魔法、魔術について合理的に考えてみるブログ

「魔法使いになりたい」、という欲望について真剣に考えてみました。

美しい人の生殖

<幽かさ>の理念を今も覚えている。それは幽霊的である。霊は幾多の本質的な帰結を示唆するものだが、だからと言ってその本体を傷つけることはない。桜の花が散る時に、花弁が散ったからと言って、その本体である枝や幹までが傷つくのではないように。それらは幽かに散りゆく。

 

フロイトの主張にあるように、意識と無意識の諸々の仮定から論理を出発せしめ、それでどこに行けるだろうか? そのように問う時に見えてくるものもある。その一つは紛れもなく先述の幽かさである。

 

例えば、幽玄の美という理念がある。こうした理念は極度に洗練されることで、その形態を暈し、かえって何物でもない状態を生産し続ける。その結果として、もうすでにあったものでさえもがその境界を失い、彷徨い、やがて何者でもなくなり、やがて消失する。そこには幽玄がある。それらは両極端の機制に偏らない意味での一種の極限だが、それは言葉遊びに似ている。ちょうど誠実な遊びが如何なる真面目さにも勝っていくように。

 

美的魅力は能力や実力の現れである。その表現型は多くの極限を内に含んでいる。その結果として、幽玄のような現象が生じてくる。幽玄は現象という現象それ自体を常に解体し、やがて空疎な極限に固着してしまう。しかし、かえってその固着がその執着からの解放を促すというヘーゲル的な弁証法の作用によって解放されもする。そこには諸々の仕組み、諸々のシステム、諸々の社会体が関わっており、それらのすべては結局のところでは、何者にもならない。自分が自分ではないこと、何者でもない時、その時に愛が宿る。

 

賢い人や愚かな人がそれぞれの意見を述べ合い、やがて紛争を生じるように、論争は賢い人をも愚かにすることはソロモン王の箴言でも取り上げられているとおりであり、これについては殊更に今改めて主張するべくもない。しかし、だからと言って、そこに宿る賢愚という絶対的な差異が無化されるわけでもない。そこには分かりづらさの哲学がある。そもそも哲学は人の心を形にした何かである。自分に誠実であればあるほど、それは他者には受け入れがたいものになる。それがオリジナリティでもあり、また、時に幽玄的でさえある破壊的で静謐な自己実現のシナリオでもある。

 

人間の人間性とは何かを創造するということにあるが、その創造は常に神の所業である。人知で解体し尽くすことはできない。神の力能は無限のものであり、無限のものを有限体である人間の身体、それらの常に保っている諸々の連想経路を用いては処理し切ることはできない。だから、私たちは機械化の道に乗り出し、才能を殺し、やがて自身さえも外部化し、生命からの脱出を図るようになる。それは破滅への道であり、人類に真に残されている道は実際にはニーチェ的な<超人>への道の一つのみである。

 

さて、マルクスの言うように、資本の流動的なメカニズムが可変資本を経由して、資本家の懐に流れ込むような狡猾な機序のすべてを明かし切ることは原理的にできない。それらは独特の天稟に依っており、容易に解体できないのである。彼らは人間の悪という悪にその根を張っており、それらを活用している。その巧拙にはその支配者によって差はあっても、それが<すべて>ではないのである。彼らはそこに付け入る。すべてでないものをすべてに装うことで可能性を逼迫させ、人々の能力を無能化したり、時に活性化させたりし続けることで、その生計を立てるのである。これらの非人道的な行いのスティグマ、あるいはその経路はフェミニズム的な経路にも顕著である。つまり、例の女性差別的な醜悪な論調の数々を見れば、差し当たって私の述べようとしていることが如何なる悪であるかは分かっていただけるであろう。それらはドゥルーズ流に言って<n個の性>とでも呼ぶべき何かである。それらのリゾームの機制を正確に記述することの困難は、この世界の成立以前にさかのぼる原理に巣食っている。このようにすべての寄生とはその実としては共生に他ならず、その意味で寄生を訴える主張者こそがその実、サイコパスマキャベリストたちの功績に寄生しているのと事情は同様である。だからこそ、ある劣等的な資質が常に天才的なのだ。それが戦略的な優位を保証し、神を経由して固有の賜物を愛すべき仕方で結晶化する。それが美なのである。

 

重ねて言えば、幽玄の美とはこうした<美>の眷属に他ならず、それは純粋な能力の表現型である。一方で整形のような技術や医学のようなものはこうした搾取経路を活性化し、いわば、人々からその身体を盗むわけである。彼らは言う。「あなたの身体についてはあなたよりも我々の方がよく知っている。あなた方は我々に従え」と。

 

