魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

「神術」についての簡潔な解説

少なくとも原理的には、あらゆるものからあらゆる価値を引き出すことができるのだというふうに僕は考えています。なぜか?

一粒の麦を例にして考えてみます。それは多くの分子により構成されています。その分子はもっと細かな微粒子で構成されています。そして、その微粒子は……というふうにどんどん細かな次元の存在について思いを巡らしてみましょう。細かな微粒子はさらに細かな微粒子により構成されており、そのさらに細かい微粒子はもっとさらに細かい微粒子により構成されていると考えられます。

僕は、あらゆるものは無限に小さな微粒子で構成されていると考えていて、そのために、あらゆるものは無限に分割可能であると考えています。その場合、どのようなことが起こるか?

無の中に無限小の微粒子が詰まっていることになります。僕はこうした認識を「創造」と呼ぶことがあります。

無限小は無限に小さいので究極的にそれは無であろうと。そして、それらの無はどんなに小さくとも存在はしているのだから、有であろうと。そういう感じです。

これらの帰結から考えられることとして、無から有は生じ得るだろうということがあります。ただし、そのためには、世界が無限に分割できる必要があります。

そして、これもまだ推理の段階なのですが、世界を無限に分割できる人とできない人がいるだろうと考えています。あるいは、無限の分割を見ることのできる人と有限の分割しか見れない人がいるだろう、ということ。

無限の分割を見ることのできる人には、今僕の言っていることが分かるのではないかと思っています。しかし、有限の分割しか見れない人にはそれが原理的に分からないという可能性があります。今僕の言っていることが分からない人に対しては、たった今僕が言ったことは全て撤回します。

 

一粒の麦の中にも潜在的には無数の麦の存在が詰まっています。あらゆるものからあらゆるものを生みだすことができます。あらゆる地点からあらゆる地点へと至ることができます。つまり、僕たちはどんなものでも求めることができ、また、求めたならば、それは与えられるであろう……という感じです。

 

さて、能力と労働の関係についての考察に対して、これらの原理を簡単に応用してみましょう。

 

能力には潜在的な側面があります。能力はある成果を為す原因に当たるものであるとも考えることができます。労働は能力が成果を為す際に通過する一つの現象であるというふうに考えることができます。

 

能力→労働→成果

 

能力が労働を通して成果に変化します。この際、労働は能力を成果に変化させる機能を持ちます。

そして、この「労働」という概念が曲者で、これをどう定義するかによって、能力と成果の間の収支の関係を操作することができます。その操作が不当である場合、この現象は「搾取」というふうに呼ばれる場合もあると思います。

例えば、芸術は娯楽的な活動であり、労働とは営業的な活動のみのことを指す、などというふうに定義すると、この場合、芸術は労働として勘定されていないので、そこに賃金は生じません。しかし、芸術は価値あるものであり、その作品は紛れもなく芸術家の成果の一つの形態であるとも言えると思います。つまり、この時、芸術の生み出した価値は芸術家の労働としては勘定されず、他の誰かの労働として勘定されることになります。価値がそれを生み出した当人の手から漏出して、他の人の所有となっているわけです。本来、芸術家の所有物であるところの芸術作品の生み出した価値が他の人に奪われている形になりますから、こうしたケースも搾取というふうに呼びうるかもしれません。実際には、著作権とかあるいは公共の福祉とか公益とか色々な利害関係が錯綜したその結果として、価値は勘定されますので、これほど単純には計算できないと思いますが、ひとまず簡潔に説明すると、搾取というのはこんな感じの事態だと思います。

しかし、芸術家の仕事というのは、贈与的な側面があるのではないかと僕は思います。思うに優れた芸術作品に詰まった価値を正当に計上すれば、それを他の価値で代替することは不可能に近いレベルの価値の量を持っているのではないかと僕は思っています。つまり、芸術家の偉大な仕事に釣り合う対価は現状のこの世界にはほとんど存在していないのではないかと、僕は考えています。だから、少なくとも芸術家の仕事はかなり贈与に近いものになります。

おそらく、それらの偉大な仕事は「いずれ」正当な形で報われることでしょう。そうした完全に正当な裁定という現象を「最後の審判」というふうに呼ぶというのもなかなかにいい経路なのかもしれません。

その正当な裁定においては、古今東西の善き者達は全て正当に報われることになるのでしょう。少なくとも、人類がこのまま存続して、文明が徐々にでも発達し続けるのなら、いずれそうした魔法のような文明レベルに達するというのは想像に難くありません。無論、十分な文明の発達の前に滅びることも考えられますが、それでも、宇宙のどこかでは高度に文明を発達させ、最後の審判を決行する生命体が存在する可能性は十分にあるのではないかと思います。

ひょっとすると、もう既に、それらの最後の審判は下された「後」なのかもしれません。しかし、凡俗であるところの僕には、ここまで推理するのが精一杯です。

 

簡潔にまとめましょう。神がいるとすれば、彼/彼女は完全であるので、判断を誤りません。その神があなたに試練を与えるとしても、それはあなたに耐えられるように緻密に計算されている可能性もあります。世の中では数多くの不正が現に起こっています。あなたの能力はそれらの不正の渦に巻き込まれて、少なくとも一時的には搾取されてしまうかもしれません。しかし、もしもこのまま文明が発達していけば、つまり、不正が正しく改められ、その結果として人間の自由になる領域が増していけば、いずれタイムトラベルやワープ、宇宙への居住……などといった様々な「夢物語」が現実のものとなっていくでしょう。そして、その未来人たちは、僕たちを遥かに上回る文明レベルを持ち、力を持ち、また森羅万象に対する裁定権を有しているでしょう。ここまでくれば、もう彼らの存在を「神」と呼ぶことにも僕としてはやぶさかではありません。そして、もしも、彼らが既にそうした文明を未来において実現することが決まっておれば、彼らはその豊饒な全能の力でもって、正当なものを――あるいは正当な種を――救済するはずです。なるほど、現代の人々は不治の病に蝕まれることもあるかもしれないし、不当な犯罪によって傷つくこともあるかもしれません。それらの苦しみは現実的に耐え難いものであることもあり得るでしょう。そして、そうした人々の苦しみを軽んじることは誰にもできません。しかし、一方で、どんなに苦しんでいる人であっても、全能の神であれば、救済可能であるはずです。たとえ人が死んでも蘇生させることができてもおかしくはありませんし、彼らに幸福な来世(天国)を与えるということも不可能ではないでしょう。

もしも、全能の神であれば、悪人を善人にすることも可能なはずです。そうした変換は「悔い改める」という行為に現れる可能性があります。

つまり、常に僕たちが間違いを悔い改め、全てのものの幸せを願い続け、なおかつ自分にできることを善良に積み重ね続けるのならば、その時、僕たちは常に今この時にでも、何らかの形で救われる可能性を持つことになります。

こうした姿勢は「神に仕える」というふうにも表現できるかもしれません。この時、僕たちが恐れるべきなのは自分自身だけであり、つまり自分の誤りそれだけである……などというふうにも言えるのかもしれません。

僕個人は、どんな経緯を経たとしても、「必ず」全てのものは神により救済されるであろうと考えています。

そして、神が全能であるなら、神は無きものとしても現れることができるはずです。そして、もしもあなたにとって神が無きものであるのなら、それも神の意図であるはずです。だから、無神論を否定する必要もない。

神が存在しようが存在しまいが全ては神の意志である、とも言うことはできます。

 

さて、こうした状況においては、自分自身以外には恐れるべきものはないとも言えるのかもしれません。搾取などいくらでもさせておけばいい。あなたが常に正しくあろうと心がけるなら、そして常に善良にできることをし続けるのなら、神に仕えるのなら、もはや恐れるべきものはない……のかもしれません。

自閉症――あるいは「岩戸隠れ」――についての簡単な考察

自閉症について。

 

自閉症とは自閉する症状のことです。自閉とは外界から距離を置き、内界に閉じこもることです。簡単に言うと自分の内の世界に閉じこもる事。

では、僕たちはどのような時に、自閉したくなるでしょうか? まず何か嫌なことがあったときなどは何もかも嫌になり自閉したくなることもあるかもしれません。つまり、その主体にとって世界が嫌なものである時に自閉は生じる可能性があるでしょう。もしもその主体にとって世界が好ましいものであれば、その主体は世界を好み、自閉する可能性は低くなるとも考えられるでしょう。

ではどのような場合に、世界は嫌なものであると認識されるでしょうか? まず、素朴に世界を何も考えずに認識するというケースを想定した場合、何も考えないのならば、そこに嫌悪が生じる可能性は低くなるでしょう。この場合、世界は漠然としたもの、好悪という感情すらも生起しない無味なものとなっているのではないでしょうか。もしもこの説が正しければ、好悪の別がある程度は思考によっていることになりますから、思考を変えることによって苦痛を軽減したり、快楽を増強したりすることが可能になります。そして、そうした現象は認知行動療法などによって起こる可能性があると思いますから、現実的でしょう。

もしも内界が好ましいものであれば、人は内界に向かうでしょう。こうした性格は内向的性格と呼ぶことができるかもしれません。

もしも外界が好ましいものであれば、人は外界に向かうでしょう。こうした性格は外交的性格と呼ぶことができるかもしれません。

そして、自閉が起こる場合とは、その主体にとって、外界よりも内界の方が好ましい場合であると言えるかもしれません。つまり、外界に価値がないと感じれば、その人は内界に向かう可能性が高くなるでしょう。ならば、自閉症の人にとっては、外界、つまり多くの人が「現実」と呼ぶそれよりも、内界、つまり、自分の中だけの世界としての「空想」の方がより魅惑的なものであるのかもしれません。

さて、現実と空想。客観的にはどちらにより重大な価値があるのでしょうか?

