魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

霊的な難しさ

 みなさんこんばんは。今日の話はとてもつまらないので、全然見なくていい感じです(いつもそんな感じですが(笑))。

 

 今日は適当に話題をコロコロと転がそうと思います。「散漫術」(ご興味のある方はブログ内検索からご覧ください)です。

 

 今日は善悪について考えてました。

 これは論理から出てこないよな、みたいなことを考えたり。

 すると、善悪は、直観の一種なのでしょうか。

 

 あるいは法律。

 

 法律というのは、人々の直観の集積なのかもしれません。魔術的集合体。

 

 そのように考えると、それなりに力のあるものなのやもしれない。

 

 いずれにせよ、論理ではないのだとすれば、論理で考察してもしょうがないのかもしれません。

 

 スポンジケーキを食べた後に、苺を食べると、すごく酸っぱく感じるじゃないですか。そんな感じで、論理に浸った後に、直観に浸ろうとすると、体がびっくりするみたいなことがある気がします。

 

 直観と論理の関係はとても難しいです。

 

 何が正解なのか、とか、提言できるほど、僕は偉い人間ではないので、何を言ったものかさらに難しい。

 

 突き詰めると、生きる意味、みたいなものはなくなっちゃうような気がします。僕の場合には。

 

 そんなときは、自分はどうして生まれてきたんだろうな、ということを考えたりもします。落ち込んでいるときは、絶望的なニュアンスでそれを考えることもありますし、楽しい気分のときは、学究的? な気分でその問題について取り組んでみたりもします。

 

 自分の行動の逐一に理由らしい理由をつけてみるんですけど、どれもしっくりこないというか。

 

 強いて言えば、したいことをしている、ということになるのかもしれませんが、別に取り立ててしたいことをしているわけでもない、とも言うことはできるな、ということを漠然と考えます。

 

 そもそも生きる理由事態が不明瞭なので、例えば、ブログを書く理由なども不明瞭です。

 

 特に何かを目指して書いているというわけでもないような気もします。ただ、理由はいくらでもつけれるので、本当に理由がないのかどうかも分からないのです。

 

 結局、何もわからないのですが、じゃあ、無法状態でいいのか、となると、それも難しいですし。

 

 何も決められない。

 

 こうなってくると、もう誰かが勝手に決断してくれたらそれに黙って従っているのが楽なんじゃないか、という気持ちを持つこともあります。

 

 でも、そのたまたま従った相手が、あまりよろしい人ではなかった場合とかどうなるのでしょうね。戦争とかになるのでしょうか。

 

 すると、それもそれでよろしくない。

 

 じゃあ、決断するのもよろしくないし、決断しないのもよろしくないという、すごいパラドックスの中にいるようです。

 

 多分、一律な正解はない、、、というふうに断言したいところですが、これもまた骨の折れる作業です。もしかしたら、一律な正解があるかもしれないから。

 

 本当に残念です。

 

 世界難しすぎます。

 

 そのうち、整理して書こうと思っていたんですけど、物事には上達のコツみたいなのがあるらしく、僕は個人的に三つの諺を胸に止めています。

 

 1.継続は力なり

 2.塵も積もれば山となる

 3.急がば回れ

 

 この三つを主眼にして行動していると、挫折せずに色々なことを上達することができるようです。どこまで上達するのかはわからないのですが。この話って前にしましたっけ?

 似たようなことはお話させていただいたかもしれませんが、個人的に、この三つの諺がとてもお気に入りで、とてもお勧めです。

 

 勉強する方など、気が向いたらご参考下さい。

 

 それで、どうして、この三つの諺が僕にとって、有効性を持っているのかな、ということをいつも考えるのですが、よくわからないんですよね。理由らしい理由はいくらでもつけられますが、究極原因のようなものが見当たらない。つまり、メカニズムが不明なのです。

 

 その意味では、諺というのは一個の呪文というか、魔術のようなものなのだと思います。

 

 みなさんも気が向いたら、諺とか勉強なさってみると面白いかもしれません。僕はよく諺の力に助けられています。

 

 諺とか古典の言葉とか。

 

 それで、色々な諺を見ているんですけど、なぜか上記の三つが、自分の成長にとって重要な言葉らしい、という感じなのです。本当にどうしてなのかわからないのですが。

 どうしてなんでしょうね。不思議です。

 

 統合失調症のメカニズムくらい難しい。

 

 多分、病気の診断とかも、これと似たような感じなのかな、と思うこともあります。

 

 つまり、理由はわからないけど、兎に角病気、みたいな。

 

 一歩間違えれば危険な発想にもなり得ると思うのですが。とても慎重にならざるを得ないところかと思います。

 

 恋愛とかも精神疾患として処理される時代は来るのでしょうかね?

 

 病名「恋愛」みたいな。

 

 どうなのでしょうね。恋愛を治療する薬とか、どんなものなのでしょうか。また、そのような世界とはどのような世界なのか。

 

 興味はありますが、多少怖い感じもしますね。この恐怖感は僕の動物的本能かもしれません。結局、こういう恐怖感というか、本能というか、感受性? みたいなものによって、立法は成り立っているのでしょうか?

 

 理屈でないとすると。

 

 不思議です。

 

 統一見解とか作るのってホント大変ですよね。

 

 実際ほとんどないのではないでしょうか。全ての人が合意する見解なんて。

 

 精々、一部の人たちの間で合意を取り付けるのが精いっぱいなのかな、と思ったりもします。

 

 意見は割れに割れてしますからね。人間の多様性。好ましいと思います。

 

 そういう仲たがいというか、生物的多様性のおかげで、僕は今生きているのか、と考えると感慨深いです。

 

 特に生きたいと思って生きているわけではありませんが、別段死にたいわけでもないですし。

 

 僕には本当に何もわからないのです。

 

 そこで、僕はつぎのことをとりあえず断言して暮らしています。

 

 1.犯罪をしない。

 2.必要最低限の礼儀を守る。

 3.後は極力自由にする。

 

 これらの境界の規準とか、程度の議論とかすると、いくらでも複雑化できますが、シンプルには僕はこのように暮らしています。

 

 ちなみにこれがいいことなのか悪いことなのかはわかりません。

 

 合理性ではないものというのがどういうものなのか、ということを考えると、分かりやすくは、クオリアとかなのかな、と思います。

 

 例えば、目の前のペットボトルそのもの、というか、現象そのものはいくら言葉を尽しても合理的には説明できないような気もします。

 

 何にしても、難しいです。

 

 ひと時、自分がこじらせているだけなのではないかと考え、思考をシンプルに洗練しようとした時期があったのですが、どう考えても、合理的には何も決定できないよな、みたいなことを延々と考えて挫折しました(笑)

 

 ただ、そんな中でも、とりあえず、色々なことが、僕が思うよりもずっと複雑で難しいのだということはわかった気がするので、それはそれでよかったのではないかと、自分を慰める意味も含めて、言い聞かせたりもします。

 

 そのように考えると、すべての現象が魔術に見えてきてしまいますので、これはどうなのでしょうね。いいことなのか悪いことなのか。

 

 悪用すれば悪いのでしょうし、良いことに使えば良いということになるのかもしれません。

 

 ただ、取りあえず、色々なことを勉強するのは楽しいです。

 

 これは断言してもいいんじゃないかな。個人的な感想としては。毎日勉強して、わからなかったことが少しずつ分かるようになったり、あるいはうまくできなかったことが上手くできるようになっていくのを観察していると、とても楽しいと思います。

 

 メカニズムは不明です(笑)

 

 そうですね。メカニズムは不明ですね(笑) 何事も。

 

 言葉がどうして相手に通じることがあるのか、とか、本当に謎なんですよね。なんでなんでしょう。

 

 不思議すぎる。

 

 あるいは、どんな言葉も相手に通じていないのでしょうか。

 

 だとすれば、僕たちの日常生活が、曲がりなりにも成り立っていることについての説明がつきづらいです。多分、つうじているんでしょうね。言葉。

 

 不思議です。

 

 どうして、人に通じない言葉と通じる言葉があるのか。どうして、時に反発し、反動があったりするのか。なぜ、いつもいつも仲良くできないのか。あるいは、仲良くすることは果たして正義なのか。

 

 謎です。

 

 禅問答過ぎる。

 

 答えのない問いを生きている気分です。

 

 本気思うんですけど、僕の話とかかなりマジで聞かなくていいと思いますよ。もちろん、聞いてくれるのなら、それもうれしいですが。

 

 ただ、自分の考えが絶対の正義なのか、と言われると、絶対そうじゃないような、わからないことだらけだし、みたいに思いますので、鵜呑みとかにはしない方がいいと思います。

 

 結局は、個々人の、、、何というんだろう? 霊的な? 感じのことなのだと思います。あなたの魂が命じることをあなたが為す、という感じ。

 

 科学に未だ回収されていない何か。

 

 科学で解明できない事態が起こっているのなら、科学ではないものに拠り所を見いだすしかない。法律とか宗教とか。

 

 人間の人生って、ないものねだりみたいなものがとても多いのかな、と思ったりすることもあります。

 

 多分、お金持ちなら後は自動的に幸せなのか、と言われると、首をひねるところもありますし、では、美人なら無条件で幸せなのか、と言われると、やはり難しいように思います。

 

 すると、幸せっていうものが何なのかが素でわからないので、これはもう、各々の魂が命じるままにするしかないだろうと(笑)

 

 ただ、僕は犯罪はダメだ、というふうに決めていますので、絶対に犯罪しちゃダメ、というふうに言います。

 

 もちろん、僕の言葉には何の強制力も、現実的にはないのかもしれませんが。

 

 多分、犯罪とかしたら、悲しくなる人もいるだろうな、と思って。だから、そこは決めています。

 

 みんなが殺人犯とかになったら、大変な世の中だと思いますし。

 

 ただ、国家が犯罪を犯す場合には、犯罪的手段で対抗することもあるのかもしれません。正当防衛として。

 

 いずれにせよ、その時になってみなければ、どうなるのかわからないですし、その時になったとしても、何が正解なのかはわからないのかもしれませんが。感じることはできる、という可能性もなくはないですが。感情的になりすぎると危ない面もありますし。結局、何もかもうたかたに帰するというか、不明の渦の中に吸い込まれていきます。

 

 しかしまあ、構成しないで、散漫に文章書いていると、気分はよくなりますね。多分、ある種の直観によって文章を書くと、心理上それなりに良い効果があるのではないかと勘ぐってしまうくらいです。

 

 いかにいつもの自分が、自分を抑圧して文章を書いているかがわかります。

 

 抑圧してあの程度ということについては御愛嬌ということにしていただけると助かります。面目ないです。

 

 「散漫術」は、多視点化、を意図するものなので、話題を飛躍させるようには努めているのですが。

 

 僕が統合失調症だから、連想を飛躍させた文章の方が、体質的に身体に合っているということもあるのかもしれません。

 

 ただ、いつもいつもこのような文章だとみなさん読むの疲れるかもしれませんし、多視点化には速効性はなく、遅効性なので、効果もわかりづらく、あまり集客? 効果はないかもしれません。

 

 すべてのことが根源的に不安状態にあり、何も決められないので、ある種の優柔不断状態。

 

 実存的不安とかっていうのかな? こういうのは。

 

