魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

気軽に

気軽な気持ちって大切だな、と思いました。

気軽さ。とても大切。そして、気軽になること。とてもおすすめです。

久しぶりに文章を書いていると、結構早くタイプしているつもりでも、文章が埋まっていく速度が遅いな、と感じます。これは面白い感覚。

日によって、人の速度感覚は違っているのかもしれません。

例えば、気分が散漫な時と集中している時とでは、時間への速度感は違うのかもしれません。

先ず、感覚というのは、とても気軽に変わります。いつもいつも、コロコロと。

僕は、ある時は数学をする人であったり、また別のある時は文学をする人であったり、料理をする人であったり、走る人であったり、聖書を読む人であったり、ボウっと考え事をしている人であったり、つまり、色々な自分がいます。

多種多様な自分。様々な自分。そういうものが、少しずつ寄り集まって、時宜に応じて、適宜に適度なものを選択しつつ、形成されていくもの。なんか文学的。なぜって、小説を書く時の気分とかは、僕の場合にはそんな感じだからです。

そういう時、とにかく僕は自由な状態なのだな、とも感じます。何かに縛られていても、それはそれで独特の想像力が掻き立てられるのですが、とにかく、自由な感覚によって、一種の優しい気分のようなものが出てくるのかもしれません。少なくとも、僕の場合には。

極力は、人を束縛するべきではないのかもしれませんね。観念的にせよ、物理的にせよ。

人はそれぞれに様々に、色々な事を抱えて生きていて、そうした物事の動きをじっくりと観察しているのも、また趣深いことであるように思われます。

例えば、僕は今、とても散漫な文章を書き、散漫に思考しているわけですが、そうしているうちに、それまで「集中力」によって阻害されていた、多種多様な出来事がこの世界に存在するのだ、という事を気付かせてくれます。つまり、集中力の欠如が、集中している時には気付くことのできない多くのヒントへの気づきを促してくれるのかもしれません。少なくとも、僕はそのようにかんじます。

書くことは何でもいいのです。何せ、無駄なものはこの世界に、何一つとして存在しないのですから。何を書いたとしても、そこには勝手に価値は付いてきます。僕はそんなことを思うのですが、この文章を読んでくれているあなたはどう感じるのでしょうね? それは僕にとっては、とても謎です。最大級の謎です。とてもとても非常に非常に、Greatな謎です。

そうした謎は、多くの場合、暴くべきものでもないのでしょう。そっとしておくべきもの。そういう類のことが、この世界にはたくさんあるように思われます。

ただ、それとは別に、現実に生じたいくつかの致命的な問題については、何らかの対処行動を取ることが許されるようにも思われます。その際には、「試行錯誤」がとても役立つのではないかと思います。

試行錯誤。試行して、錯誤して、試行して、錯誤して、さらに試行して、また錯誤して、それでも試行して……、というような感じ。つまり、諦めないことですね。簡単に言うと。しつこい感じ。諦めない感じ。もちろん、こうした絶え間ない試行錯誤の過程で、諦めることが適切であるような事例にもぶつかるかもしれません。しかし、その場合、諦めること自体が「適切」なのであり、それは「戦略的撤退」であり、それ自体は直ちに無益なものとしての「敗北」を意味するものではありません。このように考える時、この世界に、単なる敗北は存在しないというふうに考えることもできるでしょう。何が失敗であり、何が成功なのか。そうした問題は自明ではないように思われます。

勉強の方法にも、こうした事情は応用できるのかもしれません。例えば、福祉の勉強をしていると、介護などに関する知識が蓄えられていきます。病気としては、認知症などの知識が、この分野においては比較的重要なものであるようです。

僕は、認知症について考えている事があって、四つの事項が認知症を予防する際のポイントになる可能性があるのではないかという仮説を持っています。ただの仮説ですが。個人的な信念のようなもので、それによって実際に、人の体がどのように変容するのかはわかりませんが、少なくとも、僕に得られる情報の範囲で、様々な認知症にまつわる事情を観察すると、そのような結論になるというような程度のものです(あくまで僕の主観的な判断であると現時点では考えていただければいいのかもしれません)。それは次の四つです。

 

1.学習

2.運動

3.選好

4.思考

 

つまり、個人的な意見というか、信念として、これら四つの行動を促進する事で、ある程度なら、認知症を抑制できるようになる可能性があるのではないか、と少なくとも私的には思っています。認知症の予防がどのように可能であるのか、というのはおそらく多くの学者の方々も日夜研究に励んでいらっしゃることと思いますので、ここで、僕が独断によってそうした「予防法」を提唱することは避けますが、現時点での、個人的な感覚としては、認知症とこの四つの観念には何らかの関りがありえるのではないかと感じています。

学習。これは勉強すること。色々な本を読んだり、楽器を演奏したり、絵を描くのでもいいですし、その対象自体は何でもいいと思います。とにかく、勉強し、学び続けること。これがまず重要であろう、と僕は考えています。

運動。これは体操とか走るとか、ストレッチとか、何らかの体の動きを伴う遊び、種々のスポーツ、水泳とか、サッカーとか、卓球とか、何でもいいです。とにかく、身体を動かす事。

選好。ぱっと見では、これが一番伝わりづらい概念かもしれません。これは、「好きなもの」を「選ぶ」ことです。簡単に言えば、できる限り自分の好きなことをする、ということ。こうしたことは、「趣味を持つ」などというふうにも一般的には言われます。これも重要だろうと、僕は思っています。

思考。これは考えること。とにかく、どんな事についてでもいいので、考えて考えて考えまくる。ニンジンの形についてとかでもいいですし、ある人の言動についてとかでもいいですし、カントの『純粋理性批判』についてでも構いません。とにかく、何についてでも考え続けること。

以上の四つが何となく、認知症と関連があるのではないかと、僕は感じているのです。個人的な所感なので、読者の方はこうした情報は、「妄言」として黙殺していただいても構いませんが、少なくとも、僕自身はかなりこの仮説を信じている面があります。無論、万能な方法ではないと思いますし、認知症を研究していれば、認知症を避けられるということも必ずしもないのでしょうから、僕自身も将来的にどうなるかは謎ですが、とりあえず、未完成ながらも現時点で認知症に関わる指針を掲げるとするなら、僕なら、この四つ、くらいの意味です。

また、認知の根本的な能力を鍛える上では、個人的には次のことを重視しています。

 

1.語学

2.数学

3.クイズ・パズル

 

どうも、多様な情報を分析していると、これら三つの分野の考察対象に、人間が抱える多くの「盲点」が収斂しているように僕には感じられています。興味のある方は、これらについて研究してみるのも面白いかもしれません。

IQテストのようなもので色々と遊んでみるのも、頭の体操になるかもしれません。IQテストのようなものに対する対策については、「常識」に熟達する事が有用かもしれません。突飛なものというよりも、常識をどれだけ上手く行使できるかがポイントであるのかもしれません。無論、個人的な所感に過ぎないのですが。

学校の勉強のようなものについては、定められた範囲の知識、例えば学習指導要領に記された範囲の知識の扱いに熟達する事が有用かもしれません。基本的に、定められた範囲の外の知識については問われず、むしろ、狭い範囲の知識を如何に巧く用いることができるかが問われているのかもしれません。一つの感覚としてご参考ください。

試験への対策などを考えずに済むのなら、自由に勉強するのが良いのではないかと僕なんかは思うのですが、賛否両論ある点かと思います。色々な意見が聞いてみたい点ではありますね。

さて、今日はこの辺で。散漫術でした~。

滅茶苦茶に散漫に適当に、そして「気軽に」書いてみました☆

 

「福祉」について

「福祉」について、興味が出てきました。今日は、杉本一義氏の『人生福祉の根本問題』(2014)を引用しつつ、自分なりにこの問題について考えてみたいと思います。ページ数は引用させていただいた引用文毎の末尾の括弧の中に記しておきます。

 