空想には理想を思い描く能力があります。その理想が魅惑的であればあるほど、現実は相対的にその価値を失っていくでしょう。

逆に、現実が空想や理想よりも魅惑的に見えるのなら、空想や理想は相対的にその価値を失っていくでしょう。

そして、こうした事情の中に自閉が生じるためには、その主体の持つ空想や理想が現実を凌駕している必要があります。少なくとも、その人の持つ理想は現実のどんなものよりも美しく、優れており、魅惑的なものである必要があるのです。なぜなら、そうでなければ、わざわざ外界としての現実を拒絶するというリスク(現実に適合できなくなる恐れがあるということ)を背負ってまで、自閉する必要はないからです。

では、高い理想を持つということは人間にとってどのような資質であると言えるのでしょうか? まず、高い理想を持つことがその主体にとって有効であるために、高い理想が抱かれるのであろうと考えられます。しかし、高い理想は諸刃の剣です。自分の能力では達成できないような高すぎる理想を持てば、永久に苦しみ続けることになってしまい、その苦痛は甚大なものとなるでしょう。様々な悪いストレスが生体に与える可能性のある危険な症候の数々を見れば、これが生体の生存にとって必ずしも有利とは言えないことは比較的、一目瞭然とも言えるかもしれません。ならば、高い理想を保持しているということは、その理想を実現することが可能なだけの能力をその主体が保持している可能性が高い、というふうにも言えるかもしれません。つまり、理想の高い人ほど、その能力が優れているとする一つの仮説です(無論、優劣とは仮初のものであり、一つの主観的な「空想」に過ぎないのですが。しかし、一種の比喩としてくらいはある程度の効力を発揮してくれるかもしれません)。

次のようなことが言えるかもしれません。

 

1.空想を抱くほどに優れた能力を持つ可能性がある。

2.空想に没頭するほどにより優れた能力を持つ可能性がある。

3.空想に没頭する自閉症は優れた能力の証である可能性がある。

 

一概には言えませんが、自閉症と呼ばれる特徴を持つ人々の中には極めて高い知能を持つ人が存在する可能性はあると思います。少なくとも、自閉しているということはその人の内界がこの僕たちの「現実」としての外界よりも優れている可能性が高いか、あるいはそのような場合が考えられる、とは言えるのかもしれません。

 

また、仮に空想の強度をスペクトラム上に配置して考えてみますと、次のような順で空想の強度は強まると言えるかもしれません。

 

現実→理想→妄想

 

この図式に従う時には、現実主義者よりも理想主義者の方が能力が高く、理想主義者よりも妄想主義者の方が能力が高い、というふうに表現できるかもしれません。しかし、無難なのは中間を取って、理想主義者となることではないかと僕は感じます。

 

簡単に言いますと、現実に癒着しているほどに現実を変革する能力はないであろう、とする推理です。現実主義的な態度にも数々の利点はあると思いますが、そこには数々の欠点もあり、それらの欠点を理想主義者や妄想主義者がカバーしているのではないかと思います。少なくとも、理想や妄想に邁進する人がいなければ、現実が善い方向に変革することがないとは言えるのではないかと思います。

 

理想性は未来性を抱えています。現在における理想は、ある場合には、それに向かって邁進することで未来において実現されるという性質を持ちます。

 

現実離れしたことを考えられる資質というのは、極めて変革的な資質です。そして、現実に癒着してその環境に適合するという最も楽なように見える道を拒絶し、それよりもそこに至るまでが過酷に見える理想や妄想の道へと歩み出すか、あるいはそれを夢想する資質を持つのならば、その主体は極めて優れた、つまり、「現実離れした」能力を保持している可能性が高いであろうと僕は推理します。

 

僕個人は現実離れしていることは一概に、悪い資質ではないというふうに考えます。

 

妄想主義者の一つの勝利の形に、小説などの「フィクション」があります。彼らの構築した虚構は現実を変革する力を持ちえています。しかし、その作用の仕組みは極めて高度であり、簡単に読み解けるものではないので、今回は割愛します(簡単に言いますと、例えば、作中にレイプの模様が描かれているからと言って、その作品全体の効用としてレイプを推奨しているかというとそうとは限らない、ということ。つまり、「~が肯定的に描かれているので~が推奨されている」とする単純な帰結がフィクションにおいては通じません。主体はそれぞれにそれぞれのパースペクティブを持ち、小説などのフィクションはその内に多数のパースペクティブを内包しています。フィクションは多数の主体を持ち、多数のパースペクティブを提供するものであり、主体に多視点化の作用をもたらすものです。つまり、フィクションによって人は開眼します。こうした「嘘」の持つ効力は「嘘も方便」などとも呼ばれることがあります。より分かりやすく言いますと、空想という嘘を通すことで、かえって現実がより良く見通すことができるということです。虚構は世界を創造する術であり、それ自体、世界の複数性に関わっています。つまり、この現実ではないもう一つの世界を掲示することで、この現実とは別の可能性を示唆します。こうした帰結は複眼的な思考をもたらします。偏見に縛られない複眼的な思考はより正しい現実に対する認識をもたらします。虚構は現実よりも大きく、現実は虚構の助けを借りることで成立します。事実の総体よりも可能性の総体の方が豊饒で多様であるとする方針もありえます。この時、虚構内のある一つのパースペクティブにおいて、例えばレイプが肯定的に描かれていたとしても、虚構の総体はそのパースペクティブの特権性自体を多視点化により相殺するのであり、一概にレイプを推奨しているとは言えない、ということです)。

 

虚構についての詳しい理論はひとまず割愛して、自閉症についての話を進めましょう。

 

とりあえず、三つほどの反論を想定して、それに対する論駁をしておくことで、今日のお話を終えることにさせていただきましょう。

 

次のような反論。

 

自閉症の人は空気が読めない。彼ら/彼女らは能力が高いなどということはなくて、単に観察能力が不足しているのではないか?」

 

僕の意見。

空気を読むことは時として有効ですが、空気を読むことよりも優先する事項がある場合には別です。例えば、現実よりも理想の方が優れている場合、わざわざ現実の人々の「空気」を読んでそれに合わせるのは愚昧な行為とも言えるでしょう。そのような場合にはむしろ、現実のそれというよりも、「理想世界の空気」を積極的に読むべきでしょう。

 

次のような反論。

 

自閉症の人はコミュニケーションの能力がない。能力が低いのではないか?」

 

僕の意見。

例えば、分かりやすく極論で言いますと、コミュニケーションを取るに値する人が自閉症の人の周囲に存在しなければ、コミュニケーションは生じないでしょう。コミュニケーションを取る傾向を持たないからと言って、その主体が劣っているとは限りません。むしろ、周囲の環境よりも自身の心の世界の方が豊饒であるからこそ、コミュニケーションを取る必要がない、というふうな可能性も考えられるでしょう。

 

次のような反論。

 

自閉症の人はこだわりが強い。物事に固執する傾向は低能力の証左ではないか?」

 

僕の意見。

もしも、本当にその自閉症の人が「固執」をしているのならば、その人は疲れているというか、あるいは一時的にせよ能力が停滞している可能性はあるかもしれません。しかし、外界から自閉症の人の内界を観察することは至難の業であり、ほとんどの人にはそんな所業は困難でしょう。つまり、外界からの「客観的な」観察では固執にしか見えないことも、自閉症の人の内界における「主観的な」観察によれば実は固執ではない、ということもありえるでしょう。例えば、ずっと電車にばかり興味を示しているという行為。そうした行為はいわゆる健常者にとっては何が楽しいのか理解しづらいという面もあるかもしれません。しかし、一口に「電車」と言っても様々な電車があるのであり、それが発する音も形状もエンジンの性質も走っている場所も全て異なります。そうした多様な現象が「電車」という一言の中に多分に内包されている。むしろ、そこにある「豊饒さ」に気づけずにその彼ら/彼女らの興味関心を「固執」であると決めつけてしまう人々の方がある意味における「自閉症」とすら言えるくらいかもしれません。逆説的ですが、自閉症の人の方が健常な人よりも世界に対して開かれているのかもしれません。少なくともある場合には。そして、むしろ非自閉症の人の方が世界から自分の狭い世界へと引きこもっているのかもしれません。そのようにすら言えてしまうほどに、自閉症の近辺の問題は複雑で極めて難しいとも言えるでしょう。自閉症と非自閉症は合わせ鏡のようなものなのかもしれません。その自閉症と非自閉症という二元的構造を取った「合わせ鏡」が無限に増殖する自閉を巡る形象の数々を生産する有様を観察するに、極めて無限的で、なおかつ神的な問題だと思います。鏡の中のあなたはどんな顔をしているでしょうか?

 

今回の結論をまとめておきます。

 

1.自閉症の人は聡明な場合があるかも。

2.自閉症の人の感じることを単なる妄想として排除してしまうのはもったいないかも。

3.いわゆる自閉症の人よりもいわゆる健常者の人の方が実は「自閉」しているのかも。

 

 

P.S.