 実存的不安は存在しないという意見もあるかもしれませんし、僕みたいに、それを感じていると主張する人もいるかもしれませんが、どちらが正しいのかはわかりません(笑) ただ、僕は僕の感覚に嘘をつかないという行動方針を取った場合には、やはり、自分の感覚を信用するのでしょうね。あまり他人に依存するわけにもいきませんし。助け合いは必要だと思いますが。

 

 このブログでは、主に、色々なことを検討してみているのですが、これは「疑い」のベクトルですよね。それで、「信じる」というベクトルもあるのですが、僕の場合、何でも疑えてしまう側面もあるのですが、逆に何でも信じてしまえる側面もあって。

 

 信じるか疑うかを、ある程度選択している感じがあります。結局何もわからないので。なんというべきか、自律的に何でも決められる感じ(僕が立派な人間という意味ではないです。この場合、言葉のままの意味な感じ。言葉は難しいですね。このニュアンスどうすれば伝わるのやら)。

 

 何か言葉にしがたい感じがします。

 

 さっきから、「微妙」なニュアンスを言葉にしようと奔走しているのですが、これらは論理的に言葉にできるものでもないと思いますので、散漫な文章という形をとってしまうケースもあるようです。一つの一例としてこの文章が何らかのデータになれば、幸ですが、しかし、一種のガラクタが製造されているという可能性も無きにしも非ず(笑)

 

 あんまり需要のある類の文章ではないと思います。ただ、確実に、自分の気持は軽くなった(笑)

 

 オープンダイアローグみたいな効果があるのかもしれません。自分の感じていることを言葉にして、心が軽くなるみたいな。

 

 この辺りも賛否両論かと思いますが。

 

 目的があって会話しているのではなく、会話自体が目的というアクロバティック? な発想。

 

 でも、実際、こうして、つらつらと徒然草ばりに書き連ねていると、気持が多少楽になる感覚はあるみたいですから、会話自体が目的というのもありなのかもしれません。

 

 目的のない会話は、「雑談」とか呼ばれるのでしょうか。

 

 その意味では、雑談にはそれなりに楽しみがあるのかもしれない。

 

 この文章とか雑談過ぎて、最早何の話をしているのかわからない感じになっていますが。

 

 色々な事って突き詰めるとほんとうに分からないんだよな。不思議。不思議。不思議。

 

 資本主義も絶対のものではないんでしょうけど、これからどうなっていくのでしょうね。いろんな弊害もあるんでしょうし。かといって、共産主義になるのか、というとそれもまた。

 

 何にしても難しすぎてわからないです。

 

 その中で、何か提言していける人たちって本当にすごいと思いますよ。僕とかは、ただ、有効性について検証しているだけですからね。何かを判断しているというわけでは必ずしもない。

 

 最近はサイコパス、という概念もありますよね。

 

 思うんですけど、一度サイコパスと認定されてしまうと、その人は、ハブられてしまうことになるのでしょうか?

 

 だとしたら、ちょっと恐い概念だな、と思いました。なんというか、いじめとかに使われたりしないといいな、と。

 

 こうして、文章を書いていると、自分の中の思考が整理はされてきますね。ブログに上げるというプレッシャーもありますので、余計に思考が整理されている感もあります。いろいろな思考を整理する一つの手段として、ブログを書くというのはありかも知れないと思いました。発想とか整理されてきました。人に見せない文章を書くのとはまた違った感覚です。

 

 人に見られているか否か、というのは人間にとって、かなり大きな問題なのかもしれない、というふうに感じます。

 

 やはり、多少なりとも見られていると、引き締まる思いはするかもしれません。適度なストレス感覚。

 

 僕にとって、ネットは良いこともあるのですが、過酷なことも多いです。あんまり罵詈雑言を見過ぎると、気分を害することもある気がします。最近はだいぶ慣れてきた方かもしれません。罵詈雑言を言う人の心境などを想像してみると、いろいろとたいへんなことがあるんだろうな、というふうに感じることもあります。お互い大変ですね。みたいなちょっとしたシンパシーを感じるかもしれません(笑)

 

 罵詈雑言というと悪い感じもしますけど、あれ、言う方も結構大変なんじゃないかな、と思って。

 

 みんな色々と大変なのかもしれません。

 

 生きている人はみんなすごいと思いますね。本当に。

 

 死んだ人にもすごい人たくさんいると思いますが。

 

 幅広くコミュニケーションをとるべきか否かについて考えることもあります。

 

 自分と異なる人とお話をしたりすれば、価値観は広がるかもしれません。しかし、それを奨励すれば、摩擦が増えるかもしれません。すると、その摩擦で擦り切れてしまうこともあるかもしれない。

 

 そのように考えると、狭くコミュニケーションをとるべきなのか、広くコミュニケーションをとるべきなのか、悩みます。

 

 気の知れた人とお話するのはとても楽でいいのですが、知らない人とお話するのも刺激的ではあります。

 

 そう考えると、どっちも大切なのかな。多分。

 

 中間が大切なのでしょうか。

 

 色々な思想があり得るところかと思います。

 

 隔離とインクルージョン

 

 難しいところです。

 

 今日はとにかく、なにも難しいというお話になりました。

 そりゃ、難しいですよね。

 

 簡単に解決できたら、苦労する人はいないんでしょうし。

 

 結局、魂? 次第なのかな、と思いました(笑) スピリチュアルな結論ですが。

 

 論理では結論が出そうにありません。

 

 感情や感覚に従いすぎるのも危ないのかもしれません。

 

 だったら、もう魂しかないじゃないか、みたいな(笑)

 

 猜疑心も一長一短なのかもしれません。必要なこともあれば、有効でないこともあるのかも。メカニズムは不明ですが。疑っていると、何にもわからないですし。「魔術」ならわかるのかもしれませんが。

 

 気が向いたらご参考下さい。

 

 今日は以上です。

 

 ではでは~ 

「キモさ」の長所について

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、「キモさ」つまり、「気持ち悪さ」の長所について少し考えてみようと思います。

 

 現代において、一般的に人が「気持ち悪い」と思う事態とは主に、次の二点のように、個人的に思われます。

 

 1.性愛の過剰

 2.コミュニケーションの過剰

 

 例えば、「性的な視線が気持ち悪い」とか、「性的言動が気持ち悪い」とか、「ボディタッチが気持ち悪い」とか。これは、性愛方面の過剰のために気持ち悪いと感じているのだろうというふうに見受けられます。

 

 また、「プライベートに立ち入って来て気持ち悪い」とか、「こちらのことを深く尋ねてきて気持ち悪い」とか、「自分のことを深く話していて気持ち悪い(多分、「自己アピールが気持ち悪い」という概念とかはこれ)」とか。これは、コミュニケーションの過剰のために気持ち悪いと判断されているのだろうというふうに見受けられます。

 

 では、性愛とは何か?

 

 これは、「生まれつきの性質に根付いた欲求(あるいは欲望)」ということのようです。

 

 「性」というのが性質、本性、そして、「愛」というのが愛欲、欲望、欲求。

 

 「性」には男性もあるでしょうし、女性もあるでしょうし、トランスジェンダーとか色々あるのだろうと思います。色々な本質、本性があるようです。

 

 色んな性欲があるようです。色んなフェチもあるでしょうし。

 

 それで、そう言った「性」というのは語義的に言って、その人の本性、つまり、「深いところ」に根差した一種の本質のことなのだと思います。

 

 つまり、「性に関わる」という場合、これは、人として「深く関わる」ということを示すと捉えることができます。

 

 また、「コミュニケーションの過剰」と言った場合、これは、「表面」上の関係性から逸脱して、深いコミュニケーションを取ることであろうというふうに捉える見方もできます。つまり、この場合も、「キモさ」の原因となっているのは、人と「深く関わる」ことのようです。

 

 以上のことから、「キモさ」という印象の原因について、次のようなことが考えられます。

 

 深く関わるのがキモい(気持ち悪い)

 

 では、どうすれば、気持ち悪いと思われないか。

 

 単純に考えれば、この逆を行けばよいことになります。つまり、気持ち悪いと思われないためには、人と深く関わらなければよい。

 

 つまり、気持ち悪くないと思われることが多いと考えられる人とは、次のような人であると考えられます。

 

 表面上の付き合いだけをする人はキモい(気持ち悪い)と思われない

 

 とにかく、深い話をしなかったり、深い関係にならなかったり、深いことをしなかったりすれば、気持ち悪いとは思われないのであろう、というふうに考えられます。つまり、自分を出さず、また相手の深いところにも立ち入らず、表面上相手に合わせて笑っていればよい、ということ。

 

 この原則が正しいとすると、何かに深く関わっている人が気持ち悪いと判定される可能性があることになります。

 

 例えば、何かの関わりの過剰としての「マニア」や「オタク」、はたまた「専門家」と言った人々を気持ち悪いと判定する人がいる可能性が生じてきます。

 

 とにかく、何かに熱中していたり、深く過剰に関わっていると、それは「キモい」と判定される可能性が高くなるのではないか、というひとつの仮説です。言い方を変えれば、過剰性、つまり、逸脱しているもの、普通でないもの、変わっているもの、その文化から見て珍しい希少価値のあるものが、「キモい」、と認識されることが多いのではないかという仮説。

 

 とは言え、それらが深い関わりであったとしても、マニアやオタクたちの紡いでいる文化や知識は並大抵のものではなく、非常におもしろいものであると思いますし、専門家の技術が僕たちに恩恵を与えてくれていることについては言うまでもないことでしょう。

 

 つまり、「キモさ」(気持ち悪い)というのは、長所にもなり得るのではないでしょうか。

 

 今日はそのように考えてみました。

 

 また、この路線で言えば、深い関わり、例えば、恋愛やセックスなども、気持ち悪いと判定される可能性もあります。

 

 恋愛的アプローチなども気持ち悪いと判定されることもあるかもしれません。

 

 したがって、この空気感が蔓延すると、少子化が加速するのではないか、などということを人知れず想像してしまったりもします(笑)

 

 なので、個人的には、過剰に深い関りとしての「キモさ」は、僕はある程度奨励されてもいいのではないかと思ったりもします(笑)

 

 「キモくなれ!」って言うのもなんだか――というかかなり(笑)――おかしい話だとは思うのですが。

 

 キモくなれとは言わないまでも、多少はキモくてもいいのではないか、とは思うこともあります。逆に、キモさを完璧に排除してしまおうとすると、性愛やコミュニケーションに支障が出るかもしれません。「キモさ」にも役割りというか、「機能」があるわけですね。この世には、なんの機能もないものは存在しないのだと思います。

 

 おそらく、実際には、「何が深いのか」という感受性が多様で、連続体的に、グラデーションになっているのであろうと思いますので、同じ事象を見ても、キモいと思う人と思わない人がいるはずです(感受性の多様性)。また、発言者によっても受け手の感じ方は変わってくるのかもしれません。例えば、「この人はすごい人だから、少しくらいのことは許せる」とか、「この人はすごくない人だから、許せない」とか。人によって、尊敬している人とか価値観、物事の許容範囲などは多様に異なってきますので(当ブログの「地位術」など参照)、そこら辺の「関係の機微」にも注目していけるとより良いコミュニケーションなり、アプローチなりがあり得てくるのかもしれません。つまり、自分に合ったコミュニケーションスタイル、相手に合ったコミュニケーションスタイルというものがある程度あるのかもしれません。

 

 だから、相手にキモいと思われず、かつ、仲良くやるためには、その人の感受性に合わせてケースバイケースに行動していくことが必要なのかもしれません。つまり、相手が持っているパーソナルスペースをよく見て、キモくないように少しずつアプローチするのが合理的、なのかもしれません。急いては事を仕損じる、急がば回れというか(僕はモテないのでこの辺りの機微についてあまり詳しくはないのですが(笑) 正確な所は性愛の専門家に尋ねてみて下さい)。

 

 世の中には、色々な感受性の人がいますので、恐らく、キモいと思われる確率をゼロにすることはできないのではないかとは思いますが(笑)

 

 多分、急に近づかれて、びっくりして、「キモい」という言葉が出るのかな? と個人的に想像したりもします。「僕の/私の、心(パーソナルスペース)に土足で入ってこないで!」みたいな。アレルギー反応というか、心のアナフィラキシーショックのようなものなのかもしれません。

 

 あんまり気にしすぎると何もできなくなってしまうかもしれませんが、ある程度気にしないと、キモいと思われてしまうのかもしれません(笑)

 

 では、キモい(気持ち悪い)の反対の、「気持ちいい」とはこれは何なのでしょう?

