、もちろん僕も色々なものを抱えているのですが、それでも全ての人達が幸せに暮らしていけるような世界を願ってもいます。人類の「福祉」というものも、存外、そうした個々人の精神的な自律と絶え間ない努力によって培われるのではないか、そんなことも考えるのですが、とても難しい問題です。詳しいところは、僕には判断しかねますので、それこそ福祉の専門家の方とかに尋ねてみてください(笑)

さてさて、ではみなさん。良いお年を。

僕も色々と頑張りますが、微力ながら、あなたの幸せをそっと応援いたします。多くの場合、祈ることくらいしか僕にはできないのですが。

 

いつものことながら、記事の内容は決して鵜呑みにはせず、ご自分でよく考えた上で良いと思う点はご自由に利用なさってください。

 

ではでは~☆

 

 

引用文献

杉本一義,『人生福祉の根本問題』,彩流社,2014

 

 

広義での採掘術について

みなさん。こんばんは。とても寒いですね。少なくとも、僕はとても寒いです。気候が。

気候って半端ないですよね。もうものすごい大自然の凄さが猛烈に迫ってくると言いますか……。

このような季節において人間にできる事は何なのかについて考えさせられます。とてもとても寒い時、凍えるほどにそうである時に、人間にできる事とは何であるのか? これを知るためには、実際に凍えてみなくてはなりません。僕は家の外にでます。もちろん、外はとても寒いです。僕の感覚からすると、極寒といっても差し支えないほどに。すると、とても困ったことが起こりました。手がかじかんで上手く動かせないのです。したがって、極寒の中では、スマホをいじったりはしづらいのかもしれません。特殊な場合を除けば。そして、鼻水が垂れてきました。自然現象です。もしかしたら、身体があまりの寒さに悲鳴を上げて、何かの細菌とかウイルスとか、諸所の物理的な刺激から身を守るために自動的にそうした現象を生起させるのやもしれません。詳しい事は僕にはわかりませんが、この辺りの知識もよくよく調べて考察してみるととても面白いように思われます。医学的にとか、生物学的に。

僕はコンビニに入り、ティッシュを買いました。しかし、その後にも問題は続いていました。例の手のかじかみです。ティッシュが上手く使えないのです。極寒の中での生活的な行動というのは非常に難度が高いようです。おそらくは、体温が急激に低下させられる事で、正常な人体の生物学的ホメオスターシスの機能が阻害されることで、こうしたことが起こっているのではないかと僕は思うのですが、確かな事は分かりません。調べてみないと。

さて、世の中には調べる事で分かる事と、調べる事では分からない事がありますが、そうした区別は何を調べれば知ることができるのでしょうね。とても難しいです。

 

「調べられない物事を調べるためには、どうすればいいのか?」

 

難問。

僕の頭では、数百年かかっても解決しそうにない難問です。世の中には、「決して知り得ない事」というものが存在しているのかもしれません。

矛盾の扱いを如何にするか? 矛盾へのスタンスは様々な状況への対処行動を変化させるように思われます。

 

僕は散漫に無為な時間を過ごす事はとても価値あることだと思っています。また、脈絡なく、矛盾したことをつらつらと述べる事にも、同様かそれ以上に価値があるだろうと。したがって、無為な時間を恐れずに、どんどん実際に作業していく事から、導かれてくることが多くのあるのではないかと思います。何気ない日常生活からでさえ、無限に学ぶべきことがあふれ出てきます。

 

\mathrm{e}^{\mathrm{i}\theta}=\cos(\theta)+\mathrm{i}\sin(\theta)

 

\theta=\pi

としますと、

\mathrm{e}^{\mathrm{i}\pi}=-1

 

一つの式にネイピア数虚数単位、円周率がどれも詰まっているという、非常に美しい式です。とても有名な式かと思います。僕はこの式を見るたびに、どうして、世界にはこのような機構が存在しているのだろうと、とても不思議に感じます。ネイピア数や円周率のような超越数が、どうしてある一定の組成を与える事で、「-1」になるのだろう? そんな事を思います。

 

-1

 

とても単純な数字です。単に整数としてこの数字に対峙していても、下手すれば、そこに根付いている特異性を見過ごしてしまうくらいのものかもしれません。しかし、一旦、公式としての組成をそれらが獲得し、「証明」されて導出の作用を受けてしまうと、不思議なことに、そこには一種の「個性」のようなものが生じるように思われます。それはとても「-1」らしいように感じられます。

 

こうした特別な存在としての数字というのは、-1以外にもあると思います。

 

3.14

 

とても単純な小数に見えます。しかし、そこに「円周率」と呼ばれる概念の組成を与えてやると、不思議なことに、この数字は独自の権威を発揮し始めます。不思議です。

 