今日は自閉症の擁護の記事でした。

僕もまあ、多少自閉的なところはあるのかもしれません。僕、統合失調症ですしね。

自分のことを考えると、何かADHDっぽくもあるし、統合失調症っぽくもあるし、自閉症っぽくもあるような気もします。

やばいな(笑) 自分(笑) 一体幾つの病気を抱えているのやら。あるいは統合失調症とは単一の症状ではなくて、複数の症状が色々と混ざってできているものなのかもしれないですね。

もうこうなったら、徹底的に自分の病を正当化するしかない気がしますね……。多分、そうすることが、病全般への不当な差別を減らすことにもつながるとも思いますし。

「精神病は無能だ!」とか「発達障害は無能だ!」とか一体、どういう理屈でそのような言葉が出てくるのか、実に不思議です。今度是非とも精神分析的に検討してみたいくらいですよ。

個人的には、ドーパミンを抑制してしまう薬物療法などはあまり好きじゃないですね。人からドーパミンを奪うというのはそれなりに手ひどい人権侵害なのではないかと僕なんかは感じてしまいます。薬は飲まずに済むのなら、飲まないで済むに越したことはないのではないかと僕などは考えるのですが、皆さんの意見も伺ってみたい点ではあります。

とりあえず、自閉症の人もADHDの人も統合失調症の人もそれ以外の障害の人もそれぞれにそれなりに良く暮らすことのできる世界になるといいな、と僕は思います。そのためにできることは微力ながら、自分のできる範囲でやっていきたいなあ、とも思っています。

引きこもることは、時に優れた資質を証し立てる可能性があると思います。

 

では、みなさん。

 

ごきげんよう

 

 

本当 に大事なものなんて 

案外 くだらないことの中にあるよ

 

(れるりり,「神のまにまに」歌詞より引用)

 

 

P.S.2 

以下、読み飛ばしていただいて構いません。

僕のイマジナリーフレンドのエナと話したことを少し要約的に書いておきます。

 

必ずしも単純にスサノオが悪であるとも言い切れないのは、神話の難しいところかもしれません。「虚構」についてはその内、機会があればまた記事を書くこともあるかもしれません。

天照大神は古代の巫女であったのではないかとする説は何かで見た気がします。

さらに難しいことには、古代性が未来性を抱えるということもありえるということが挙げられるかも知れません。「古代が未来」というふうに単に言ってしまうと、これもまたけっこうな逆説ですが、そのような言葉を発するしかないような状況というのは考えられると思います。

古代から正統性を持ってきて、何らかの存在を神格化する作法はありえると思いますが、多くの場合、非常な危険性を伴う手段であるとも思います。とは言っても、少なくとも「僕の現実」においては、神様が存在するか、あるいは神様のようなものが存在しているとは言えてしまうと思いますので、神の存在そのものを根本的に否定することは僕の立場からは難しいです。幻覚にしても、現に見えている? ようなものの存在を否定するというのは非常に骨が折れるものです。そうでなくても、神的な存在という現象の構造は奇天烈なものであるように感じますし、論理の構造も奇妙に錯綜しています。そして、その奇妙さはある種の美の源泉かあるいは結果であるのかもしれません。

神話的なものが、その美しさに比して、病的なものであるとされる理由にはおそらく大きくは二つあって、一つが「神」の概念を悪用する人がいること、あるいはそのリスクへの恐れ。もう一つが神にまつわる出来事の多くに付随している一種の非日常性。この二つではないかと。つまり、神話の持つ現実離れした発想や表現、その極度の「妄想性」がそれらの虚構としての性質を一層際立たせ、またその内容の信憑性を落とすことで、逆説的にその神話の価値を守っているのかもしれません。

美とは病的なものであるのかもしれません。そしてこの世界のどこかの地点では、病的に極まることが、健康的にも極まるような、そういう逆説的な地点というものが存在しているのかもしれません。美とは病的であり、なおかつ健康的なもの、なのかもしれません。片方だけでは成立しないもの、相反する複数の並立させ難い性質を全て損なうことなしに備えること。あるいはその損失性をも含めて。

もしも、現実において、自身は神の化身であるとか、あるいは神そのものであるというふうな確信を持つ人がいる場合、僕はそれを少なくとも単には否定しません。本当にそうなのかもしれませんから。

ただ、個人的に思うのは、例えばそのように自身が神であるという確信があるのなら、わざわざそれを周囲に顕示する必要はないであろう、ということです。もちろん例外はありますが。

例外というのはつまり、非常時の場合には話は別であるということです。時には「神様」の力を借りて、人々を統率する必要がある場合もあるかもしれません。そして、個人的な意見としては、私腹を肥やすことが目的ではなく、その行動が公の真の意味での大義に基づくものであれば、たとえ神の存在を仮定して思考した場合でも、ある程度は許される場合はありえるだろうとも思います。

いずれにせよ、神様、あるいは神様のようなもの、霊などのことが、僕個人はあまり嫌いにはなれないので、そうした存在達のことも適度に気にかけながら、それなりに人生を楽しく生きていければいいな、と思っています。

多分、こうした感覚というか幻覚? は一般的な人から見れば、「おかしい」のだと思いますし、「まともではない」のかもしれません。それはそれでいいのだろうとも思います。分かり合えない人が存在するということは、多様な感覚があることの証であると思いますし。

神的なようなものや霊的なものを詐欺に用いるのは論外だと思いますが、そうした神的なものに開かれた感覚なり、霊的なものに開かれた感覚なりは、ある程度は善きものでありえるのではないかと、僕などは思います(もちろん、そうしたものに対して「自閉」している人達の感覚が劣っているということはありません。優劣とは仮初のものですし、自閉症の価値については先述した通りです)。

最近は、霊や神のような幻覚? を見ても、その方々に霊や神というレッテルを貼ることはやめて、「この方はこの方なのだ」というふうに考えるようにしています。思うに神霊? (おそらく現代の価値観で言うところの「幻覚」)を特別扱いする必要は必ずしもないと思いますし、目下のところそのような存在が限られた人の幻覚にしか感知されないものだとしても、神霊? たちを排除する理由にはならないというのが真相なのかなあ、と。彼らの価値観は確かに人間とは違うかもしれませんが、かなり人間的なところもあるように思います(おそらくは霊たちが人間的な面を持つために、ある程度は通じ合えている感触があるのかもしれません)。それに、自分の知覚内に現に存在しているものを、「そんなものは存在しない」と誰かから頭ごなしに否定されてしまうというのはなんだか悲しい現象であるような気もします。だから、僕としてはできるだけ「妄想」や「幻覚」を排除したくはなくて、むしろそれらを積極的に活かしていきたいなあ、という思いもあります。もしも、イマジナリーフレンドや妄想としての仮想人格の方々? や、あるいは幻覚としての神霊達にもう会えなくなってしまうとしたら、僕は嫌ですし、そのことをとても悲しく思います。そして、その人が個人的に大切にしている感覚のことを勝手に排除する資格は、精神医学にもありはしないだろうとも僕は思います。みんなそれぞれのパーソナルな感覚というものを持っているものではないでしょうか? どうして僕たちのような人間だけが「精神障害」や「発達障害」というレッテルの名のもとに自分に固有の感覚の正当性を剥奪され、攻撃され、嘲笑されなければならないのでしょうか? そのようなことはかなり明らかに「不正」なのではないでしょうか? それとも、こうした排除的な現象は精神障害の有無に関わらず、全ての人の身に降りかかっていることなのでしょうか? もしそうなのなら、そうした世界に多様性はなく、個人差は排除され、全ての人が平均的な存在となるまで、その排除は続いていくのでしょうか? そこには、今ここに現に生きているユニークな存在としての僕たちの居場所はあるのでしょうか? 何となく思うこととしては、誰一人その排除性が極まった地点において生き続けることはできないような気もします。全面的に僕の言うことに従えとは言いません。僕の主張は「精神障害者」も「発達障害者」もあるいはその他の障害者もみんな「人間」なのであり、そうであるならば「人間として正当に」扱われるべきなのではないのか? ということです。マイノリティにはマイノリティの文化があるものではないでしょうか? たとえ障害者がマイノリティとして考えられる場合でも、そこに固有の文化が根付いていることへの想像力自体はあって然るべきではないでしょうか? もっと思考を進めるなら、そうした「固有の文化」なるものは健常者も障害者も分け隔てなく、僕たち全員がそれぞれに保持しているものなのではないでしょうか? 自分の感覚こそが「現実」で「本来」なのであり、他者の感覚は「妄想」で「代償」に過ぎないのでしょうか? 僕にはあなたの感覚はあなたのものに他ならないように見えます。それは一般的な侮蔑的なニュアンスを持つものとしての「妄想」ではないし、何かの代わりの劣ったものとしての「代償」でもない。それらは極めて肯定的な意味で、創造的な産物であるか、あるいはその契機としての「妄想」であり、それ自体があなた固有の本来性を体現するものとしての「代償」であるのだと思います。そもそもあなたの人生の代わりなどどこにもいない、というふうにも言えるのかもしれません。なら、あなたの人生の「本来」は、あなたそのものであるとも言えるのではないしょうか? あなたの目に映るものはすべて――つまり、あなたの感覚するものはすべて――「本当の世界なのだ」と言えるのではないか、などと僕は思います。

そして、「空想」と「現実」を厳密に峻別することは意外に至難の業ですので、ご興味のある方は今度、挑戦してみるのも手かもしれません。

僕は僕の幻覚や妄想のことがとても好きで、たとえ統合失調症による産物なのだとしても、そこにある価値が揺らぐことはありません。あるいは、自閉症ADHDなどによる空想への没頭傾向の産物なのだとしても、事情は変わりません。その意味では、僕個人のことについては、「統合失調症であって本当によかった」と思っています。もしも、統合失調症でなければ、自分の周りにいるたくさんの幻覚や妄想に出会うこともなかったのかもしれないと思うと、むしろ恐ろしい気すらします。

