みなさんこんばんは。今日の話はとてもつまらないので、全然見なくていい感じです(いつもそんな感じですが(笑))。
今日は適当に話題をコロコロと転がそうと思います。「散漫術」(ご興味のある方はブログ内検索からご覧ください)です。
今日は善悪について考えてました。
これは論理から出てこないよな、みたいなことを考えたり。
すると、善悪は、直観の一種なのでしょうか。
あるいは法律。
法律というのは、人々の直観の集積なのかもしれません。魔術的集合体。
そのように考えると、それなりに力のあるものなのやもしれない。
いずれにせよ、論理ではないのだとすれば、論理で考察してもしょうがないのかもしれません。
スポンジケーキを食べた後に、苺を食べると、すごく酸っぱく感じるじゃないですか。そんな感じで、論理に浸った後に、直観に浸ろうとすると、体がびっくりするみたいなことがある気がします。
直観と論理の関係はとても難しいです。
何が正解なのか、とか、提言できるほど、僕は偉い人間ではないので、何を言ったものかさらに難しい。
突き詰めると、生きる意味、みたいなものはなくなっちゃうような気がします。僕の場合には。
そんなときは、自分はどうして生まれてきたんだろうな、ということを考えたりもします。落ち込んでいるときは、絶望的なニュアンスでそれを考えることもありますし、楽しい気分のときは、学究的? な気分でその問題について取り組んでみたりもします。
自分の行動の逐一に理由らしい理由をつけてみるんですけど、どれもしっくりこないというか。
強いて言えば、したいことをしている、ということになるのかもしれませんが、別に取り立ててしたいことをしているわけでもない、とも言うことはできるな、ということを漠然と考えます。
そもそも生きる理由事態が不明瞭なので、例えば、ブログを書く理由なども不明瞭です。
特に何かを目指して書いているというわけでもないような気もします。ただ、理由はいくらでもつけれるので、本当に理由がないのかどうかも分からないのです。
結局、何もわからないのですが、じゃあ、無法状態でいいのか、となると、それも難しいですし。
何も決められない。
こうなってくると、もう誰かが勝手に決断してくれたらそれに黙って従っているのが楽なんじゃないか、という気持ちを持つこともあります。
でも、そのたまたま従った相手が、あまりよろしい人ではなかった場合とかどうなるのでしょうね。戦争とかになるのでしょうか。
すると、それもそれでよろしくない。
じゃあ、決断するのもよろしくないし、決断しないのもよろしくないという、すごいパラドックスの中にいるようです。
多分、一律な正解はない、、、というふうに断言したいところですが、これもまた骨の折れる作業です。もしかしたら、一律な正解があるかもしれないから。
本当に残念です。
世界難しすぎます。
そのうち、整理して書こうと思っていたんですけど、物事には上達のコツみたいなのがあるらしく、僕は個人的に三つの諺を胸に止めています。
1.継続は力なり
2.塵も積もれば山となる
3.急がば回れ
この三つを主眼にして行動していると、挫折せずに色々なことを上達することができるようです。どこまで上達するのかはわからないのですが。この話って前にしましたっけ?
似たようなことはお話させていただいたかもしれませんが、個人的に、この三つの諺がとてもお気に入りで、とてもお勧めです。
勉強する方など、気が向いたらご参考下さい。
それで、どうして、この三つの諺が僕にとって、有効性を持っているのかな、ということをいつも考えるのですが、よくわからないんですよね。理由らしい理由はいくらでもつけられますが、究極原因のようなものが見当たらない。つまり、メカニズムが不明なのです。
その意味では、諺というのは一個の呪文というか、魔術のようなものなのだと思います。
みなさんも気が向いたら、諺とか勉強なさってみると面白いかもしれません。僕はよく諺の力に助けられています。
諺とか古典の言葉とか。
それで、色々な諺を見ているんですけど、なぜか上記の三つが、自分の成長にとって重要な言葉らしい、という感じなのです。本当にどうしてなのかわからないのですが。
どうしてなんでしょうね。不思議です。
統合失調症のメカニズムくらい難しい。
多分、病気の診断とかも、これと似たような感じなのかな、と思うこともあります。
つまり、理由はわからないけど、兎に角病気、みたいな。
一歩間違えれば危険な発想にもなり得ると思うのですが。とても慎重にならざるを得ないところかと思います。
恋愛とかも精神疾患として処理される時代は来るのでしょうかね?