 

 これについても少し考えてみようかと思います。

 

 これは好きなことに熱中している時とか、好きな人と話している時とか、好きな人とセックスしたりしている時とか、色々あるのだろうと思います。

 

 色々あると思うんですけど、これらっていうのは、基本的には、「深い関り」ですよね。「熱中」は深い関りですし、好きな人と話していて楽しいのは、表面上じゃない、普段はできない深い話ができるからだし、最後の項目については言わずもがな、なのかなあと思います。

 

 つまり、どうも「気持ちいいこと」が「キモい(気持ち悪い)」と判定されるようにも見受けられます。

 

 ここに、「キモさ」問題についての、矛盾した構造を抽出することができます。

 

 「気持ち悪い」=「気持ちいい」

 

 あるいは、

 

 「気持ちいい」=「気持ち悪い」

 

 なんというパラドックス(笑)

 

 これはとても面白い構造ですね。

 

 このテーゼを敷延すると、より面白い現象を確認することができます。

 

 気持ちいい人とは、気持ち悪い人のことである。

 

 つまり、気持ちいい人になるためには、気持ち悪い人にならなければならないと推定されます。

 

 ならば、気持ちいい、と気持ち悪い、は、ある意味、表裏一体の構造を持っているのかもしれません。語弊を恐れずに言えば、「嫌よ嫌よも好きのうち」という構造ではあります(これが真実であるかどうかは、僕にも分かりません。ぜひご興味のある方は、検証してみて下さいませ。犯罪はダメですよ?)。

 

 ここで、気持ちいい人のことを、仮に「モテる人」であると考えるとすれば、さらに奇妙なことになります。

 

 モテる人はキモい

 

 実に奇妙な主張です。一体このブログはどうしてしまったのでしょうか。もしかしたら、僕の頭がおかしくなってしまったのかもしれません(もとからおかしいのですが(笑))。

 

 つまり、世間でキモいと思われることをすると、モテるという可能性(犯罪はダメだぞ☆)。

 

 僕のようにモテない人間にとっては実に興味深い結論です。

 

 はたして、モテる人はキモいと認識されると考え得るのか。

 

 まず、モテる人が嫉妬されると仮定すると、これはキモいと認識される可能性があるでしょう。では、現実的にモテる人は嫉妬されるということはあり得るのか? これは、常識的に考えて、あり得ると言えるかもしれません。

 

 ならば、やはり、「モテる人はキモい」、というこの奇妙なテーゼがある程度の有効性を持っているのかもしれません。僕のような人間には判定しようもないことですが。奇妙過ぎてもはや、神々の領域です。謎です。

 

 モテる人はキモい、という主張が成立するのなら、モテない人はキモくない、ということになります。この場合、モテる人は、「気持ちいい」and「気持ち悪い」となると推理されますが、そうすると、モテない人は気持ちよくも気持ち悪くもないと考えられます。これがそうならば、「モテないということはよくも悪くも思われていないということ」という一つの可能性が浮き上がってきます。検証が待たれるところかもしれません。このように考えた場合には、「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」である、というひとつの結論となります。すると、嫌いという感情は好きという感情に反転し得るものなのかもしれませんが、相手の嫌がることをするとストーカーなどになってしまう恐れがありますので、おすすめできません。これらの記述はひとつの「思考実験」としてお考えください。

 

 できれば、恋愛系の事柄はあまりしゃべりたくはないのですが(「キモい」と判定される確率が高いと推定されるので)、たまには、多少「深い」話をしてもいいのかもしれませんので、今日の記事を書いてみました。それでも、この記事が、みなさんにとって、少しでも「キモい=気持ちいい=深い」記事であればいいな、とも思います。

 

 

P.S.それにしても、次のような疑問があります。

 

 「浅い」のは気持ちよくないのか?

 

 みなさんは、「浅い話」は楽しいでしょうか? 場合にもよると思いますが、一般的に、「話が浅い」という場合、これはあまりいい印象はないようにも思われます。

 

 すると、一般的には、浅いのは気持ちよくないというか、あるいは、深い快感よりは浅い快感にとどまるのかもしれません。

 

 そもそも、何が浅く、何が深いのかも判断が難しいです。「浅い川も深く渡れ」という言葉もあるみたいですし。

 

 コミュニケーションにおいては、地雷がどこに埋まっているかもわからないと思いますので、その人の感受性に適切なアプローチを取るというのは、論理的に考えると本当に難しいことのようです。

 

 そう考えると、むしろ、言語よりも、非言語的なコミュニケーションの方が、アプローチには重要なのかもしれません。言葉にならないものを読みとる力とか。この力も個人差や多様性があるのでしょうね(自閉症スペクトラム、エンパスなどの概念を参照)。そうすると、話や何らかのやり取りなどが心底深くかみ合うというのは奇跡的なことなのではないかという気もしてきます。感受性の奇跡的な一致。

 

 みなさんも「深い」話ができる友人などいらっしゃいましたら、大切にしてみて下さいませ。多分、そういう深い関りを持てる友人、つまり「親友」というのはとても貴重なものなのだろうと個人的には思います(出会えたこと自体が奇跡的なこと)。親友と、たくさん「キモい=気持ちいい」話をしてみるといいのかもしれません。

 

 また、「キモさ」については次のようにも考えられます。

 

 「キモさ」とは「執着」のことである。

 

 つまり、粘着気質なのがキモいのだろう、という仮説です。

 

 これも分析してみるとそれなりに面白そうです。

 

 執着は、ある意味、「その人でなければならない」という思いであり、ある意味、「愛着」の一種ではあるかもしれません。これは、「深い関り」に相当しますね。だから、あまり過剰に執着すると、キモいと思われるのかもしれません。

 

 だからと言って、執着がまったくないと、「誰でもいいのか? 愛着がないのか?」という疑問が頭をもたげることになるのかもしれません。

 

 その意味では、「気持ちよくも悪くもない」と「気持ち悪い=気持ちいい」の「中間」を取っていけるといいのかもしれません。バランスのいいところ。そして、このバランスの最適値は、人それぞれであり、人間である限りミスはなくならないと思いますので、行き過ぎたり足りなすぎたりすることもあるかもしれません。相手の感受性、パーソナルスペースをうまく見極めながら試行錯誤、ケースバイケース、臨機応変に対応するしかないのかもしれません。あるいは、アプローチのメソッドを決めてしまって、確率的にアプローチするか(失敗するリスクは承知の上、みたいな感じ。臨機応変にアプローチしても、確率的にしても、どちらにしても失敗するときはするのかもしれませんが)。

 

 このように、「キモい」vs「モテ」の二項対立で考えると難しいことも、グラデーション、連続体、「スペクトラム」と考えて、人それぞれで多様な感受性のホメオスターシス、バランス、最適値、あるいは「中間」を取ろうというふうに考えると、おもしろいというか、ある程度整理できるかもしれません。この人は根が社交的だから75パーセントくらいのアプローチ率(深い関りの度数、つまり「キモさ」の率)がいい、とか、この人は人見知りだしこちらとはあまり親しくないから5パーセントくらいのアプローチ率(キモさの率)がいいとか。0%(アプローチをしない)か100%(アプローチしかしない)かというふうな二極思考ではなく(もちろん、アプローチしたくなかったらしなくていいし、アプローチされても無理に応じることはないと思います。その辺はある程度は個人の自由ではないでしょうか)。そんな感じ。こういうのを、「押し引き」とか「駆け引き」とか言うのかもしれません。気が向いたらご参考下さい。

 

 今日はそんな感じです。少しでも参考になるところなどあれば幸いです。

 

 ではでは~

 

 

 

 

非武装型護身術

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、「護身」について書きます。

 

 護身とは、文字通り、「危険から身を守ること」です。

 

 実際には人間には良心があると考えられるので、基本的には残虐なことはそれほど起きない、という推定のもとに僕たちは暮しています。そういう楽観性がなければ、到底僕たちは、不安で生きていくことができません。

 

 ここでは、どうすればあらゆる人が、自分の身を守ることができるかを、どちらかと言えば、ミクロ視点で考えてみようと思います。

 

 基本としては、当ブログの「統治術」(ブログ内検索からご覧ください)に書かれている知識を用いています(つまり、ここに書かれること以上に、まず統治術、あるいは「アジ―ル」を確保することがすべての人のために重要であると端に論理的には考えられる)。

 

 それを踏まえたうえで、今日のお話を始めます。

 

 とりあえず、まず、「敵」とされる人に、良心がなく、その人はエゴイスティックに行動するものと仮定します。

 

 まず、大前提、基本。

 

 それは、犯罪をしないことです。

 

 犯罪をすると、容易に警察権力に介入されることになります。これでは、その人がいかに良いことをしていたとしても、マイナスとなってしまいます。

 

 だから、まず、犯罪をしないこと。これが最大の基本です。

 

 少しこの原則がなぜ成立するのかについてのメカニズムを説明します。

 

 まず、僕たちの世界には、「返報性の原理」と呼ばれるものが根付いています。

 

 つまり、もしもあなたが、犯罪をすれば、他者にも犯罪行為の行使の動機、およびきっかけを許してしまい(つまり、なんらかの形でやり返される)、これは、護身の観点からは、あまり好ましくない。

 

 したがって、自分を犯罪行為から守るためにも、自分が犯罪行為をしてはならない。これが基本となります。やり返されないためには、自分が犯罪をしてはならない、という感じです。

 

 逆に言えば、大なり小なり、自分が良心を行使することで、他者に良心を誘発することができると考えられます。良心が返報性の原理をつうじて、感染するということです。

 

 よって、護身の基本手法としては、自分が犯罪をせず、「良心を持つ」、ということが非常に有効となります。

 

 逆に、自分が誰かに対し、非道なことをした場合、その人は自分にも非道な災いが降りかかる可能性が高くなります(この場合の、返報性の原理を、「因果応報」と呼ぶこともあります。因果説については諸説あり得ますが、ここでは、ある程度因果則が成立するものと想定しておきます)。

 

 残酷で非道な人よりも、良心ある人の方が、恐らく人々から守られやすいであろうと推定します。

 