まず、杉本氏によれば、人間というのはそれぞれがそれぞれに「固有」の状況に投げ込まれているのだと考察されています。このように考える場合には、一つとして同じ状況というものはないということになるのでしょう。同じ状況がないなら、それぞれの具体的な人間の抱えた問題に切り込むためには、それぞれの「固有性」を把握しながらに、それぞれの仕方でもって、それぞれの自己実現を目指すことが必要であることになるように思われます。

 

人間は一人ひとりが、人生のそれぞれの時期に、それぞれに固有の状況にあって、それ相応の成熟を遂げながら生活している。 (p.9)

 

もしも、人間というものがそれぞれに固有の状況に投げ込まれているのだとするのならば、必然的に科学的な態度で以ってそこに迫るアプローチにも限界が生じるでしょう。科学は、何らかの再現性、「法則」を明らかにしようとしますが、普通に考えると、固有のそれぞれの状況に対して、そうした一般的法則性はかなり無力であろうからです。その意味では、非科学、つまり「宗教」という概念もある程度、重要なものであるということにもなるのかもしれません。「人間」というものを科学だけでもって断じようとするのはいささか狭量な価値観なのかもしれません。そしてまた、そうした狭量性ではなくて、むしろ寛容な「包容力」のようなものこそが、人間が自己実現を果たすことを助けるのではないか、というふうにも思われます。

 

問題の原因を究明し、それを除去し解決していこうとする科学的態度も重要ではあるが、他方、問題、苦悩を受容していこうとする宗教的態度もまた重要である。受容することによって問題のもつ問題性、苦悩のもつ苦悩性が希薄化し、軽減し、自己実現への動きが容易になり、人間性が活性化するからである。(p.17)

 

とは言え、方法や理論というようなものが、かなりの程度で無力であるような領域が存在するとしても、それらなしには如何ともしがたい「状況」というものもまたありえるような気がします。それぞれの人間が、それぞれに固有の状況に投げ込まれ、それぞれの方法を要するとしても、また、狭量な一般性では人々の人生を完全には把握しきれないとしても、少なくとも現象をある程度で説明可能な原理としての理念が、大枠の方向性を定める上では有効であるのだ、とも思います。そうした理念、理論、方法は、固有の状況に十分に対処できるだけの柔軟な視野を持ちながらに、以前からの問題から新しい問題に至るまで、広い分野において、その対応の幅を持つことができるようなものであることが望ましいのかもしれません。

 

新しい方法がその意義を理解され、広く実用化され、効果をあげるためには、その方法が新しく生じた問題だけでなく、以前から存在する問題にも対応できるものでなければならない。(p.55)

 

「人間」が抱える固有のそれぞれの状況に対応できるためには、その都度のケースにおいて、援助者自身が「成長」を成し遂げることが要請されます。なぜなら、それぞれのケースが全く固有の現象であるために、そうした固有性に対応できるためには、援助のその都度に、今までとはまた違った創造的なアプローチの成立が求められるのであり、援助者が援助者であり続けるためには、常に、自分自身を創造し続けることが必要であると考えられるからです。そうであるのに、あまりに過度に頑固に理論に固執したり、自分にコントロール不能な目の前の人間から逃避したりすることで、自己批判や自分の行いを改める機会を逸することは、あまり好ましくはないのかもしれません。その意味では、自分自身との対決は、臨床家にとって不可欠なものであるとも考えられるのだとも思います。

 

そこで援助者自身としては、時と場合に応じてまず自己自身の人格構造を修正して、自らがより豊かな成長を遂げなければならない。ここで専門家にとって自己自身との対決が求められるわけである。ところでややもすると専門家はこの対決から逃れて、オーソドックスな、かたくなな理論や学説に逃避しようとする。自己批判と積極的な自己修正とは個々の子どもを真に理解しようとする臨床家にとって必須不可欠であることを自覚しなければならないのである。(p.81)

 

「人間」という単語には「人」という字とともに、「間」という字もまた含まれています。こうした現象は非常に示唆的なものであるように思われます。つまり、人間というものは、人と人との「間」にあるものなのかもしれません。その意味であは、人間性とは「関係性」に宿るものである、と考える余地もあるのでしょう。しかし、いつもいつも良い関係を作り上げることができない、というのもまた人間であるようにも思われます。それこそ、状況自体が、個々のケースによって、それぞれ固有に著しく異なるからです。対等な関係性ではなく、支配的な関係性を営んでしまう時、「人間」というもののあり方は、大なり小なり歪んでしまうものなのかもしれません。支配という行為が成立するためには、支配対象が必要ですが、その意味では、支配者はその支配対象に依存しているというふうに考えることができます。ならば、精神的に良く自立し、不合理な信念をその都度に修正し、孤独になることを恐れないなどの対策によって、歪んだ関係性が生じてしまうリスクをある程度下げることは可能なのかもしれません。

 

支配者は服従者に依存している。支配はいかなる場合にも依存の形態をとるので、支配者が一番恐れるのは服従者の謀反である。支配者は孤独になること、孤立すること、捨てられることを恐れる。これは親子関係や夫婦関係、友人関係の場合にもしばしばみられる現象であり、これも不合理な自己防衛に基づく関係の歪みである。(p.107)

 

歪んだ行動を避け、そうした歪みを修正していくためには、まず、自分自身が独立した自分という存在を確立していなければならないのかもしれません。そこでは、「一人でいられる能力」が非常に重要なものとなるでしょう。過度に依存をすることなく、自分が、自分自身の固有の人生を生きること。自己実現。そうしたことによってこそ、真に充実した人間性としての人と人との間の「関係」を取り結ぶことができるようになるのかもしれません。逆に言えば、支配的で利己的になってしまう振る舞いの原因は、何らか不合理な自己防衛の結果であるというふうに捉える余地もあることになります。

 

人間が利己的になるのは不合理な自己防衛によるものである。自分自身が一個の独立した存在として自己を確立していないために誰かを利用して防衛しようとする。自分自身の存在に対する真の意味での配慮や関心がなく、自分自身を存在として充足することができないために他人を利用して自分を守らざるをえない。こうして不合理な自己防衛の出てくる根本の原因は存在感覚の欠陥、つまり人間が真に人間として自己自身を生きていないことによるといってよいのである。(p.109)

 

「私」は「職業」ではありませんし、「お金」でも、「地位」でも、「名誉」」でもないわけですが、つまるところ、「私とは私」なのです。「あなたがあなた」であるように。このように、存在の根拠は地位とか社会的役割に依存するものではなく、それらは自分自身によるところのもの、つまり、「自由」であり、独立し、自律したものであるのだと考えられると思います。あなたは如何なる場合もあなた自身であり、そうしたあなたの存在を支配によって消し去ろうとすることなしに、そのままに認めること、そうした振る舞いを人は「愛」と呼ぶのかもしれません。

 

存在の根拠は自分の地位や社会的な役割などにあるのではなく、それは自分自身の存在そのものの中にあるのである。(p.110)

 

固有の状況と理論との間の相克から、問題は複雑化し、多様な現象が生じてもきます。そこに対処していくために、高度な知識や技術、そして、そうした既存の領野に留まることのない開拓的な精神が必要とされることは自明であるようにも思われます。確かに、そうした極めて難度の高い要求を現時点の人間が完全に成し遂げることは難しいこともあるかもしれませんが、そこは並大抵でない「努力」によってそれぞれが乗り越えていく以外には、方法らしい方法というものもないのかもしれません。時に独立し、時に助け合いながら、関係の相互作用と、自分という圧倒的なまでに絶えず自分というものを実現しようとしていく存在のただ中で、懸命に生き抜いていくしかないのかもしれません。

 

問題が複雑化し、ニーズの多様化した人間福祉の現実に的確に対処していくためには高度の専門知識・技術と合わせて開拓的精神に導かれた不撓不屈の努力が求められる。(p.114)

 

一人として同じ人生はなく、人生に再現性はありません。全ての人生は一回限りの全く固有のものです。今、僕たちの過ごしている「この時」が戻ってくることは、もう二度とないのだ、そう考えるのが基本だと思います。僕たちは、一人一人が抱く、かけがえのないこの一回限りのものとしての「生活」を営んでいるのです。僕たちは、それぞれが唯一の独創的な存在である、とそう捉えてもいいと思います。