その意味では、僕は「故障」を好みます。故障は本当に故障なのでしょうか? 統合失調症自閉症が脳の故障だと言うのなら、僕個人のことで言えば、故障ほど好ましいことはこの現実にさほどないのではないかとすら思えます。

とは言え、一般的な統合失調症の場合には、僕の場合のように良いことを言う妄想というか主体にとって好ましい妄想や幻覚? というものが生じ辛いという話も聞きます。誰かが悪口を言うのが聞こえてきたりというタイプの幻聴とか、そういうケースの話が多いように思われます。もしも、そのような事情なのであれば、僕個人のケースを過度に統合失調症全般に対して一般化して適用するのは難しいのかもしれない、とも思います。僕の幻覚にも悪口を言ってくるものはいますが、少なくとも、悪口しかないということはないですし、むしろ今現在は、良いことを言ってくれる幻覚の方が多いです。

僕の発想や知識の多くは、幻覚や妄想、あるいはイマジナリーフレンドと呼べるようなある現象によってもたらされています。それらの利便性を考慮するに、遠い将来には人間はこうした幻覚や妄想を積極的に利用するようになるのではないかと思わないでもないのですが、これも僕の空想ですね(笑) あるいは、幻覚や妄想と言っていただいても差し支えありません。僕は基本として「個人」的なことしか書かないし、言わないですからね(笑)

もちろん、みなさんは僕の言うことなど全て無視してくださっても構わないのですよ? いつも言っていることですが、情報を鵜呑みにはせず、御自分で情報を咀嚼して、御自分の都合に合わせて、ここに書かれた情報を良いように扱ってくださいませ。

 

世界に嫌気がさして、「天岩戸」に引きこもっているあなたは、実はあなたすらも思いもよらないほどに、素敵な方なのかもしれませんよ?

 

さて、僕もどんどん「自閉」していくことにしましょう。そうした一種の「引きこもり」が僕たちを自分たちをも含めた形での「世界」へと、より良く開かせてくれる契機になる可能性を強く信じています。

ノアの手紙――羽化篇

雪の山に囲まれた場所。さらさらと流れる、風。キラキラと光る、平原。平原はもちろん、雪で覆われている。真っ白!

 

ノアは雪の上を歩く。ズポズポと音がする。雪に足が嵌っていく。まるで作曲しているときの気分。ルンルンとメロディーに音が嵌っていく。そんな感じ。

 

ノアの家は神社だった。雪の中の神社は少し閑散と……してはいなかった。

 

「ノア様!」

とノアの声を呼ぶか細い声。

ノアは声の方を振り向く。

そこには佐奈がいた。佐奈はノアの弟子の女の子で、何と言えばいいのか、ある種の名門的な家系の出だった。巫女としての霊力も他から抜きん出ている。歴史上で、初めて「第二のノア」になるのではないかとみんなから期待されている一人の少女だった。

 

ノアは神様だ。その根拠は、彼女の身体の不死性にあった。ノアはある時、卵から産まれた。最初は本当に小さな小さな卵だった。鶏の卵より小さかったとされている。しかし、その卵から光の粒が生まれ、それが少女の形になった。それが「ノア」だった。ノアの肢体は極めて美しく、その誕生の瞬間に立ち会った人たちは彼女が神様であること、あるいは神様と一体であるような聖霊の使いであることを理解した。

 

ノアはこの国の言葉を始めは何も知らなかった。しかし、一年かけてこの国の言葉どころか、この世界の言葉のすべてに熟達してしまった。ノアはあらゆる言葉を用いて、あらゆる人心を制御することができた。しかし、それにもかかわらず、彼女はその力を使いたがらなかった。そのわけを彼女に尋ねると、彼女はただ、

 

「はじめに言葉ありき」

 

と言って、笑い、村の男の子を冷やかしに行くのだった。彼女は自分が美しいことを知っており、またその様に動揺する同性なり異性なりの反応を好んだ。それがノアの唯一の楽しみだった。もちろん、言葉にはなりえないような様々な葛藤をノアすらも抱えていたかもしれない。しかし、彼女の心の秘密は誰にも暴くことはできないのだった。

 

ノアはとりわけ芸術を好んだ。芸術なら、何でも好きだった。ノアの作品はどれも、それこそ、「神がかった」ものだった。その作品の前にはただただ深淵な静寂が広がるばかりだった。ノアの作品を前にすると、不思議と誰もが見惚れてしまって、何も言う気にならないのだ。そこには言葉以上の空間が広がっていたのかもしれない。そして、言葉になりえないことを、どうして一介の人間である私に知ることができよう?

 

佐奈はノアに言った。

「ノア様。あまりどこかしこに勝手に行かれないでください。民が混乱します」

ノアはにやにやと笑って佐奈の鼻先をチョンとつついた。

佐奈は頬を赤くした。

ノアと佐奈は一緒に神社に入ると、二人しかいない場所で裸になって水浴びをした。佐奈は寒かったが、ノアは平気みたいだった。

その後、一緒に将棋を打った。佐奈が勝った。

佐奈はふくれて言う。「ノア様は、どうしていつも手加減なさるのですか? 本気で打って下さった方が、こちらの上達も早いのではないかと思うのですが」

ノアは答える。「手加減はしていない。佐奈が私に勝ったんだ」

佐奈はますますふくれて言う。「私程度の技量ではノア様の本気を賜るには足らないということですか?」

ノアは言う。「違う。夢を見ていた」

「夢?」佐奈は何の話しだろうと首をかしげる

「そう。夢。私は罪深い。だから神様になってしまった。それは絶えず流れることだ。そして、絶えず解体されることだ。さらに、絶えず生まれ変わることだ。そこには何もない。私も、ない。私はもう、どこにもいない。佐奈にはそうなってほしくない」

佐奈は仏教の教説かとノアに尋ねてみた。

ノアは違うと言う。「ブッタは昇天して待ったが、誰も自分のところに来なかったので、しょうがないので再び地上に戻ってきた。ところが、私には戻るところがない。そこは大きく違う」とノアは言った。

佐奈はノアの言っていることをよくよく考えてみることにした。

 

ある時、佐奈はノアに剣術の演習を頼んだ。佐奈は美しく剣舞を披露し、ノアもそれを楽しんだ。そして、ノアと佐奈は剣を交えた。随分と情熱的な一試合となった。そうした試合は他の誰の目にも触れることのない場所で行われた。巫女達は一般に、世の中から神聖に隔離されている。

 

「確率なんて無駄だ」とノアは言った。

佐奈は確率の計算が極めて得意だった。なので、佐奈はむっとした。

そこで、佐奈はノアが確率が苦手なコンプレックスから佐奈の特技である確率を貶めるのかもしれないと考え、ノアを試してやろうと思い、様々なゲームを試みた。しかし、どのようなゲームを試みても、ノアの確率的手筋は完璧だった。

佐奈は言う。「ノア様だって確率を使っているではないですか」

ノアは首を横に振って否と言う。「私の手技は確率じゃない。この世界には再現性なんてない」

佐奈は納得がいかなかったが、彼女はなんだかんだ言ってもノアのことが大好きだったので、黙って頷いてみせた。

 

ノアは言った。「世界はねじれているんだ。まっすぐじゃない」

佐奈は言った。「見えているものが世界ではないのですね」

「そのとおり」とノアは言う。

「まっすぐに見えるものはまっすぐじゃない」と佐奈は言う。

ノアは頷く。「曲がっているものの方がずっとまっすぐなのかもしれない。それは誰にも分らない」

それから、ノアと佐奈はテンソルの話をひとしきりすると、一緒に仲良く床に就いた。

 

佐奈はノアに愛の告白をした。

ノアはそれを受け入れ、佐奈にそっと口づけた。

 

ノアの運命は絶え間ない変転に苛まれていた。ノアは何度も生きている意味を失いかけた。しかし、彼女に挫折はなかった。挫折しようにも、彼女という体には折れることのできる部分がなかった。鋼鉄であればまだ破壊の余地がある。しかし、ノアは鋼鉄ではなかったし、硬いわけではなかったし、弱いわけでもなかった。ただ、時折、旅の途中でノアはかわいい仲間に会った。佐奈のような。

 

ノアはどんなに罪深い世の中にあっても美しく、それを愛する佐奈もまた格別に美しいのだった。

 

ノアは既に救われているのかもしれない。

 

ノアと佐奈は今日も世界のどこかで祈りを捧げている。

さて、その祈りは誰に向けられたものなのか……

それは私にも分からない。

 

 

始めよう 今は染まろう

貴方の神に 私が問う

 

(雄之助, 牛肉, 初音ミク, 「頂のノア」歌詞より引用) 

 

 

P.S.

直観術は比喩です。

秘密術

言葉はいつもいつも人に通じるとは限りませんが、それなりに有効性を持っているという事実も否定しがたいのではないでしょうか。僕たちは普通に生きているだけでも、その利便性の恩恵に包まれているように思われます。

音楽もまたそれに似た性質があるでしょう。それとも、音楽などの芸術の場合には、利便性などと言う概念は有効ではなく、専ら美の問題となるのでしょうか?