 では、良心が通じない相手、つまり、良心がない相手を想定した場合、これはどうするか。

 

 この場合には、正当な防衛を行うか、逃げるかしかないと考えられます。

 

 まず、相手に良心が通じないとするなら、これは基本的な防衛手法が通じない例であると言えます。

 

 したがって、この場合に限り、ある程度武装が正当となり得ます。

 

 逆に、この場合の武装を認めなかった場合には、その人は、自分が良心が通じない相手に遭遇した場合に自滅すると考えられ、護身としてはうまくありません。

 

 したがって、ある程度は、正当な武装、という概念の可能性はあり得てきます。

 

 今回は、非武装型の護身術ですので、これらの武装を用いた護身術については割愛します。

 

 つまり、「そもそも危険な事態に遭遇する確率を減らすためにはどうすればいいか」を考えます。基本は良心を持つこと、犯罪をしない事です。

 

 まず、危険な事態の根本原因は、いわゆる法治国家においては、ほとんどの場合、その法のエラー、つまり、権力の暴走、間違った使用法にもとづくと考えられます。

 

 権力の暴走には、大きく次のようなものがあります。

 

 1.情報統制の過剰。

 2.身体統制の過剰。

 3.結社統制の過剰。

 

 まず、情報統制が強すぎた場合には、情報の選別が強く働きすぎるため、この場合、「偏見」が醸成され、統計的な判断基準で見るなら、データの偏りのために、エラーを頻出するようになり、結果、権力は腐敗、および崩壊に至ると考えられます。

 逆に言えば、腐敗した権力を破壊する一つの手法として、「情報統制をわざと強くさせる」という手法は考えられます。情報統制がつよくなるほどに、その権力は逼迫し、また、自滅を速めることができるとは考えられますが、できれば、使いたくない手法ではあります。相手が敵であるにしても、自滅するところを見たいと思う人はほとんどいないのではないでしょうか。できれば、敵をも救うのが正着打です。誰も見捨てないことが統治術の基本となります。

 

 身体統制が強すぎた場合には、これは、身体拘束が強すぎるため、個体のデータ収集に偏りが生じ、人体に偏見が醸成されます。この場合、擬似的に、情報を統制した場合と同じ事態が国家全体に生じ、また自滅すると推定されます。

 したがって、たとえば、あなたが冤罪で拘束されたとしましょう。しかし、その「拘束」行為を、国家が強く行えば行うほど、国家は自滅に向かうであろうと推定されます。また、非人道的なことが行われた場合には、良心ある人々の反逆も想定されますので、ますます国家、および権力自体の弱体化が進行するであろうと想定されます。よって、冤罪で拘束されたとしても、――権力の判断のエラーが大きいほどに。つまり、その拘束が「不当」な拘束であるほどに――権力は弱体化するであろうと想定されます。したがって、冤罪で拘束されたとしても、必ずしも希望を失う必要はなく、あなたが不当な処罰をされる前に、正当な開放がもたらされる可能性もそれなりに高いです。その意味から言っても、犯罪をしないこと、そして、良心を持っていることは、護身術として合理的です。なぜなら、あなたが良心を持って人々に接すれば、大なり小なり、返報性の原理によって、人々の良心がそれに応える可能性が高いからです。その意味から言えば、追い詰められたなら、追い詰められるほどに、良心を放棄しないことが護身のために、より合理的戦略であると言えるでしょう。

 

 次に、「結社統制の過剰」について、これは、治安維持法のような、いわゆる「悪法」に相当するものです。これは、人々が結びつくことを、妨害する権力側の手法であると考えられ、つまり、一種の「分断工作」です。人々が結束するのを防ぐことで、権力が持つ、人々に対する優勢を保とうとする手法ですが、これも最終的には自滅にいたります。「おごれるものは久しからず、盛者必衰」とも言います。

 まず、国家や権力は、基本的に、人々の信頼と投資により成り立つものです。その「人々」を分断工作によって、逼迫させるなら、確実に、その共同体、権力体は滅ぶと想定できます。人々によって成り立っているものを、その人々を抑圧することによっては維持することはできません。

 よって、分断工作も、権力の腐敗兆候のひとつであると言え、結社統制が過剰となった場合、これも、権力の自滅を招くと想定されます。

 人は一人では生きていけないものであり、それを分断すれば、人々の精力は衰えるでしょう。そうなれば、労働力も、資本力も、国力も、生産力も、すべて低下すると想定されます。いわゆる「ディストピア」の構図。

 したがって、結社統制の過剰は、護身術の観点からは、合理的ではありません。

 

 以上の帰結より、護身するために、何をすればよいかを、想定することができます。

 

 1.情報の自由化

 2.身体の自由化

 3.結社の自由化

 

 これら三つのはたらきを備えることが、自滅を避ける、つまり、護身するうえで重要となります。

 

 つまり、情報を統制したリ、身体を拘束したり、結社や協力関係を分断し、人々の力を弱めたりすれば、おのずと、その権力、および個人は弱体化し、崩壊すると想定できます。

 

 では、護身術をまとめます。

 

 1.犯罪をしないこと

 2.良心を持つこと

 3.自由を尊重すること

 

 この三箇条が、自分の身を守るために合理的であると想定できます。

 

 したがって、危険を避けたい人、自分の身を守りたい人たちは、まず犯罪をせず、良心を持ち、自由を尊重することを、個人的にお勧めいたします。

 

 みなさんも、気が向いたら、極力良心を持ち、極力自由を尊重してみて下さい。犯罪はダメだぞ☆

 

 

 P.S.上記の原則から容易に導き出せますが、次のような攻撃手法を、敵は用いるであろうと推定されます。

 

 1.こちらに情報を統制させる(プロパガンダの多用の誘発)

 2.こちらに身体拘束を強めさせる(冤罪の多用の誘発)

 3.こちらに結社(協力関係)を作らせない(分断工作の多用の誘発)

 

 あるいは、

 

 1.犯罪を横行させる(おそらく人々の恐怖心を利用する)

 2.良心を奪う(これも人々の恐怖心を利用する)

 3.自由を奪う(人々の恐怖心を利用する)(当ブログの「政治術」など参照、楽観性を奪い、恐怖心を利用する戦略はあり得る。)

 

 以上、攻撃手法です。また、これらの攻撃は諸刃の剣であり、長い目で見れば、崩壊すると想定されるので、みなさんは、権力闘争に加担せず、犯罪をせず、良心を持ち、自由を尊重していることをお勧めいたします。権力が自滅するのを待つのが、端に自分の身を守りたいだけなら得策かと。

 

 一応、「敵も救いたい」という人のために書いておきますと、敵を救うためには、これらと逆のことを行えばよいと思います。

 

 1.敵にできる限り情報統制を解除させる

 2.敵にできる限り拘束を解除させる

 3.敵にできる限り自由を尊重させる

 

 以上のことにより、敵の自滅を阻止できる可能性があります。ただ、敵に完璧に良心が存在しない場合には、敵の自滅を阻止することはできないと考えられますが、おそらく、完璧に良心の存在しない人間はいないのではないかと、僕は推定しています。

 

 簡単に一言で言えば、恐怖による統治は崩壊する。あるいは、「人々の恐怖が権力を討伐する」ということです。「恐怖」は武器なわけですね。その意味で、敗北とは敗北ではなく、その「敗走」が結果的に権力を討伐すると考えられます。「負けるが勝ち」というやつですね。だから、自分が負けたと思っている人、恐怖のふちにある人は、ぜひ負けないでくださいとエールを送っておきます。その恐怖が多くの人々を救う武器にもなります。できれば、恐い想いはしたくないものですが(笑)みんなで、怖い思いをしなくて済むというか、良心のある世界を少しずつ作れるといいですね。

 

 以上のことより、恐怖による統制ではなく、自由と徳による統治が、個人的にはみなさんにお勧めです。

 

 今日は以上です。

 

 ではでは~♪

「当事者」概念についての補足

 みなさん、こんばんは!

 

 今日は、先日書いた、当事者概念についての補足をしたいと思います。ご興味のある方はお付き合いください。

 

 もしかしたら、先日言っていることと、逆のことのように一見したところ聞こえるということもあるかもしれませんので、その点は論理の構造がどうなっているかに注意して下さるとうれしいです。

 

 では始めます。

 

 まず、当事者と非当事者の区別が非常に難しいというのは先日指摘したとおりです。

 

 そして、前回の「当事者について――Main Character」(ブログ内検索からご覧ください)という記事の一つの結論が、「ある意味では、すべての人が世界の当事者である」というものです。

 

 この論証は、暫定的にはある程度は正しいとし得るものかと思います。

 ただ、これは、ひとつ盲点をかかえた論法でもあります。

 

 それというのは、この論法は、「世界」の範囲を地球上に限っているという点、それゆえに、「人間の知識はある程度有効な判断を下せるのに十分なほどに成熟しているであろう」という「推定」です(宇宙のことは知らずとも地球のことならかなり知っているであろうという一種の楽観的推定があるという感じです)。

 

 つまり、この「世界」の範囲を、「宇宙」に拡大すると、これは、「未知」の状態となります。人間は宇宙のことについてまだあまり詳しくないので。

 

 すると、この場合には、「人間の知識は、有効な判断を下すのに十分ではない」というさきほどとは逆の帰結が導き出されます。

 

 この場合には、「人間の知識は不完全なので、必然的因果則によって、世界を把握するのは、不十分な結果に終わるであろう」、という思考回路となります。

 

 つまり、世界とは、「偶然的」であるという一つの案です。

 

 実際、僕たち人間の力は非常に限られたものであり、また、世界が必然的なのか偶然的なのかもよくわかりません。

 

 だから、世界に対するスタンスは、人それぞれとならざるを得ず、つまり、多様なスタンス、この二項対立を採用するなら、「世界は必然的である」というスタンスと、「世界は偶然的である」というスタンスがあり得ます。

 

 このスタンスの区分はさらに細かく分類することも可能で、「必然か偶然、どちらか一方にスタンスを決めるべきである」という主張や、「両者の中間を取るべきである」という主張、はたまた、「中間など幻想である」という主張もあり得ます。意見は多様です。ある意味では、意見の多様性があってよいことである、というふうにも言うことができるかもしれません。

 

 いずれのスタンスにも利点と欠点があるでしょう。思想の自由を人々に強く認めるとすれば、偶然的なスタンスも、必然的スタンスもどちらを取るのも、当人の自由とされるのだと思います(思想の自由は大切だと思います)。

 

 そして、世界が、根本的に、偶然的(「原始偶然」など参照)なのか必然的(「決定論」など参照)なのかがわからない以上、どちらのスタンスを取るのもあり得てくると思います。

 

 世界が偶然的なのなら、「責任」を取ることは厳密には不可能です。なぜなら、過失の原因を因果則によって帰属することができなくなるから。したがって、この意味で言えば、いわゆる「当事者」でさえも、当事者であり得なくなります。ある意味では、「すべての人が、非当事者、である」という前提はあり得ます。

 

 

 

 なので、僕は、無理に公共的な判断は下さないでおきます(つまり、僕の言うことは基本として聞かなくてよい)が、個人的な考えなら多少、拙いながら、記すことができます。ご興味のある方はお付き合いください。

 

 まず、主体と影響と対象という三項図式を仮に想定します。

 