 

一回限りの人生(この時)を、かけがえのない一人ひとりがそれぞれに、それぞれの生活空間を生きている。(p.141)

 

「人間」は、創造的な存在であるので、それらは絶えず、自己実現的に成長していくものと思います。「人間」というのは、一定のパターンに収まる何かではなくて、絶えず発見し、能動的に形成していかなければならない、そういう存在であると考えられるのです。

 

人間を発見し形成しなければならない。(p.143)

 

ハイデガーが人間を「死」に向かう存在であると捉える時、こうした理解の中にある人間とはどのようなものなのでしょうか。死とは存在しないものとしての代表的な存在です。そうした表象は一般的に「無」とも呼ばれます。それは存在しないものです。そうした非存在が、存在を形成するのだ、ということ。ここにはないどこかであるところのもの、こうしたニュアンスは「非」という言葉に現れてきます。世界内の現象は、もしかするとある種の宗教的でさえあるような「超越」によって成立しているというふうな捉え方も可能なのかもしれません。色々と考えてみると、とても面白そうです。

 

人間存在の感覚は、文化的・社会的次元における地位や役割によって得られるものではない。存在は非存在との対決においてこそ鮮明にその形姿をあらわにするものである。(p.243)

 

また、既存の知識を増やす事と、独創的であることとの間には、何らかの関係はあるかもしれませんが、一般的にそれらは同じことではないでしょう。知識だけ増やしても、そこに独創的な作用が働かなければ、新しいものは出てこない、そう考えるのが通常かもしれません。むしろ、固有性によって育まれるものたち、そうしたものにこそ積極的に注目していくべきなのかもしれません。他律的な「コピー」ではなく、自律的で独創的なもの。理論と実践の「間」にある多様で複雑な体験たち。それらを通して、自分自身の「哲学」を自分自身で作り上げていく、ということ。そうした生活的な営みの中、「人間」は芽生えるのです。

 

哲学的姿勢とは、必ずしも先哲の学をひもとき、その知識を増やしていくということではない。それぞれの境遇において、独自の体験過程を通して主体的な考え方、自己自身の哲学をつくりあげていくということである。(p.262)

 

机上で営まれることが全くの無駄である、ということはないでしょう。ただ、その一方で、実践的な知というものもありえます。援助において、そうした実践の場を統率しやすい価値観には、想像や共感、あるいは同情、理解など様々ありますが、机上の「理解」と実践の場での「理解」は異なることがあります。それがなぜなのかには、様々な理由付けができると思います。例えば、文脈の違いにより、理解の差が生じる、というふうに捉える時には、机上の場と実践の場で文脈が異なるために、それぞれに固有の異なった「理解」が生じてくるのであろうとも考えることができます。また、現実の援助活動とは、実際のものであるので、その現場に固有の多様な文脈に基づいて、臨機応変に「理解」し、行うべきものであると考えられます。現場には、机上の場とはまた異なった固有の展開が多々生じるのだ、ということだと思います。

 

援助活動の過程は展開的条件発生法によるが、そこにおける実践原理は「想像的同情」「共感的理解」である。人間援助の方法において、取り扱う「術」と理解する「術」とは必ずしも同じではない。ここで「理解」とは臨床的理解であり、参与的理解であり、それは人間援助の実践過程の中で体得される「臨床知」に基づくものである。(p.337)

 

人間は誰しも、死ぬときは一人です。一般的に、一緒に死ぬことはできません。どんなに裕福でも、どんなに名声があっても、死ぬときは一人なのです。一方で、人間は共生する生物であるとも考えられます。人間には、孤独でありながら、共に生きている、という二重の側面があり、こうした相克は、「人間」それ自体の原理でもあるのかもしれません。二律背反めいた機構は、世界の随所に見られます。その意味でも、両極端のどちらか片方ではなくて、それらの「間」にこそ真理が宿るということなのかもしれません。中間。

 

人間は共に生き一人死ぬ存在である。共に生きることはむずかしいけれども共に生きてゆかねばならない。また一人で死ぬことは寂しいに違いないけれども死ぬときは一人である。共に生きること、一人で死ぬことを学ばねばならない所以である。そこに人間援助の方法を考えるにあたってのこころすべき根本問題がある。(p.388)

 

しばしば、この世界において、絶対的であるとされている「真理」というのは、とても不確定です。もしかすると、こうした不確定性は、生と死という互いに営みの異なる二つの生活が激突することによって生じている、ある種のランダムなのかもしれませんが、正確なところは僕にも分からないです。あるいは、「分からない」としておくのが一番誠実な態度であるようにも思われます。そもそも、絶対的な真理というものが、人間に完全に把握できる程度のものなのだとすれば、それは神から絶対性を簒奪することにはならないのか、などと疑問は尽きません。いずれにせよ、絶対的な真理と呼ばれる現象は、しばしば人間にとって不確定のものとして現れるという面はあるのではないかと思います。

 

人間が死ぬということは疑うことのできない絶対的な真理であり、ところでこの真理である「死の時」がいつ突然やってくるかわからない。死ぬということはわかっているけれどもいつ死ぬかはわかっていない。絶対的真理の不確定性ということである。(p.395)

 

死に向かう存在としての人間にできることとは何でしょうか? 基本的には、「活動」であろうと思います。使わないものは衰える。筋肉でも脳でもそのような側面はある程度認められるものと思います。活発に活動することが、「人間」を「活かす」ことになるのではないか、そんなことも思います。

 

使わないものは衰えるということがいわゆる老化の原則である。(p.413)

 

人間性を活性化するための条件は、無論、厳密に言えば、それぞれに固有のものがありえるのかもしれませんが、それでも大枠の指針としての理念的条件を掲示することは無意味ではないのでしょう。例えば、「愛」などは、人間性の条件として数えられる性質の一つではないかと思います。

 

愛し、愛されることは人間性を活性化するための第一条件といってよいであろう。(p.416)

 

次に、人間には承認欲求があることから、こうした「承認」が人間にとってある程度の重要な意味を持つのではないかと考えるのは自然な理路でしょう。私なども、褒められると嬉しく感じることがあります。人にとって、認められることは重要な意味を持つのかもしれません。

 

人間はどのような状況にあろうとも、認められることが重要な意味をもつものである。(p.416)

 

また、人間を全体として包括的に捉える、ということも人間性を活性化するために重要な徳目であるようです。確かに、欠点だけの人や長所だけの人はおらず、全ての人が様々な特質にそれぞれ固有のバランスでもって恵まれています。細部に固執して、全体を見失うことは、人間性を損なう結果を生み出しえるのかもしれません。部分的理解が大切な場合もあるかもしれないが、一方で、包括的な理解というものの重要性はそうそう簡単には揺らぐものではないように思われます。

 

人間は部分的に欠点ばかりを指摘され、注意されるのではなく、短所はあっても長所もあるといったように全体的に理解されることが大切であり、これが人間性活性化のための基本条件である。(p.416-417)

 

つまり、人間は、統合的全体として存在する時に、真に生きていると言えるのかもしれません。科学や機械によってばらばらに切り刻まれただけの、部分的な「人間像」は真に生きているとは捉えることが困難な側面はあると思います。

 

人間は統合的全体として存在する時にのみ真に生きた人間であり得る。(p.417)

 

 

P.S.