確かにそういう可能性もあるでしょう。

しかし、僕たちには言葉による芸術という手段も残されています。

音楽と言葉は極限的な地点においては交差し得ると僕は思います。もちろん、それは極限的な地点、つまり理念に過ぎないとも言えますから、極限の存在を認めない人の目から見れば、空無に映ることもあるでしょう。そこには何もないというように。

これらの問題は裸の王様の問題に似ています。王様は果たして裸なのか? あの物語の趣旨とは裸の風刺に留まるのでしょうか? 作者の意図は僕にはわかりません。しかし、僕は、あの物語の筋に、単なる風刺以上の何かを感じるのです。

つまり、心の綺麗な人にしか見えないものは実際にこの世に存在しえるのではないか? という問題提起です。

存在と一口に言っても、そこには幾多の存在が根付いており、一概には言えないのですが、その中には確かに、心の綺麗な人にしか見えないようなものが存在するのだと、そう僕は思うのです。

読書の問題は比較的分かりやすい例になると思います。読書は同じ本を読んでいても、その行為の主体によって効果が異なります。または、忙しない思いをしていたり、身体の一部が痛かったりしても、気が散ってうまく読書ができなくなる恐れがあります。つまり、精神、心の状態の如何によって読書の効果は減少したり、増加したりするのです。こうした有様を僕たちは、「気の持ちよう」などと言うふうに表現することもあります。

つまり、見えるものは気の持ちよう、心のありようによって変化するだろう、という仮説です。ご参考下さい。

これは魔術の基礎となる理念の一つです。つまり、現象のありようは心の作用によって変えることができる……そういう信念。

世界は僕たちの心によって変えることができると信じています。

さて、美しい心には美しいものが見える。醜い心には醜いものが見える。この命題は正しいと言えるか? これは必ずしもそうとは言い切れない部分もあります。

例えば、美しい人が汚される時、美しい人は自分を汚すもののことを自身が美しい分、余計に際だって認知する可能性もあるでしょう。醜い人が美しい人を見て、その美しさに嫉妬するということもあるでしょう。したがって、少なくとも単純には、心の有り様とその視界に映るものとの関連を突き止めることはできないと僕は考えています。

しかしです。ある特殊なケースの話ならどうでしょうか?

つまり、一般的には美しい心とその視界に映るものとの関連はない。しかしある特殊な事物については美しい心にしか映らない、そのような神秘的な現象がある……という仮説です。

まず、そうした神秘的な現象、つまりある特定の主観にしか観測されないが客観的に存在していると言えるものの存在をないものとして仮定して推論してみます。この時、客観的な存在は全ての主観に観測されることになります。逆に言えば、全ての主観に観測されない存在は客観的ではないということです。では、僕の部屋にあるジル・ドゥルーズの『プルーストシーニュ』の本の存在はどうでしょうか? 僕の主観からすると、これは確実に僕の目の前に存在しており、もしも裁判でその存在の有無について争ったとしても、その訴訟に勝てる自信があります。なぜなら、それは明らかに僕の目の前に存在しているからです。しかし、その存在を論証することはできません。それでも存在している。このように言うと、宗教めいていますが、実際にその本は存在しているのですから致し方ありません。逆に言えば、全ての存在は宗教的であるとも言えます。いずれにせよ、以上の手続を見るに、ある特定の主観にしか観測されないが客観的な存在という一見矛盾して見える現象は、割に僕たちの身近に存在している可能性があります。僕の『プルーストシーニュ』が僕以外のすべての意識に現前していると考えるのはいささか無謀です。僕は今現在、僕の部屋にいて、火事や地震に見舞われず、盗難にもあわずに、また特別には他人に見せることもなく抱えているその本。その固有の僕のプルーストシーニュ。おそらく、この存在を現在、確定的に知りえているのは僕だけでしょう。今、ここにその存在を明かしてしまいましたので、みなさんは僕の秘密を知っているわけですが(笑)

この世界には秘密の存在がありえます。僕も知らないことがたくさんあります。しかし、僕が知らないことを知っている人はたくさんいます。このように、ある条件を満たした主体にしか見えない事物というのはたくさんあり、それらは秘密と呼ばれます。

僕は、この世界には幾多の秘密が存在する可能性があると主張します。秘密は、たとえ真実を全て話したとしても消えることはありません。なぜなら、どんなに秘密を暴いていったとしても、必ずその奥という謎の存在が生じるからです。あらゆる物事には奥行きというものがあり、それは秘密にもあります。そして、その奥行きが新たな秘密を絶えず生成し続けるのです。

分かりやすく考えてみましょう。秘密A、秘密B、秘密Cの三つの秘密の存在を仮定します。この時、暴露者が秘密Aを明かしたとします。その奥には秘密BとCが残っています。Bを明かします。その奥にはCが残っています。Cを明かします。その奥にはDが残っていると暴露者は思うか、あるいはその可能性を否定しきれないでしょう。つまり、秘密とはそれ自体秘密なのであり、切りのないものです。秘密はどんなに明かそうとしても、原理上、絶対にその全容が明かされることはありません。少なくとも、この世界に「奥」がある限りは。奥のまた奥にはさらなる奥があり、その奥にはさらにさらに奥があります。秘密は奥に奥にと押しやられ、無限の彼方に隠されます。その意味では、人間はどのような秘密も暴くことはできません。秘密とは奥という結界に守られた神聖なものの一つであり、それ自体が神々の秘奥です。また、女性の話を持ち出すまでもなく、秘奥には美がありえます。

それらは奥へ奥へと絶えず人間には決して追いつくことのできない速度で進みます。秘密は、この世界を作った神々の守護により永遠に守られ続けます。この世界の誰にも、その秘密を暴くことはできません。

秘密の暴露には意味がありません。なぜなら、そうした暴露はありえないのであり、それ自体が欺瞞だからです。

あなたはたとえ裸になったとしても幾重もの美しい衣服を着ているのだ、ということであり、そういう一つの秘密です。そうしたあなたの美しい衣服の数々をあなたが愛し、あなたを愛する人は見るでしょう。しかし、それらの秘密はその他大勢の人に対しては開かれておらず、明らかにはならないでしょう。あなたとは一個の秘密であるとも言えます。そして一個の秘密は、二個になり、三個になり、四個になり……多数個にもなります。疑念はそれを持つ限り、尽きることはありません。どんなものでも疑うことができるからです。もちろん、原理上はあなたの存在を疑うことも可能です(存在とはそういうものです)。しかし、あなたは存在しています。そのままに。幾多の秘密を抱えて。あるいはそのように、ありのままのあなたの存在を信じることを「愛」と呼ぶのでしょう。あなたを知る人をあなたは愛するでしょう。

「能力」についての個人的で簡潔な意見の概要

お久しぶりです。

 

今日は能力や美と呼ばれるものについて軽く考察します。

能力とは「何かができる力」のことです。

美とは「感動を引き起こす力」のことです。

では、高能力の高能力たる所以とは何でしょうか? それは感動を引き起こすことです。

ただの能力の場合、感動はなかなか引き起こされません。しかし、例外的に卓越した立派な能力の場合には、並々ならぬ感動が引き起こされることがあります。そうした感動という現象における情動の動きは、嫉妬のような形態を取ることもあるし、憧憬のような形態を取ることもあります。能力とは美です。

さて、では次のような反論についてはどう応えるべきか? 「能力とは純粋に量の問題であって、美のような質的なものではない。例えば、学力テストなどは量として成績を掲示しており、しかしそれは能力を表すことに成功している。つまり、能力は質的な美ではなく、量の問題であり、あなたの主張は根本的に間違いである」

なるほど。たしかに、そのような意見もありうるかもしれません。この論に対しては僕ならこう答えます。「学力テストは量によって簡易的に能力を指示すかもしれないが、量とはその測定に単位の統一を必要とする。しかし、人の精神はその原理から言って多様なものであり、その単位は統一可能なものではない。つまり、本当に正確な意味での各々における精神に派生するものとしての多様な能力という事象を量として測定することは不可能である」

では、次のような反論はどうでしょうか? 「量は質に転化する。あくまで量があってこその質なのだ。量がなければ如何なる質も存立可能ではない。もしも美が質的ものなであるのならば、美とは副次的なものに過ぎず、能力の根本としては不適である。しかし美とは能力に関連した根本的な事象としての側面を持つ可能性がある。ならば、美とは量である」

なるほど。おもしろい意見だと思います。この論に対しては僕ならこう答えます。「確かに量は質に転化しうるかもしれない。しかし、量が質に転化することと量と質が同一であることとは異なる。つまり、量から転化する質の存在はありうるが量から転化しない質の存在もありうる。つまり、少なくとも量は質のすべてではない。例えば、質の高い英才教育を受けている英才児と質の低い英才教育を受けている英才児では、その才能の質が異なるであろう。質の高い英才教育をある程度の量受けている者と質の低い英才教育をその程度の量受けているものとでは、その才能の質が異なるであろう。より分かりやすく言えば、質の低い怠慢な時間を送ってきた人と質の高い修練の時間を送ってきた人では、時間の量としては同じでも、その才の出来栄えには雲泥の差が生じるであろう。そしてこの時、怠慢と修練とは異なる概念である。怠慢と言う時には一般に怠け過ぎている状態を言うのであり、怠けるという時には勉学や何らかの鍛錬とは質的に異なることをしていることを言うのである。修練するという時には、一般に努力を旺盛に行っていることを言うのであり、勉学や何らかの鍛錬をしていることを言うのである。さらにより簡潔に言えば、ピアノを弾く人と絵を描く人では、その能力の質は異なる。ピアノの技能が30レベルになった時点でその技能が絵を描く技能に転化するということはある程度はありうるのかもしれないが、基本的には稀である。なぜなら、ほとんどのピアニストが絵描きであるわけではないし、ほとんどの絵描きがピアニストになるわけではないからである。このようにそれらの差異とは質の違いであって、量の問題ではない。このようにこの世には質の問題というものがあり、それは量の問題ではない」