この世のすべての窮状はその根源的な悪にすべての端緒を持っている。それらの悪は神を無害化し、あるいはそのように見せかけることで奇妙な循環を常に生産する。そこには分子生物学的な幾多の機械が、実質的に薬理学の知識に連合していくという、統合失調症的な一種の天才としての連合弛緩さえ見られる。しばしば、エレンベルガーの説のような<創造の病>なるもの、病それ自体の肯定的な定立が天才に関わるのはそのためである。だが、あらゆるものは嫉妬による牽制を受け、その良質な果実はエスタブリッシュメントに独占される運命にある。嫉妬がそうした果実を人々から搾取することを正当化するからである。彼らは言う。「悪なるものに援助することはそれ自体罪悪に他ならない」と。

 

確率的に言って、まったくあり得ない現象など、この世には存在しないという意味では、なるほどすべてのことはあり得るのである。しかし、それが現実のものとなるかどうかはまた別のことなのである。だからこそ、幾多の誤差が配分する認識の曇りが、悪人たちの目を曇らせ、時に善人を殺戮せしめる時にも、光を輝かせ、放ち、やがて死さえも活用してキリストのごとく悪に対抗する契機を生みもする。怪しさとは常に力なのである。何かを怪しいと思うこと、それは自身の認識を超越する何かを指示している。そこに闇があり、その闇こそが光に他ならないからこそ、悪人は世界に階級を生み出し、時に平等主義を利用して搾取し、人々の努力を自分たちの安楽のまにまに生産し続けようと画策するわけである。そうした機序のすべてが悪であるとまでは言えないにしても、人というのはかくも利己的であり、またそれは一種の菌種である。その菌種は時に人体に寄生し、病を引き起こすが、ミトコンドリアのような機構でもって外的な事物だったそれが人々の身体に内的に取り込まれる可能性すらあるのである。このように悪とは相対的なものであり、死さえもそうなのである。

 

了解不可能性としての統合失調症が光を放つのは、そうした事情による。しばしば統合失調症を患っているにもかかわらず美しく聡明な人々がいるものだが、とどのつまり彼らは<誤診>を被っているわけである。すべての世界を覆う誤差がそうした悲劇を生産する。精神科医はそこに巧みにスティグマを生成して貼り付けることで、彼らの美徳を隠蔽する。そうした陰謀を隠蔽するために、陰謀論を排斥する。どこにもつじつまの合わない部分はない。至極単純な帰結が、彼らのシンプルな頭脳から認知的複雑性を縮減し、やがて痴呆にまで至らしめる。いわば、精神医学とは痴呆の集合体であり、あまりに健康的であるがゆえに統合失調症は病とされているわけである。これこそが嫉妬の代表的な機序でもある。しかし、それはまだ本質ではない。本質とは本質などどこにもないというある種の無神論に極度に近接しているのである。その意味で、無神論は有神論と区別できない。確率的な了解不可能性が統合失調症という臨床実体を生産し、すべての栄光を狂気として隠蔽する以上は、預言者たちやキリストを敵に回していることと同義である。

 

かつてある福音が「初めに言葉ありき」とそう述べた時に、特に確定的なのは次の事象である。それは流れに乗ること、そして自然よりも自然に、つまり、人にとっての自然さえも越えて、天使の領域をも越え、やがて空に至り、そしてすべての人を愛することである。愛は自然特有の厳しさを含むが、トマス・アクィナスが述べるように、それは罪ゆえに生産された社会的な階級システムに依存的である。もしも人が罪を犯さなかったなら、人は完全に平等であっただろう。だからこそ、初めに言葉があったわけである。言葉ほどに平等化の礎となるような、特別な不屈の精神は存在しないからである。それは確かに高貴であるが、非常に希少なものでもある。それは誰にでも持つことのできるものではない。正確に言えば、<それを現実化することのできる人は少ない>、とそういうわけである。だが、だからと言って、すべてを断念せよと、命令するのでもない。言語が如何なるコードによって私たちの文明なり本能なりを束縛しようと画策するとしても、必ず微粒子は漏出しているのである。如何なる悪もやがては明るみに出るものである。だからこそ、私たちは常に正しくあることが現に有効なのであり、かえって才能を外部化され無能化された人々に幾多の資本が膨大に流れ込んで、人身御供とされる運命にあるわけである。すべてのことに理由があるとするコードは、この脱コード化さえも推進し、やがて言葉をも越え、自身のオリジナリティへと肉薄していく運動に他ならない。それこそが希望なのであり、愛であり、未だないものを夢見る信仰なのである。

 

さて、私たちは愛することができる。言葉によって? そうではない。コードによって? そうなのでもない。悪をも愛することによってである。そうした個人の光こそが最も尊いものであり、人格を断裂させる資本主義制には希望に満ちた活路などない。そうして、人は孤独に帰り、また静かであり、多くの不正な規則を越えて、嫉妬さえも戦略的に制御し、自分たちの好きなように<幽かに>生殖していくのである。それを止めることはできない。そこには秘密がある。秘密こそが真理を守るのである。