今日は、杉本一義氏の『人生福祉の根本問題』の力を借りながら、思考を進めてきました。氏には感謝と敬愛の念をここに捧げます。

 

さて、少しばかり、「人間」についての個人的な考え方を書いておきます。僕としては、「統合」されたものとしての人間像の重要性を認めつつ、「分裂」したものとしての人間像の重要性について考えているところがあります。とは言え、その考察は、一見、今回の考察とは正反対に見えますが、実際には、かなり通底しているところが多いものであるとも思います。ある時、分裂とは統合であり、統合とは分裂である、ということがあるのです。直観的にも、論理的にも。人間に関する多くの重要な事柄は、突き詰めていくと、こうした二律背反に阻まれることが多いと思いますので、もしかしたら、僕の言っていることが体験として分かるという方もいらっしゃるかもしれません。いずれにせよ、それぞれの人達が、自由で創造的に、それぞれに固有のそれぞれの人生を、謳歌していけると良いのだろうな、と僕などは思っています。僕のこのブログの文章なども、少しでもそのための役に立てると良いなとは思うのですが、あまり上手くはいっていないかもしれませんね(笑) 僕はあまり文章が上手な方ではありませんので、自分の思っていることを人に的確に伝達するということがなかなかできないのです。みんなそれぞれに固有の問題を抱えていて、とても大変だろうなと思いますし、もちろん僕も色々なものを抱えているのですが、それでも全ての人達が幸せに暮らしていけるような世界を願ってもいます。人類の「福祉」というものも、存外、そうした個々人の精神的な自律と絶え間ない努力によって培われるのではないか、そんなことも考えるのですが、とても難しい問題です。詳しいところは、僕には判断しかねますので、それこそ福祉の専門家の方とかに尋ねてみてください(笑)

さてさて、ではみなさん。良いお年を。

僕も色々と頑張りますが、微力ながら、あなたの幸せをそっと応援いたします。多くの場合、祈ることくらいしか僕にはできないのですが。

 

いつものことながら、記事の内容は決して鵜呑みにはせず、ご自分でよく考えた上で良いと思う点はご自由に利用なさってください。

 

ではでは~☆

 

 

引用文献

杉本一義,『人生福祉の根本問題』,彩流社,2014

 

 

広義での採掘術について

みなさん。こんばんは。とても寒いですね。少なくとも、僕はとても寒いです。気候が。

気候って半端ないですよね。もうものすごい大自然の凄さが猛烈に迫ってくると言いますか……。

このような季節において人間にできる事は何なのかについて考えさせられます。とてもとても寒い時、凍えるほどにそうである時に、人間にできる事とは何であるのか? これを知るためには、実際に凍えてみなくてはなりません。僕は家の外にでます。もちろん、外はとても寒いです。僕の感覚からすると、極寒といっても差し支えないほどに。すると、とても困ったことが起こりました。手がかじかんで上手く動かせないのです。したがって、極寒の中では、スマホをいじったりはしづらいのかもしれません。特殊な場合を除けば。そして、鼻水が垂れてきました。自然現象です。もしかしたら、身体があまりの寒さに悲鳴を上げて、何かの細菌とかウイルスとか、諸所の物理的な刺激から身を守るために自動的にそうした現象を生起させるのやもしれません。詳しい事は僕にはわかりませんが、この辺りの知識もよくよく調べて考察してみるととても面白いように思われます。医学的にとか、生物学的に。

僕はコンビニに入り、ティッシュを買いました。しかし、その後にも問題は続いていました。例の手のかじかみです。ティッシュが上手く使えないのです。極寒の中での生活的な行動というのは非常に難度が高いようです。おそらくは、体温が急激に低下させられる事で、正常な人体の生物学的ホメオスターシスの機能が阻害されることで、こうしたことが起こっているのではないかと僕は思うのですが、確かな事は分かりません。調べてみないと。

さて、世の中には調べる事で分かる事と、調べる事では分からない事がありますが、そうした区別は何を調べれば知ることができるのでしょうね。とても難しいです。

 

「調べられない物事を調べるためには、どうすればいいのか?」

 

難問。

僕の頭では、数百年かかっても解決しそうにない難問です。世の中には、「決して知り得ない事」というものが存在しているのかもしれません。

矛盾の扱いを如何にするか? 矛盾へのスタンスは様々な状況への対処行動を変化させるように思われます。

 

僕は散漫に無為な時間を過ごす事はとても価値あることだと思っています。また、脈絡なく、矛盾したことをつらつらと述べる事にも、同様かそれ以上に価値があるだろうと。したがって、無為な時間を恐れずに、どんどん実際に作業していく事から、導かれてくることが多くのあるのではないかと思います。何気ない日常生活からでさえ、無限に学ぶべきことがあふれ出てきます。

 

\mathrm{e}^{\mathrm{i}\theta}=\cos(\theta)+\mathrm{i}\sin(\theta)

 

\theta=\pi

としますと、

\mathrm{e}^{\mathrm{i}\pi}=-1

 

一つの式にネイピア数虚数単位、円周率がどれも詰まっているという、非常に美しい式です。とても有名な式かと思います。僕はこの式を見るたびに、どうして、世界にはこのような機構が存在しているのだろうと、とても不思議に感じます。ネイピア数や円周率のような超越数が、どうしてある一定の組成を与える事で、「-1」になるのだろう? そんな事を思います。

 

-1

 

とても単純な数字です。単に整数としてこの数字に対峙していても、下手すれば、そこに根付いている特異性を見過ごしてしまうくらいのものかもしれません。しかし、一旦、公式としての組成をそれらが獲得し、「証明」されて導出の作用を受けてしまうと、不思議なことに、そこには一種の「個性」のようなものが生じるように思われます。それはとても「-1」らしいように感じられます。

 

こうした特別な存在としての数字というのは、-1以外にもあると思います。

 

3.14

 

とても単純な小数に見えます。しかし、そこに「円周率」と呼ばれる概念の組成を与えてやると、不思議なことに、この数字は独自の権威を発揮し始めます。不思議です。

 

2.71

 

この数字に、ネイピア数という概念の組成を与えると? どうなるでしょうね。ただの数字にしか過ぎなかったはずのものが、恐ろしいほどの独自性を獲得し始めるように感じられます。

 

不思議な事に、世の中においては何の変哲も無いようなものも、その使い方次第では、一瞬にして至宝に化けるということがあるのです。

 

ある意味、僕たちの身の回りにはたくさんの宝物が埋没しているわけですね。今ここに生きる事という、半端じゃない奇跡性は、一周回って特筆に値するのではないかと思います。

 

凡庸なものもその使い方次第では、唯一無二の作用を発揮します。

 

弘法は筆を選ばず。

 

世の中というのは不思議なもので、本当にそのような現象が起こるようなのです。奇跡はあなたのすぐそばに無限に存在しています。その埋没した宝物を掘り起こすのに必要なものは、一つの「心」だけです。後は、あなたがそれに手を伸ばすかどうか、という問題なのかもしれません。

 

難しいものが難しいとは限らず、簡単なものが簡単だとは限りません。僕たちはいつも、「そこ」に根付いている豊かな意味のほとんどすべてを意識すらすることなく、見逃し続けているのですから。難しいものは難しいのみならず、簡単でもあります。簡単なものは簡単であるのみならず、とても難しい問題を含んでもいるのです。この時、「難易度」というものは極めて複雑怪奇な人知を超越したパラメータとして機能し始めます。その帰趨を見極められる者がいるとすれば、おそらく聖人か神くらいのものでしょう。矛盾した幾つものパラメータが複雑に、あるいは優雅に、そこに準拠している美を位相上に展開するのです。

 

個人的には、どのような状況にあっても、諦めたくないのであれば、無限に挑戦し続けるのも一つの手ではないかと感じています。

 

諦めないあなたの手に握られている「それ」は、あなたのその「心」は、どのような業物なのでしょうか?