 つまり、主体があり、影響があり、その影響が主体から対象に及ぼされる、という図式です。

 

 僕の場合には、この三項図式の原因をさかのぼってみます。

 

 思考は、「分析」(分割すること)や「総合」(結合すること)によって豊穣となると考えます。

 

 つまり、思考は、何かを分析することで成り立っている、あるいは分析したものを、あらたな組み合わせとして結合(創造)することで成り立っているというふうに考えてみます。

 

 つまり、今ある思考とは、何かを分析し、それを新たに総合した結果、生じてきたものであると想定します。

 

 この場合、根本的な事象は、分析されていない、また総合もされていない、つまり、全的一体な何かであると想定されます。

 

 ならば、世界は、「主体、影響、対象の三項図式に分割される前の状態」(純粋経験など参照)を何らかの形で持っている、と考えます。

 

 「関係性」とは、上記の三項図式を想定する概念かと思いますが、そもそも、その三項図式ではない、状態を想定してみるのです。

 

 この状態には、「主体」(当事者)も、「影響」(関係、行為)も、「対象」(他者的当事者)もありません。

 

 つまり、人がこの状態に身を置いた場合には、そもそも当事者問題自体が生じないスタンスとなります。僕は個人的にはこのスタンスのような感じかなあ、と自分では思っています。

 

 そして、この状態は、分析で現れるものではありませんから、記述できません。そして、この記述できないもののことを、僕は仮に「欲望」と呼ぶことがあります。

 

 欲望は、ある時別れたり反発したリ(分析)、ある時合流したり同盟したり(総合)する、ひとつの「流れ」です。

 

 僕は個人的には、こうしたスタンスかなあ、と思います。

 

 この領野には、そもそも、反発するものとしての「主体」がありませんので、ある意味では、全面的肯定となります。すべてはひとつのものであり、そのひとつのものの存在が肯定されているのなら、それはすべてのものを肯定することになるからです(この場合には、一応、一元論、ということ。しかし、この一元には、全面的な多元が含まれているため、多元論とも言い得る)。しかし、すべてのものであるからには、そこにはもちろん、別れや合流も含まれています。その流れ、「欲望」は反発として現れる場合もあるでしょうし、なんらかの反動として現れる場合もあるかもしれません。悲劇的なこともあるかもしれない。しかし、もしも、この「流れ」として生きるのなら、これは、全面的な事であり、これは、分析や総合、つまり、いわゆる「思考」の問題ではなくなる、と言い得ます。主体の喪失、ともいうことはできますので、現在の医学からすれば、「統合失調症」、あるいは、なんらかの病的な状態と捉えられうるかもしれませんが、僕としてはこの生き方に賭けています(笑)個人的な姿勢として御了解ください。

 

 

 以上が、僕の「個人的な」思考法ですが、「流れを感じる」などというといささかオカルティックに感じられる方もいらっしゃるかもしれませんね(笑) そのような方には次のような思考法がお勧めできるかもしれません。

 

 「さて、世界が手に負えないのはわかった。しかしだからと言って、私たちは自分の今ここにある生活、日常を放棄するわけにはいかない。それは私にとって大切なものである。たしかに、何もわからない。しかし、それでも私たちは少しでも確かと思えることに依拠し、考えていく必要がある。あるいは、考えない、という選択をも含めて」

 

 非常に合理的な指摘であるように思えます。科学的実証性など、エビデンスに依拠して、生活を構成する手法です。

 

 科学は不完全ですが、しかし、科学ではない悪徳なものに騙されて苦しんでいる人たちもいることと思います。であれば、それへの対策のひとつとして、科学の地位を高めに見積もり、そうしたものから、人々を守ろうとする意図は当然生じ得るでしょう。そのような人がいるとすれば、非常に優しい方なのではないでしょうか。世界にとって、とても大切な方だと思います。

 

 僕個人は、科学が絶対のものとは考えていませんし、また宗教を擁護することもあるのですが、しかし、それとは別に、こうした優しい姿勢というのは、非常に合理的であるとも考えます。ケースバイケース。それぞれの立場によります。

 つまり、「意見は違いますが、共生するべき方なのではないか」と個人的には思います。

  

 ある意味では、議論があることは悪いことではなく、いいことだとも言い得ます。したがって、意見の対立は必ずしも忌むべきことではないし、意見を交換することで、より真実に近づける可能性もあります(弁証法など参照。逆に、「真理」なるものに近づけない可能性もあることにはあるのですが、ここではとりあえずその話は置いておきます)。

 

 科学が人々の生活を豊かにしていること自体は、事実であり、その点で言えば、こうした主張は、極めて優れた指摘であると言えるのではないでしょうか。また、姿勢、戦略としても十分に合理的でしょう。

 

 人の認知形態や知能にはさまざまなものがあり、そこに優劣はないので、色々な思想があってよいでしょう。そうして、色々な人がゆるく、時に強く、つながりながら、世界はまわっているものと思います。

 

 したがって、その意味では、積極的に責任を持ち、当事者としてあり(つまり、必然的因果則を想定する、科学的態度)、そのように生きるというのは、非常に理に適った一つの生き方ではないでしょうか。どの生き方がいいかはケースバイケースかもしれませんね。

 

 と、僕が個人的に思ったことをつらつらと書いてみました。

 

 少しでも皆さんに有益な情報を提供できたら、幸です。

 

 ではでは~♪

「当事者」について――Main Character

 みなさんこんばんは。



 今日は、「当事者」とは何かについて、検証してみたいと思います。  



 今日の結論は以下の通りです。



 1.当事者と非当事者の間の明確な線引きは難しい。

 2.何が当事者で何が非当事者であるかは、その区別の有効性にもとづいてケースバイケースに決定される。

 3.当事者と非当事者の間の境界はグラデーションになっており、連続体的である。





 以下、論証です。

 



 では、当事者とは?

 

 これはある事柄に直接関係している人です。ことがら自体は何でもよいかと思います



 「直接」、とは、間接の反対であり、間接とは遠まわしであること。直接とはそれよりも近いことを表します。つまり、直接関係と表現されるほど、近い関係を指示し、間接関係と表現されるほど、遠い関係を指示すと考えられます。遠近感の問題です。



 では、関係とは?



 これは、ある事柄に対して影響力があることです。例えば、僕の発言がある事柄に影響をおよぼす場合、これは関係がある、ということになります。逆に、ある事柄が僕に影響力を持つ場合、これも関係がある、と言います。そのどちらの関係も備えている場合には、これは、「相互的関係」と言えます。どちらか片方の関係だけが成立する場合には、「一方的関係」となります。



 実際には、人が二人いれば、どうしてもお互に影響を与え合ってしまいますので、厳密には、この世界には、ある人や物事にとって無関係な人や事柄は存在しません。したがって、端に論理的に考えるなら、「全ての人がすべての事柄に対する関係者である」という前提はあり得ます。



 しかし、これでは、関係者と部外者を区別できなくなってしまいますので、境界は不明瞭ですが、「仮に」関係者と部外者の区別をつけることがあります。



 したがって、当事者問題においてポイントとなるのは、その「仮の境界をどこに設定するか、という問題になるかもしれません



 これは、本質的に不明瞭な問題ですので、ケースバイケースではあります。



 したがって、本質の問題というよりも、「どのような区別をつければより有効と言えるか」によって当事者と部外者を区別する手法を取るのいいように思われます



 まずは、理想的な条件で単純に考えてみましょう。



 正しい判断は、素朴には、次の条件を備えているときに生じます。



 1.データ抽出に偏りがない。

 2.データが大量である。

 3.分析が論理的である。



 したがって、まず、理想的には、全ての人のデータを大量に論理的に分析することが、正しい判断のために有効であると考えられます。



 しかし、これは、ちょっと不可能ですね(笑)

 全てを処理しようとすると、あんまりデータが多すぎて、処理しきれなくなってしまいます。



 したがって、方針としては、「できる限り偏りなく、多様で、大量なデータを収集し、論理的に分析する必要がある」と言えます。



 さて、ここで、当事者という言葉について再考してみましょう。



 当事者は、この場合、「関係してもいい人」を選抜するための概念ですね。「あなたは当事者であるので意見を言ってもいい」「あなたは部外者なので口を慎んだ方がいい」という選抜概念です。一種のエリート概念の構造に似ているかもしれません。「当事者」とは、発言権が認められる者として「選ばれた」人たち。



 したがって、上記の原則にあくまで従うのなら、「できる限り、当事者の範囲を広く見積ったほうが良い」と言えます。



 つまり、できる限り、差別をせず、多様な意見を大量に取り入れたほうが良い。



 理想的には、当事者と部外者を差別しない方が、正しい判断のためには望ましいと考えられる、ということです。



 しかし、これが、「理想」であることは先述したとおりですが、現実的には人間における認知のリソースは限られており、当事者と部外者を仮にでも区別し、データの抽出範囲を絞らなければ、頭がパンクしてしまいます。



 では、当事者と部外者の範囲はどのように決定されるか。



 まず、一口に「関係」と言っても、多様な関係の持ち方が考えられます。



 そして、関係の強さも連続体です。



 まず、0100かの振り切れた極端な思考で、当時者と部外者を完璧に二分してしまうのは、表現の自由の観点からちょっと危ない(発言権の剥奪などは、治安維持法などに似ている面もあり、非常に慎重になる必要がある)。つまり、当事者度が60%の場合もあるだろうし、非当事者度が70%の場合も十分に考えられる。



 したがって、ここは極端な思考に走らず、出来るだけ穏当な基準を設けるのが有効であると、とりあえずは考えられます。



 つまり、対象となる事柄から強い影響を受ける人ほどに強い発言権が与えられます。逆に、影響が弱い人ほどに、弱い発言権が与えられます。ポイントとなるのは、どちらのタイプの人にも発言権自体は与えられる、ということです。



 このように考えた場合には、部外者にも当事者にも基本的発言権表現の自由)自体る程度保証されると考えられます。そして、理想的には多様な意見を摂取できた方がいいのは、もちろんのことですので、発言権を「弱める」ことに関しては、極めて慎重な態度が要請されます。基本としては、できる限り、発言権を弱めてはならない(これは人権の問題でもありますね。発言を抑圧せざるを得ない場合には、必ず、反対側に位置する発言の権利」(表現の自由)をも考慮しておかなければなりません。極端にならないように。必ずしも極端のすべてを排除するべきなどという事でもないのですが。ある程度は極端性もあっていいと思います。深刻な他害がなければ)。



 また、どの程度、部外者「的」な人たち(完璧な「部外者」は存在しないので)の発言権を弱めるかについては、ケースバイケースではないかと、個人的に思います。



 さて、ここではこれまでの思考の応用例として少しだけ、福島原発事故の場合について考察してみましょう。



 この場合の発言権の剥奪範囲は、原発事故の影響範囲がどの程度の規模のものであるかによって決まります。



 原発事故の影響が少ない場合には、少量の人々に強い発言権が付与されます。原発事故の影響が大きい場合には、大量の人々に強い発言権が付与されます。



 では、原発事故の影響はどの程度のものか。



 まず、この事故はどの程度すごいものなのでしょうか。



 これは、かなりすごいことであると言えるでしょう。



 ウィキペディアをちょっとのぞいてみましたところ、「国際原子力事象評価尺度」なるもので、最大レベルの「レベル7」(暫定)なのだそうです。



 つまり、これは、国際的な最大級の問題であると想定されます。



 この場合には、国際的に様々な人々に強い発言権が付与されることになります。



 言うなれば、これは、日本だけの問題というよりも、世界の問題であり、世界のすべての人々が考えるべき問題であると言え、その上さらに、その事故を起こした当人である、「日本人」に該当する人々には、ことさらに強い発言権が付与されるであろうと考えられます。