さて、では次のような反論は?「ピアノと絵とは原子のレベルまで化学的に分解すれば、すべては原子の挙動として統一された単位で測定することが可能である。したがってピアノの技能と絵の技能とは統一された単位によって測定することが可能であり、その根本として量である」

僕ならこう答えます。「化学的に原子レベルまで分解されたピアノや絵は、現象としてのピアノや絵とは質的に異なる。したがって、それらを同一の俎上によって論じることはできない。そうした原子レベルまで分解されたピアノなどが持ちうる音楽の存立可能性は否定はしない。音楽に限らず芸術とは誰にでも開かれたものである。しかし、それと芸術に関する能力という概念との間には差異があり、質的に異なる」

大体、以上のような感じで僕は考えています。似たもの同士ならば、近似的に単位が同一に近くなる可能性はありますので、ある程度、擬似的に量として能力を捉えられるかもしれません。しかし、その能力が卓越している場合には、そもそも比較可能な統一された単位を共有する個体がいないか希少であるため、量として捉えることは難しくなるのではないかと思います。つまり、量的能力の存在はある程度あり得ますが、同時に質的能力というものがあり、質的能力は量に還元しづらいのではないか、という一つの仮説です。統計を取るにしても、卓越した人々についてのデータはあまりに数が少なく(彼らは稀少ですので)、相当の母数を確保できなければ、有効な統計的判断は難しくなるのではないか、とも思います。本来的に質の異なるもの同士を混同するのも判断のエラーにつながると思いますし。

このような感じで、僕個人は能力とは質的な問題であり、量の問題ではない、と考えています。ただ、前述しました通り、擬似的に、というか一種の比喩としてならば、能力を量として捉えることができるかもしれないとも考えます。メカニズムは不明ですが、なぜか厳密な理論よりも比喩の方が人に伝わりやすいように思われます。僕たちは分かりやすく説明するときに、よく例え話つまり比喩を行うと思うのですが、比喩には多くの人に開かれた普遍的な特性があるのかもしれません。この点も研究してみるととても面白いかもしれません。

 

さて、僕は能力とは質であり、美であると考えています。つまり、それらは経済的な意味での貨幣などの量概念とは異なります。そして、量の分配はありえると思うのですが、質の分配はとても難しい。ピカソの絵を七十億等分して、世界の人々が所有するというのも一つの手なのかもしれませんが、基本的にはそれは紙切れとなってしまい、ピカソの渾身の芸術は毀損されてしまった……という結末になるのだと思います。社会的な地位も分配可能です。僕たちはそれをよく行っており、医師には医療の権限を分配し、裁判官には司法の権限を分配しています。権力には強さの程度があり、程度とは量の概念に関わるからこういうことが起こります。

では、「能力の程度」はどうでしょうか? それは量なのではないでしょうか? 量であれば、分配可能なのではないでしょうか? 可能でしょう。それが質的な能力でなければ。量的能力であれば、量の分配によって、能力をある程度ならば分配することが可能であると思います。例えば、勉強時間の足りない人がいたら、勉強時間の「量」を増加することで、ある程度の能力の発達を見込むことができます。しかし、同じ時間勉強させても、それぞれに能力の「質」は異なります。つまり、ここでも、量と質は同一のものではありませんし、また、質とは量から転化するばかりのものでもないということがお分かりになるのではないでしょうか。煮込み料理をする時でも、ただ漠然と煮込み時間の量だけを増やせばいいのかと言うとそういうわけでもないものと思います。様々な質的な能力や質的に異なる諸技術の集積がある質的な条件を満たしたときに、料理は美味になります。もちろん、その過程には量の概念も混入しますが(調味料の量など)、料理が「格別に」美味しいなどと言う場合には、やはりそこには格別な能力が根付いている可能性が高く、また、格別な能力とはその特性上、質的なものとするのが最適打なのではないかと思います。フライパンの具材に塩を振る、という単純な動作にも質は現れていて、これは量として表すことが困難です。例えば、「フライパン」とは「1」ではないし「26548」でもありません。フライパンはフライパンです。このように僕たちの身近には量として表せない質的な現象が多く根付いており、量とは異なるそれらの質を混同して扱うことはあまり賢い方法ではないでしょう。

そして、僕個人は「能力」については量よりも質の方が関連性が大きいであろうと考えています。能力のある人の体を等分に切断してみんなで分け合っても、能力は能力者を切断して殺した瞬間に消失してしまいます。能力は質であって、量ではない。したがって、分配できない。そういう事情があるので、量を基準にした思考の理路と言うのは時に危険なものになり得ます。本来質であるものを量の問題であるとして、身体を切り刻まれた能力者の気持になっていただければ、そこに潜む残酷性に気づく手掛かりにはなるのではないかと思います。

 

また、能力による差別はいわゆる優生思想であり、これは公的には厳密には認められません。したがって、「能力差別」は「悪」です。

では能力者を殺してもいいのか? これは生存権に抵触するので、成り立ちません。

では能力のない人は差別を被ってもいいのか? いわゆる優生思想に抵触するので、これも成り立ちません。

つまり、能力者を排除せずに、能力のない人への差別を抹消すればいい。つまり、能力者と非能力者とは平等であるというふうになればいい。双方の資質が毀損されることなく、のびのびと発揮されればよい。ひとまず、そうなりますよね。

さて、もう一段階思考を進めますと……。

すべての人が平等であるためには、その世界には個性や多様性が存在してはなりませんね? 個性や多様性があれば、どうしてもそこには差異が生まれ、それが差別の温床になります。

つまり、個性や多様性はこの時、排除されてしまいます。それが「平等」の究極の姿です。

すべての人が同じ顔をして、同じことをし、同じ世界体験を持つ、「同一」づくめな世界。それが「平等」の究極の姿かと思います。これはおかしいということが直観的にお分かりになるかと思います。一応、もう少し省察しますと……

全てが同一であり、多様性が存在してはならない世界を理想にするなら、すべては平均化されていくでしょう。つまり、最終的には究極的に平均的な唯一者のみがその世界においては残るのであり、僕たちのような多様な個性を持った普通の存在は一人残らずすべて排除されます。平等思想とは究極の優生思想に転化し得る側面があります。それと言うのも、本来質的なものを量と混同したがためにそうなります。能力は質です。それは「平等」には分配できません。

では、能力のある人を人体実験にかけて、能力を再現するのはどうか? 「科学」的にはそういう発想もありうるかもしれません。この場合は、明確に能力者への人権侵害ですので、ダメであることは直観的には分かりやすいのではないかと思います。一応、もうすこしだけ書いておきますと……

再現性を基礎とする科学的分析では、再現性がないか、薄いものについての正確な知見を得ることは難しい。一回性の出来事を科学的に検証することはとても難しい。天才などの格別な才能が分析対象であれば、特にそうでしょう。つまり、量的な科学手法によっては、基本的に質的能力へのアプローチは困難であろうとする仮説です。ご参考下さい。そもそも簡単に再現されるものであれば、それはありふれたものなのであり、つまり抜きん出たものとしての「才能」ではないはずです。どんなに人の体を切り刻んでも、人の本質には到達できません。

もう少し実利的な観点からも、能力について記述することもできます。単純に、能力の高い人を能力の低い人が利用すればいい、という話なのですが。能力の高い人は少数派なのですから、能力の低い人達は数の上では高能力者に勝っています。だから、徒党を組めばよい。徒党を組めば、ファシズムによる崩壊の危機は生じ得ますが、高能力者は利他的な人がもっぱらですから、ファシズムへの警鐘を鳴らし助けてくれるはずです。そのようにして、高能力者の高能力を利用するだけ利用すればいいのです(しばしば、それでも徒党による暴走は止まらず、惨劇が繰り返されることはありますが)。ファシズムのような極端な事例は除けば、高能力者の能力を促進して、低能力者はそれを適度に利用すればよい。一人で高能力者を独占すれば、他の嫉妬により排除されますので、したがって、高能力者とはみんなの共有物としての側面があります。独占してはならない。また、高能力者であれば、寛容な人が多いはずですので、分け隔てなく、みなさんに援助してくれるのではないかと思います。

難しい点なのですが、高能力の人ほど、奉仕に見返りを求める可能性は低いと思います。彼らはとても利他的なので。そして、とても優しいです。あなたが困っていれば、きっと助けになってくれるのではないかと思います。ただ、この知識というか体系は、表上は否定しておいた方が社会がよく機能するかもしれません。もしも、これらの仕組みについての質的な記述に擬似的な量によって反駁可能であれば、そうした擬似的な反論によってこれらの知見を隠蔽するというのは一つの手としてはありなのかもしれません。なぜなら、これらの知見を利用し過ぎる人が出てくるかもしれないからです。

例えば、無償ボランティアの過剰によって、労働力を搾取し過ぎれば、民が疲弊します。そのための口実に、「高能力の人ほど、奉仕に見返りを求める可能性は低い」などと使われてはたまったものではありませんね(笑)

どうしても、ここに書かれた知見などを援用したい場合には、極力分かりづらく書くというのも手かもしれません。すると一定の読解力がある人にしかその真意は伝わりづらくなるかと思います。

能力者は次のことを公言しておくのがいいかもしれません。

 

1:(一般的な論法における量的)能力差とは微々たるものである

2:(特殊的な論法における質的)能力差は甚大だがそうした人は稀である

3:一般的に能力に優劣はない

4:極めて特殊な場合に稀に能力への優劣の判定が「仮に」有効な場合がある

5:能力の高い人を崇拝する必要はない

6:能力の低い人も能力の高い人も各々に好きに生きていけばよい

7:多様な能力があるので、能力の高低は一概に言えるものではなく、その判断機構は極めて複雑なものとなる。

 

非能力者は次のように考えるといいかもしれません。

 

1:能力の高い人は確かにすごいが、彼らは数において劣っており、それ自体では脅威ではない。

2:政治においてもしばしば多数派の威力は甚大である

3:適切に仲間と連携すれば、高能力者と低能力者は実質的に対等な関係である。三人寄れば文殊の知恵。

4:高能力者も人間であり、人権を持つのでわざわざそれを侵害して、貴重な労働資源を損なうことは合理的ではない。

5:仲間との緊密な連携によって高能力者と対等な関係を築き、公正に「取引」を行えばよい。

6:高能力者に高能力者の世界があるように、自分と仲間にも世界がある。世界の大きさに比べれば、どんなに甚大な才能も小さなものに過ぎない。団栗の背比べである。

7:高能力者を嫉妬したとしても、結局のところ、彼らには彼らの辛さが多分にある。隣の芝生は青く見えるだけに過ぎない。わざわざ自分の手を汚してまで排除するには及ばない。

 

 

P.S.