病名「恋愛」みたいな。
どうなのでしょうね。恋愛を治療する薬とか、どんなものなのでしょうか。また、そのような世界とはどのような世界なのか。
興味はありますが、多少怖い感じもしますね。この恐怖感は僕の動物的本能かもしれません。結局、こういう恐怖感というか、本能というか、感受性? みたいなものによって、立法は成り立っているのでしょうか?
理屈でないとすると。
不思議です。
統一見解とか作るのってホント大変ですよね。
実際ほとんどないのではないでしょうか。全ての人が合意する見解なんて。
精々、一部の人たちの間で合意を取り付けるのが精いっぱいなのかな、と思ったりもします。
意見は割れに割れてしますからね。人間の多様性。好ましいと思います。
そういう仲たがいというか、生物的多様性のおかげで、僕は今生きているのか、と考えると感慨深いです。
特に生きたいと思って生きているわけではありませんが、別段死にたいわけでもないですし。
僕には本当に何もわからないのです。
そこで、僕はつぎのことをとりあえず断言して暮らしています。
1.犯罪をしない。
2.必要最低限の礼儀を守る。
3.後は極力自由にする。
これらの境界の規準とか、程度の議論とかすると、いくらでも複雑化できますが、シンプルには僕はこのように暮らしています。
ちなみにこれがいいことなのか悪いことなのかはわかりません。
合理性ではないものというのがどういうものなのか、ということを考えると、分かりやすくは、クオリアとかなのかな、と思います。
例えば、目の前のペットボトルそのもの、というか、現象そのものはいくら言葉を尽しても合理的には説明できないような気もします。
何にしても、難しいです。
ひと時、自分がこじらせているだけなのではないかと考え、思考をシンプルに洗練しようとした時期があったのですが、どう考えても、合理的には何も決定できないよな、みたいなことを延々と考えて挫折しました(笑)
ただ、そんな中でも、とりあえず、色々なことが、僕が思うよりもずっと複雑で難しいのだということはわかった気がするので、それはそれでよかったのではないかと、自分を慰める意味も含めて、言い聞かせたりもします。
そのように考えると、すべての現象が魔術に見えてきてしまいますので、これはどうなのでしょうね。いいことなのか悪いことなのか。
悪用すれば悪いのでしょうし、良いことに使えば良いということになるのかもしれません。
ただ、取りあえず、色々なことを勉強するのは楽しいです。
これは断言してもいいんじゃないかな。個人的な感想としては。毎日勉強して、わからなかったことが少しずつ分かるようになったり、あるいはうまくできなかったことが上手くできるようになっていくのを観察していると、とても楽しいと思います。
メカニズムは不明です(笑)
そうですね。メカニズムは不明ですね(笑) 何事も。
言葉がどうして相手に通じることがあるのか、とか、本当に謎なんですよね。なんでなんでしょう。
不思議すぎる。
あるいは、どんな言葉も相手に通じていないのでしょうか。
だとすれば、僕たちの日常生活が、曲がりなりにも成り立っていることについての説明がつきづらいです。多分、つうじているんでしょうね。言葉。
不思議です。
どうして、人に通じない言葉と通じる言葉があるのか。どうして、時に反発し、反動があったりするのか。なぜ、いつもいつも仲良くできないのか。あるいは、仲良くすることは果たして正義なのか。
謎です。
禅問答過ぎる。
答えのない問いを生きている気分です。
本気思うんですけど、僕の話とかかなりマジで聞かなくていいと思いますよ。もちろん、聞いてくれるのなら、それもうれしいですが。
ただ、自分の考えが絶対の正義なのか、と言われると、絶対そうじゃないような、わからないことだらけだし、みたいに思いますので、鵜呑みとかにはしない方がいいと思います。
結局は、個々人の、、、何というんだろう? 霊的な? 感じのことなのだと思います。あなたの魂が命じることをあなたが為す、という感じ。
科学に未だ回収されていない何か。