 したがって、福島原発事故の場合には、世界の人々、とりわけ日本の人々は、積極的にこの問題について考え、発言する権利があると考えられます。原発の認知についての情報などは、基本としては多様であることが望ましいですので、強いて言えば、「福島原発事故については、日本人はすべて当事者である」という線引きがある程度の有効性を持つと考えることはできます



 違った線引きの場合も一応考察すると、「日本人は当事者ではない、福島県民は当事者である」というふうに線引きを考えた場合、当事者ではない日本人にとっての福島原発事故の重要性が低下してしまいますので、原発問題についての思考が「風化」し、「忘却」に至ると想定されます。問題を忘却してしまうと、問題は改善されないので、また、同じ失敗が生じる可能性があります。そして、これは再び繰り返してはならない深刻な問題ですので、日本人は真剣に原発事故について積極的に発言していく必要があります。ならば、ひとまず、日本人がこの問題を自国の深刻な問題として心に刻むという意味では、「日本人は、福島原発事故の当事者である」というふうな線引きで考えたほうが、合理的であるかもしれません。また、福島原発事故は、何も福島の人たちが悪くて生じたものではありません。これは、すべての日本人、もっと言えば世界全体の問題なのであり、その責任は福島の人たちだけに帰属されるものではありません。ならば、その責任は僕たち一人一人、世界の人たちにもあるものと考えられますので、その意味でも、この問題は日本人みんなで考えるべき問題であるのではないか、というふうに個人的には思わないでもないです。念のため、もう一度繰り返しておきますが、福島の人たちが悪いのではありません。原発事故の当事者は、日本人全体(あるいは世界全体)です。したがって、原発事故を理由に、福島の人たちに対し差別した扱いを取ることは合理的ではないのではないか、と個人的には思っています。



 広い範囲から情報を収集するほど、多様な情報が生じますので、情報処理が大変になります(風評問題とかすごく大変なんだと思います)が、おそらく、福島原発事故の場合には、――世界的な事故ですので――その大変な情報処理をみんなで一緒に行う価値はあると考えます。人の知能は様々ですが、知能の高低によっては、人の優劣は決まらないので、一見すると不完全に見える意見も、人間の認知様式を表したデータとしても、また、なんらかのヒントとしても、よいものを持っている可能性はあります(「多様な目」によって物事を観察すれば、自然と多面的な考察が可能となります)。一つの尺度から見ると劣って見える知能が、別の観点からはある種の独創的機能を持っている事例(「2E」など参照。)もあるかと思います。そういった多様な観点は、今後の人類にとって、データとして非常に重要です。情報量が増えると、ノイズも増え、処理が本当に大変になってしまうのですが、それらのノイズを乗り越え、何が正着打なのかを、日本人、あるいは世界の人たちみんなで発言し合いながら、一緒に考えていけるとのいい、のかもしれません。



 福島原発事故の当事者は日本人を含めた世界であり、その意味では、極めて国際的な範囲における発言権が認めらえるのではないか。



 これが、もっと狭い範囲の出来事であれば、部外者的な人の数は膨れ上がるのでしょうが。



 例えば、恋愛の小さいいざこざとかは、福島原発に比べて、影響範囲が非常に狭いので、部外者的な人の数も増えると考えられます。



 もっと言うと、この「当事者」についての概念も多様であるほど良いデータが取れるとも考えられます。したがって、多様な当事者意識なり、「多様な当事者」などを認めるのもある程度妥当でしょう。その意味では、当事者範囲についての言論があるのは非常に好ましいことであるともいえるかもしれません。いずれにせよ、できる限り自由な言論が優れた考察を産み出すものと考えられますので(自由にすると、無作為的になるので、全体としてデータの偏りが減っていくから正しい判断が可能になると考えられる)。



 例えば、僕などは、統合失調症(この際、統合失調症とは何かについてはおいておきます)の当事者、ということになると思うのですが、それでも、非統合失調症?(そのような人が具体的にどのようなものなのかは僕にもわからないですが)の人の意見も、参考にさせていただいています。

 精神科医には、統合失調症ではない人はたくさんいらっしゃると思いますが、統合失調症についての医師の意見をうかがうこともたびたびあり、また、とても有益な意見交換となっております(僕の場合。医師には迷惑かもしれないけど(笑) いちいちくどい患者です(笑))。そういう事例などを考えてると、本当に当事者」と非当事者の線引きはとても難しいし、そもそも多様な当事者を認めるのが正確な判断のためには合理的ときていますからね。少なくとも、「被害にあった人だけが当事者」ということはないのではないか、とは個人的には思います。



 人間は、みんな、自分の人生という、ひとつの物語の主人公であるとも言い得ると思うのですが、これは、いわば、「自分が自分の人生の当事者たり得るか」、という問題意識でもあるのかと思います。そこには優劣はないのでしょう。当事者的であろうとする人、非当事者的であろうとする人、多様な人々がいるようです。僕は、こうした主人公性、――言い方を変えれば、主体性――は解消してしまった? 解消しつつある? 解消している最中? な類の人間なのかもしれませんが、それでも、この主体性を持つことが必ずしも悪いことではないし、場合によっては、良いことですらあるのかもしれません(未来がどうなるかは、正直僕には全然わからないのです。それらはあらかじめは決まっていないんじゃないかと思えるくらいに)。ありのままの自分でありたいと願う人も、それはそれで一つの選択としてよいのではないかと、個人的には思っています。ありのままの自分は、まさに「そこ」にありますね。そうして、色んな人たち(僕を含め)や物事はどこかに流れていくものなのかもしれません。その流れの行く先はわかりませんが、おそらく流れていくしかないのではないかと思います。「ゆく川の流れは絶えずして」みたいな感じ。何もかも流れて行って、もう何が確定的なことかわからないし、確かと呼べるようなこともないのかもしれませんが、強いて言えば、その「欲望」の行く先へと人は流れていくのかもしれません。様々な流れ、様々な欲望、様々な行く先があり、そして、様々な当事者がいるかと思います。少なくとも、それを(何にしても「それ」です。その欲望)をあきらめない人というのはいらっしゃるようで、またそういう人たちを、あきらめた人たち? が指さして笑うのはちょっと違うんじゃないか、と思うこともあります。世界には色んな人がいていいのではないでしょうか。僕は個人的にはそのように思いました。少なくとも、特別に悪いことではないかと。論理どうこうというよりも、単純に、こういう人たちのことが、個人的に好きだということもあるのですが(笑)世の中には色々な好みがあるようです(笑)普通に生きたい人もいいと思うし、自分が「メインキャラクター」になってやろうという人もいていいと、個人的には思います。僕としては、こういう真剣な想いを否定はしたくないなあ、と思ったりもします。人生に部外者はいないのではないでしょうか。ある意味、すべての人が人生の、あるいは世界の当事者であると、個人的には考えております。優劣はないのでしょうね。おそらくは。つまり、僕の見解も別段優れているわけではないので、肯定派の方も、否定派の方も、別にこの意見に囚われなくてもいいと思います。鵜呑みにせず、気が向いたら、御自分で色々とご想像なさって見てくださいませ。



 一つの意見として、気が向いたらご参考下さい。僕の言うことなんて、基本的に全部無視してくれてもよいのです☆

 

 ではでは~



 

 君が立つ場所はきっと 

 僕が諦めた未来で

 選んだものが違うから 

 分かり合えないこともあるけど(*Luna,『メインキャラクター』,歌詞より引用)

 

 

統治術概略(非武装型戦略術)

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、「統治術」という題名。

 

 何やら仰々しいですな(笑)

 

 ただ、武力とかは使わない術ですので、そんなに残酷な感じとかはないはずです。

 

 とは言え、戦闘術の一種ではありますので、人間の世知辛い? 部分については見たくない感じの方は見ない方がいいかもしれません。

 

 では、一個ずつ。

 

 簡単に言うと、ガンジーの非武装戦略のようなものです。

 

 僕も戦争学などには詳しい方ではないのですが、個人的に考えられることは一応書いておこうと思います。

 

 これは、「アジ―ル生成術」の一形態でもあります。

 

 まず、統治とは何か?

 

 これは、「まとめ治めること」、です。

 

 では、治めるとは?

 

 これは、「極端でなく心配や悩みのない状態」、にすることです。一言でいうと、「穏当」な状態にするということ。

 

 まとめる、とは?

 

 これは、物事の筋道を整えることです。

 

 もちろん、物事の価値観や筋道はきわめて多様です。したがって、そのきわめて多様なすべての価値観を折衷し、さらに、極端に偏らず、またすべての人の心配や悩みを、統治しない場合よりも、減らすことができるのでなければ、統治は不可能であることになります。

 

 すると、これらのことより、統治が成立する三つのポイントを示すことができます。

 

 

 1.多様性を認める(人は自分を守らないものに忠誠を誓うことはないから)

 2.極端にならない(多様な人々に応えるためには、中立が必要だから)

 3.すべての人々の悩みを減らす(人を引き付けるにはメリットが必要だから)

 

 さて、ここで引っかかるのは、「すべての人」という部分かもしれませんね。「すべての人を救うだなんて無茶だ!」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そうすると、見捨てられた人はどうなると思いますか?

 

 人は自分を守らないものに忠誠を誓うことはない、と書きましたね。したがって、見捨てられた人は、「敵」となってしまいます。

 

 誰かを見捨てる限り、無限にこの「敵」は生成されます。

 

 したがって、原理的には、たとえ現状では極めて難しかったとしても、総力を挙げて、すべての人を救うために行動するのでなければ、――少なくともそれを「全力で目指す」のでなければ、――統治は成立せず、必ず、「戦争」が生成されます。

 

 よって、すべての人を救おうとすることが、統治の成立のためには、必要となります。

 

 さて、ここで、「攻撃的な敵」を想定してみましょう。攻撃的な敵は、つぎの三つの特徴を備えています。

 

 

 1.排除的である。(攻撃するためには、排除的な性格が必要です)

 2.極端である。(「中立」であれば、排除的となりません。だから、「極端」)

 3.限られた人々の悩みだけを減らす。(攻撃するには敵にも「敵」が必要です。そのためには排除される人が必要となり、したがって、彼らは救う人を限定する必要があります)

 

 

 これは簡単に言いますと、「統治」の反対ですね。

 

 統治の能力は現状では、不完全なものです。したがって、論理的にはどうしてもあぶれてしまう人が生じてしまう可能性があります。

 

 したがって、常に、こうした「攻撃」を想定していなければ、統治されている人たちは、攻撃に怯え、これは、「悩みを減らすこと」という統治の第三条件に反します。

 

 今回は、非武装型の戦略ですので、ここで、「武装」という選択はとらないでおきます。

 

 では、どのような戦略が考えられるか。

 

 まず、完全な統治が不可能である以上、必ず、統治側にも、武装「的」な人々は存在します。武装するまでもなく(統治国家でも、軍隊や自衛隊を持っていますね)。

 