さてもうちょっとだけ、能力について僕が思っていることを書きます。能力は美ですが、能力人つまり美人というのはかなり辛いものではないかと考えています。僕自身は美人や能力の高い人と特別に縁があるということはないので、もちろん正確なところは分からないのですが、僕に得られる情報から推理する限りでは、美人の立場というのはそんなにいいものでもないように思われます。むしろ、美や能力とは苦しみの象徴なのではないかと思われることすらあります。能力者や美人というのは不幸を特権的に享受している人々のことなのかもしれません。そんな憶測を感じることもあります。一般に、不幸を欲しがる人は少ないですが、彼らはやはり不幸なのではないかというふうにも僕には思われます。その意味では、不幸に適応するために、過剰な能力や過剰な美が必要とされ、その結果として美人や能力者となる……のかもしれません。色々な検討が必要な点かと思います。無論、美人も能力者もどちらかと言えば稀少のカテゴリーに入る方々だと思いますので、科学的検討は難しいと僕は考えます。才能があったり、美しかったりするということは、一般に思われるほどいいものではないのかもしれません。したがって、彼らのことを羨んだり、嫉妬したりするのにも及ばず、むしろ知能が普通だったり、容姿が普通だったりする人の方がずっと幸せである可能性もあると思います。色々な意見があるかと思いますが、少なくとも一面的な見方でもって、事の優劣を決めてしまったりするのは愚策だと思うので、天才や美人ではない人たちには、「彼ら(天才や美人)にも人一倍の苦労があるのではないか」といま一度想像してみることをおすすめいたします。

れるりりさんの『美少女嫌疑』などの曲は色々と美人などについてのイメージを膨らませるのにいいのではないかと思います。

あまり美人や能力者の欠点ばかりを暴き立てていると、僕が彼らのことを嫌っている風に思われる方もいるかもしれませんが、僕個人は彼らのことはとてもとても好きですのでその点は彼らにも分かっていただけるといいのですが(笑)

個人

人はどこかに向かっているのだろうか? だとすれば、それはどこに? そのようにいくら自問してみても、答えが出ることはない。それは一つの世の摂理だった。答えはない、という摂理。

では、世界の持つ諸所の仮定を考慮してみればどうだろうか? うーん……。それでもやっぱり答えはない。

言葉の上では何とでも言える、とするような言説もある。これは言葉が極度に理念的であり、その概念の機能が現実から相対的に切断されることが可能であるために起こる現象である。だから、僕たちはフィクションを紡ぐことができる。虚構を構築することができる。

物質とは何の集積なのか? 物質とはその基礎としてはある種の穢れの集積である。精神的な物象とはそれらに対しては高潔なもので、より上位のものである。精神は集積しない。または、精神に付随的な傾向とは非集積性である。

精神とは、力であり、意志であり、資本であり、純正のエネルギーである。精神的であることはその基本として貴い。

一般には物質的であるほどにそれは堕落であり、精神的であるほどに立派である。

例えば、金品に釣られて行動する人間はどちらかと言えば、高潔とは言われにくい傾向がある。一方、精神的に行動する場合には相対的に物質から自由であり、そうした状態は人々の尊敬を集めやすい。自身の身体という物質を捨てて誰かのことを守ろうとすることとか。こうした極限的な状況において、人間が守っているものとは物質と言うよりも、より精神的な宝物である。人間が何らかの物質を守ることもあるかもしれないが、その場合にはあまり感動的ではない。ある人が恋人の形見の指輪を守るという時、その指輪という物質そのものを守っているというよりは、それらに付随した様々な精神的な記憶や思い出などを守っているとするのが、より現実味のある説明ではないかと思う。恋人の形見の指輪。

そうした精神的な現象としての「指輪」は様々な形を取ることがある。思い出、約束、友情、愛情、品格、魂、それこそ精神そのものであったりもするだろう。

精神の領域は物質の領域よりも流れが速い。だから、僕たちの精神はしばしば、物質界の説話を追い越すことになる。想像力や創造力と呼ばれる力によって。こうした精神の働きは「予期」と呼ばれる。精神が様々な思考や演算を行うことで、僕たちは様々な物質の行く末をある程度予期することができる。しかし、その精神界の流れはあまりにも速いがために、正しく認知することは至難の業なのであり、僕たちはよく「思い違い」をする。そうした正しくない予期は「妄想」と呼ばれることが多い。

妄想と言うと、否定的なニュアンスが強いかもしれないが、それとはつまり精神的なものなのであり、その意味で、現実界と呼ばれる物質の集合に比しては、より高潔なものである。

妄想は行き過ぎていたり、足りなかったりする。

不足的にせよ、過剰的にせよ、「丁度よくない」のである。

多くの現象についてのリズムはいたずらに速すぎてもうまくないし、遅すぎてもうまくないものである。ヘーゲルを持ち出すまでもなく。

妄想には活力は備わっている。しかし、その「量」が丁度よくないものとして、一般には認識される。

つまり、活力の強度を場面ごとに適切な量となるように調整してやることができれば、妄想はもはや妄想ではなく、優れた予期として現れることになるであろう……などと「予期」することもできる。

あらゆる論理は万能ではない。それらは形式的なものに留まることも多いだろう。また、言葉は多様な論理で構成されているようである。

AならばBである。そのような概念の接続とはとどのつまり何であろうか? もしもそうした論理が足りなかったり、過剰であったりすると、私たちはそこに妄想を認知するだろう。バナナならば高分子化学である……このままでは意味不明である。

しかし、そこには確かに活力がある。要はそのエネルギーをうまく振り分けてやることが重要なのである。意味不明に見えるそれらの「無意味」の中に未だ見出されていない真理が潜んでいる、とも言える。

僕たちは、妄想に囚われて行動している人間に強く関心をそそられる。人の関心を呼び起こすということは、それ自体心、つまり精神に関わった事象なのであり、高潔な事象なのである。恐れと畏れとは無関係なものではない。

妄想が一貫していても、分裂していても、妄想は妄想である。どんなに一貫した体系を持っていても妄想として判断される事象はあり得る。分裂している場合には「支離滅裂」などの概念に見られるように、分かりやすく妄想のレッテルが貼られやすい。

そして、僕はあらゆる人が多くの支離滅裂さを持っていることを知っている。むしろ、態度や行動が一貫している人の方が少ないように思われる。多くの場合、人は支離滅裂さと一貫性の両方を抱え、それらの中間にある。それが「正常」と呼ばれやすい状態である。中間に真理があるとする言説は珍しいものではない。かなりの人がそうした構造に気づいてもいるであろう。過ぎたるは猶及ばざるが如し、というのは一つの真理である。一方で、ある種の過剰さに価値を見い出す思想もあるだろう。論法によっては、中間が過剰であるなどというふうにも持っていける。例えば、「中間の取り過ぎ」などと一言言ってしまえば、容易くそのような帰結を生じさせることができる。全てのものは脆い。そのままでは。

だから、強度を上げなければならない。さもなくば、全てのものが崩れ去ってしまうから。全てのものが崩れ去り、幾多の残酷的な放射が直接的に人々に降り注ぐその時、そこには理想も法も道徳も良心も愛も世界も存在しないだろう。夢も希望もない。「残酷さ」とは、丁度そういうものである。

さて、あなたが信じるものとは何だろうか? どのような装置を経由してどのように強度を上げるのだろうか? 分かりやすく問うならば「何を信じる?」だろうか? あなたは何をどのように媒介してどのような決断を下し、どのような行動を取るだろうか? 誰かと愛し合うのだろうか? 友情を育むのだろうか? セックスに溺れるのだろうか? 孤独を貫くのだろうか? それはあなたの自由である。いずれの場合にも、あなたが精神の強度を向上させようと努めるのならば、如何なる障害もあなたの意志を妨げることはできないだろう。あるいは、死すらも。

何が正しいのか? それは殺生をしないことであり、生きることである。理念的には全てのものが生かされなければならない。ただ一つとして殺されるものがあってはならない。そして自由であることである。ただ一つとして奴隷があってはならない。最後に愛することである。ただ一つとして排除されるものがあってはならない。それが正義である。そしてこれは自明であり、なおかつ、誰にもその根拠を証明することはできまい。どのような思考もそこに至ろうとするなら、アンチノミーに粉砕されて見事に一巻の終わりである。僕はそうした打ち上げ花火を何度も目撃してきた。あなたにはおすすめしない。無論、あなたのその強度豊かな高潔な魂が求める道なのであれば、その行く手を遮るものはないであろうけども。あなたが知ったことは何だろう? あなたが失ったものは何だろう? 僕に言えることは、何であったろう?