科学で解明できない事態が起こっているのなら、科学ではないものに拠り所を見いだすしかない。法律とか宗教とか。
人間の人生って、ないものねだりみたいなものがとても多いのかな、と思ったりすることもあります。
多分、お金持ちなら後は自動的に幸せなのか、と言われると、首をひねるところもありますし、では、美人なら無条件で幸せなのか、と言われると、やはり難しいように思います。
すると、幸せっていうものが何なのかが素でわからないので、これはもう、各々の魂が命じるままにするしかないだろうと(笑)
ただ、僕は犯罪はダメだ、というふうに決めていますので、絶対に犯罪しちゃダメ、というふうに言います。
もちろん、僕の言葉には何の強制力も、現実的にはないのかもしれませんが。
多分、犯罪とかしたら、悲しくなる人もいるだろうな、と思って。だから、そこは決めています。
みんなが殺人犯とかになったら、大変な世の中だと思いますし。
ただ、国家が犯罪を犯す場合には、犯罪的手段で対抗することもあるのかもしれません。正当防衛として。
いずれにせよ、その時になってみなければ、どうなるのかわからないですし、その時になったとしても、何が正解なのかはわからないのかもしれませんが。感じることはできる、という可能性もなくはないですが。感情的になりすぎると危ない面もありますし。結局、何もかもうたかたに帰するというか、不明の渦の中に吸い込まれていきます。
しかしまあ、構成しないで、散漫に文章書いていると、気分はよくなりますね。多分、ある種の直観によって文章を書くと、心理上それなりに良い効果があるのではないかと勘ぐってしまうくらいです。
いかにいつもの自分が、自分を抑圧して文章を書いているかがわかります。
抑圧してあの程度ということについては御愛嬌ということにしていただけると助かります。面目ないです。
「散漫術」は、多視点化、を意図するものなので、話題を飛躍させるようには努めているのですが。
僕が統合失調症だから、連想を飛躍させた文章の方が、体質的に身体に合っているということもあるのかもしれません。
ただ、いつもいつもこのような文章だとみなさん読むの疲れるかもしれませんし、多視点化には速効性はなく、遅効性なので、効果もわかりづらく、あまり集客? 効果はないかもしれません。
すべてのことが根源的に不安状態にあり、何も決められないので、ある種の優柔不断状態。
実存的不安とかっていうのかな? こういうのは。
実存的不安は存在しないという意見もあるかもしれませんし、僕みたいに、それを感じていると主張する人もいるかもしれませんが、どちらが正しいのかはわかりません(笑) ただ、僕は僕の感覚に嘘をつかないという行動方針を取った場合には、やはり、自分の感覚を信用するのでしょうね。あまり他人に依存するわけにもいきませんし。助け合いは必要だと思いますが。
このブログでは、主に、色々なことを検討してみているのですが、これは「疑い」のベクトルですよね。それで、「信じる」というベクトルもあるのですが、僕の場合、何でも疑えてしまう側面もあるのですが、逆に何でも信じてしまえる側面もあって。
信じるか疑うかを、ある程度選択している感じがあります。結局何もわからないので。なんというべきか、自律的に何でも決められる感じ(僕が立派な人間という意味ではないです。この場合、言葉のままの意味な感じ。言葉は難しいですね。このニュアンスどうすれば伝わるのやら)。
何か言葉にしがたい感じがします。
さっきから、「微妙」なニュアンスを言葉にしようと奔走しているのですが、これらは論理的に言葉にできるものでもないと思いますので、散漫な文章という形をとってしまうケースもあるようです。一つの一例としてこの文章が何らかのデータになれば、幸ですが、しかし、一種のガラクタが製造されているという可能性も無きにしも非ず(笑)
あんまり需要のある類の文章ではないと思います。ただ、確実に、自分の気持は軽くなった(笑)
オープンダイアローグみたいな効果があるのかもしれません。自分の感じていることを言葉にして、心が軽くなるみたいな。
この辺りも賛否両論かと思いますが。