2.71

 

この数字に、ネイピア数という概念の組成を与えると? どうなるでしょうね。ただの数字にしか過ぎなかったはずのものが、恐ろしいほどの独自性を獲得し始めるように感じられます。

 

不思議な事に、世の中においては何の変哲も無いようなものも、その使い方次第では、一瞬にして至宝に化けるということがあるのです。

 

ある意味、僕たちの身の回りにはたくさんの宝物が埋没しているわけですね。今ここに生きる事という、半端じゃない奇跡性は、一周回って特筆に値するのではないかと思います。

 

凡庸なものもその使い方次第では、唯一無二の作用を発揮します。

 

弘法は筆を選ばず。

 

世の中というのは不思議なもので、本当にそのような現象が起こるようなのです。奇跡はあなたのすぐそばに無限に存在しています。その埋没した宝物を掘り起こすのに必要なものは、一つの「心」だけです。後は、あなたがそれに手を伸ばすかどうか、という問題なのかもしれません。

 

難しいものが難しいとは限らず、簡単なものが簡単だとは限りません。僕たちはいつも、「そこ」に根付いている豊かな意味のほとんどすべてを意識すらすることなく、見逃し続けているのですから。難しいものは難しいのみならず、簡単でもあります。簡単なものは簡単であるのみならず、とても難しい問題を含んでもいるのです。この時、「難易度」というものは極めて複雑怪奇な人知を超越したパラメータとして機能し始めます。その帰趨を見極められる者がいるとすれば、おそらく聖人か神くらいのものでしょう。矛盾した幾つものパラメータが複雑に、あるいは優雅に、そこに準拠している美を位相上に展開するのです。

 

個人的には、どのような状況にあっても、諦めたくないのであれば、無限に挑戦し続けるのも一つの手ではないかと感じています。

 

諦めないあなたの手に握られている「それ」は、あなたのその「心」は、どのような業物なのでしょうか?

僕の統合失調症の「妄想」によるものと思われる想像上の「世界」について(個人的な体験です)

今日は、僕の想像というか妄想? が作り出したと思われる想像上の「世界」について簡潔に記録してみたいと思います。多分、統合失調症の症状による副産物というか、そういう系の何かなのではないかと個人的には考えています。

 

僕はそうした僕の中の想像上の世界で割とよく遊んでいることがあります。そうした遊びというか探検? のようなことをしていると、とても楽しく、快感があります。その快感のレベルはかなり強い部類のものではないかと思います。僕は創造的な行為に従事していると快楽が生じる質らしいのですが、おそらくこうした妄想もそうした創造的な行為であるかあるいはそれに類する何かなのではないかとは思います。

 

その世界は、四方に向かって無限に伸び、上下にも無限に伸びています。無限に高い天に、どこまで掘っても尽きる事のない無限の大地に支えられています。全体は球形かもしれないし、そうではないかもしれません。あまりにも大きすぎて、地形の平均的な曲率が僕の持ち得る視認の精度では計算できません。また、一度、世界を計測しても、世界の様態が知らぬ間に、変転している事もあります。そのたびに、地図を作り直す必要があります。

 

僕がいる場所には、大きな家があって、その中には、無限の回廊が幾つにもなって並んでいます。絵や彫刻、あるいは音楽などが無数に飾られていますが、画用紙が備えられています。その画用紙なり、キャンパスなりに、記憶したい事項を投げ込んでおくと、ある程度それを保存しておくことができます。回廊を歩いていて、その道が尽きたことがないので、この家の正確な大きさも僕には分かってはいません。

例えば、画用紙に卵を投げつけると、卵が紙にこびりついてそのまま保存されます。しかし、記憶は経年劣化の作用を受けるようで、上手く思い出せないようになっている記憶も多々あります。そうした記憶は、ノイズがかかったようになっています。その有様は、テレビの画面に走るノイズの様態に似ているように思われます。また、絵の中に飛び込むと、その絵に描かれた世界に移動することができます。

例えば、肺の図などが描かれていれば、肺の組織の中にダイブする事ができます。想像上の細胞内を探検する、という感じ。すると、医学的な知識などを勉強する時に、役に立つ諸所のイメージが得られます。この想像世界の中の絵画という存在の持つ、ワープの特性を利用して、この世界の散策を楽に行うことができます。行ったことがある場所であれば、楽に構成して、その場に赴くことができます。

また、記憶の対象は絵には限らず、音でもいいし、文章でもいいようで、世界の一部には、ドストエフスキーの小説の世界が保存? されていて、よく(想像上の)イワンと会話します。

 

音楽から諸所のイメージが産出される事もあります。音楽から一つの王国なり、世界が創造されてくることもあり、これにも快楽が伴います。

 