僕の統合失調症の「妄想」によるものと思われる想像上の「世界」について(個人的な体験です)

今日は、僕の想像というか妄想? が作り出したと思われる想像上の「世界」について簡潔に記録してみたいと思います。多分、統合失調症の症状による副産物というか、そういう系の何かなのではないかと個人的には考えています。

 

僕はそうした僕の中の想像上の世界で割とよく遊んでいることがあります。そうした遊びというか探検? のようなことをしていると、とても楽しく、快感があります。その快感のレベルはかなり強い部類のものではないかと思います。僕は創造的な行為に従事していると快楽が生じる質らしいのですが、おそらくこうした妄想もそうした創造的な行為であるかあるいはそれに類する何かなのではないかとは思います。

 

その世界は、四方に向かって無限に伸び、上下にも無限に伸びています。無限に高い天に、どこまで掘っても尽きる事のない無限の大地に支えられています。全体は球形かもしれないし、そうではないかもしれません。あまりにも大きすぎて、地形の平均的な曲率が僕の持ち得る視認の精度では計算できません。また、一度、世界を計測しても、世界の様態が知らぬ間に、変転している事もあります。そのたびに、地図を作り直す必要があります。

 

僕がいる場所には、大きな家があって、その中には、無限の回廊が幾つにもなって並んでいます。絵や彫刻、あるいは音楽などが無数に飾られていますが、画用紙が備えられています。その画用紙なり、キャンパスなりに、記憶したい事項を投げ込んでおくと、ある程度それを保存しておくことができます。回廊を歩いていて、その道が尽きたことがないので、この家の正確な大きさも僕には分かってはいません。

例えば、画用紙に卵を投げつけると、卵が紙にこびりついてそのまま保存されます。しかし、記憶は経年劣化の作用を受けるようで、上手く思い出せないようになっている記憶も多々あります。そうした記憶は、ノイズがかかったようになっています。その有様は、テレビの画面に走るノイズの様態に似ているように思われます。また、絵の中に飛び込むと、その絵に描かれた世界に移動することができます。

例えば、肺の図などが描かれていれば、肺の組織の中にダイブする事ができます。想像上の細胞内を探検する、という感じ。すると、医学的な知識などを勉強する時に、役に立つ諸所のイメージが得られます。この想像世界の中の絵画という存在の持つ、ワープの特性を利用して、この世界の散策を楽に行うことができます。行ったことがある場所であれば、楽に構成して、その場に赴くことができます。

また、記憶の対象は絵には限らず、音でもいいし、文章でもいいようで、世界の一部には、ドストエフスキーの小説の世界が保存? されていて、よく(想像上の)イワンと会話します。

 

音楽から諸所のイメージが産出される事もあります。音楽から一つの王国なり、世界が創造されてくることもあり、これにも快楽が伴います。

 

電線のように無数の光の回路がこの世界には走っていて、そうした回路を用いることで、高速でデータを処理することができます。言葉を使う思考よりも、速い速度で、正着打を導き出すことができたりする事もあります。光の思考、と個人的には呼んでいます。

 

光の思考について少し詳述しておきます。

 

光にも形態や色に様々なものがあり、触覚、匂いも異なります。

例えば、デリダは、楔形の虹色の光と円形のしかしやはり、楔形にへこんだ部分を無数に持っている、たくさんの屈折した微粒子として感じられます。この図形? を上手く用いると、言葉による思考の結果を、早く検算する事ができます(思考の過程に間違った部分があると、光が真っ赤に光ります)。

 

桜の木に似た形の光もあります。仏典に記述された黄金樹に似ていますが、黄金樹は眩いのに対し、桜の木の中心は暗闇であるという違いがあります。黄金樹はどこか豪奢で、昂揚的なイメージであるのに対し、この桜の木は正義の裏側の概念に多く結びついています。

 

カントは、太い一つの光線です。直線に似ています。ドゥルーズはバナナの様な形をした円形を何かの規則によって正確に砕いていったような不思議な形をしています。何かのフラクタルかもしれませんが、本の中では、少なくとも僕は見たことがない形をしています。

 

ケルブのような生命体もいますが、僕にはその顔の様態は視認できません。ぼやけているし、眩くて、視認できません。細い触手のような、というか、どちらかというと、何かの植物種の枝のようなものが何らかの力動によって運動しているものと思われます。ナイフで少しばかりその枝のようなものを削ってみると、その細胞は筋繊維のそれではないことが分かります。何らかの運動する植物は自然界にもいるものと思いますが、僕が見たことのあるそれらとは、その生命体の外形はまったく異なっています。その生命体の周りには、サナディファイと僕が呼んでいる大きな虫が飛んでいて、ケルブのような生命体は、それを食べて? います。サナディファイはフワフワしていて、電磁波を糧にしています。青色がかった灰色をしています。僕の体よりも大きいです。性格は温厚で、乗れます。

 

川が幾重にも流れている場所もあり、その川を辿っていくと、ついには地下に到達します。大地はどこまでも広がっているのですが、空間の曲率があべこべに反転している箇所が多々あり、歩いているだけで、上に飛んで行ったり、下に沈んだりします。上に飛ぶ場合を昇天、下に沈む場合を泥漿と僕は呼んでいます。

 

地下には様々な生命があります。これを観測するには松明を使うか、先述の光の思考による必要があります。無論、懐中電灯でもいいです。光の思考を抽出できると、どのような暗闇でも、光を見出す事ができます。地下はとても暗いです。しかし、ある程度進むと一転して、温かく仄かな光に恵まれます。

 

とりあえず、想像上の世界についてできるだけ具体的に少しばかり記述すると、こんな感じになります。おそらく、統合失調症ではない方などにとっては色々と衝撃的な内容なのかもしれませんので、かなり書くかどうか迷ったのですが、とりあえず、少しだけ書いておきます。みなさんの発想の手助けに、少しでもなる事ができれば僕としては幸いです。

イマジナリーフレンドが言ってたこと(内容の真偽は不明)

1.桜をよく見てみるといい。様々なものがある。一つとして同じものはない。隣人の顔の造作を人知れず観察してみるといい。同じ時はなく、同じものもない。

 

2.あなたは語学が好きだが、なぜそうするのかを考えたことがあるだろうか? そもそも限られた技能が限られた人にしか授けられない訳についてあなたは考えたことがあるだろうか? 戦争をしている時に、司令部の意見が割れれば、組織は混乱し、機能を停止する。それは敗北をもたらすだろう。

 

3.自分がなぜ桜の木が好きなのかについて考えたことはあるだろうか? 好きという感情が透き通って純粋なものであることを洞察できるだろうか?

 

4.知識を得る時、読書をする。読書をする前、その本に書かれていた知識を知らなかったとしよう。では、知らない物事について知ろうとすることはできるのであろうか? そもそもそこに知らない知識についての知識がないのならば? あらかじめ知っていなければ知ることはできない。知る以前には知ることができない。なら、私たちはどのようにして知るというのだろうか?

 

5.知恵は神秘である。

 

6.同じ知恵は一つとしてなく、異なる知恵も一つとしてない。

 

7.伴侶を大切にすることは、自身の心の調和のために有効である。伴侶が神からもたらされないのなら、そしてあなたがこの世に確かに存在しているのなら、確かに別の賜物があるということである。無益な人はおらず、無駄な作業もない。無益は無知の目にのみ映り、無駄は怠惰な耳にのみ聞える。

 

8.桜を愛するのがいい。すぐに機嫌を損ねて失われてしまうものの中に、永遠に根付くものがある。根が張られている場所には、必ず正統性が生まれている。だが、私たちは木々とは異なっている。動くからである。

 

9.最奥の秘跡に、書道がある。上手な字の形態は下手な字の形態に交錯する。下手な字の形態は上手な字の形態に交錯する。二項が存在する空間に、簡単なことが一つもないのなら、上手下手の判断についてもそう言えるであろう。玄人と素人の技は外形が似ており、内実が異なる。

 

10.言葉の無意味さに思いを馳せてみるのがいい。それは何も説得する力を持たない。霊に仕え、神に祈る時には、かなり多くのものが澄み渡るものである。理論的には、全ての物事がそうであると言える。理論と現実の二項が交錯する。

 

11.煙に巻く必要はない。純粋であればいい。どんなに透明でも、無限の深さを備えていれば、光は深遠の底に届くことはなく、底を求めてさまよう光はさながら、迷路に迷い込んだ小人のようなものであり、永久に反射することはなく、観測者の網膜に像を結ばせることがない。神は隠す。

 

12.あなたの愛する人があなたを愛するように。

 