 つまり、取り立てて、武装しなくても、武装している人々はいるのです。

 

 まず、この事実が、攻撃的な敵、に対する抑止力となります。

 

 武装は解除を目指すべきであり、「みんなを救う」という理念のために必要ですが、「既に武装してしまっている人々」に、さあみんなで武装解除しよう! と呼びかけてもなかなか難しいですし、それだけでなく、僕たちの暮らしに存在するもの、棒や包丁なども「武装」となってしまいますので、完璧な非武装は現実的ではない。

 

 したがって、統治の三条件を全力で目指すことが統治の条件ですが、人間が完全にすべての多様性を包摂できる段階になるまでは、どうしても、この排除構造の制御が問題となります。

 

 したがって、自分が武装せずに、既に武装してしまい、また、武装を容易に解除できない人たちと共生するためには、その武装をうまく「制御」する術が必要となります。

 

 武装は、いかなるものも諸刃の剣です。盛者必衰、とも言いますね。一般的に、強過ぎた武力、強すぎた権力は自滅します。

 

 また、多くの場合(とは言っても、生存権や人権が適切に担保され、なおかつある程度幸福である場合に限る)、人は自分の身を命の危険にさらしたいとは思わないでしょう。

 

 したがって、本当は武装したくないと考えられます。

 

 よって、ここで、武装制御の第一要件が見えてきます。

 

 それは、「制御者が武装解除を目指している人であること」

 

 制御者が戦争好きで、戦争で人が死ぬのを見て、喜ぶ人であった場合、そのような人に自身を委ねようとは思わないであろうと推定します。

 

 したがって、武装と共生する、あるいは持ちつ持たれつになるには、その統治者が武装解除、つまり、戦争の回避(武力使用の回避)をめざしている必要があります。これは、統治の三条件における、第一条件「多様性の尊重」に該当します。

 

 では、そもそも、武装とは何でしょう? これは攻撃を目的とした道具のことです。

 

 銃とかナイフとか。核爆弾とか。

 

 つまり、武装している人たちは攻撃「的」ではあるのです。なぜ、攻撃的になるのか。

 

 それは、置かれた環境が統治の三条件に反しているためであろうと推理します。

 

 つまり、統治者は、彼らの価値観を尊重し、なおかつ他の価値観も尊重し、中立的であり、そして、彼らの悩みや不安を減らしてあげることができることが必要となります。

 

 ここで、武装制御の第二要件が成立します。

 

 それは、「統治者が、武装者の悩みや不安に親身であり、またそれらの悩みを減らしてあげることができること」です。

 

 つまり、武装者の価値観を否定したり、その悩みや不安をはねのけたりした場合、武装制御、――言い方を変えれば、武装統治は成立しません。

 

 そして、武装者にも多様性があり、人それぞれに大切にしているものがあり、守るべきものがあります(だから、武装してまでそれらを守ろうとする。それは、矜持かもしれないし、大切な人たちかもしれない)。

 

 ここから、武装制御の第三要件を抽出できます。

 

 それは、「統治者が多様な武装者の価値観を認めることで、中立的であること」

 

 さて、武装制御の三条件をまとめます。

 

 

 1.武装解除を目指していること。

 2.武装者の悩みを減らすことができること。

 3.多様な武装者の間で中立的であることができること。

 

 

 これら三つの要件を積極的に満たすことができれば、武装者は統治者に味方するであろうと推定できます。

 

 すると、その武力は、「攻撃的な敵」への抑止力となり、攻撃的な敵を包摂し、説得し、救うまでの時間を稼ぐことができます。

 

 では、「アジ―ル」とは何か?

 

 これは、統治権力の及ばない場所、のことです。

 

 はてさて、これは統治術に反するように見えます。何せ、統治権力の及ばない場所ですから。

 

 ポイントは、統治「権力」という点です。つまり、これは権力であり、「武装」の一種ですね。したがって、本当の意味での、「統治」ではないのです。したがって、一見、今回の見出しとアジ―ルは矛盾するように見えますが、趣旨からいえば、まあ、大丈夫ではないかと思います。

 

 つまり、統治は権力によってではなく、「包摂」というか一種の「優しさ」のようなものによって行われます。武装ではなく、「徳」によって統治する、ともいえるかもしれません(上記の通り、統治者が残虐であったり、戦争好き、暴力好きであった場合、その統治は崩壊するであろうと想定される)。

 

 したがって、アジ―ルとは、権力の及ばない場所、のことであり、言い換えれば、「武装の及ばない場所」のことです。

 

 完璧なアジ―ルは、完璧な太平の世に実現されると想定され、また、それを「目指した場合」のみ、その者に統治の資格があると考えられます。

 

 したがって、現行で可能なのは、「暫定的なアジ―ル」であり、これは、「比較的武装権力の手の届かない範囲」という意味になります。

 

 まず、簡単なモデルを想定してみましょう。

 

 Aという武装勢力とBという武装勢力がいた場合、これらの価値観が相異なる場合には、戦争が生じると考えられます。すると、戦争領域が発生します。戦争領域では、アジ―ルは成立しません。つまり、非戦争領域にアジ―ルは成立します。

 

 では、非戦争領域は、どのような場合に生じるか?

 

 それは、お互に、戦闘の益がない場合に生じます。

 

 つまり、戦争してもしょうがない場所においては、非戦争領域となるのです。

 これは、どのような領域か?

 

 これは、「双方の価値観にとって利益のある地帯」です。

 

 つまり、A勢力、B勢力共に、失いたくない「文化」なり「資産」がそこに根付いており、なおかつ、その資産の存在がA勢力、B勢力に知られていれば、そこは、非戦闘領域となると推定できます。

 

 つまり、きわめて創造的で、寛容であり、多様な価値観にとって益をもたらし、次々と新たな価値なり発明が生まれる、多くの資産が創り出され、それが継続的に保存されている圏内。これはアジ―ルとなると考えられます。

 

 つまり、アジ―ルの成立条件は次のようになります。

 

 

 1.創造的で、オリジナル(代替が難しい)な多様な価値にあふれている。

 2.どの武装勢力にも寛容であり、彼らの悩みや苦しみを減らすことができる。

 3.作り出した価値、文化、資産が、継続的に保存される場所である。

 

 

 これらの特質を備えた場所は、アジ―ル化すると考えられます。

 

 つまり、

 

 創造的で、多様性を認め、尚且つ大量の多様な価値を継続的に保有する人は、その人自体が一個の「アジ―ル」であるとも言えます。

 

 つまり、そのような「アジ―ルとしての人々」を結集することができれば、その地帯は、きわめて強いアジ―ルとなると考えられます。

 

 したがって、戦争を停止できるためには、これらのアジ―ルとしての人々を大切にするという戦略がきわめて有効となり、また、それは比較的すべての人の利益のために重要であろうと、考えられます。

 

 つまり、アジ―ル生成の手法とは、この「アジ―ルとしての人々を増やし、集める」ことです。

 

 以上が、統治術の概略となります。

 

 まとめます。

 

 

 1.統治には寛容さが必要。

 2.武装を制御するのにも寛容さが必要。

 3.アジ―ルを作るのにも寛容さが必要。

 4.すべての人の利益のためには寛容な人が必要。

 5.とにかく何をするにも本当の意味での「優しさ」が大切。

 

 

 

 

P.S.はあ、疲れた(笑)

正直、統治術書こうかどうか迷ったんですよね。だって、下手なこと書いて、僕逮捕されたくないし(笑)(笑いごとじゃないですね、すみません)

治安維持法とかみたいな時代にならないといいですよね。あれは、包摂の反対であり、排除ですから、国家が破綻する戦略であると、少なくとも合理的には、推定されます。

もしも、僕が逮捕されたら、後はみんなに任せた(笑)頼むぜ☆

少しでも、みなさんの利益になることが書けるといいのですが。なかなか難しいですね。文章を書くというのはとても奥が深いです。

おもしろいこと書こうとがんばってるんですが、なかなか難しい。

むずいなあ。

むずかしい

むずかしすなあ

むずがゆいなあ

むずむずするなあ

こうしてみると、「むず」って言葉、なんか共通性がある感じしますね。一個のニュアンスというか。

別々に見えるものでもこうしてつながっているものなのかもしれませんね。世界はつながっているのかもしれません。

人間もうまくつながれるといいですね。

僕も、「優しい人」を見つけたら、保護することにします(笑)

みなさんも、ぜひ、優しい方々を大切にしてみてくださいませ。手をつないで協力し合えたら最高ですね。くれぐれも人を傷つけないでください。暴力もダメだぞ♪ 「芸術的な暴力」、人を説得するための「比喩的な意味での暴力」なら、多少はありかもしれませんね。例によって、僕の言うことは、鵜呑みにはせず、ご自分の頭で検証してみて下さいね。おそらく僕もたくさん間違っているはずですから。みんなですこしずつよくして行けるといいですね。

 

ではでは~

 

みなさんにNeruの『ハウトゥー世界征服』を送ります。

 

 

優しい人にならなくちゃ

心が悴む前に(Neru,『ハウトゥー世界征服』,歌詞より引用)

 

罵倒術(邪術編)

 みなさん、こんばんは。

 

 今日は、ちょっぴりダーク? な感じにしようかなと思います。

 

 効果的な罵倒手法について。

 

 まず、「罵倒」とは何か。

 

 これは、「相手を正しくないと否定すること」です。

 

 つまり、成否の問題となります。善悪というか。

 

 概ねのところで言えば、罵倒とは、「相手は間違いであり、自分は正しい」といった主張のことです。この主張の程度が激しければ激しいほど、その行為が「罵倒」と呼ばれる率は高まるのではないでしょうか。

 

 では、なぜ、罵倒は「自分は正しい」と間接的に主張することになるのか。

 

 まず、罵倒という一つの主張が、自分の心理にとって有効性をもつためには、自分で、その主張を、仮初にせよ、正しいと思っている必要があるからです。自分がまちがっているという心理状況では、(その局面においては)罵倒は出づらいのではないかな、と思います。自分が正しいと思っているからこそ、相手の間違いを指摘するのであろうという理屈です。

 

 実際には、正義はどうしても多様であると考えざるを得ないので、何が正しく、何が間違っているのかは、厳密には決定不能です。

 

 しかし、それで無法状態になっても困るので、みんなの決まりはある程度は、守られねばなりません(決まりが厳密すぎると、それはそれで窮屈になりすぎてしまうかもしれません)。

 

 リスクヘッジしておくのなら、多様な価値観を認めておくのも有効です。

 また、どの価値観にどの程度の投資を行うかは、その人の自由に委ねられる部分も大きいと思いますので、深刻な他害がなければ、ある程度は排除的な行動(罵倒など)も認めておくのは、有効かもしれません。

 

 罵倒が暴力であるかどうかというのは難しい問題かもしれません。これが、「暴言」とか暴力になり得るのかもしれませんが、あんまりモラルハラスメントの概念などを強くし過ぎると、正当な示唆などにも、モラルハラスメントのレッテルが貼られてしまいかねません。とても難しいです。

 

 だからと言って、口では何を言ってもいいのか、というと、これもむずかしいです。人を深く傷つける言葉も中にはあるかもしれません。

 

 だからと言って、傷つけることを否定してしまうと、心からの付き合いみたいなことができなくなります。相手を傷つけないようにと気を使いすぎて、お互い疲れてしまい、また、本音を出せなくなってしまうこともあるかもしれません。いつもいつも本音を言うべきではありませんが、ある程度本音で話し合える友というのもいるかもしれません。そういう時に、相手に気を使いすぎるのは、多少無粋となることも、場合によってはあるかもしれません。

 

 では、どうすればいいのか?