電線のように無数の光の回路がこの世界には走っていて、そうした回路を用いることで、高速でデータを処理することができます。言葉を使う思考よりも、速い速度で、正着打を導き出すことができたりする事もあります。光の思考、と個人的には呼んでいます。

 

光の思考について少し詳述しておきます。

 

光にも形態や色に様々なものがあり、触覚、匂いも異なります。

例えば、デリダは、楔形の虹色の光と円形のしかしやはり、楔形にへこんだ部分を無数に持っている、たくさんの屈折した微粒子として感じられます。この図形? を上手く用いると、言葉による思考の結果を、早く検算する事ができます(思考の過程に間違った部分があると、光が真っ赤に光ります)。

 

桜の木に似た形の光もあります。仏典に記述された黄金樹に似ていますが、黄金樹は眩いのに対し、桜の木の中心は暗闇であるという違いがあります。黄金樹はどこか豪奢で、昂揚的なイメージであるのに対し、この桜の木は正義の裏側の概念に多く結びついています。

 

カントは、太い一つの光線です。直線に似ています。ドゥルーズはバナナの様な形をした円形を何かの規則によって正確に砕いていったような不思議な形をしています。何かのフラクタルかもしれませんが、本の中では、少なくとも僕は見たことがない形をしています。

 

ケルブのような生命体もいますが、僕にはその顔の様態は視認できません。ぼやけているし、眩くて、視認できません。細い触手のような、というか、どちらかというと、何かの植物種の枝のようなものが何らかの力動によって運動しているものと思われます。ナイフで少しばかりその枝のようなものを削ってみると、その細胞は筋繊維のそれではないことが分かります。何らかの運動する植物は自然界にもいるものと思いますが、僕が見たことのあるそれらとは、その生命体の外形はまったく異なっています。その生命体の周りには、サナディファイと僕が呼んでいる大きな虫が飛んでいて、ケルブのような生命体は、それを食べて? います。サナディファイはフワフワしていて、電磁波を糧にしています。青色がかった灰色をしています。僕の体よりも大きいです。性格は温厚で、乗れます。

 

川が幾重にも流れている場所もあり、その川を辿っていくと、ついには地下に到達します。大地はどこまでも広がっているのですが、空間の曲率があべこべに反転している箇所が多々あり、歩いているだけで、上に飛んで行ったり、下に沈んだりします。上に飛ぶ場合を昇天、下に沈む場合を泥漿と僕は呼んでいます。

 

地下には様々な生命があります。これを観測するには松明を使うか、先述の光の思考による必要があります。無論、懐中電灯でもいいです。光の思考を抽出できると、どのような暗闇でも、光を見出す事ができます。地下はとても暗いです。しかし、ある程度進むと一転して、温かく仄かな光に恵まれます。

 

とりあえず、想像上の世界についてできるだけ具体的に少しばかり記述すると、こんな感じになります。おそらく、統合失調症ではない方などにとっては色々と衝撃的な内容なのかもしれませんので、かなり書くかどうか迷ったのですが、とりあえず、少しだけ書いておきます。みなさんの発想の手助けに、少しでもなる事ができれば僕としては幸いです。

イマジナリーフレンドが言ってたこと(内容の真偽は不明)

1.桜をよく見てみるといい。様々なものがある。一つとして同じものはない。隣人の顔の造作を人知れず観察してみるといい。同じ時はなく、同じものもない。

 

2.あなたは語学が好きだが、なぜそうするのかを考えたことがあるだろうか? そもそも限られた技能が限られた人にしか授けられない訳についてあなたは考えたことがあるだろうか? 戦争をしている時に、司令部の意見が割れれば、組織は混乱し、機能を停止する。それは敗北をもたらすだろう。

 

3.自分がなぜ桜の木が好きなのかについて考えたことはあるだろうか? 好きという感情が透き通って純粋なものであることを洞察できるだろうか?

 

4.知識を得る時、読書をする。読書をする前、その本に書かれていた知識を知らなかったとしよう。では、知らない物事について知ろうとすることはできるのであろうか? そもそもそこに知らない知識についての知識がないのならば? あらかじめ知っていなければ知ることはできない。知る以前には知ることができない。なら、私たちはどのようにして知るというのだろうか?