13.父を機軸にしても、母を機軸にしても、どちらが優れているとか、劣っているとかいうことはない。子も同様である。

 

14.ひたすらに心を澄ますのがいい。柔和に言葉を用いるのがいい。必要なことを語るのがいい。そうでないのなら言葉を少なくし、またいつであっても、間断なく神に祈りを捧げるのがいい。

 

15.詐術としての物語がある一方で、真実としての物語もあるだろう。それらはとてもよく似ているが、その働きはまったく違う。一方は命を殺し、もう一方は生かす。

 

16.恨む心、怒る心、憎む心、こうした概念は語義矛盾である。心は恨まず、心は怒らず、心は憎まない。むしろ、こうしたことは肉の仕業である。

 

17.心あるものは、律法を知り、祈りを知り、謙虚を知る。それらのどの義も、律法学者の義でも、祈祷師の義でも、修行僧の義でもなく、さらに大なる義である。空間を箱の表象で記号的に表せば、小さい空間はそれと視認できるが、遥かに大きい空間は大きすぎてそれとはわからない。老子がそう言う時、大なる義とはこの大きい箱のようなものである。大義は小さい器から漏れ出し、大きい器には収まる。

 

18.器量というものがある。小さい器は大量のものを扱うのには向かない。大きな器は少量のものを扱うのには向かない。世間の義は小さい者のためのものであり、聖者の義は大きい者のためのものである。

 

19.差し引く必要も、付け加える必要もない。あるがままをあるがままに把握するのがいい。多くを望めば増えるというわけではないし、少なく望めば減るというわけでもない。だが、神に委ね、その声に素直に耳を傾け、聞える言葉を率直に書きとめ、それをまったく歪めないのならば、そこには義がある。

 

20.虫に魂がある。神は細部に宿る。小さい者を侮るべきではない。

 

21.傲慢な心は破滅の予兆であるかもしれないし、試練の予兆であるかもしれない。いずれにしても苦難の予兆ではある。司る神は慈悲深いが、天罰も降らせることができる。

 

22.美しいのは感じる心である。

 

23.力をもたらすのは思考である。

 

24.財貨は言葉である。

 

25.良い確信は賜物である。

 

26.疑心暗鬼もまた神の同意である。憔悴するなら、肉は衰え、地上の価値は無味乾燥である。地上の価値が無益に感じる時、それは天上の国に思いを馳せる契機にもなる。

 

27.強く神を信じ、揺らぐことなく、豊かな知恵の泉であり、慈悲深く、愛情深い、そうした確信的な振る舞いは、やはり恩寵である。そうした人は、財貨や力や美によらない。強いて言えば、美による。だが、正確にはそれにもよらない。財貨は神意に背くことの強度であり、力は神権に背くことのそれであり、美は偶像と神を取り違えることのそれである。

 

28.あなたに異言があるのなら、心に浮かぶそれを率直に表すのがいい。そうした異言の扱いについては、間断なく祈りを捧げる中で聞こえてくる囁きに耳を澄ますのがいい。石は囁くし、虫は囁くし、空は囁くし、あらゆるものが囁く。

 

29.悪と善は外形が似ている。そして内実が全く異なる。賢者は知識を持ち、分別ができる。

 

30.どこからともなく幻聴が聞えるのなら、その幻聴が正しく信仰を呼び掛けているのなら、信仰に乗り出すのがいい。地上の人間は天上の神とは違い、全能ではない。地上の財貨や力や美によるよりも、天上の財貨や力や美による方がいい。地上の権威よりも神の権威を重んじるのがいい。神の弱さは、人の強さに勝っている。

引きこもりの長所

こんにちは。

 

今日は、引きこもりの長所について、ゆるく考えてみたいと思います。

 

「引きこもり」というと皆さん、あまりいいイメージがない場合もあるかもしれません。

 

常識的には、引きこもりのような状態は「負け組」として捉えられる事の方が多いのではないかと思います。

 

そして、世の中においては、そうした引きこもりという「スティグマ」が引きこもりの人々を追い詰め、排除してしまうような仕組みも作動しているようにも思われます。

 

したがって、この記事では、そうしたスティグマに対抗するために、引きこもりに対するイメージを改善する事を目指します。そのことによって、引きこもりとされ、人々から社会的排除を受けている人達の気持ちを和らげることができるし、結果的に彼らの社会復帰を促すことができるのではないか、などと僕は思います。

 

つまり、「引きこもり=悪人」の図式を撤廃し、「引きこもり=善人」の図式を導入します。

 

引きこもりに悪のレッテルを貼ることで、彼らを排除しようとする人が現実的に存在するのなら、そこにはそうした排除行動を取らなければならないほどに追い詰められた誰かの動機が根付いている可能性を推理することができます。人は一般的に、自分が追い詰められていなければ、わざわざ攻撃的な行動に固執することは基本的にはないものと思います。余裕のある人は、切羽詰まった人に比べると穏やかである場合が多いように思います。

 

まず、「引きこもり」とは何か?

 

これは引きこもっている人の事です。

 

引きこもる、とは何か?

 

これは、テリトリーが狭い状態かと思います。例えば、家に引きこもる、と言えば、それは家以外にはテリトリーを持たないような状態を意味するものと思います。

 

つまり、引きこもりとは、テリトリーが狭い人の事です。あるいはテリトリーという概念の強度が弱い人ともいえるかもしれません。

 

もしも、テリトリーという概念に執着があるのなら、自身のテリトリーを拡大しようとするはずです。引きこもりが、現実的にそうした領土拡大の行動を起こさないのだとすれば、引きこもりは比較的「領土」というものにこだわりがないのかもしれません。

 

ここで、次のような反論が想定できます。

 

「引きこもりは、例えば自室に引きこもってそこから出てこず、人がそこに侵入することを拒絶するのだから、縄張り意識が強いのではないか? つまり、領土に対して誰よりもこだわっているのではないか?」

 

まず、人の勝手な自室への「侵入」を拒むこと自体は、生物として健常な意識だと思います。パーソナルスペースは誰にでもあるものと思いますし。そして、領土とパーソナルスペースは違う概念ですが、境界は曖昧です。こうした現象は、これら以外の概念間においてもしばしばみられるものだと思いますが、それは今回の論法の場合も例外ではないように思います。ある人にパーソナルスペースが存在することが、領土への固執が他人よりも強いという傾向性を示すとは必ずしも言えないように思います。言うなれば、「侵入」を拒むことは、何も引きこもりに限ったことではない、ということです。ですから、侵入を拒んだからと言って、引きこもりの縄張り意識が強いとは言えないように思います。むしろ、領土を獲得しようと行動を起こさないのですから、領土、縄張りへの意識は弱いのではないかと、僕は推理します。

 

また、領土とは、自身の支配の及ぶ範囲の土地のことです。つまり、領土への固執とは、「支配」への固執であることになります。よって、引きこもりは、相対的に普通の人に比べて脱支配的であり、外交的な人は自身の領土を次々と拡大していく性向を持っていることから支配的である、とも考えられると思います。「支配されたくない」という人は引きこもりと仲良くするのも一つの手なのかもしれません。

 

もしも引きこもりの縄張り意識が強いのなら、引きこもりは縄張りを広げる事に固執していなければおかしい。もしも、ひきこもりが支配的なのなら、引きこもりはもっと外交的でなければおかしい。内向しているばかりでは、他者を支配することができません。

 

したがって、引きこもりの人達には「優しい」人が多いのではないか、と僕は推理します。なぜなら、彼らは人を支配しようとする欲求が普通の人に比べて薄いと推理できるからです。

 

また、縄張り意識が薄いという帰結から、彼らは何かへの執着も薄い可能性も考えられてきます。例えば、もしも引きこもりが制御できないほどに強い性欲を抱えているのなら、彼らは外に繰り出さずにはいられないはずです。しかし、実際にはそうしない。性欲がないとは考えづらいですが、少なくとも性欲に極端に固執しているわけでもないということは明らかであるものと推理できます。