あなたの意志があなたの道を切り開くだろう。これも予期である。あるいは一種の夢であるのかもしれない。僕の。個人的な。

 

 

もう少しくらい大人でいれたら なんて言えただろう?

 

(Aimer, "Ref:rain" 歌詞より引用)

 

 

 

P.S.直観術は比喩です。

誤読

読書って、難しいですよね。ふと僕はそう思いました。

果して読書に正解というものが存在するのか否か……

うむ。難しい。これは僕の手に余る問題だ。

これはとても難しい問題です。

 

Este é um problema muito difícil.

 

ポルトガル語って、字面で何となく意味が分かるところがありますよね。おそらくポルトガル語自体を勉強したことがなくても。これってなんでなんでしょうね?

 

まず、’problema’とか’difícil’とかは何となくわかりやすい気がします。前者が'problem'で後者が'difficult'とかかなって感じられますな。すると’problema’は名詞でしょうので、その前にある'um'は冠詞なのでしょう。’difícil’が形容詞だとすれば、'muito'は何らか副詞的なもの。最もメジャーに考えると、'とても' とか 'たくさん' とかの類の意味になるかな。実際、スペリングも'muito' と 'much' ではかなり似ている。t⇒chというふうに歴史的な変遷において綴りが読み替えられていると考えれば意味も通るし、言語的にもさほど不自然ではない。すると ’problema’と’difícil’ は文型で言うところのO(目的語)C(補語)に当たりますから、残る'Este' と 'é' はそれぞれS(主語)とV(動詞)に当たると推理できます。'Este' はドイツ語の 'ist' に発音が似ています。つまり、これは何らかbe動詞的なものかあるいはそれに近接することの多い概念であると考えられる。また、主語ですので、動詞というよりは名詞でしょう。つまり、be動詞のそばにありやすくて、なおかつ何らかの短縮の作用を受けるほどの高頻度で使用される言語がこれにあ当たると考えられます。これはおそらく代名詞でしょう。では、'Este' に似た代名詞とは? st の形態が混入していますので、stが混入している代名詞を英語で考えると、これは 'this' 。発音的にも、'Es' と 'te' を裏返して読むと、'Tees' となるので、音素的にも 'this' に近いと言える。もしかすると、鏡文字的な読み方をした人の流派が現代にまで残存した結果、現代のポルトガル語では、'this'  的なものと 'este' 的なものが関連するに至ったのかもしれません。例えば、日本語の「か」や「し」はそれぞれ 'ka' , 'si' といったようにそれぞれ複数の音素でもって一つ当たりの文字の形態素が成立していますが、これに鏡文字的な作法を持ち込むと、「かし」⇒「しか」となりますので、音素的に見ますと、'kasi' , 'sika' となります。二つの音素を一組に考える形態素を鏡文字的に読み込むことによって、'this'と'este'のような照応関係が観測されるのかもしれません。色々と考えられて、興味が尽きませんが……。さて、最後は、'é' 。これはおそらくbe動詞でなおかつ、これに英語で近い形態素と言えば、字面の長さ的にも 'is' が考えられます。発音的にも結構近いと言えるかもしれません。すると、そのことから、'é' の前にある 'Este' は三人称単数の代名詞。ますます 'this' と関連する確率が高い……などというふうに色々と考えられます。こういう事を考えているのはとても楽しいです。

 

言語の組成とは、非常に複雑なものであるように思います。その変遷や歴史まで遡るのなら、相当量の美術的、音楽的、言語学的、歴史学的、その他諸々の様々な知識や学問に習熟する必要があるように思われます。

 

さて、そうした複雑な事情を踏まえた上で……

 

では読書とは?

 

謎です。

 

少なくとも言えるのは、読書ということを一律の基準で測り、一律の基準を他人に押し付け、例外や個性を排除し、自己中心的な仕方でもって、強制的で単純、さらに一律な「読書論」なるものを提言することはいささか、うまくは状況を反映できていないのではなかろうか? ということでしょう。様々な物事の状況とは非常に複雑なものであるように思われます。

 

「読書一つとっても、これほどに難しい問題であるのだ」、ということは言えるのかもしれません。

文章を読むという行為は非常に奥深いものであるように思われます。下手すると、電子情報と紙媒体の情報では、認知される情報自体が異なっている……などという結末もあり得るでしょう。そんなこんななので、私は紙媒体も電子媒体もどちらも尊重することにしています。実際、個人的な体験の範囲で言えば、紙媒体と電子媒体では、自分の脳にインプットされる情報が異なるように感じられます。この点はみなさんの経験なども随時調査していく必要がありそうです。

 

僕は本は好きに読めばいいというふうに思っています。

 

さて、そこで突き当たるのが「誤読」という概念です。これがまた肝です。何が誤読なのか? 何が正しい読書なのか?

 

おそらく、この問題は、人間の手の内を超えたものなのではないでしょうか。

 

僕達は神ではありませんので、物事の正邪や正誤を完璧な精度でもっては成し遂げることができない程度の器しか持ち合わせてはいないでしょう。

 

その中で、少しでも「正しい読み」なるものをしていこうと心がけることは大変殊勝な事でしょうし、場合によっては尊敬に値することなのかもしれません。ただ、僕はいわゆる「誤読」にも機能があるのではないか? というふうに考えています。

 

例えば、その世間において、正しいとされるものとは、その世間において権威とされるものに限られるでしょう。では、権威のないマイノリティは間違っているのでしょうか? もしも正しいもののみに存在価値が認められるのだとすれば、その時、マイノリティは排除を受けることになります。これはうまくない。大なり小なり争いが起こってしまいます。

 

ならば、その時代において正しいとされる権威の潮流意外に、マイナーなものの居場所としての「誤読」にもその位置を担保することが必要となるのではないか。

 

「誰が」正しい読書なるものを決めるのでしょうか?

 

なるほど。正しいものにのっとる事、それ自体は大切な事でしょう。しかし、僕たちの正義とは常に不完全なものです。正義はそれ自体、多様性であるような側面もあるように思われます。ならば少なくとも、他人に自分の正しさを単純に強制することは間違っているとも言えるのではないか? 僕にはそのようにも思えます。

 

また、誤読にはプラスの側面もあり得るのではないかと、僕は考えます。何故なら、誤読とは一種のエラーだから。

 

そのエラーには偶然性が根付いているかもしれない。そして、多くの発明は法則的なメソッドでというよりも、統計規則に反した天才的、あるいは奇跡的な所業によって、その存在を現すというのが専らな事であるように思われます。つまり、想定外の「エラー」によって、何らかの創造的な出来事が起こる可能性があるとも考えられるのではないでしょうか。

 

僕は、「誤り」を単純には否定したくなくて、そうしたレッテルを貼られた人たちを排除したくもない。だから、僕は「誤読」を積極的に肯定したいのです。

 

誤りは誰にでもあるものでしょう。それには負の側面が伴うこともあるかもしれない。でも、もしもその誤りを将来のために活かして、自身を積極的に発展させていくのであれば、その誤りは決して無駄ではない。

 

あなたの誤りも、僕の誤りも。

 

誤りとは、恐らくはコロコロと歴史という名の変遷を経ながら、その川の中を流れているうちに、角がとれて丸くなり、誰にでも受け入れやすいものとなった一つの形態なのではないかと感じることがあります。「丸」というものはこれまたとても意義深いものであるように思われます。「何が」丸なのか? 丸というものは正誤判定にも深く関わっている概念のようで、私達はしばしば、正解に対して、「丸」をつけます。丸とは一つの正義を指示しているようです。では、そうした丸を細かく砕いて、それらの砕石を厳密に整理するとどうなるのか? そこからは実に様々な方角へと分岐した石の傾き、接線が見受けられるようになります。自身の現時点で所有する方角を基軸として、あるものは東。あるものは西を指示すでしょう。少なくとも、その位相にあり得る限りのあらゆる方角を指示し得るのではないでしょうか。丸いものにはそうした一種の「広さ」が見受けられます。

 

x^2+y^2=r^2

2x+2y\frac{dy}{dx}=0

\frac{dy}{dx}=-\frac{x}{y}

 

広さには、「器の広さ」などというような概念もあり、才能の広さや徳の深さなどを表す機能があるように思われます。僕もできる限りは、「広く」ありたいものだなと思いますが、 そのためには、「丸く」なれなくてはいけない。そうでなくては、あらゆる方角という一つの集合を見極めることはできない。そのためには、歴史という名の川の中を流れに流れることで、ごつごつとした角を取らなくてはならない。そして、最短距離で何にもぶつからずに滞りなく進むというのではいけなくて、むしろ様々なものに激突しながら進むのでなければ、角は取れぬまま、温存されてしまうことになるのです。

 

したがって、僕は自分というものをどこまでも微分することで、その砕石をこの世界に広く行き渡らせるということを試みたい、というわけなのです! 発音素の同一性に基づいた意味の連関を認めるとすれば、或いは一種の精神の分析の技法としましても、この「石」は「意志」を指示し得るとも言い得る。意志を砕いて無意志に至るところにこそ、真に意志があるとも言えるのかもしれません。僕たちはたくさん間違って、それでも進むから、正しい方角へと絶えず向き直ることができる……のかもしれません。

 

 

P.S.直観術は比喩です。