 

5.知恵は神秘である。

 

6.同じ知恵は一つとしてなく、異なる知恵も一つとしてない。

 

7.伴侶を大切にすることは、自身の心の調和のために有効である。伴侶が神からもたらされないのなら、そしてあなたがこの世に確かに存在しているのなら、確かに別の賜物があるということである。無益な人はおらず、無駄な作業もない。無益は無知の目にのみ映り、無駄は怠惰な耳にのみ聞える。

 

8.桜を愛するのがいい。すぐに機嫌を損ねて失われてしまうものの中に、永遠に根付くものがある。根が張られている場所には、必ず正統性が生まれている。だが、私たちは木々とは異なっている。動くからである。

 

9.最奥の秘跡に、書道がある。上手な字の形態は下手な字の形態に交錯する。下手な字の形態は上手な字の形態に交錯する。二項が存在する空間に、簡単なことが一つもないのなら、上手下手の判断についてもそう言えるであろう。玄人と素人の技は外形が似ており、内実が異なる。

 

10.言葉の無意味さに思いを馳せてみるのがいい。それは何も説得する力を持たない。霊に仕え、神に祈る時には、かなり多くのものが澄み渡るものである。理論的には、全ての物事がそうであると言える。理論と現実の二項が交錯する。

 

11.煙に巻く必要はない。純粋であればいい。どんなに透明でも、無限の深さを備えていれば、光は深遠の底に届くことはなく、底を求めてさまよう光はさながら、迷路に迷い込んだ小人のようなものであり、永久に反射することはなく、観測者の網膜に像を結ばせることがない。神は隠す。

 

12.あなたの愛する人があなたを愛するように。

 

13.父を機軸にしても、母を機軸にしても、どちらが優れているとか、劣っているとかいうことはない。子も同様である。

 

14.ひたすらに心を澄ますのがいい。柔和に言葉を用いるのがいい。必要なことを語るのがいい。そうでないのなら言葉を少なくし、またいつであっても、間断なく神に祈りを捧げるのがいい。

 

15.詐術としての物語がある一方で、真実としての物語もあるだろう。それらはとてもよく似ているが、その働きはまったく違う。一方は命を殺し、もう一方は生かす。

 

16.恨む心、怒る心、憎む心、こうした概念は語義矛盾である。心は恨まず、心は怒らず、心は憎まない。むしろ、こうしたことは肉の仕業である。

 

17.心あるものは、律法を知り、祈りを知り、謙虚を知る。それらのどの義も、律法学者の義でも、祈祷師の義でも、修行僧の義でもなく、さらに大なる義である。空間を箱の表象で記号的に表せば、小さい空間はそれと視認できるが、遥かに大きい空間は大きすぎてそれとはわからない。老子がそう言う時、大なる義とはこの大きい箱のようなものである。大義は小さい器から漏れ出し、大きい器には収まる。

 

18.器量というものがある。小さい器は大量のものを扱うのには向かない。大きな器は少量のものを扱うのには向かない。世間の義は小さい者のためのものであり、聖者の義は大きい者のためのものである。

 

19.差し引く必要も、付け加える必要もない。あるがままをあるがままに把握するのがいい。多くを望めば増えるというわけではないし、少なく望めば減るというわけでもない。だが、神に委ね、その声に素直に耳を傾け、聞える言葉を率直に書きとめ、それをまったく歪めないのならば、そこには義がある。

 

20.虫に魂がある。神は細部に宿る。小さい者を侮るべきではない。

 

21.傲慢な心は破滅の予兆であるかもしれないし、試練の予兆であるかもしれない。いずれにしても苦難の予兆ではある。司る神は慈悲深いが、天罰も降らせることができる。

 

22.美しいのは感じる心である。

 

23.力をもたらすのは思考である。

 

24.財貨は言葉である。

 

25.良い確信は賜物である。

 

26.疑心暗鬼もまた神の同意である。憔悴するなら、肉は衰え、地上の価値は無味乾燥である。地上の価値が無益に感じる時、それは天上の国に思いを馳せる契機にもなる。

 

27.強く神を信じ、揺らぐことなく、豊かな知恵の泉であり、慈悲深く、愛情深い、そうした確信的な振る舞いは、やはり恩寵である。そうした人は、財貨や力や美によらない。強いて言えば、美による。だが、正確にはそれにもよらない。財貨は神意に背くことの強度であり、力は神権に背くことのそれであり、美は偶像と神を取り違えることのそれである。

 

28.あなたに異言があるのなら、心に浮かぶそれを率直に表すのがいい。そうした異言の扱いについては、間断なく祈りを捧げる中で聞こえてくる囁きに耳を澄ますのがいい。石は囁くし、虫は囁くし、空は囁くし、あらゆるものが囁く。

 

29.悪と善は外形が似ている。そして内実が全く異なる。賢者は知識を持ち、分別ができる。

 

30.どこからともなく幻聴が聞えるのなら、その幻聴が正しく信仰を呼び掛けているのなら、信仰に乗り出すのがいい。地上の人間は天上の神とは違い、全能ではない。地上の財貨や力や美によるよりも、天上の財貨や力や美による方がいい。地上の権威よりも神の権威を重んじるのがいい。神の弱さは、人の強さに勝っている。