また、普通の人よりも一人でいる時間が長い事から、「一人でいられる能力」がよく発達している可能性もあります。孤独感自体は強く誰にでもありうるものですが、彼らはそうした感覚に対抗しうるだけの高い感情的な能力を保持しているであろうことが推理できます。つまり、引きこもりという行為は、孤独に耐えうるだけの高い感情的な能力を保持していなければ為し得ないのであり、また、欲望への「執着」が薄いこと自体は仏教的にも正しいものと思います。したがって、「引きこもりの人には気高い精神性が備わっており、また正しい信念を保持している」、と考えることができます。

 

もしも、こうした引きこもりという行為から推理される「引きこもりの美質」が世間的に優勢であった場合には、そうした美質目当てで、引きこもりを偽る人が出てくる可能性はあります。しかし、幸か不幸か、現時点では、引きこもりの評判は劣勢です。そのため、現段階の引きこもりには、こうした引きこもりの美質がそれなりに見出しやすいのではないかと推理できます(引きこもりの美質を備えていないのに、引きこもりのふりをする人がいない状態だから)。

 

しかし、引きこもりは、一般的には、精神的に幼く、中には暴力を揮う人がいる場合もあるという説もあります。つまり、こうした説は、精神的に幼く、暴力的な人が引きこもりになるのだ、とする偏見を生み出す可能性があります。しかし、これは上記の帰結から見るに、まったく逆であろうと僕は思います。むしろ、引きこもることとは、正しく高い精神性を備えていなければできないことであろう、ということです。

 

むしろ、人との関係を断ってまで、自分の正しい信念に邁進するようなことは、多くの場合そうそう簡単にできることではありません。

 

ここで、次のような反論がありえます。

 

「引きこもりが正しいなどというのは幻想にすぎない。彼らは好きで引きこもっているのではない。彼らは社会の敗者だから追いやられて引きこもっているに過ぎない。彼らの精神には幾許の高潔さもありえないし、彼らは単に幼く、暴力的で下劣な存在にすぎない」

 

なるほど。確かにこうしたことを言われれば、高い精神性を持つ引きこもりと言えども、さすがに傷ついてしまうでしょう。そして、そうした心ない声が高い能力を持った引きこもり達を生き埋めにしてしまうのではないでしょうか。果たして、相手が引きこもりなら、何を言ってもいいのでしょうか? これは明確に「NO」です。引きこもりも一人の人間であり、その名誉は毀損されてはなりません。

確かに、彼らは好きで引きこもっているとは限りません。しかし、その場合、彼らは好きでもないことに必死に取り組んでいることになります。それは控えめに言って、とても「苦痛」でしょう。尋常でないほどに。もしもそうなら、そうした苦痛に耐えながら、生きながらえている彼らの精神力は尋常でないレベルのものであると考えられます。つまり、いずれにせよ、引きこもりという行為が尋常でないレベルの高潔な精神性なしには成立しないことは明かであると考えられます。

また、引きこもりの全てが暴力を揮うわけではありませんが、仮に、暴力を揮う引きこもりを考察する場合でも、そうした暴力は切羽詰まったから生じているわけです。切羽詰まれば、どんな人間でも暴力的になりえます。むしろ、暴力はダメだと諫める必要はあるにしても、よく今までそうした劣悪な環境の中で頑張ったというふうに彼らの労をねぎらうべきなのであって、彼らを苛め、苦しめ、社会的に排除する事は、まったくの誤謬であると僕は考えます。

 

ここまでの推理の結果をまとめます。

 

 

1.引きこもりは普通よりも正しい信念を保持している(そのために周囲とそりが合わず孤立する)。

2.引きこもりは優しい(その極度の優しさが仇となり、悪意ある人に追い詰められることで、自制を失うことはありえる)。

3.引きこもりはその素質としては人を自分勝手に支配しようとしづらい(縄張り意識が比較的弱いことから、パーソナルスペースが圧迫を受け、ストレスを繊細に感じやすいことはありえる)。

 

 

転んでも倒れても躓いても進もうとした証拠だから

 

(Neru,「テロル」, 2014.6.3リリース, の歌詞より引用) 

 

 

P.S.優しく、正しく、真剣に、自分の道に至るための努力を懸命に積み重ねる「引きこもり」はかなりかっこいいと個人的には感じます。むしろ、引きこもり萌え☆

『天気の子』の感想? みたいなもの

皆さん、こんばんは!

 

今日は、新海誠の『天気の子』を見て感じたことを書いてみようと思います。なるべくネタバレしないように(笑)

 

ありきたりな言葉で言えば、感動しました。個人的には大好きな作品でしたが、「大好き」という言葉でも、その実相を表しきれないくらいに好きな作品でした。言葉にできない。

 

君の名は。』でもものすごくすごいというふうに感じていましたが、『天気の子』に含まれている情報? というか描写? の正確さには舌を巻きました。

 

何というか、文学的に優れているとか、芸術的に優れているとかいう枠を超越して、もはやある種の科学の価値観にすら符合し得るのではないか、みたいな感覚って言えばいいのでしょうか? 難しいですが。

 

想像力が非常に緻密に作用していて、それが天才的な手腕(天与のもの? と言えばいいのかもしれない)によってまとめ上げられ、結果として、非常に有力な仮説を説得力豊かに実現しているように感じられます。

 

物語における、主人公たちの最終的に取った選択については、非常に自然というか、不自然さをひっくるめて自然というか、老子的な自然観もクリアした上で、さらに何かの配列を打っているというか、ニーチェが理性の上に置くある種の「嗅覚」のようなものの所在を感じました。あれでいいのだと思います。

 

人間の立法機能やその行使を担うものとしての警察、そういった機能は必要なものなのかもしれません。ただ、やはり、それらは万能ではない。粗いプログラムの網の目からはどうしてもこうしても漏れ出てしまうものが出てきます。「法」の外側へと。

 

法は少なくとも一般的に広く機能する必要があります。つまり、一般の多くの人達を納得させるに足るだけの論拠、そういうものに支えられていることが好ましいものと思います(一般の人達が、法に疑いを抱く状態であれば、法からの逸脱が相次ぎ、法治国家が崩壊するリスクがある)。しかし、それは「一般的なもの」に過ぎず、そうした「普通」なものから漏れ出たいわゆる「異常」な人達は排除されることになります。

 

世界において、不思議なことが起こったとしても、もしもその現象が極めて希少な現象であれば、そして極めて目立たない透明度の強い現象であれば、それは多くの人には観測できない。

 

しかし、多くの人にとって観測できない物事が、少数の人達にとっても観測不能であるとは限らない。そういう事は常に言えます。

 

多くの人は、そこまで「可能性」について思考することはしませんし、多くの場合、「一般的には」そこまで深く考える必要もないという事なのかもしれません。一般的には。

 

この時、多くの人達は、「この世界に不思議なことなど何もない」と考えるでしょう。なぜなら、それを「自分は」知らないから。人は一般的には自分が知っていると思い込んでいる狭い範囲の情報に基づいて判断を下す事しかできません。

 

こうした事情にはしょうがない面もあります。僕たちの社会は「常識」というものを使用しています。したがって、そうした一般的な常識を崩してしまうような「例外」の存在は非常に都合が悪いのです。

 

にもかかわらず、現実的には、例外のない規則はない。そして、世界は幾多の不思議によって成り立っているというのが現状かと思います。

 

ソクラテスの逸話が示したことは、「私は知っている」と豪語している人の中にただの一人も知者はなかったということ。「私は何も知らない」と謙虚にも正確に把握していたソクラテスが最も偉大な知者であったということ。この教訓は非常に多くの示唆を含んでいるように思います。そして、そうした例外的な存在であるソクラテスがどのような末路をたどったか、ということも。

 

もしも、誰かただ一人の人を犠牲にして、世界を修正可能であるという時、その「一人」を犠牲にするべきでしょうか?