 

 まず、悪口を全面的に禁止する場合。これは表現の自由の観点から、ちょっと危険かも。

 

 では、悪口を全面的に肯定する場合。これは「理念」としてはいいかもしれません。ただ、ある程度は礼儀にも注意しないといけないと思うので、そことの兼ね合いが難しい。自由な発言は認められるべきですが、できれば、礼儀もある程度は、堅苦しくない程度には、守られた方がいいかもしれません。

 

 すると、まず、極端に悪口を否定するとか、肯定するとかいうのは、あまり合理的ではないかもしれません。それこそ、「中庸」というものが大切になってくるのかもしれません。

 

 グレーゾーンですね。むずかしいです。

 

 ならば、ひとまず、公的には表現の自由を担保して、悪口を言うことは法的な罪には問わず、法律ではなく、「礼儀」として悪口を、ある程度は、「自粛」しておく、というのが方針としてはいいのかもしれません。これなら、規律が強くなり過ぎず、また、弱くなり過ぎない、微妙なラインを何とか守れるやもしれない。

 

 微妙ですよね。けっこう多くのことって。ホントに分からないことだらけです。

 

 多分、悪口を行ったことで、逮捕されたりすると、大変なことになると思うのです。ですので、この辺りで手を打つのが現実的な所かもしれません。規律が厳しすぎると、それ破りたくなるのも人情ですからね。厳しすぎず、ゆるすぎず、が大切かも。

 

 ここのところを、グレーゾーンではなく、かっちりと定めようとしてしまうと、それはそれで、大変なことになるかもしれません。「曖昧さに耐える力」が大切なのかもしれませんね。簡単に言うと、「悪口は言ってもいいけど、あんまりしつこく言いすぎると嫌われるかも」、みたいな感じなのかもしれません。ひとつの考えとしてご参考下さい。

 

 さて、では、罵倒の効用を分析してみたいと思います。

 

 罵倒には大きく次の三つの機能がとりあえずあるのではないかな、と思います。

 

 1.相手の価値を低減する。

 2.自尊心を維持する。

 3.相手を威嚇する。

 

 さて、ひとつずつ見ていきましょう。

 

 まず、価値の低減。

 

 これは、相手の価値を落とすことによって、その落とした価値を自分に流入させることを目指す手法です。つまり、相手を落として自分を上げる、ということですね。「マウンティング」などの概念はこれに相当するかもしれません。

 

 いくつかパターンがあります。

 

 先ず、「表面上」という言葉をつかった論法。

 これは、相手のすぐれた特質のまえに、「表面上」という言葉を付着させることで、相手の価値を低減させる論法です。罵倒としてはある程度有効な論法かと思います。「表面上美人」つまり、「雰囲気美人」などの概念はこれに相当します。「表面上頭いい」→「雰囲気頭いい」。「表面上魅力的」→「雰囲気魅力的」→「中身は空っぽ」などなど。取りあえず、「表面上」という意味合いの言葉を付着させることで、相手の価値を低減させます。

 

 もう一個紹介。

 

 これは、概念としては、「無知」を用いる論法です。つまり、相手に無知のレッテルを貼ることを目指します。

 例えば、相手が何かを発言した時、それに対し、「あなたはものを知らないからそう思うのだろう」と主張する。それに対し、相手が何か反論して来ようとしたら、「もう少しものを知ったほうが良い」という論法に持っていく。

 この論法がなぜ有効なのか。

 まず、誰しも、自分が、「無知」であるということは避けて通ることができません。すべてを知っている人はいませんので、その人の不得意分野の質問を重ねられれば、必ず、一種の「無知」を露呈してしまいます。したがって、百パーセント、この論法で、相手に付け込むことができるというメリットがあります。また、相手に良心がある場合には、これは特に有効に作用し、相手は、「自分は確かに無知だ」と認め、引きさがってしまいます。年長で立場の強い人が、若くて立場の弱い人に対し、使うことが多い論法でもあるかもしれません(勿論、逆もあるとは思います)。

 本来は、ある事柄について無知であるからと言って、万事において無知とは言えない面もあるのですが、厳密には、人間の知っていることは何一つないというか、あったとしても、ごくごくわずかなものに過ぎないので、この論法は、実践的にはいついかなる場合も成立してしまいます。

 分かりやすい例で言えば、お互に、「馬鹿」と言いあっている状況は、お互いのことを、「無知」と言いあっている状況に相当します。相手も相当手練れである場合、こうした論法は通じません。

 回避手法についても書いておきます。

 まず、大前提として、この論法が完全に近い有効性をもっているのは、「誰もが無知であるから」です。したがって、その完全な攻撃性が今度は仇になります。なぜなら、相手に無知のレッテルを貼っている本人もまた無知であることには変わりないからです。このようにして、不毛なレッテル張り大会が始まることもありますが、なんというべきか、頭の回る人? は、話を少しずつずらして、不毛なやりとりを避けるかもしれません。

 基本的に、罵倒というのは、「表面上」、の論法にせよ、「無知」、の論法にせよ、こうした万能性をもっており、誰にでも何にでも通用してしまうので、何かを差別化する上では、あまり有効ではないかもしれません(合理的には)。

 しかし、合理性の問題を別にして、世の中には、賞賛すべき行為や、非難すべき行為が存在しますね。それは理屈とはまた別の次元のお話なのですが。

 だから、これらの罵倒用語が、合理的には無意味だとしても、一律に、無価値だとは言いづらいかもしれません。つまり、合理性とは無関係に樹立される「価値」が存在する。それは、その人の「信念」なのかもしれませんね。ここも色々と考えられておもしろいところかもしれません。

 

 では、なぜ、これらの罵倒によって、自尊心が維持されるのか。

 

 先ず、Aという人がいて、Bという人がいて、AがBに嫉妬した場合、Aの自尊心はBによって揺るがされることになります。そこで、Bという存在、あるいは存在価値自体を否定することで、自分のアイデンティティを保ってしまえばよい。

 ……というふうなロジックかと思います。

 

 単純に生存競争と考えれば合理的に見えます。しかし、実際には、先述の通り「礼儀」の問題が絡んできますので、このように単純なロジックのみで、相手を否定していると、うまくいかなくなることも時にはあるかもしれません。実際には嫉妬したのなら、それをばねに自分の能力を伸ばすモチベーションに変換できるといいかもしれませんね。人を落とすよりも、自分を上げる方が、全体的な効率からしても、また、お互いにとっても、生産的です(気が向いたら、「学習術」などについても書いてみようかな、と思っています。これはすこし研究に時間がかかってしまうかもしれませんが。暫定的な手法ならアップできるかも!?)。

 

 また、罵倒の論法のひとつに、「自尊心」という概念を利用したものもあります。これは相手の行動の動機を「自尊心を守るため」と解釈する論法です。基本的には、誰にでも自尊心がありますので、この論法はどんな相手に対しても適用することは可能です。例えば、誰かが募金をしていたとしますよね。それに対し、「あの人が募金をしたのは、自分の自尊心を守るためであって、利他心のためではない。つまり、あの人は利己的で下品な存在である」と解釈する論法です。こういうものもあります。罵倒も奥が深いですね。ご参考下さい。

 

 次が、「威嚇効果」について。

 

 威嚇は相手のためを思ってのものもありますし、自己保身のためのものもあります。

 例えば、大人は、子供が車に引かれそうになったら、「あぶないことするな!」と激しく怒りますね。これは威嚇です。つまり、威嚇によって、子供があぶないことをしないようにと願うのです。これは普通にあることかもしれません。こういう相手のために行われる威嚇もあります。この点が、モラルハラスメントとの兼ね合いがむずかしい所でもあります。単純にハラスメントの問題にしてしまうと、それはそれで規律が強すぎて問題だし、かといって、この善意の威嚇が体罰(つまり、暴力になってしまう)などになるとこれもまた、難しいところですが、ある程度は問題となり得ます。とても難しく、グレーゾーンになります。これについては、先述した通り。

 そして、自己保身のための威嚇も存在します。

 これは他者の身ではなく、自分の身が危ないので、威嚇する行為です。追い詰められれば、誰だって、威嚇したくなるかもしれません。窮鼠猫を噛む的な。これもしょうがないことですね。できれば、あんまり危ない目にあわないで済めばいいのですが(笑)

 人生、うまくいかないことも多いですので、なかなかどうして難しいのかもしれませんね。

 

 このように考えてきた場合、罵倒にも機能があり、罵倒するべき局面、罵倒するべきでない局面があるようです。明らかに危機状態にあり、即刻救う必要があるのに、そこに手を差し伸べないのは、いささか道徳的ではない。かといって、罵倒が暴力的になってしまっても、上手くない。

 

 グレーゾーンです。とても難しいことですね。あるいは、芸術家の人などは、こうしたことが人よりうまくできるのやもしれません。この点も掘り下げてみたら面白そうです。

 

 罵倒は、合理性の問題というよりも、どちらかというと、「気持の問題」としての側面が強いように思われます。

 

 したがって、この問題は、各々が気持ちの問題として処理するのに適した課題なのかもしれません。法は人の心までは縛るべきではないと思いますから、原則としては、思想の自由を担保しておくのがいいのではないかと、ひとまず考えています。

 ただ、あんまり悪口ばっかり言っていると、嫌われちゃうこともあるかも。

 そんな感じですかね。とても難しいです。

 

 法は万能ではないのだろうと思いますので、どちらかと言えば、人々の「良心」に賭けたいな、と個人的には思っています。法と良心がうまくかみ合って、バランスよく機能するといいのですが。

 

 罵倒は合理的ではないかもしれませんが、気持の問題として考えれば、すこし共感しやすくなることもあるかもしれませんね。そうしたら、罵倒してくる相手の気持ちに少しは気づくこともできるのやもしれません。相手と一体になりつつ、なおかつ別々の個体同士でもあり得るようなそういう感じなのかな? 共感って。互いに溶けあいつつ、別々でもあるような。そんな感じなのかなあと、漠然と思います。この状態は、「愛」とも呼ばれるのかもしれませんね。ある種の曖昧さに耐えるために、愛を役立てるのが有効かもしれません。

 

 

 まとめます。

 

 1.一口に「罵倒」と言っても色々なものがある。

 2.善い罵倒も悪い罵倒もある。

 3.善悪は一概に言えないけど、だからと言って罵倒を野放しにもできない。

 4.だから、罵倒についての是非の判断は、大体グレーゾーン。とても難しい。

 5.「曖昧さに耐える力」がある程度有効かも。

 6.罵倒は合理性というよりはどちらかというと「価値判断」の問題。

 7.価値判断は、必ずしも合理性ではないので、「情念」の問題かも。

 8.価値は人それぞれで多様。差別はあまり合理的ではないかも。

 9.人として最低限の良心があれば、どの価値を選ぶかはあなたの情念の如何による。

 10.ただ、最低限の礼儀は、守っておいた方が良いのかもしれない。