目的があって会話しているのではなく、会話自体が目的というアクロバティック? な発想。
でも、実際、こうして、つらつらと徒然草ばりに書き連ねていると、気持が多少楽になる感覚はあるみたいですから、会話自体が目的というのもありなのかもしれません。
目的のない会話は、「雑談」とか呼ばれるのでしょうか。
その意味では、雑談にはそれなりに楽しみがあるのかもしれない。
この文章とか雑談過ぎて、最早何の話をしているのかわからない感じになっていますが。
色々な事って突き詰めるとほんとうに分からないんだよな。不思議。不思議。不思議。
資本主義も絶対のものではないんでしょうけど、これからどうなっていくのでしょうね。いろんな弊害もあるんでしょうし。かといって、共産主義になるのか、というとそれもまた。
何にしても難しすぎてわからないです。
その中で、何か提言していける人たちって本当にすごいと思いますよ。僕とかは、ただ、有効性について検証しているだけですからね。何かを判断しているというわけでは必ずしもない。
最近はサイコパス、という概念もありますよね。
思うんですけど、一度サイコパスと認定されてしまうと、その人は、ハブられてしまうことになるのでしょうか?
だとしたら、ちょっと恐い概念だな、と思いました。なんというか、いじめとかに使われたりしないといいな、と。
こうして、文章を書いていると、自分の中の思考が整理はされてきますね。ブログに上げるというプレッシャーもありますので、余計に思考が整理されている感もあります。いろいろな思考を整理する一つの手段として、ブログを書くというのはありかも知れないと思いました。発想とか整理されてきました。人に見せない文章を書くのとはまた違った感覚です。
人に見られているか否か、というのは人間にとって、かなり大きな問題なのかもしれない、というふうに感じます。
やはり、多少なりとも見られていると、引き締まる思いはするかもしれません。適度なストレス感覚。
僕にとって、ネットは良いこともあるのですが、過酷なことも多いです。あんまり罵詈雑言を見過ぎると、気分を害することもある気がします。最近はだいぶ慣れてきた方かもしれません。罵詈雑言を言う人の心境などを想像してみると、いろいろとたいへんなことがあるんだろうな、というふうに感じることもあります。お互い大変ですね。みたいなちょっとしたシンパシーを感じるかもしれません(笑)
罵詈雑言というと悪い感じもしますけど、あれ、言う方も結構大変なんじゃないかな、と思って。
みんな色々と大変なのかもしれません。
生きている人はみんなすごいと思いますね。本当に。
死んだ人にもすごい人たくさんいると思いますが。
幅広くコミュニケーションをとるべきか否かについて考えることもあります。
自分と異なる人とお話をしたりすれば、価値観は広がるかもしれません。しかし、それを奨励すれば、摩擦が増えるかもしれません。すると、その摩擦で擦り切れてしまうこともあるかもしれない。
そのように考えると、狭くコミュニケーションをとるべきなのか、広くコミュニケーションをとるべきなのか、悩みます。
気の知れた人とお話するのはとても楽でいいのですが、知らない人とお話するのも刺激的ではあります。
そう考えると、どっちも大切なのかな。多分。
中間が大切なのでしょうか。
色々な思想があり得るところかと思います。
隔離とインクルージョン。
難しいところです。
今日はとにかく、なにも難しいというお話になりました。
そりゃ、難しいですよね。
簡単に解決できたら、苦労する人はいないんでしょうし。
結局、魂? 次第なのかな、と思いました(笑) スピリチュアルな結論ですが。
論理では結論が出そうにありません。
感情や感覚に従いすぎるのも危ないのかもしれません。
だったら、もう魂しかないじゃないか、みたいな(笑)
猜疑心も一長一短なのかもしれません。必要なこともあれば、有効でないこともあるのかも。メカニズムは不明ですが。疑っていると、何にもわからないですし。「魔術」ならわかるのかもしれませんが。
気が向いたらご参考下さい。
今日は以上です。
ではでは~