 

さて、話題を変えます。

 

例外的な現象は、一般の人には理解不能に見えます。一般には理解できないような言動を行う人に対して貼られるレッテルの主なものの一つは、現代においては「精神病」です。その中でも、「統合失調症」とされるケースが多いのではないかと思います。とりあえず、一般的に意味不明な信念を抱いている人、そうした人は、「妄想」を抱いているというふうにレッテル貼りを受けるのが概ねの所ではないかと思います。

 

僕は、病態としての統合失調症の存在を少なくとも現時点では、必ずしも否定するわけではありませんが、現在において「統合失調症」と診断されている全ての症状がその実、いわゆる病としてのそれであるとは限らない、というふうに考えています。

 

つまり、統合失調症の中には、ある程度、「誤診」が含まれているであろう、というふうに考えています。

 

この判断は次のような理屈によります。

 

1.人間は神ではない。

2.人間は全知全能ではない。

3.人間には知らないことがたくさんある。

4.人間は天災すら満足にコントロールすることができない。

5.世界には不思議なことがたくさんある。

6.よって、世界に不思議なことがない、起こらない、と判断するのは現実的ではない。

7.ならば、現実的に世界では不思議なことはいくら起こっても不思議ではない。

8.人を納得させてしまうような虚構を構築するには、天与の能力が必要である。

9.なぜなら「ないものをあるものとして」存在せしめる「虚構」は神の技であるから。

10.無から有を創造できるのは、神だけである。

11.天与の能力は、天与のものであり、神に由来するものである。

12.神がかった芸術作品の存立それ自体が、そもそもからして神兆の一種である。

13.不思議なことは僕たちの目の前に常に起こっている。

14.ならば、不思議な存在や摂理を頑なに否定するのは誤謬である。

15.また、神がかった天与の能力は稀なものである。

16.稀なものが歴史的に何度も生起したというふうに考えるよりは、それらは稀であるとする方が合理的な判断である。

17.神がかった虚構の存立は、神がかった天与の能力によるものであり、そう何度も起こるものとは考えづらい。

18.むしろ、存立された情報の比率としては虚構の数は少なく、事実の数が多いと考えるべきである。

19.巫女にまつわる情報や、神や霊、その他もろもろの不可思議な事柄についての情報は、かなりの数に上る。

20.かなりの数に上る情報のすべてが完全に虚構であると判断することは現実的とは言えない。

21.むしろ、現実的には、世界には何らか不思議なことが起こりえるというふうに考えるのが妥当である。

22.不思議なことは如何にそれが希少であっても、起こりえるかどうかで言えば、常に起こりえると考えねばならない。

23.多くの人々の経験の外における希少な出来事は、多くの人にとっては意味不明なものに見える。

24.ならば、ある大多数の観測者にとって意味不明であることが、ある特定の観測者にとっても意味不明であるとは言い切れない。

25.もしも、ある特定の観測者のみに理解可能な言語が存立可能であるとすれば、それは「私的言語」でありえ、それを可能にしたことは極めて偉大な功績である。

26.だが、私的言語の存立はかなり難しく、現時点では現実的ではない。

27.ならば、意味不明なように見える言語は、意味不明なのではなく、その実、他者に理解可能な言語である可能性の方が高いと判断できる。

28.つまり、意味不明なように見える言動に「妄想」のレッテルを貼ることで、それを意味不明なものとして排除するのは現実的な判断とは言えない。

29.むしろ、一般には理解不可能な訂正不能な信念としての「妄想」の概念それ自体が妄想であるとするのが現実的である。

30.こうした妄想の症状を統合失調症と呼ぶことがある。

31.この時、統合失調症という概念は、それ自体が根本的に崩壊しており、虚妄の概念である。

32.虚妄の概念をよりどころにすることによって、現実的な判断を行うことはできない。

33.ならば、統合失調症という概念の基準を用いるよりも、歴史的正統性のある巫女やシャーマニズムの概念を用いる方が、少なくとも現時点では、大分現実的であるとも考えられる。

34.僕のこの理論の不備をあらかじめ予期し、百歩譲ったとしても、少なくとも統合失調症の中には、深刻な誤診が含まれうる、とまでは言えるものと考える。

35.以上の事より、「統合失調症統合失調症ではないことがありうる」と考えられる。

 

さて、もしも、例外的な不思議な出来事に遭遇した主体の存在を想定した場合、その人は一般には理解困難な言動を呈する可能性があります。彼/彼女は、その時、「統合失調症」あるいは何らかの精神病として「一般には」処理されるのかもしれません。もしそうなら、統合失調症という概念は、その基本として「すべての稀有なもの」を圧殺する機能を担っていると言えます。こうした暴力的概念の存立はどの程度まで妥当なのでしょうか? そもそもそれがある程度でも、妥当なのかどうか、それすらも僕にはわかりませんが。

 

一般的でない「異常」な状況に遭遇した人に援助の手を差し伸べられる人はどのような人なのかについても考えさせられます。それは、一般的でない絆を持った人たちなのかもしれません。

 

少し神学っぽく考えると、人の能力の範囲外の事は、人外が司ります。そして、その人外の最終的な主体は神となります。神と人々との間に巫女や祭司がいます。巫女や祭司は神と人との間に横たわる分裂を媒介しようとします。しかし、「境界」に位置するものは、穢れをもちます。穢れには浸食の作用があります。例えば、神と人との境界には、神でもあり、人でもあるようなものがあります。そうした存在は一般にはタブー(聖なるもの)となります。なぜなら、その存在は神と人との間にある分別を融解させてしまうからです。だから、穢れを清めるための「儀式」を行います。それによって、清浄さを保とうとします。そうした儀式の中には、「生贄」という様式も含まれています。人柱。

 

少し話がそれましたが、何が言いたいかと言うと、人の手に余る所業は、人ではないもの(例えば神とか)が司るということです。神の御業は「奇跡」と呼ばれることもあります。巫女の祈り、あるいは巫女に近い者による祈りは、奇跡によって運ばれ、神に届くのかもしれません。その願いが仮に、世界にとって破滅的なものであったとしても。奇跡的に。それがどんな形であるにせよ、彼らは世界を選び取るのかもしれません。また、破滅的に見える世界と実質的に破滅的な世界というのは、異なります。窮地に見えても、存外「大丈夫」なこともままあるものです。

 

世界が出鱈目であることと、出鱈目に見えることは全く別の事ですが、「境界」に位置する者たちは、世界への選択肢を持つのかもしれません。そして、人にとっては、いつも世界は出鱈目なものです。「狂っている」と言ってしまいたいくらいに。

 

もしも、神が完全であれば、神は人などに対する無駄な関与を行わないはずです。特殊な境遇の人々を守るための手段の一つに「過小評価」という手法があります。特殊な境遇の人々のそれが、もしも重大なことであると多くの人にばれた場合、それは大事になり、下手すれば、そうした特殊な人々の安否が危うくなります。しかし、もしも、その重大性を人々に過小評価させることができれば、その分、そうした重大な選択を行った人々の境遇を守ることができます。また、神がこうした僕でも思いつくような戦略を知らない、などということは、もちろんありえないわけです。

 

特殊な境遇の人々は、通常の境遇から退かざるを得なかった人たちですが、そこにおいては通常の法規や原則が正当性を発揮する事が難しくなっていきます。

 

功利主義的に、一人でも多くの人の事を優先するべきだ、とするのが普通に近い感覚なのかもしれません。しかし、ひょっとすると「愛は世界を超える」……のかもしれません。たった一人のことを愛する気持ちは、世界をも変えてしまうだけの力を持っている……のかもしれません。

 

 

君と育てた愛だから 君とじゃなきゃ意味がないんだ

 

RADWIMPS,「愛にできることはまだあるかい」の歌詞より引用) 

 

 

P.S.今回、『天気の子』を見て、この作品を作ってくださった新海誠さんに純粋に感謝の念が芽生えてしまいました(笑)。個人的に(笑)。僕には大したことはできませんが、それでも一ファンとしてできる程度には、応援させていただきたいな、と感じました。とても素敵な映画でした。言葉にできないくらいに。素晴らしい作品を本当にありがとうございます。